第三部


六章 北陸遠征



         一

 一眠りから覚めると、美しい川が眼下に流れている。
「神通川―」
 と中が言う。川沿いに下降し、三時二十一分、富山空港到着。一時間と数分。ここも快晴。空港の建物と、平伏した森と、遠くに望む背の低い市街地。川の向こうに、山並とも言えない丘の連なりが見える。
「ひさしぶりだな」
 水原監督が窓を見下ろしながらつぶやく。板東が、
「監督も、ここにきたことあるんですか」
「巨人の監督時代、昭和二十五年から三十五年まで、年に一回きた。正力さんが富山出身という縁もあってね。ナイター設備がないから、昼間に試合をするしかない。センターは百二十二メートルあるけど、両翼は九十一メートル。フェンスギリギリのバックスクリーンにスコアボードが乗っかって一体化してるから、金太郎さんにぶつけられていろいろ壊されそうだな。時計がやられなきゃいいけど」
 私の顔を見る。
「右翼を狙います」
 タラップを降りる。十九・二度。一般客とともに階段を昇り、通路を歩いて荷物預かり所へ。荷物を手に玄関を出る。空港の外は整然とした駐車場だった。中日ドラゴンズ御一行様とフロントガラスに厚紙を貼りつけたバスが待っている。バス会社の男性従業員が愛想よく笑いながら昇降口に控えている。彼に誘導されて乗車する。運転手一人、ガイドなし。
 閑散とした住宅街を走り出す。青空にいろいろな形をした雲が浮かんでいる。道沿いのふつうの民家の庭で梨が栽培されている。実を白い袋で包んである。住宅が途切れ、稲田がつづき、小森があり、荒地がある。まばらな宅地に向かい合って緑地が延び、また住宅の連なりになる。家並はひどく古い。
 背の高い建物の目立つ幹線道路に出た。東上し、大瀬子橋より小さい橋を渡る。神通川の支流だろう。熊野川と標示板が出ていた。河川敷が広いので川そのものが細く見える。ビルがポツポツ見えはじめ、市街地のにおいのする区域に入る。十五分ほど東上をつづけ、市電の走る道路に出る。緑の裾に肌色の胴体のツートンカラー。目にやさしい。
 立木に囲まれた博物館前を通る。角張った家並は低いが、完全な市街地だ。かわいらしいビルがぎっしり並んだ街並を直進すること五分、富山駅に出る。四時三分。駅前の駐車用広場に、分厚い長方形の板のような名鉄ホテルがそびえている。周囲には飲み屋や食い物屋が密集している。
 正面玄関にバスをつける。情報を聞きつけたのだろう、広場に人だかりがしている。バス目がけて喚声を上げながら押し寄せてくる。いったんバスを降りて、五分ほどファンサービスをする。背中や腰を叩いたり触ったり、バットケースを持った腕を握ったりする。五、六人の子供にサインをする。江藤や中たちもそうしている。水原監督まで快くサインしている。足木マネージャーの合図がかかり、申しわけないという表情で子供たちを振りほどき、もう一度バスに乗りこんで地下一階の駐車場に入る。
 バスを降り、階段を昇って館内に入る。案外狭いロビーに瀟洒なフロントがあり、初老の男性一人と三十代の女性二人がにこやかに立っている。彼女たちはネッカチーフを巻いている。三人揃って私たちに深々と挨拶する。一般客が大勢いる中で、足木マネージャーがサインする。名鉄はドラゴンズの大スポンサーなので、ボーイたちが駆け寄ってきて、下にも置かぬ扱いだ。名前を尋いただけで荷物を勝手に持ち去っていく。
 監督とコーチたち、トレーナー、マネージャー、ランニングコーチは十一階のシングルルーム、私は十階のシングル、江藤、小川、中、高木は九階のシングル、そのほか二十人余りのメンバーは八階のツインに振り分けられた。私だけ十階にしたのは、仲間と顔を合わせないようにといういつもの水原監督の心配りだろう。顔を合わせればかならず私が引きずられて安息の思いを乱すと考えている。少しもそんなことはないのだけれども、素子を待ち受けるには都合のいいことになった。
 食事時間と会食部屋の説明を受けると、監督やコーチ連とほとんどの選手はサッサと自分の部屋に引っこんだ。残った者がロビーの革のソファにくつろぐ。私と江藤と太田と菱川の四人だ。見回して、素子の姿がないことを確認する。自分の部屋にいるか、まだ到着していないかのどちらかだ。ここまでくるのに少しも魅力を感じない街並だったので、散歩をする気にはならない。太田の顔を見ると、
「散歩ですか?」
 私の心と逆のことを問いかける。江藤が、
「晩めしは六時半やけん、ちょっくら歩いてみるか? タクシー呼ばんか。玄関がうるさかろ」
 江藤はフロントにいって、外出するからと言って、タクシーを呼んでもらった。私はカウンターに寄っていき、
「この近辺の見どころは、どこですか」
 初老の男が、
「富山城ですね。五時までは城内が観られます。ここから一キロくらいです」
 タクシーに乗りこむのに人だかりで難儀をしたが、乗るとすぐに車は出た。富山城へと告げたとき、運転手はミラーを見て驚いたふうだったが、親しげな笑顔に切り替えて、
「歩いてもいける距離ですが、あのファンじゃね」
 私は彼に五千円を渡し、
「城内を見てきますので、城門に着いたら待っていてください」
「こんなに……あとでちゃんとオツリ出します」
「取っておいてください。人生〈こんなに〉でないことのほうが多いんです。こんなにという目に遭ったときは、甘んじて受けるものです。プロ野球選手もそうですよ。人よりちょっと野球がうまいくらいで、何千万ももらうというのは〈こんなに〉だと思いませんか」
「……思いません。何万人に一人ですから。噂どおり、変わった人ですちゃ」
 江藤が、
「変人たい。まともに応答したらいけん」
 菱川が、
「俺なんか、年俸五百万いかないですよ」
 太田が、
「俺、諸経費こみで、三百万そこそこ。江藤さんは?」
「いまは金太郎さんより少し少ないくらいやが、来年以降はちょっとアップしたとしても、提灯に釣鐘になる。タイトルは金太郎さんに独り占めされるから、おまえらはとにかく三割か、三十本打て。年俸が一千万の単位でちごうてくるけん」
「はい!」
「みなさん、変人ですね。正直すぎる。私、巷の第三者ですちゃ。ペラペラしゃべっしもて、いいがけ?」
「よか、年俸なんちゅうもんな、どうせいずれ新聞に出る。秘密にはできんことばい」
「ハハハ、それまではしゃべりませんちゃ。この左の七階建てが富山市役所です」
 黄土色の建物に顔を向ける。洒落た形の飾り軒が数カ所突き出しただけの建造物。ほかの建物と区別がつかない。
「右手奥に県庁があるんですが、こっからじゃ見えんね。ここが富山第一ホテル。広島さんが泊まります。着きました」
 繁華な通りを走り出して五分もしないうちに、とつぜん富山城に着いた。入口・出口と書かれた瓦屋根の門がある。路上がすべて駐車禁止になっている。私たちを迎えにくる手立てがない。
「ここからじゃ城郭が見えない。中に入りませんから、ぐるっと一周してください。それからどこか、市街を展望できる場所へ連れていってください。そのあとでホテルまでお願いします」
「わかりました。呉羽山公園へいこう。市街地を展望できます」
 外堀沿いに走り、右折して二層の城郭を見る。網の張られた二階の回廊から見下ろしているカップルが間近に見える。かわいらしい城だ。運転手が説明を始めないのがありがたい。ほのぼのと揺れながら市電が走る。外堀が途切れたあたりで、そのまま三キロほど市電通りを進み、大学前という終点に出る。大学らしい建物の姿はなく、あした試合をする県営球場がすぐ左手に見えた。平べったい盥のような格好だ。周囲は思い描いたとおりの緑地帯になっている。運転手が、
「富山大学はこの左手のずっと向こうなんですが、市電がここで終わりなので大学前という名前をつけたんやろう。たまたま県営球場が見られてよかったやなあ」
 かなり先に富山大学の石門らしきものが見えた。
「あそこ、入れるんでしょう?」
「はい。五福キャンパスです」
「入ってみてください」
 門を入ると、スズカケの道が縦横に走っている。校舎前に自転車やバイクが何百台も並んでいる。学生たちがまじめに通学している証拠だ。太田が、
「神無月さん、ここの木はぜんぶ同じみたいですね。何ですか」
「スズカケ。プラタナスだね。スズカケの小径。ときどきクロマツも雑じってる」
「これが大学か。美しかもんたいねェ」
 私はうなずき、
「学生が勤勉なんですね。見渡すかぎりの自転車です。くだらないタテカンもない。これこそほんとうの大学だ」
 運転手が、
「そう言えば、神無月選手は東大出のインテリでしたね」
「出じゃなく中退。インテリじゃなく、ノータリン」
 助手席の江藤が振り向いて、太田と菱川と顔を見合わせた。運転席に顔を戻し、
「運転手さん、金太郎さんを褒めたらいけん。頭がこんぐらかるばい」
 太田が、
「褒められると穴に入りたくなる天才ってめずらしいですけど、この世にいるんですよ」
 私は、
「一対一で褒められる分にはかまわない。本気で褒めてるから否定のしようがないし、否定すればイヤミだ。たとえば太田、もしおまえが『信じられないほど詳しい野球のデータが頭に入ってる事典のような男だ』と、面と向かってではなく、人前で紹介するように褒められたら、いやそれは、と否定したくなるだろ? 人前で褒められると、聞いてる人が信じないかもしれないって気を使ってしまう。人は信じたくない生きものだからね。当人にしてみれば、もともとそういうことは人に褒められるために身に備えたことじゃない」
 運転手が、
「そういう受け答えをするようになったのには、何かそれ相応のイヤな経験があったんでしょうけ?」
「……この子は天才だからと、中京中学のスカウトが飯場にきたとき、所長とおふくろは頑として信じなかった。人は、肩書は信用するけど、才能は信用しない。自分にないものは信用できないんだ。彼らはそのスカウトに、ぼくを地道に勉強させると言って追い返した。追い返したいだけだったんだ。だって、追い返したあとぼくに地道に勉強させるなんてことをどうやってできる? 勉強はぼくがするんだろう? 人は、自分が大したことはないと品定めした人間を他人が褒めると、けっして信用しない。学歴なら信用するけど、能力は信じない。東大は信じるけど、野球の才能は信じない。おふくろが信じたのはその所長だけだった。所長は東大出だったからね。何の才能もない東大出だった。東大を出たというだけで、ぼくの野球の才能を大したものではないと判断したんだ。褒められるとそのときの傷が疼く」
 江藤が目を拭った。
「さ、ホテルへ帰るばい。展望台に昇るより、よか話が聞けた」
 太田も菱川も頬を拭った。運転手が、
「……お母さんや所長さんは、いまでも信じとらんがやけ?」
「信じてないでしょう。そのスカウトに、幼い子に才能があると見るのは錯覚だ、才能は努力して成熟した大人にしかない、と言った人たちですから。いまでも、ぼくのことを見誤った人たちが騒いでると思ってるはずです」
「恐ろしい話ですちゃ……。信じるも何も、ホームラン三十本は現実じゃないですか。現実を信じんにゃ、ほかに何を信じるちゅうがや?」
「自分の信じる価値です。ぼくが思うに、幻だと思いますけどね。おたがいに幻の価値を持ち合って暮らしてるんですから、もっとおたがいに遠慮し合わなければいけない。そういう、遠慮のない、自分が一番だと思ってる人を極力避けて暮らすことは、とても大事なことです」
「……私は才能というものを信じるちゃ。人間はおっちゃったもんでないといつも思うさかい。もちろん、自分一番だなんて考えたこともありません。あした応援にいきます。一塁側でな。ああ、おとろしい話や」
 江藤が、
「ワシはそのおふくろさんに会うた。地獄に迷いこんだごとあった。金太郎さんが語った以上に恐ろしか人やった。その所長には会ったことはなか。会っとったら、もっと恐ろしか地獄を味わっとったにちがいなか」
 運転手が、
「神無月選手は地獄から脱出したんですね」
「自力でな。その強さがワシらを引っぱっとうとたい」

         二

 十階の一号室に入ると、北村席からホーム用のユニフォーム一着と、バット三本、ジャージ二着、ワイシャツ三枚、下着が何組か届いていた。百江はこちらにもユニフォームを一着ずつ届けることにしたようだ。彼女が手間だと感じさえしなければ、そのほうが私も都合がいい。
 セミダブルベッドを備えたゴージャスな部屋だった。机は大理石の板が敷いてある。ニューオータニから運んできた分も含めて荷物の整理をしていると、カズちゃんから電話が入った。
「さっき江藤さんが電話してきて、キョウちゃんの部屋番号を教えてくれたの。三日間ホテルごとにそうしてくれるって。金太郎さんは無頓着だから、あたりまえの気配りはせんやろうって言って」
「そうだね、たぶん、いちいち電話して部屋は教えなかった。素子、困ったことになってたろうね。神無月選手の部屋はどこですかってフロントに尋けないし、ぼくも兵藤素子という人は泊まってますかって尋けないものね。江藤さんに感謝だ。でもお礼は言わないことにするよ。ぼくが知ったとなったら、自分の心遣いを心苦しく思っちゃうだろうから」
「そうね、私も毎日ありがたく教えてもらうことにするわ。大洋戦三連勝おめでとう。水原監督がインタビューでしゃべってるとき、彼の横顔を見つめるキョウちゃんの目に愛情があふれてて、とても感動したわ。キョウちゃんはみんなを愛するために野球をしてるのね。キョウちゃんの生れてきた意味と、生きる意味をはっきり教えてくれる目だった。あの顔見ろって、おとうさんが泣いてたわ。私たちもみんな……」
「素子は何階?」
「偶然だけど、十階。十五号室よ。もうキョウちゃんの部屋番号を伝えたから安心して。夜遅くいくと思うわ。やさしくしてあげてね」
「うん、いっしょに観光する暇がないけど」
「彼女もわかってる。毎日試合前に独りで観光するって言ってた。彼女なりに気を使ってるのよ。キョウちゃんがそばにいると思うだけで、ちっともさびしくないって。強がってるわけじゃないのよ。ほんとの気持ち。きょうもお昼に着いて、富山市内を歩き回ったみたい。なんとかカンスイ公園という運河に囲まれた公園から、立山連峰がとてもきれいに見えたんですって」
「そういえばこのへん。山に囲まれてる」
「雪国だから、冬はたいへんでしょうね。あら、長話は禁物。じゃ、あしたからがんばってね。美しいホームランたくさん打って。愛してるわ。キョウちゃんのいない人生なんて考えられない。じゃ、さよなら」
「さよなら」
 十二階最上階のスカイバンケットというレストランで、チーム全員揃った夕食会が催された。新しいジャージで出る。
 五人掛けの大円卓八つ、大窓から市街の夜景が眺められる長卓もいくつか用意されている。隣のテーブルに話し声が届かないほど、間隔をたっぷりとってあった。選手のほとんどがジャージだったので安心した。
 いちばん奥の円卓には水原監督、宇野一軍ヘッド、今回ひさしぶりに帯同した本多二軍監督、足木マネージャーが座り、並びの円卓には一軍コーチの太田、田宮、半田、二軍コーチの長谷川、森下が座った。そこから少し離れた円卓の一つには、私、江藤、小川、木俣、田中勉の五人が、もう一つには、中、板東、高木、小野、浜野の五人が座った。残りの四つの円卓には池藤トレーナー、鏑木ランニングコーチを含めて、一軍選手全員と帯同を許された二軍選手が分散して座った。総勢三十九名。
 談笑している一軍選手の顔を見つめながら名前を思い浮かべる。もう全員の名を言える。菱川章、太田安治、一枝修平、江島巧、島谷金ニ、千原陽三郎(サウスポー)、葛城隆雄、徳武定之、山中巽、門岡信行、伊藤久敏、水谷寿伸、水谷則博、新宅洋志、高木時夫、吉沢岳男、伊藤竜彦、江藤省三。
 ミーティングを兼ねた会食ではないので、乾杯の音頭もなくすぐにビールが始まる。正装をしたウェイターやウェイトレスが広い空間を動き回る。カサのある前菜料理がどんどん運びこまれる。選手たちが箸を取る。空間にゆとりがあるので、遠慮のない会話がはずむ。窓辺の長卓で高木時が水谷則博に、
「おまえの速球は頭打ちだよ。カーブとスライダーがいいんだから、技巧派左腕に転身したらどうだ?」
「俺もどうにかしなくちゃと思ってるんですよ。長谷川コーチにも同じことを言われました。ところで、大幸(だいこう)球場のスタンドの応援のことなんですけどね、うちのファームのファンは、声を出して応援してる人が多い気がします。個人で作曲したコンバットマーチを歌ってる人までいます。じつは二軍戦は、どの球場も比較的静かなんですよ。どうしてですかね」
 ステーキ、刺身、パン、ライスも運ばれてくる。ステーキを食っておくことにする。あちこちのテーブルからのんびり煙草の煙が上がっている。
「愛知県人は野球を愛してるんだよ。野球王国だからな。選手たちが一生懸命やってるファームの野球場にいくと、その気持ちが心の底からこみ上げてくるわけだ。中日の二軍はほかのチームと比べて少し年食ってる選手が多い。そういうロートルの真剣さを気に入ってくれれば、そいつが一軍に上がったとき、先の長いファンにもなってくれる。何より中日の二軍戦は、試合そのものがおもしろいんだ。年食ってる分、選手が野球をよく知ってるので、試合巧者だ。ボーンヘッドが少ない。ファンにしてみれば、一軍戦を観てるような緊張感がある。一軍選手が真剣じゃないとは言ってない。なんせ才能のかたまりだからな。楽々やってるように見えて、彼らなりに最善は尽くしてる。二軍の真剣さと質がちがうんだな」
「わかります。弾丸ライナーのホームランや、剛速球の奪三振は、ずば抜けた肉体的素質から生れるものですからね」
 江藤が小川に、
「ストライクゾーンいうんは、五角形の平面やが、どこをどうかすってもストライクやな」
「そのとおり。膝頭から胸のロゴまでのあいだに浮いてる五角柱だと思えばいい。そのどこを通ってもかすってもストライク。先の角二つをかする分には審判もまず見誤らないけど、ボールのコースから曲がってきて後ろの角をかすってもストライクなのに、審判はたいていボールとコールする。バッターは後ろの角を見てないから、そうだろうと思う。ピッチャーは納得できない。喧嘩になることもある。それをストライクとコールする審判がいたら、バッターと喧嘩になる。結局、審判の〈だいたいコール〉でゲームは進行してるんだな。せいぜい喧嘩しないことだよ」
 江藤が目をギョロつかせて笑う。鏑木が池藤と話をしている。
「富山球場は地方球場だから、施設内に大したスペースはないんだよね。専用のトレーナールームなんかない。なんだか選手に申しわけないことになりそうですよ。魔法スプレーぐらいしかしてやれない」
 野球の話ばかりだ。すてきだ。浜野が板東に、
「富山球場のウグイス嬢って、中日の広報課員でしょ」
「ほうや、下通嬢。中日球場から連れてくるんや。別のホテルに泊まっとる。金沢へのバス移動はいっしょになるぞ。三十何歳かの独身や。名前は知らん。興味あるんか」
「いや、仕組みを知りたかっただけです」
 やがて長卓のほうでだれかと吉沢との会話が始まり、何か吉沢を励ますようなことを言ったようだった。
「……いやあ、肩が衰えちゃったからねえ、そうそう簡単には試合に出してくれないですよ」
「若さにまかせた体力だけじゃなく、気力と技術で現役生活を延ばせる選手こそ、プロ中のプロでしょう」
 どうもビール瓶を持ってお伺いに出向いた足木マネージャーの声のようだ。
「そう言われるとくすぐったいけど、ブルペンキャッチャーには、それなりの重責があってね」
「試合開始直前の選手を盛り上げる務めですね」
「まあね。ただボールを受けてやるだけじゃなく、最後の調整は〈すべて〉ブルペンキャッチャーに委ねられる。ピッチャーの調子を左右するということは、試合の流れを変えてしまうほどの重要な役割を担ってるということだね。用具係さんも同じようなもんだ。練習がむだなくスムーズに行なわれるために、だれよりも早くきて、練習用具の手入れや準備をする。フロントのチームスタッフや、球団職員も、連絡を密にしたり、一軍と二軍のあいだを取り持ったりするために大切だ。そういう〈すべて〉の人たちのサポートがあって初めて、中日ドラゴンズは始動する。こういう強力な縁の下の力持ちの存在をいちばん理解してほしいのは、ファンよりも、選手たちだ」
 聞いていて、どれもこれもが〈すべて〉なので、何が重要なのかわからなくなる。
 ―吉沢さん! 人のことはいい、自分が出場できるようにがんばってください。勝手に縁の下に潜らないでください。肩が少々衰えても、それなりに工夫してがんばっている野村のような選手もいるんです。あなたと何ほども齢が変わらないでしょう。いちばん肝心なのは打力なんです。
 同じテーブルの対面に座っていた田中勉が私に、
「神無月くんは、よくスタンドを眺めて、ファンの人たちに笑ったり手を振ったりしてるね。客のほうからは俺たちがよく見えるけど、選手からは客の見分けがつかないんじゃないの?」
「声をかけてくれた顔はパッとわかります」
「ふうん、そりゃすごい。サインもよくしてあげるみたいだけど、いやだなと思うことはないの?」
「ありません。駅のホームでは、危険なので遠慮してもらってます」
「すばらしいね。今年はきみのおかげでスタンドがいつも満員だ。満員のスタンドは気持ちがいい。戦う者にとってこれ以上興奮する環境はないよ。ありがとう。何もかもきみの……」
 江藤が田中に向かって首を振った。田中はハッと気づいて、
「おっとっと、危ない危ない。謙虚というんじゃなく、ほんとに褒められるのが嫌いな人だからね」
 小川が、
「褒めろ、褒めろ。慎ちゃんなんかこう見えて褒め頭なんだから。金太郎さんは、左ピッチャーを打つのうまいよなあ。ピッチャーが腕を振り下ろした瞬間に、もう踏みこんでる。ぜったい内角にこないと確信してる打ち方だ。どうして確信できるの?」
「江夏のようなシュートが持ち球の左ピッチャーは別として、だいたい左投手というのは右投手に比べて、逆曲がりのボールを放らないんです。九十パーセント以上、外へ逃げていくボールです。外の球は肩が開いていては打てません。肩を絞って残す感じで踏みこむんです。左中間に向かって並行スタンスをとる感じです。それで引っぱればバックスクリーンあたりへ、押し出せば左中間からレフトポールのあいだまで、そこへ打ちこむイメージです。負けている点差のときは、たとえ左ピッチャーでも、並行スタンスのままひたすら内角を待ちます。序盤で大きくリードする展開になると、攻撃面ではあまり策が立たなくなって、単純に打って出る人が多くなりますが、凡打を覚悟で難しい球を打たないと意味のある態度とは言えません。学習の場にしないといけない。勝ち試合の中で学んでいかなければ、いざというときに使える技術になりません」
 みんなため息をついて黙った。隣のテーブルの水原監督が、
「やっぱり、怪物だね。アハハハ」
 隣の円卓の田宮コーチが、
「いまはうちが大量リードすることが多いから、個人の学習力を高めるという説は大いにうなずける。点差が大きく開いて負けている試合のときの心構えはどうだね」
「長打を打つ練習にせっせと励むことになります。負けてもともとなら、一点二点を取り戻そうとしないことが肝心です。僅差でシーソーしている試合ならば、塵が積もればというふうに一点二点を追加していく技術も使う意味があるでしょうが、つまり、犠打とかセンター返しとか右打ちとかでね。でも、そういう技術をヤミクモにいつも使っていたからこそ、点差が開いてしまったわけです。そういう技術を発揮するのは攻撃の鉄則(セオリー)なのでしょうが、負けている試合では必要のないものになります。セオリーどおりにやれば安心が生れますし、たとえ負けても、セオリーどおりにきっちりやったのだからという理由づけができます。でも、安心を求めるということは、冒険心がないということです。セオリーどおりにやらなければいけないという思いは、それ以外の方法をすべて否定してしまう。とりわけ玉砕の精神を否定します。たまたま鉄則がはまったときは僅差勝ちができるけれど、うまくいかないときには負けてしまい、セオリーどおりにやったから勝てたはずなのにという疑惑の壁にぶち当たって苦しむことになります。ぼくの場合、いまのところ一度も経験ありませんが、大差で負けているときは、自分の前にランナーが溜まっていなければ、フォアボールか短打を狙い、溜まっていたら、一か八かの強気で長打を狙おうと思っています。江藤さんがよくやる方法です。逆もあり得ます。たとえば、大差で負けていても、士気を高めるために一発を狙うというやり方です。いずれかに決めるのは瞬時の判断です。瞬時の判断が求められるときにもなお、定跡を外すことで失敗することを怖がって勝負に出ることをためらい、安心を求めてセオリーに走るなら、それは怠慢プレーをみずからに許すことであって、大事な試合にはけっして勝てない精神を蓄積していくことになります。瞬時の判断に身をまかせることも、実戦的に効果の高い学習なんです」
 木俣が立ち上がって私の手を握り、
「天才だ。野球神だ。言うこと、ひとことひとことが納得できる。ともに戦う一員として千人力に感じるよ。ついていくぜ!」
「オシャ!」
 江藤が雄叫びを上げると、あちこちのテーブルで雄叫びが上がった。水原監督たちは愉快そうに大笑いしていた。


         三

 十時を回って部屋に戻った。歯を磨き、十階の十五号室を訪ねた。ノックすると素子がドアを開けて覗き、
「わあ、キョウちゃん、わざわざきてくれたん! うれしい!」
 ホテルのローブをまとった姿で抱きついてきて、抱き締めたまましばらく離さない。
「一日、退屈させたね」
「ううん、ぜんぜん。市電巡りしたんよ」
 手を引かれベッドに腰を下ろす。
「緑のスカートを穿いたきれいな電車だね」
「うん。六月からワンマンになるんやて。最後の車掌さん付きの電車に乗れた。ラッキーやわ」
 長いキスをする。
「見せて」
「うん。あとでオシッコもして見せるね」
「ありがとう」
「うちのほうがありがたいわ。こんなものなつがしがってもらって。いくらでも見て」
 ローブを取り、パンティを脱いで、ベッドの上で脚を広げる。遇ったころは黒ずんでいたのに、色が抜けて薄茶色になってる。きれいで長い小陰唇だ。素子が達すると、これが私をピタリと包んで微妙に動く。口に含む。
「ああ、ズキンとくる……。あのときオシッコくさかったんよね。ごめんね」
「あのにおい、なつかしいな。いい思い出だ。きれいなオマンコになったよ」
「キョウちゃんとしかせんも。二、三年前は毎日何人もの男としとったから、オマンコもみっともなくなってまったんやね」
 陰核を舐めて含んだとたん、腹が引き攣る。
「敏感だなあ」
「二秒でイッてまった。キョウちゃんがこうしたんよ」
 赤い頬で起き上がり、茎を握って喉の奥まで一気に含む。すぐに吐き出す。
「口に入らんわ。オマンコなら入る。入れて」
 仰向けになって脚を広げる。達したばかりのクリトリスを亀頭でこすって、腹のふるえを目に収めながら、ゆるゆる挿入する。すでに、素子の特徴である両側から膣壁が隆起する状態が完了している。素子はすぐに昇りつめ、上半身を起き上がらせる。からだをくの字にしようとするのだ。三度、四度とアクメがつづくとひどく苦しがるので、私は急ごうとする。
「ああ、キョウちゃん、あわてんでええよ、あたし、イキつづけるから、キョウちゃんが出すまでイクことに決めてきたんやから、あん、イク! ううう、気持ちええ、あ、イクイクイク!」
 万力になって締めつけてくる。ツンと、射精の予感が睾丸から突き上がってきた。
「あああ、もう大きなった! うれしい! いっしょにいこ、いっしょに、あああ、いっしょに、うううーん、イクウウ!」
 壁の圧力に逆らって奥へ突き入れ、射精した。
「好きいい! 愛してる愛してる、あ、あ、イクッ、イッ、イクウウ!」
 律動を迷いながらも、数度つづけて搾り切る。素子が、グッ、とうめいたきり、声を失った。からだだけは激しく弾みつづける。引き抜くと、いちばん最初の夜にそうしたように、白いからだを伸展させたり引き戻したりしながら跳ねつづけた。素子はこうしたかったのだ。最初の夜のように、自分をすべて解放したかったのだ。
「ふうう―」
 素子は長い息をつき、
「好きや、好きや、キョウちゃん、死ぬほど好きや。うち、最後までがまんしたよ。吐きそうになるくらいがまんしたよ。愛しとる!」
 抱きついて、私の胸に顔を埋めた。私は髪を撫ぜた。
「これからは、だれかといっしょにするのはやめよう。きょう素子を見て、それがよくわかった。いままで悪かったね」
「ううん、そんなこと考えたこともなかったわ。だれもそんな贅沢望んどらんと思う。たまに一人でしてもらうほうがうれしいし、新鮮や」
 私は素子の背中を撫ぜながら、
「市電でどこまでいったの?」
「最初は、富山駅前から大学前ってとこまでいって、タクシーで呉羽山までいった」
「へえ、ぼくたちもきょう大学前までタクシーでいったよ」
「大学前に野球場があったよ」
「あしたあそこでやるんだ。そのあとここに戻らずに、バスで金沢へ移動。素子もあしたチェックアウトしたら、大学前へいって、十一時から入場して、試合が終わったら金沢の都ホテルへ移動だ」
「うん、うちは電車でいく。一時間かからないってホテルの人が言ってた」
「朝ごはんはバイキングでちゃんと食べるんだよ。ウンコもしてね」
「わかっとる。赤ちゃんじゃないんよ」
「かわいいからね、素子は」
「十も上やよ。赤ちゃんはキョウちゃんやよ」
 大人の純真さは魅力だけれども、うぬぼれを伴うと愚かさと変わらなくなる。私はうぬぼれるどころか恥じている。かろうじて愚かな大人を免れている。
「入場券はだいじょうぶ?」
「前売りしとったから、特別席を買ったわ」
「よかった。あしたじゃ買えないかもしれないからね。大学前の先にいく予定だったんだけど、引き返した。呉羽山ってあのずっと先?」
「あそこから一キロぐらい。大学前からゆるい上り坂になっとって、右にも左にも家や森や丘が見えて、とてもきれいやった。坂の途中から林みたいなところに入って、車がたくさん駐車しとった。そのままタクシーに乗って、坂のてっぺんから道を曲がって、山道を豊栄稲荷ゆうところへ連れてってもらった。女優さんですか、って訊かれて困ったわ。うち、そんなにきれい?」
「きれいだよ。カズちゃんに負けないくらいになった」
「お姉さんにはだれもかなわんわ」
「稲荷は?」
「ちっちゃな神社やった。前田家がなんとかかんとかって運転手さん言っとったけど、聞いとらんかった。展望台へいきますかゆうたけど、ことわった。似たような景色ばかりやから、見てもしょうない思って富山駅まで戻ってもらったんよ。結局あのあたりを呉羽山ゆうみたいやわ」
「そしてまた市電に乗った?」
「そう。今度は逆方向の南富山駅まで。いって帰ってきただけ。乗ってるあいだ、キョウちゃんの顔ばっか浮かんで、胸がグーッと痛なって、景色なんか見えんかった。また富山駅からタクシー乗って、運河のある公園へいった」
「かわいそうに。むかしから素子は辛抱強い女だったから」
「キョウちゃんを独り占めして、かわいそうなわけないがね。さ、お風呂いこ。オシッコ見せるから。見てるうちに勃ってまったら、後ろから入れてね」
「死んじゃうよ」
「死ににきたんよ。何度も殺して」
 タブの縁に腰を下ろして、股を広げる。
「あっちこっち汚く飛んでまうから、ビラビラ引っ張っとって」
 指でつまんで両側へ広げる。クリトリスの下を見つめる。
「そんなに見たら熱くなる。あ、イッてまう、うん、イク!」
 ほんとに達した。
「オマメちゃんピクピクしとるやろ? あああ、気持ちええ! 出る!」
 とつぜんほとばしり出た。ジョッ、ジョッ、と間歇的に出る。
「あかん、イク! イクウ!」
 腹を絞りながら同じリズムで放射する。
「素子、後ろ向いて!」
 快美感の発声を繰り返しながら、どうにか尻を向ける。脈打って膨張したものを挿し入れる。
「あーん、めちゃくちゃ気持ちええ、イクウウ!」
 素子は一気に小便をほとばしらせた。膣壁が迫って陰茎を押し潰そうとする。
「た、助けて、も、もうだめ、イクイク、イク!」
 黄色い尿がバスタブに当たって排水口に流れていく。往復するとぬめりながらすごい圧力でしごく。
「素子、イク!」
「うちも!」
 小便が切れ、純粋な痙攣が持続する。私の律動に素子は声で応えず、ひたすら身悶えしながら強い圧力のうねりを繰り返す。がんばりすぎて限界を超えている。引き抜き、後ろから抱きかかえて、いっしょにバスタブの中に腰を落ち着ける。床が冷たく尻を押す。栓をし、蛇口をひねって湯を満たす。素子は私に抱かれながら、ときどきうなるような声を洩らして腹を縮める。湯が溜まってくるまで辛抱強くそのままの格好でいた。
「……生き返ったわ、キョウちゃん」
 ふるえの止んだ滑らかなからだに腕を巻く。目が朦朧として、舌もだるそうだ。
「ごめんね、弱くて。これ以上遅くできんのよ。あしたの夜はできんかもしれんわ」
「お休みしよう。ぼくも、ちょうど疲れが溜まるころだ。朝までいっしょに寝るだけでうれしいから」
 私が洗髪しているあいだ、素子もタブから出てからだを洗った。それから私のからだも洗った。
 ベッドに入ったとたん、素子は背中を丸め、軽いいびきをかいて眠りについた。名古屋からの旅と、一日の市電めぐりと、激しいセックスで疲れ切ってしまったのだ。寝入った素子の後頭部が胸をえぐる。えぐられる思いをどう捉えればいいだろう? 彼女の人生を蹂躙しているとしか思えない。恐ろしい。恐ろしいのに深い絆を感じる。
 迷いも救いも私の意志だ。自由も束縛も私の意志だ。人は生まれた瞬間から、絆を求める。結びつき、身をゆだねたいと心から願う。完璧な絆なら、強靭な愛を得られるかもしれない。しかし、絆が完璧になるかどうかは未知のことだ。そんなことを知りたがる必要はない。相手へのこだわりに気づくとき、初めて絆の完璧なことを感じる。それなのに絆そのものを不思議に思う私は、おびえてこだわることができない。だから絆は自分がどこにいるかを教えるけれども、どこへ進むかは教えない。絆と信じられるものに自分を差し出すこと。自分の命を大いなる不思議に捧げること。おそらくそのために私は生まれたのだろう。差し出すものは精神などという生易しいものではなく、命以外にない。単なる決意だけでは身を投げ出すことは不可能だ。決意がどれほど固くても、計り知れない無私が伴わなければ固い絆を得ることはできない。私の本質を無にすることから、初めて決意の新しい実践が始まる。
 ―私の本質?
 自分を見きわめるのは難しい。本質が何なのかと悩ましい。だから見きわめなくていいと思おう。本体も付属物もぜんぶ棄てればいい。悩ましい内省を抱えることは、火玉と戯れるのと同じだ。ヤケドをするし、近づいた他人もヤケドをさせてしまう。
 私はこっそりジャージを着て部屋を抜け出し、自室へ戻った。荷物の整理を続行する。スポーツバッグにブレザーと、あさってとしあさってに着るユニフォームを丁寧に畳んで入れ、ジャージをかぶせて載せる。グローブ、スパイク、タオル、帽子、眼鏡をダッフルに入れる。あしたのユニフォームをソファに延べる。東京から持ってきたバット二本をバットケースに。新しく届いた三本は、使い回して、巨人戦を乗り切ることにする。あしたは荷物を提げ、ユニフォームを着たままのバス移動だ。バスに乗るときは運動靴を履くことを忘れてはいけない。
         † 
 五月三日土曜日。七時起床。うがい、歯磨き。快晴。十七・七度。
 スカイバンケットの窓辺の長卓で、選手たちがスポーツ紙に目を通しながら朝食をとっている。一般客もかなり混じっているが、遠慮して遠くの円卓に散らばっている。太田と菱川は新聞に目もくれず、ひたすらモリモリ食っている。朝めしと昼めしとを兼ねさせようとしているようだ。中が膳盆を抱えた私を手招きし、
「松坂屋のタオルの売り上げがすごいんだって。好きなだけ金太郎さんを利用するつもりだよ。まあ球団と合意だろうけどね。取り分の交渉は水原さんにまかせたほうがいいよ」
 松坂屋の話だなと思い、中の隣に腰を下ろす。
「何ですか? 取り分て」
「ここ、ここ」

     
神無月人気 松坂屋特製タオル完売
          
きょう北陸初戦 報道陣続々富山入り
 怪物・天馬神無月郷外野手(19)の一挙手一投足を見逃すまいと、例年なら三十人程度しか集まらない報道陣が約二百人、次々と富山入りしている。淡々とホームランを量産しつづけている本人とは対照的に、周囲の騒ぎは加熱する一方だ。

 球団最大のスポンサーの一つである松坂屋が、四月十日の神無月Tシャツ、神無月タオルを発売したのにつづいて、五月一日、特製タオルを五百円で五千本発売した。この神無月特製タオルは、コバルトブルーで
8・神無月郷・Dragons と染め抜かれた普通サイズのものである。このタオルが午前中で完売となり、売上金二百万五十円を計上した。販売部主任××氏に聞いたところでは、この二日間、発売開始と同時に爆発的な売り上げが始まり、数時間で完売、あわてて五万本の追加発注をしたとのこと。昨日富山市の百貨店数社で試行的に発売したタオル二千本も完売し、およそ百万円を売り上げた。試合当日の県営富山球場でも千本発売する予定で、およそ五十万円の売り上げを見込んでいる。


         四

「頻脈の記事も載ってるよ」
 中が別の見出しも指差す。

    
頻脈心配なし 水原監督明言
 オープン戦当初危惧されていた同選手の頻脈の問題について、水原監督は「遡及調査の結果、神無月くんの心臓は通常人よりも速くかつ多く拍動するとわかりました。また排尿も日に二、三度ほどしかないこともわかりましたが、専門筋の話によると、これらは先天的な体質によるもので、健康上は何ら危惧する必要がないとのことです。まんいち少しでも彼の体調に不具合が出た場合は、精密検査を受けさせたうえ、短期長期の休養を図りたいというのがチーム方針です。私個人は、瞬発力も持続力もチームトップクラスである神無月くんをキャンプ以来三カ月間見てきて、当初の危惧はまったく消えたものと判断しています」と語った。
 神無月自身、契約時に、陸上競技並みの過激な運動を強いるプレ春季キャンプや、シーズン終了後の秋季キャンプを辞退しており、球団もこれを了承している。オーナーの小山武夫氏は「自身の健康を考慮し、大事をとった結果不参加を申し出たものと理解している。たとえそうでないとしても、人一倍練習熱心な神無月くんが、ファンのために球界での延命を図ってのことであるのはまちがいない」と述べている。球団の思惑どおり、天馬はきょうもわれわれファンのために、一試合も休まずフィールドを駆けつづけている。

  
「ほんとに、心臓だいじょうぶなの?」
 中が心配顔で尋く。
「まったく心配ありません」
 二人連れの幼い兄弟がノートとサインペンを持って近づいてきたので、快くサインする。
「ありがとうございました。きょうはがんばってくだい。ネット裏で応援しています」
「うん、しっかり応援してね。大きいのを打つから」
 二人の両親とおぼしき男女が遠くのテーブルからお辞儀をする。
 たっぷりとした食事を摂り、部屋に戻り、ふつうの排便。シャワー。洗髪は避ける。ユニフォームを着、尻ポケットのお守りを確認。昨日着た下着、四日間着たジャージとワイシャツ、使用ずみのタオルを段ボール箱に詰め、運動靴を履いてロビーに降りる。配送の手続を終え、仲間と合流する。九時チェックアウト。一般客に紛れてかわいらしい帽子をかぶった素子の姿が見えた。こちらを向かないようにしていた。
 九時二十分、地下駐車場からバスが出発する。富山地鉄バスと書かれた車体の腹の収納スペースに、ブレザーとジャージのほかに、あした以降のユニフォーム類を詰めたスポーツバッグを投げこむ。ダッフルとバットケースは座席の足もとに置く。
 バスは平坦な町並を市電と肩を並べてのんびり走る。それでも十五分ほどで県営富山野球場に到着した。バスを降りると、かすかに風がある。十二、三メートルのコンクリートの外壁を見上げる。柱の多いシンプルすぎる建物。球場正面の石のブロックを積んだパネルに縦書きで球場名が書かれている。周りは林と緑地。きのうは閑散としていた球場の周囲が、きょうは芋を洗うような人だかりだ。幟を立てた出店がいくつも並んでいる。田宮コーチが、
「これでも、地方にしてはかなり大きい二万人収容の大球場だ。内野スタンド一万五千人、外野芝生席五千人。外野席はふだん開放されないが、きょうは開放されてる。両翼は九十一メートル、中堅百十八メートル。芝生席が短いからプロのスラッガーの両翼のホームランはたいてい場外になる。北陸の各球場は、試合開始前に主賓の挨拶で少し時間を取る。三日間がまんしてくれ」
 正面ゲート前の球団専用駐車場にいろいろな種類の高級車が停まっている。太田と菱川がダッフルを揺らしながらあわただしく走っていく。
「あいつら、きょうのスタメンを聞かずにいっちまいやがった。じゃ、スタメン、一番から九番まで、中、高木、江藤、神無月、木俣、菱川、太田、一枝、小川。ブルペンに、山中、水谷、小野。ベンチ控え、葛城、千原、島谷、新宅、江島、徳武、日野、堀込」
「オッシャ!」
「よしきた!」
 球場は五福公園内にあり、処々にプロムナードが切られている。桜並木、百日紅(さるすべり)、イチョウ、サザンカ。プロムナードの人だかりから喚声が上がる。手を振って応える。
 ぞろぞろと正面ゲートから入る。場内に常設売店がいっさいないのがいい。清掃のきいた回廊を通って、一塁側ロッカールームに入る。クラブ活動の部室のような造りだ。隅の区画に一応テーブルとソファが備えてあるので、そこが監督・コーチ控室を兼ねた空間のようだ。水原監督がベルトの締まりを手で確かめながら宇野ヘッドコーチに、
「名鉄の客たちが静かで助かったね」
「はあ、さすが北陸です」
「どういうこと?」
「野球に対する関心がいちばん薄い地域です。プロ野球選手もほとんど出てません。雪が多いという同じ条件でも、東北・北海道はちがうようですな。野球が盛んです」
 運動靴をスパイクに履き替え、ダッグアウトに入る。十二人掛けの長椅子が二列しかない。文字どおり塹壕だ。長椅子の端に、手持ち無沙汰な表情でトレーナーたちが立つ。グランドに上がる。外野席と一体化した天然芝が輝いている。遠くに雪をかぶった立山連峰が一望できる。バックネットは視認性の悪い直立金網。球場を取り囲むネットがないので、ファールボールの多くは場外へ消えるだろう。内野スタンドはすべて板敷きの長椅子。
 球場の外と同じすがすがしい風が吹いている。スコアボードの五本の旗がかすかに揺れている。スコアボードは手書きだ。上空高く飛行機が飛んでいる。富山空港が近いせいだろう。すごい数の報道陣がスタンドと言わずグランドと言わずたむろしている。走ってきて写真やビデオを撮りまくる。まだ観客はまばらだ。いずれあのイモ洗いの観客が入ってくる。
 十時。ドラゴンズのバッティング練習開始。太田と菱川が一つしかないバッティングケージを交替で使う。門岡が投げ、吉沢が受ける。コーチ陣がケージの後ろに立つ。二人は快適そうに芝生席に放りこんだり、その背後の森に叩き出したりする。中、高木、木俣、一枝とつづく。人のいない芝生席で、足木マネージャーと鏑木ランニングコーチと球場係員が、グローブを持って右往左往している。水原監督がなつかしそうに内外野のスタンドを眺め回している。だれにともなく、
「富山と言うと、どうしても富山湾の海の幸に目がいってしまいがちだけど、肉もうまいんだよ。富山牛、富山ポーク」
 だれも応えない。私はバックネットの下から一塁側へ塀沿いを歩きはじめた。江藤と中がいっしょに歩く。報道陣もついてきてフラッシュを焚く。
「自立型金網バックネットか。後ろへのファールが危ないですね」
「中段より上はな。ばってん、ここはネットがスタンドと同じ高さやけん、ライナーは当たらん。フライは意外とよけられるもんたい」
 中が、
「地方のお客さんはじっと試合を見るので、ボールから目を離さない。だいじょうぶ」
 私は、
「フェンスが低くて、スタンドに角度があるから観戦しやすいでしょう。敷地の都合ですかね、一塁側スタンドが途中で切れているのもおもしろい。こういうのって、ふと心が動きます。ああ、外野芝生席が広々としてますね。照明灯がないことで、すっきりとした印象になってます」
 江藤が、
「両翼九十一、センター百十八は狭か。水原さんが言ったとおり、センターフェンスにバックスクリーンがピタッとくっついて、その背中にスコアボードがやっぱり狭い間隔でくっついとるな。たしかに乗っかっとるように見えるばい。何度かここにきたばってん、気にしたこともなかった」
 緑のフェンスはコンクリート。高さ一メートル五十センチくらい。クッションの仕方はわかる。バックスクリーンは十五メートルくらいある。その背後にあるスコアボードは十メートルほど。このバックスクリーンは越えられても、スコアボードを越えていくことは難しい。江藤が、
「水原さんは押し寿司の話をせんかったが、せきの屋のます寿司はうまかぞ」
「食べるチャンスはなさそうですね」
「ほうやの」
 鏑木が芝生席から声をかける。
「後ろ向きにゆっくりグランド一周! 打球に注意して!」
「オッケー!」
 後ろ向きにエッホ、エッホと走り出す。走り終わって丁寧に三種の神器。タオルのシャドーを忘れずにやる。スコアボードの時計が十時四十五分をさした。あと十五分でバッティング練習終了だ。十五分早くドッと観客が入ってくる。たちまち内外野のスタンドが埋まる。江藤がバッティングケージに入った。ポンポンと軽くレフトスタンドへ五本。場外へ二本。交代で私が入る。フラッシュ。慎ましい拍手がスタンドから上がる。二本ライト場外へ、二本バックスクリーンへ。試合中のような喚声になる。水原監督が、
「スコアボードは遠慮して! レフトへ!」
 左中間に一個しかない出入口に打ちこむ。
「ヒヤヒヤするじゃないか」
「すみませーん!」
 広島チームがすでにベンチに入って、呆れ顔で見ている。バックネットを振り返ると、安全な前列のほうに素子が坐っていた。一輪の花。手を振った。素子といっしょに、ざわざわ観客が振り返した。三列目にいた例の兄弟も懸命に手を振った。彼らのすぐ上で、胴体に富山テレビとロゴを入れたカメラがゆっくり場内を見回している。
 十一時から広島のフリーバッティング一時間。私たちはロッカールームで名鉄弁当。十二時、ケージが引き退げられ、ドラゴンズの守備練習十五分。守備位置へ走り出そうとして、
「田宮コーチ、ぼく二本で上がります。いちばん遠い一塁へ一本、バックホーム一本!」
「よし、いくぞ!」
 ダッシュ。振り向いたとたんに打球が飛んでくる。ファールライン上のフライを捕球し、一塁へ低い送球。フラッシュ、フラッシュ。一枝が自発的に、二塁から帰塁する走者を擬して一塁へ走る。グローブを持ったままだ。めずらしい図だ。私の送球は地面をこするワンバウンドで江藤のミットへ収まる。一枝タッチアウト。沸き上がる喚声。二本目、フェンスの手前五、六メートルのフライ。ショートの右へ低く渾身の返球。今度は江島が三塁からタッチアップ。マウンドのふもとを一瞬削って木俣のミットへ突き刺さる。タッチアウト。連続するフラッシュ。歓声が大波になる。ベンチへ走り戻る。拍手が追いかけてくる。徳武が、
「ここで帰っても客は満足だろ。おみごと!」
 ドラゴンズの野手陣がベンチに戻ると、広島も守備練習十五分。衣笠一人ハッスルしている。山内はぼんやり。内野ゾーンの奥にブルペンがある。安仁屋が投げている。四月十二日の開幕戦で彼から第一号ホームランを打った。アベックホームランも第一回目だった。その一打席しか対戦していない。いちおう注目する。サイドスローからのシュートが目を引く。太田からの情報。
「沖縄初のプロ野球選手だというのは有名ですね」
「うん」
「百七十七センチ、七十五キロしかないんですけど、大きく見えます」
「あのモミアゲと眉毛のせいかな」
「酒豪で聞こえてます。去年二十三勝、防御率二・○七。内角スライダーでファールを打たせてから、落ちるシュートで打ち取るのが得意です。七年目。二十四歳」
 それで終わり。
 やがて、マウンドの裾に赤い絨毯が敷かれ、胸に赤リボンをつけたスーツ姿の五人の年配の男たちが居並んだ。湊栄吉という富山市長が彼らを代表してスタンドマイクに向かって祝辞を述べた。名目は、県営富山球場創設二十周年ということだった。大映―南海の放棄試合とか、日米野球とか、正力松太郎という名前が口にされた。
 市長が列に戻ると、ドラゴンズのベンチ横が賑やかになり、五、六人の男に護られたトレパン姿の女が通用口からファールグランドに出てきた。野球帽をかぶり、ボールを入れたグローブを持っている。見たことがあるなと思った。芸能人であることはまちがいなかった。かつて山田五十鈴と浮名を流したことがあるという本多コーチが、
「キーハンターの野際陽子だ。知ってるだろ」
「見覚えはあります」
 彼女はベンチ前に近づき、
「神無月さん、木俣さん、よろしくお願いします」
 とお辞儀をした。水原監督が気の抜けたような声でハハハと笑い、
「打っちゃだめだよ、空振りしてね」
 と私に言った。よく見るあれかと悟った。木俣にポンと肩を叩かれ、私はバットを持ってバッターボックスへ歩いていった。コーチ人がいっせいに声を上げる。
「ヨ!」
「ホ!」
「ヨーオ!」


         五

 下通嬢の柔らかい声が流れる。
「テレビドラマ等でご活躍の、女優野際陽子さんの始球式でございます。野際さんは左幸子さんと並んで、数少ない富山県出身の女優です。バッターは、ホームラン王への道を機関車のごとくひた走る神無月郷選手、キャッチャーはマサカリ打法で有名な木俣達彦選手でございます」
 静かな喚声、静かな拍手。報道陣が野際を左右から取り囲んだ。彼女は一塁の塁審に勧められて、エイと投げた。ボールは山なりで、サード側へ遠く外れたので、私はボックスから出て、強い空振りをした。バシャ、バシャ、とカメラが鳴った。図体のでかい球審が私のそばまで走ってきて、
「バッターボックスを外したので、アウト!」
 と宣告した。スタンド中から爆笑が湧き上がった。マスクを外した顔を見ると、目玉のマッちゃんだった。まじめな目に笑いかける。松橋はこそばゆそうだった。野際が野球帽を手にゆっくりマウンドを降りてきて、
「すてきなパフォーマンス、ありがとうございました」
 私と木俣に握手を求めた。小さい、冷たい手だった。
 下通嬢が先発メンバーを発表する。
「中日ドラゴンズ対広島カープ、公式戦四回戦でございます。両チームのスターティングメンバーを発表いたします。先攻広島カープ、一番、セカンド三村、セカンド三村、背番号48、二番、ショート今津、ショート今津、背番号6、三番、ファースト衣笠、ファースト衣笠、背番号28、四番、レフト山内、レフト山内、背番号8、五番、ライト山本一義、ライト山本一義、背番号7、六番、センター山本浩司、センター山本浩司、背番号27、七番、サード興津、サード興津、背番号10、八番、キャッチャー田中、キャッチャー田中、背番号12、九番、ピッチャー安仁屋、ピッチャー安仁屋、背番号16。対しまして後攻の中日ドラゴンズ、一番センター中……」
 高木、江藤、神無月、木俣、菱川、太田、一枝、小川と発表していく。主審松橋、塁審は一塁久保田、二塁太田、三塁富澤、線審はレフト井上、ライト原田。トンボがグランド整備に散り、ラインが引かれ、小川がマウンドに上がった。ベンチ気温二十四・一度。
 二時十分。内外野のスタンドが満員にふくれ上がっている。走ってレフトの守備につく。芝生スタンドから大きな拍手が上がったので、帽子を取って振った。喝采の中でコバルトブルーの松坂屋タオルが何百本も打ち振られる。中とキャッチボール。腕がしなる。しなる腕を自分が持っていることを信じられない。
「プレイ!」
 空を見上げる。雲を散らした青空。スコアボードの旗を見る。微風。
 一回表。三村が打席に入った。小川、初球ズバリと胸もとへ高目のストレート。ストライク。マッちゃんの指がクルクル。大喝采。北陸初戦が始まった。三村は二球目の外角速球を打ってセカンドゴロに倒れた。ライト方向を狙うコンパクトなスイングが宮中の関に似ていた。いわゆる山椒型選手のようだが、ピリリと辛くなるのはしばらく先だろう。今津三振。衣笠豪快な三振。小川の調子がいい。ほとんど速球で攻めている。
 一回裏。水原監督が三塁コーチャーズボックスへ歩いていく。彼の姿に静かな歓声が上がる。水原監督が帽子をとってスタンドに振る。
 中がバッターボックスに入る。背番号3のユニフォームがきらめく。屈みこんだ胸もとへ初球カーブ。見逃し。とてつもなく切れている。先回はドラゴンズにシュートを狙われたので、今回はカーブできた。二球目、三球目とカーブの連投。中、めずらしくヘッドアップして三球三振。
 シュート打ちの高木、しっかりと初球のシュートを打ってレフト前ヒット。なぜあえてシュートを投げたのか。目先を変えるという杓子定規か? 次はカーブに戻すはずだ。江藤、初球のするどいカーブを引っかけてセカンドゴロ、ゲッツー。難しい球を打ちにいっている。チェンジ。
 静かな出足だ。観客も静かだ。ネクストバッターズサークルに太田が持ってきたグローブを受け取り、守備位置へ走る。にわかに風。スコアボードの旗が真横になびいている。
 二回表。山内、内角低目のシュートを打って私の前へライナーのヒット。山本一義、初球のスローカーブを狭いライト芝生席の上段へツーラン。小川にカツが入った。ここからの小川は変幻自在になる。ならなければ滅多打ちだ。
「山本一義選手、第二号ホームランでございます」
 小川は首の後ろを掻いただけで、次の山本浩司をストレートで三振、興津をカーブで三振、田中をスライダーで三振に切って取った。いつもながらみごと。二対ゼロ。
 二回裏。私からの打順。歓声が少ない。すっかり球場の雰囲気に慣れた。彼らは期待するものがないので、結果にだけ沸く。安仁屋のカーブを打ち崩すという使命感から、バットを振らずにカーブだけを待つ。しかし外角いっぱいのシュートでツーストライクにされ、三球目の真ん中高目のストレートを振る羽目になった。詰まってセンター前のポテンヒット。拾い物だ。木俣の初球に果敢に盗塁。かすかな拍手。
 木俣は高目のストレートを叩いて左中間へ二塁打。木俣にそのボールを投げるのは自殺行為だ。彼は高目を狙っているだけで球種にこだわっていない。労せず生還して一点を返す。二対一。
 菱川、切れるカーブを叩いて、ボテボテのファーストゴロ。犠打になり木俣三塁へ。ワンアウト三塁。
 太田二球ファールのあと、高目のストレートを打って深いセンターフライ。木俣還って二点目。たちまち同点になった。
 一枝修平。百六十九センチ、六十二キロ。このからだで去年は十三本もホームランを打った。きょうもバッティング練習中に、太田に話しかけていた。
「きた球をコーンと素直に打ち返してやればヒットになるよ。野球はあんまり難しく考えたらあかん」
 初球、二球目とカーブに手こずり、かすったバックネットファール。三球目、四球目ときわどいコースのストレートを見送って、ツーツー。五球目内角シュートの落ちぎわを叩いてレフト中段へ二号ソロ。うまいものだ。それこそ、コーンと打ち返した。初回からいやな雲行きを感じているので、一枝も私たちもはしゃがない。水原監督とハイタッチしてホームインしたあとは、ベンチ前の静かなロータッチですます。油断してはならない。しかし、またあえてシュート? キャッチャーはだれだ。田中尊。小柄で色白で細身の男。南海から広島にきて十三年目のベテラン。三十三歳。広島弱体の一因になっているのではないか? 逆転。二対三。
 小川ピッチャーゴロ。チェンジ。木俣といっしょにベンチを出る。
「田中というキャッチャーは安仁屋を困らせてませんか。ストレートとシュートを投げすぎですよ」
「バッティングはからきしだけど、捕球がいいんでこの十年以上メインを張ってる。インサイドワークも抜群という評判のキャッチャーなんだが、きょうはアガッてるのかな」
「カーブは負担の重いボールなんですか?」
「手の甲を外に向ける変化球を多投すると、肘をやられる」
「で、なるべくストレートとシュートをなげて打たせて取るか、ストライクを稼ぐというわけですか。じゃ、せいぜい長打を打たれないように投げないと」
「そうなんだ。で、カーブかスライダーを決め球にしたいんだな」
 三回表。安仁屋センター前ヒット。ピッチャーにヒットを打たれる中日投手陣の悪いクセは固定したようだ。一番に戻って、三村ボテボテのショートゴロ。安仁屋フォースアウト。三村は一塁に残る。今津、インコース高目のシュートボールがよけたバットに当たってファースト前の小フライ。江藤の前に落ちていびつに弾み、内野安打になる。ワンアウト一、二塁。風が止んだ。空が少し曇ってくる。
 衣笠火の出るような当たりで右中間を抜く二塁打。三村生還。当たりがよすぎて今津三塁止まり。三対三の同点。山内、バントの構えに今津三塁を飛び出し、小川の牽制球でタッチアウト。四番にスクイズ! またこれか。結局、山内はシュートを打って私への深いフライ。
 試合開始からまだ二十分も経っていない。テンポのいい試合だ。ふと、この球場は観客が静かなうえに、鳴り物もないことに気づいた。拍手や喝采はときどき上がるが、スタンドが沸き返るほどではない。私のポテンヒットのときも無反応に近かった。一枝のソロで逆転したときもウォーとはならなかった。彼らにとってどちらのチームも遠来のお客さんなのだ。だから彼らはサーカスのように曲芸を〈観賞〉している。
 この球場は富山県の高校野球のメッカであると市長が話していた。観客は野球そのもののレベルに関心が薄く、逆転に次ぐ逆転、大量得点、はたまたノーヒットノーラン、そんな高校生の試合ばかり見慣れている。ホームラン一本、ファインプレー一回ぐらいでは観賞に値しないと感じている。もっとプロらしい打撃や守備を立てつづけに見せないと、遠来のプロ野球チームにせっかく掻き立てられた興味が萎んでしまう。仕方なく〈神無月タオル〉をお愛想で振ることになる。
 三回裏。中、内角のカーブに詰まってレフトフライ。高木、つんのめってカーブを引っかけ、セカンドゴロ。みんなあえて安仁屋のカーブを打ちにいっている。江藤も私もカーブを狙っている。この試合の安仁屋をのさばらせないためには、きょうの決め球になっているカーブやスライダーを打ち崩すことで、ストレートやシュートといった彼が薬籠に入れているものを一つ一つあらためて引っ張り出して、根気よく潰すという戦法をとらなければならない。きょうはカーブをまず叩く。パンパンパン、と水原監督の焦れたようなカシワ手が聞こえる。
 江藤がクローズドに構えた。初球外角ストレート。ストライク。打とうと思えば打てたが打たない。そこを見透かしたじつにタイミングのいいストレートだ。二球目、外角低目の鋭いカーブ。ガシュッ、と湿った音がして、ライトへフラフラ上がる。山本一義の前で弾んだ打球がおかしな回転をしながらファールグランドへ転がった。山本がすぐ追いついたので、江藤は自重して一塁に止まった。バットの先っぽだったけれども、とにかくカーブを打ち返して一歩前進。連山を眺めながら打席に立つ。パラパラと拍手。
「さ、ゴー!」
「金太郎さん、ガツンと一発!」
 私はオープンに構える。さっきからそれをやっているのだが、安仁屋がカーブを投げてこない。スタンド各所で神無月タオルが揺れる。たとえテキサスヒットでも、打たれた以上ストレートでは勝負してこない。プロ入り一号はこの男のシュートを打ったものだった。オープンスタンスに構えているので、シュートはカウントを整えるためだけに投げてくる。シュートを投げさせないように、目論見を捨ててクローズドスタンスに構え直す。初球、外角低目へふわりとシンカー。見逃す。いっぱいにストライク。気づいたら江藤が走っていた。田中はあわてて送球しようとして、ボールを取り落とした。江藤は案外足が速いのだ。彼の狙いはわかっている。私と勝負するか敬遠するかで安仁屋を悩ませることだ。彼のよくやる手だ。勝負すれば打たれる確率が高まるし、敬遠すればランナーが溜まって、五番の木俣を迎えることになる。木俣はさっき二塁打を打っている。
 案の定、田中がマウンドへ走った。衣笠や根本監督も小走りに寄っていく。水原監督がじっと見ている。彼の立ち姿が美しい。少しゆるめの帽子。左胸の大きな68。老人に見えないほど輝いているが、すでに六十歳なのだ。安仁屋は勝負を命じられた。木俣に最悪スリーランを打たれるよりは、私のツーランならまだ傷が浅いということだ。打たれないことだってあるのだから。
 二球目もシンカー。ストライク。クローズドに構えたのに、私は外角に落としたシンカーを打つ気配を見せない。安仁屋は混乱しはじめる。やはりカーブを狙っていると判断するしかない。決め球は外角へシュートか、ストレートか、シンカーか。三球目、胸もとへスピードの乗ったストレートを投げてきた。のけぞるほどではない。ボール。静かな観客がますます静かになる。背中に少年の、そして素子の祈りが感じられる。
 ―そんなに待っているなら投げてやる。手も足も出ないやつをな。
 安仁屋の心の声が聞こえた。カーブだ。外角を遠く低く、ベースの角を舐めるように落としてくる。五角柱の後ろ隅。ホームベースからボール一つ外れて入ってきて、左後ろの角をかする。ボールとコールされるのは覚悟のうえだ。私が見逃せば、キャッチャーミットの位置でストライクとコールするかもしれない。
 セットポジションから四球目、サイドスローの腕を強く振り、ストレートの軌道で投げてくる。手首がわずかに寝ていた。ボール二つホームベースの向こうにくる軌道だ。するどく曲がってくる。踏みこみをこらえ、ホームベースを球一つ外れて曲がりこんできたところへ、踏みこまないままするどくバットを繰り出す。手首をしっかり絞る。先っぽだったが重心の範囲内だ。一直線にバックスクリーン目指して伸びていく。江藤が背走する山本浩司の背中を見ながらバンザイをする。走り出す。ドンという衝突音が響いた。ようやくスタンドが沸いた。森下コーチとタッチ。
「ロケットでなかったでしょう!」
「おお、少しお辞儀したで!」
 跳ね返って落下したボールを山本浩司が拾っている。一塁ベースを蹴る。
「ナイスバッチン!」
 なんともやさしく暖かい衣笠の声が追ってくる。江藤の背中が迫る。
「江藤さん、ありがとう! 安仁屋をめちゃくちゃ悩ませましたよ。木俣さんが当たっていてよかった!」
「なんも考えとらん。ヒット一本で一点取りたかっただけばい!」
 二人つづけて水原監督とハイタッチ。
「詰まってたから、時計助かったよ!」
「はい!」
 火付け役二人が機能しはじめたので、ホームベースがお祭り騒ぎになる。
「ホームイン!」
 松橋の野太い声。つづいて下通の柔らかい声。
「神無月選手、三十一号ホームランでございます」
 少年と素子にピースサインを掲げる。素子は跳びはねて拍手していた。
「ライフルマン!」
 小さい半田コーチが腰に抱きついてからだを持ち上げる。光栄だ。十年前の南海ホークスの優勝に貢献し、シャンパンかけならぬビールかけを編み出し、オールスターで板東からランニングホームランを打ち、高木にバックトスを伝授した男に腰を抱かれている。三対五。


         六

「バッターラップ!」
 松橋が木俣を促す。
「オシャ!」
 木俣、初球高目の外し球のストレートを叩いて、きょう二本目の左中間二塁打。よほど安仁屋と相性がいいようだ。根本監督が松橋にピッチャー交代を告げ、ゆっくりマウンドに近づいて安仁屋からボールを受け取る。この交代はミスかもしれない。
 大石弥太郎がブルペンから走ってきて投球練習を始める。スリークォーターのクニャクニャ投げ。ダイナミックと言われているが、私にはでたらめな投球フォームに見える。そのわりには、異常に四球が少ないことで有名だ。江藤が私の代わりにバヤリースを飲んでいる。私の隣に並びかけた高木が、ネクストバッターズサークルから立ち上がった菱川を眺めながら、
「菱も言ってたけど、金太郎さんは目がちがうと結論を出したそうだ。目は訓練できないって」
 池藤が寄ってきて、
「一口に目と言っても、場面場面で使う動体視力はまったくちがうんですよ。ボールを追いかける追跡視力、ボールを静止状態で捉える瞬間視力、遠くのボールを見極める遠見視力、空間の前後左右高低を認識する深視力、視界の周囲を一瞬のうちにまんべんなく見わたす中心外視力。このすべての基本は、頭を動かさずに眼球だけを動かすことです。神無月さんはこの能力が常人をはるかに超えています。両足を固定して打ったいまのホームランは、その動かぬ証拠です」
 鏑木が興味深げに聴いている。そして言った。
「いままで一度もハーフスイングをしたことがないというのは、そういうことなんでしょうね」
 高木が私の顔を両手で挟みこんで、じっと目を見つめた。
「ふーん、この目がなあ」
 菱川が打席に入る。均整のとれた立像が頼もしい。菱川は大石の持ち球である内角低目の速球を二度空振りし、三球目、外角球をジャストミートしてライト線を抜いた。カーブに見えた。そこは菱川が得意にするコースだ。菱川の走塁はスロモーに見えるが、歩幅が大きいので結果的に速い。豪快に二塁へ滑りこんだ。木俣生還。三対六。野球の楽しさに目覚めたようにスタンドが賑やかになる。高校野球とは異なった、質の高いダイナミズムを目の当たりにしたからだろう。小中高生の野球を見ているようだ。二球内角をイキのいい空振りをされたら、次は外角か―プロの考え方ではない。もう一球内角へ威力のある球を投げれば打ち取れた。
 次打者の太田が落ち着いている。怒り肩も下がり、力が抜けて自然な構えだ。田宮コーチが、
「いくぞ、こりゃ」
「初球ですね」
「だな」
「ほらきた!」
 菱川を空振りさせた内角速球だ。左足を引き、肘を畳んで掬い上げた。勢いよくボールが弾き飛ばされ、低い軌跡を描いてレフト中段に突き刺さった。芝生席の観客が真っ二つに割れた。太田は衣笠に声をかけられ、ヘルメットを脱いで応えながら一塁を回った。
「太田選手、五号ホームランでございます」
 三対八。これでしっかり上昇気流に乗った。あと五点は取れるなと思った。
 しかし、大石がとつぜん立ち直った。両サイドへけっこう曲がりの強いクセ球を散らしはじめたのだ。大石は三回裏の一枝から七回裏の私まで、打者二十四人を散発六安打、三フォアボール、五三振、失点なしに抑えた。六安打の内わけは、中一、江藤二、木俣二、小川一。私は一フォアボールとセカンドゴロだった。外角低目のするどいカーブに屁っぴり腰が間に合わず、初めてのゲッツーを喰らった。三振は江藤一、木俣一、菱川二、小川一だった。
 六回表。フォアボールとヒットのランナーを置いて山本一義がきょう二本目の三号スリーランを放ったところで、小川から山中巽に交代。六対八。きょうの小川は山本一義一人にやられた格好だ。この調子で乱打戦がつづけば小川の勝ちはないなと感じた。二点くらいすぐに返される。山中は後続三人を内野ゴロと内野フライに切って取った。
 七回表。山中も打ちこまれ、満塁からピッチャーの大石がセンター前へ二点適時打。同点になった。観客は大喜びだ。小川の勝ちが消えた。またピッチャーに打たれた。八回表ツーアウトから、ヒットの今津を一塁に置いて、衣笠がレフト上段へ豪快な三号逆転ツーランを打ちこんだ。十対八。山内センターフライでチェンジ。
 八回の裏、五番木俣センターライナー、六番菱川サード強襲の内野安打。ここで大石からサイドスローの大男西本和明へピッチャー交代。私は田宮コーチに、
「西本は先回、三球投げただけで交代しましたよね」
「うん。木俣にスリーランを打たれたな」
「この交代は必要ないんじゃないんですか。大石で勝てるのに」
「西本でも三点くらい守れると踏んだんだろう」
 江藤が、
「四点取らんと勝てん。向こうの狙いはそこやろ」
 太田フォアボール。これで九回に私まで回る。一枝ショートの深いところへゴロ。菱川三塁フォースアウト。ツーアウト一、二塁。山中の代打千原、三振。広島の継投成功。
 九回の表。山中から水谷寿伸に交代。なぜか広島の応援が激しい。万年Bクラスの弱い広島に勝ってほしいのだ。判官贔屓というやつだ。
 先頭打者の山本一義がきょう三本目のホームランを左中間に打ちこんだ。十一対八。ひさしぶりの負け試合だと思った。これまで軽く視ていた山本一義にやられた。
「山本一義選手、第四号のホームランでございます」
 毎度のこと劣勢になって私は浮きうきしてきた。山本浩司、興津、田中の打球がすべて私にフライで飛んできた。私はそのすべてのボールをセカンドへ低いノーバウンドで返した。観客が大喜びした。そのせいか、応援が逆転した。勝つべき者に勝ってほしいという気持ちに切り替わったのだろう。
 九回裏。ベンチも浮きうきしている。一枝が、
「三連敗、いくか!」
 と大声を上げた。田宮コーチが、
「おいおい、一敗ならまだしも、三連敗となると負け癖がついちまうぞ」
「冗談でーす!」
 ベンチの様子に微笑しながらバッターボックスに向かった中が、三塁の興津の前にセーフティバントをした。もちろんセーフ。一枝が、
「三連勝、いくぞ!」
 と叫んだ。
「オーシ!」
 ネクストバッターズサークルの高木が叫んだ。私はダッグアウトを出る江藤に、
「シュートとカーブは捨ててストレートを狙います。引っかけるとゲッツーですから」
「金太郎さんが打席に立てば、ゲッツーでもお客は喜ぶ。一点でもとるばい!」
 高木がバッターボックスに入った。江藤はネクストバッターズサークルへ。
 高木の初球、外角へワンバウンドのカーブ。田中が捕り損ねて、少し脇へ逸らす。すかさず中が走って二塁を陥れた。ゲッツーがなくなったので、高木は伸びのびと打てる。中が大きなリードをして、ピッチャーを刺激する。西本、牽制球。中、手から戻る。このリードには意味がある。三盗を許して外野フライで一点取られたくないという気持ちがピッチャーを焦らせるのだ。二球目、内角シュート。ボール。中の執拗なリード。三球目、走られたらやばいという焦りがバッテリーに直球を選ばせる。高木、叩きつける。得意の左中間二塁打コース! 中生還して一点。十一対九。あと二点。江藤がネクストバッターズサークルに向かう私を待ちつけ、
「ワシ、ヒットで一点取るけん、ホームランで決めてや。ワシが一発放りこんでも、同点にしかならん。気が抜けた金太郎さんが凡打するかもしれん。延長戦になったら下位打線からばい。長引く。日没ドローにはしたくなか。頼んだぞ」
「わかりました。打ちます」
 江藤はじっくり選球して、三球目のカーブをライト前に打った。高木ホームイン。十一対十。ノーアウト。私は、胸もと以外の外し球を狙うことにした。内角低目か外角低目のボールになる変化球。ヨ! ホ! サーイケ!
「金太郎さーん!」
「天馬ァ!」
「打ってえ!」
「ホームラン!」
 スタンドのあちこちから遠慮がちな声援が飛んでくる。高校野球や大学野球とちがってブラバンもバトンガールもいないので、一人ひとりの観客が勇気を持って声援しているとわかる。ヘルメットを目深にかぶり、バットが滑らないようにこぶしに息を吹きこみ、三度素振りをしてからバッターボックスに入った。
 西本、セットポジションからの一球目、外角にとんでもなく高いストレート。田中のあわて具合からすると、外したのではなく、外れたのだ。それで敬遠はないとわかった。衣笠がマウンドに走っていく。こういうときの忠告は、
「目つぶってど真ん中へいけ」
 と決まっている。小学校のときから変わらない。四球で出して一、二塁にすればフォースアウトかゲッツーが取れるのに、あえてそれをしないということは、よほど当たっている木俣が怖いということだ。きょう当たっているだけでなく、一回戦ではスリーランまで打たれている。
 二球目、外角低目にシュートがショートバウンド。客席から不満のどよめきが上がる。木俣がサークルでデモンストレーションの素振りをして見せる。脅しをかけて、私で決めさせようとしている。
 ―大石の勝ちを帳消しにしたうえ、自分が負け投手にはなるのはまっぴらだ。歩かせるか。しかし歩かせれば次が木俣だ。
 長身の西本がボールをこねながら、にっちもさっちもいかない表情になっている。ロジンバッグを足もとに叩きつけ、セットポジションに入った。勝負の顔だ。コースはわからない。彼のいちばん速いボールがくる。三球目、腕が強く振られ、外角低目に力のあるストレートがきた。屁っぴり腰で踏みこみ、しっかり芯を食わせる。いった! 
「オッケー!」
「よっしゃあ!」
「サヨナラァァ!」
 ベンチがいっせいに立ち上がる。水原監督が両手を挙げたのが目の隅に入った。センターにグングン伸びていく。森下コーチとタッチ。
「文句なーし!」
 広島の野手全員が打球の行方を見ている。自分でも驚くほどボールが上昇していき、スコアボードのメンバーズパネルを直撃した。大気を引き裂くような喚声が渦巻き、ダイヤモンドをゆっくり回る全身を包みこんだ。
         †
 試合後内野グランドで三十分、地元の少年少女たちのためにサイン会を催した。長卓をきちんと用意し、ベンチメンバー二十八名全員ができるかぎり大勢の子供たちにサインをした。私と江藤で人気を二分し、百名に近い人数をこなした。色紙や硬球ボールにサインしては、笑顔で手渡し、小さな手と握手した。彼らの言葉は、
「お願いします」
 と、
「ありがとうございました」
 と、
「がんばってください」
 シンプルすぎる言葉だった。色紙を受け取るとスッと踵を返す。彼らの背後には大してうれしそうでもない親たちが控え、行列の両側には四、五人の警備員たちがいた。監視つきの行列。彼らのぎこちない態度の理由がわかり、気の毒な気がした。それ以上に、選に洩れて、列を外れた場所から羨ましそうに見つめている数百人の子供たちの眼差しが胸に沁みた。



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