百七

 観客五万三百。先発バッテリー発表。阪神の先発は江夏ではなく、サイドスローの柿本だった。もとドラゴンズの変化球ピッチャーだった男だ。シュート、シンカー、スライダー。二十何号目だったか、バックスクリーンへ一本打ち返した。江夏は腹を突き出すような格好で、ライトラッキーゾーンのブルペンでゆったり投球練習をしている。ドラゴンズの先発バッテリーは、伊藤久敏―新宅。
 球審はインサイドプロテクターの大谷。水原監督に眼鏡を毟られたことが忘れられない。コンタクトレンズは不便だろうと同情する。彼はおととし、この甲子園球場で没収試合を宣告したらしいが、試合の内容と経緯は知らない。
 スターティングメンバーのアナウンス。きょうの中日は大幅に打順とメンバーを入れ替えてきた。一番一枝、二番高木、三番菱川、スタンドがどよめく。どんな形でも勝てるかどうかを試そうとする水原監督の冒険だ。四番江藤、五番神無月、ふたたびスタンドがどよめく。六番新宅、七番太田、八番センター江島、九番左腕の伊藤久敏。
 阪神も三、四人聞き覚えのないメンバーを出してきた。一番ショート藤田平、二番レフト山尾、三番ファースト遠井、四番ライトカークランド、五番センター藤井、六番キャッチャー辻恭(やす)彦、七番セカンド野田、八番サード大倉、九番ピッチャー柿本。山尾、辻恭彦、野田、大倉の四人。耳に記憶がないだけで、すでに対戦しているのかもしれない。江藤が、
「ヒゲの辻佳紀(よしのり)と区別するために、恭彦のほうはダンプて呼ばれとる。ヒゲは百八十センチ、ダンプは百七十センチ。ダンプは江夏用のキャッチャーやけん、きょうはかならず江夏が出てくるゆうことや。先制点ば入れて、はよ引きずり出そう。出てきよったら、ゼロ行進になるけんな」
 一回表。一枝初球のスライダーをセンター前ヒット。田宮コーチの怒声。
「ヨッシャ、いけ、きょうもいけ!」
 高木、初球シュート、ファール、二球目シュート、ファール、三球目スライダー空振りで三球三振。菱川、初球のシュートを叩いてレフト前ヒット、江藤、初球のスライダーを右中間二塁打、一枝と菱川が還ってまず二点。みんな初球を叩いている。私、初球のシュートを左中間へ二塁打、江藤還って三点。新宅、ツーワンからシンカーを打ってサードゴロ、太田、ノーツーからシンカーを打ってショートゴロ。三対ゼロ。上々の出だし。
 一回裏。藤田平、サード頭上にチョコンと流し打ち。落下したボールが勢いを失う。私はファールグランドに滑りこみ逆シングルで捕球したが送球できない。二塁打。山尾のライト前ヒットで藤田還って一点。遠井、高いバウンドでファーストの頭上を越すライト前ヒット。ノーアウト一、三塁。カークランド、菱川の頭上を襲うライトライナー。犠牲フライになって山尾ホームイン。二点。ワンアウト一塁。藤井、バットを長く持ち、巨人の森そっくりの薙ぎ払うような片手打ち。〈好かん〉打ち方。ボテボテのセンター前ヒット。鈍足の遠井三塁へ進めず、ワンアウト一、二塁。辻恭彦、三振。野田、セカンドゴロ。三対二。
 他チームの選手たち―尊敬もしていなければ、友人でもない彼らの事情は知る必要がない。たぶん同じチームでも、選手同士おたがいがそんな気持ちでいるだろう。学校の教室と同じだ。水原監督のことや、江藤のことや、中のこと、小川のこと、高木のこと、一枝のこと、菱川のこと、太田のことは、実際口を利いてかなり詳しく知った。あとのチームメイトのことは、追々、微妙なところを知っていくことになるだろう。
 二回表。柿本続投。江島、レフト前のクリーンヒット。伊藤久敏、ショートゴロゲッツー。一枝、三振。
 二回裏。大倉、ファーストファールフライ。柿本、振り遅れのライト前ヒット。不気味なほどピッチャーにヒットを打たれる。藤田平、痛烈なレフト前ヒット。しっかり腰を下ろして捕球した。山尾、セカンドゴロゲッツー。高木が二塁ベース間近の難しいゴロに飛びこみ、グローブの先で弾き上げるように一枝にトス、一枝が一塁の江藤にジャンピングスローしてダブルプレイ成立。高木と一枝の連携の至芸。あまりにもみごとな技なので、後継者が出ると思えない。
「ナイスプレイ! ナイスプレイ!」
 私は思わず連呼しながらベンチへ走り戻った。
 三回表。高木、少しボールを見きわめはじめる。ツースリーから内角シュートを掬ってレフト前ヒット。菱川、ツーツーから外角シンカーをライトラッキーゾーンへ十六号ツーラン。江夏の手でボールがフィールドに投げ返される。一塁スタンドから、
「菱川死ね、ボケー!」
「アメリカ帰れ! 泳いで帰れ!」
 一呼吸置いて正体不明の歓声が上がる。菱川は水原監督に尻を叩かれ、ホームベースでもみくちゃになった。五対二。
「バイトのピッチャー、やめんかい!」
 江夏がリリーフカーに乗って出てきた。なぜ彼が先発しなかったのかわからない。柿本でいけるところまでいこうということだったのだろう。劣勢でのリリーフは、平松の使い方とそっくりだ。
「ピッチャー、柿本に代わりまして江夏、ピッチャー、江夏、背番号28」
 轟々と響く歓声。豪快な投球練習。ネクストバッターズサークルで球道を見定めようとする。とにかく速い。かすかにシュートする外角のボールに威力がある。右バッターが打ち損なうとバットが折れるし、左バッターが打ち損なうと自打球の危険がある。狙いはストレートと甘いカーブ。
 江藤、高目の速球を振って三振。私は外角カーブを打ち損ねてショートフライ。フライが上がっているあいだむだなフラッシュが瞬きつづける。新宅、キャッチャーゴロ。
 三回裏。遠井、フォアボール、カークランド、ライト前ヒット。ノーアウト一、二塁。藤井、流し打ってサードゴロ。太田三塁を踏んでセカンドへ送球。ゲッツー。藤井が一塁に残った。野田、センターフライ。
 四回表。太田、三振。江島、三振。伊藤久敏、三振。バッタ、バッタという感じだ。
 四回裏。大倉、ショートゴロ、江夏、三振。藤田、ライト前ヒット。山尾、ショートゴロ、藤田フォースアウト。
 五回表。一枝、三振。高木、三振。菱川、高目のストレートを叩いて左中間二塁打。江夏からの初ヒットに中日ベンチが沸き立つ。江藤、私と同様外角カーブを打ち損ねてショートゴロ。
 五回裏から新宅の代わりに木俣が、太田の代わりに葛城が、江島の代わりに中が守備についた。三番遠井、フォアボール。カークランド、ライトスタンド中段へ六号ツーラン。四対四の同点。藤井、セカンドゴロ。辻、三振。野田の代打田淵、私へのフライ。
 六回表。代打田淵はキャッチャーで入り、野田の守備位置のセカンドへ吉田義男が入る。私、江夏の初球外角カーブを叩いて、ショートの頭上へクリーンヒット。木俣、ショートぼてぼてのゴロ。二塁間に合わず、一塁へ送球、木俣アウト。ワンアウトランナー二塁。葛城、ショートゴロ、藤田は走り出そうとする私に気をとられてジャッグル。葛城セーフ。藤田にエラーがつく。ワンアウト一、二塁。中、サードゴロゲッツー。
 六回裏。大倉の代打ヒゲの辻佳紀、左中間の大きなフライ。中楽々キャッチ。江夏、三振。藤田平、ライト前のワンバウンドのヒット。とにかくよくヒットを打つ男だ。打撃三十傑で見るとまだ十位あたりで、三割ギリギリしか打っていないところをみると、藤田は中日戦にすこぶる強いということになる。山尾の代打池田純一、ライトフライ。
 七回表。一枝、三振。高木、ピッチャーゴロ。菱川、浅いセンターフライ。打線が噛み合わないどころか、沈黙している。名古屋のアトムズ戦からはもとに戻すだろう。
 七回裏。遠井、左中間の深いフライ。カークランド、右中間中段へ豪快な七号ソロホームラン。きょう二本目。黒い大男が一塁を回るとき、チラリと爪楊枝が見えた。四対五。藤井、また片手打ちでファーストライナー。辻恭彦、三振。三年目の伊藤久敏がよく投げている。速球が切れる。
 八回表、レフト山尾の代わりに和田徹、キャッチャー辻恭彦の代わりに田淵、サード大倉の代わりに小玉が入る。江藤、一塁側スタンドへファールを二本打ったあと、高目のストレートをレフト前へクリーンヒット。これで江夏からようやく三本目のヒット。金太郎コールが爆発する。水原監督がブリキの玩具のように手を拍っている。私は外野スタンド全体をしっかり見やった。
「ヨ! ホ! さ、金太郎!」
「ヨー! 一発!」
「ホオオ! いきましょ!」
 江夏はロジンバグを丁寧に足もとに置き、セットポジションに構える。初球胸もとシュート。
「ボー!」
 大谷の甲高い声。二球目、外角カーブを狙い打ちするも、三塁内野スタンドへファールになる。タイミングが少しずれて振り遅れる。カーブ狙いをやめた。せいぜいレフト前ヒットにしかならない。ストレートか、ベースに近づいてくるシュート打つと決めた。三球目、江藤が走った。外角カーブ、高木の〈仕事〉を思い浮かべて、意図的に全力の空振り。強肩の田淵が驚いて二塁へ送球する。高い。セカンド小柄の吉田ジャンプ。セーフ。三塁側の内外野の観客が立ち上がり拍手する。今季初めての江藤の盗塁だ。私に打点を与えようとしている。私は二塁ベースの江藤に向かってバットを掲げた。江藤が手を挙げて応える。こうなると俠漢江夏の選択肢は剛速球しかない。一塁が空いていても敬遠はない。田淵が呟く。
「ここまで二打席、カーブで凡打、カーブでレフト前ヒットか。どうしようかな」
「速球しかないでしょ」
「そうは問屋が」
 田淵が右膝を突いて低く構える。裏をかくようなことを言ったが、やっぱりストレートだろう。セットポジションから大きく胸を張った江夏の左踵が、白いピッチャーズプレートからグッと爪先立つ。リズミカルに肘を頭の後ろへ引くと、幅広く踏み出し、左腕を力強く振り下ろす。惰性で左足が高く跳ね上がる。内角低目のストレート。私のいちばん得意なコースだとわかっていて、わざわざ真っ向勝負を挑んできたのだ。沈まず、真っすぐくる。きょう見た彼のボールの中で最速だ。スピードに負けないように叩く。
 ―ジャストミートか!
 センターへ弾き返した。上昇する感触ではない。スイングスピードと反発力でどこまで飛んでいくか。走り出す。白球が真っすぐバックスクリーンへ向かっていく。内外野のスタンドから期待の喚声が上がる。藤井の背番号19が走る。伸びる、伸びる。藤井の背中が見送った。ボールがバックスクリーン右横の人溜まりに突き刺さった。江夏がお辞儀をするように両ひざに手を突いた。森下コーチとタッチ。二頭のスフィンクスが漆黒の空から光のシャワーを浴びせる。江藤が跳びはねて水原監督とタッチ、私もすぐに追いついてタッチ。強く尻を叩かれる。花道にワイシャツ姿の一般客が何人か混じりこんできて私に抱きつく。審判も選手も排除しない。甲子園球場の名物だと知っているが、初めての経験だ。ワイシャツ男たちはいつのまにか姿を消す。
「神無月選手、第七十一号のホームランでございます」
 逆転。六対五。三塁ベンチの上方から、
「ボケー! 死ねや!」
「ヒトゴロシー!」
「地獄へ落ちんかいー!」
「そのホームランと男前、王に分けたれや!」
 三塁側スタンドに味方が棲んでいるとはかぎらない。徳武が笑いながら、
「直球の野次だなあ」
 一点差。すぐ追いつかれる不安なスコアだ。江夏からもう一点取れるかどうか。上の空の気分でバヤリースを飲む。木俣、三球三振。葛城、強い当たりのピッチャーゴロ。中、三塁スタンドへファールを二球、バックネットへファールチップ、四球目空振り三振。まともに当てられない。
 七回裏。阪神の応援がうるさくなる。笛、鉦、太鼓、ラッパ、旗、旗、旗。田淵、ボールワンからいい当たりの一塁ゴロ。小玉、ツースリーからショート右の内野安打。江夏、ツースリーからピッチャーゴロ、ゲッツー。
 八回表。九番伊藤久敏から。見逃し三球三振。一枝、初球をするどい当たりのセンター前ヒット。コツコツがんばっている。鼓舞される。高木ワンスリーのとき一枝盗塁。田淵ワンバウンドの悪送球。センターへ抜ける。一枝三塁へ。江夏、高木をわざとフォアボールで出す。ワンアウト一塁、三塁。江夏から初ヒットを打っている菱川がバッターボックスに入る。上半身がガチガチだ。打てそうもない。水原監督、タイムをかけ、千原を代打に送る。菱川、ホッとしたようにベンチに退がる。私は田宮コーチに、
「左に左をぶつけるという意外な作戦ですか」
「いや、どうせ点が取れそうもないなら何でもやってやれということだろう」
 千原が気の毒になった。初球外角高目ストレート、ボール。千原はそのスピードに仰天し、バッターボックスを外して何度も素振りをする。田宮コーチに、
「千原さんはこの二年で江夏と対戦してますよね」
「うん。ぜんぜん打ってないな」
 二球目、真ん中カーブ、ハーフスイング、ストライク。三球目、真ん中高目速球を見逃してボール。四球目、外角低目ストレート、やっとバットに当てて三塁線ファール。江夏がボールをしごく。五球目、ど真ん中へストレートと見まがう速いカーブ、空振り三振。
 ツーアウト一塁、三塁。
 四番江藤が打席に入る。初球、外角高目のストレートをこすって一塁側スタンドへファール。二球目外角シュート、ストライク。決め球にすべきボールを使ってしまった。三球目、三塁線当たり損ねのファール。四球目真ん中高目へあまり曲がらないカーブ。空振り三振。チェンジ。私はうなった。そして感動した。すごいピッチャーだ。工夫を重ねてかならず三振にもっていく。剛球だけのピッチャーではない。
 八回裏。じんわり不吉な予感が押し寄せる。藤田平、二球目を左中間へ二塁打。またヒットか。和田徹五球粘って、センター前へワンバウンドのヒット。藤田還って一点。六対六の同点。伊藤久敏続投。水原監督は動かない。ベンチの片隅にじっと立っている。遠井初球をファーストオーバーの一塁線二塁打。どたどた二塁へ滑りこむ。ノーアウト二、三塁。カークランドだ。じたばたしてもしょうがない。水原監督に敬遠という考えはない。ホームランを打たれても三点のビハインドだ。信頼されているという充足感がなければピッチャーは能力を発揮できない。伊藤久敏の正念場だ。
 初球真ん中低目のストレート、ボール。二球目真ん中低目のカーブ、ストライク。三球目、真ん中低目のシュート、三塁側スタンドへファール。四球目、真ん中低目の高速スライダー、打った。当たり損ねのセカンドゴロ、一塁アウト。和田ホームイン、遠井二塁に釘づけ。六対七。藤井、ツーツーからセカンドゴロ。遠井釘づけのまま。ツーアウト二塁。吉田義男三振。


         百八

 九回表。この回を牛耳られるとα負けだ。少なくとも二点差はほしい。あと三点をこの江夏から奪えるだろうか。ストレートで勝負してこないかぎり、ホームランを打つことは難しい。それだって百パーセント確実だとは言えない。金太郎コールに大歓声と拍手が重なる。とにかくランナーで出て木俣につなぐ。
 初球、外角高目ストレート。ボールになるとわかったが、ストレートなので思い切り振り抜く。サード小玉の頭を越えて、ラインの内側で弾んでスライドする。
「ヨッシャァ!」
 叫んで走り出す。和田がクッションボールをうまく処理してセカンドへ送球。滑りこんで、間一髪セーフ。木俣、粘ってバットに当て、右中間の深いフライ。タッチアップして三塁へ滑りこむ。
 バッター葛城。初球、外角シュートを空振り。もう一球外角にいくと確信した。江夏が振りかぶったとたん、私は水原監督にピースサインを掲げ、押し殺した声で、
「いきます―」
 一か八かホームへ突入する。私に気づいた葛城が予想どおり外角のボール球をファースト前へバントした。滑りこまずにホームベースを駆け抜ける。大歓声、フラッシュ、フラッシュ。葛城アウト。その葛城が一塁から走り戻ってきて、私に飛びついた。
「すみません葛城さん、信頼しなかったわけじゃありません」
「いいんだよ! 内野ゴロがせいぜいだった。一点取るにはこれしかなかった」
 七対七の同点。ツーアウト、ランナーなし。本多コーチがタイムを取り、三塁の水原監督のところへ走っていく。すぐに駆け戻ってくる。水原監督がホームに歩いていき、審判に告げる。審判がネット下の放送席に走る。すぐにアナウンスの声。
「八番江島に代わりまして、吉沢、バッター吉沢、背番号33」
 ざわめきが歓声に変わる。彼を知っているファンは多い。田宮コーチが、
「ブルペン、だれ?」
 長谷川コーチが、
「健太郎と、水谷寿」
 本多コーチがうなずき、
「吉沢はかならず打つ。健ちゃんに〆てもらおう」
 吉沢はバットを手にすると、目を潤ませて打席に向かった。今度こそ最後の打席だと覚悟している顔だ。江夏がプレートにスパイクの底を叩きつけて泥を落とす。水原監督のパンパン。吉沢、バットを短く持ち、小さく構える。初球、顔のあたりに剛速球。吉沢のけぞって倒れる。ライトスタンドが沸く。一塁ベンチ上から、
「シカバネ、拾ったるでェ!」
 二球目、胸もと速球、振った。かすった。バックネットにファール。タイミングがドンピシャだ。一瞬私は本多コーチの霊感を信じてブルッとふるえた。三球目、同じコースにストレート。打った! 力のある打球が左中間に舞い上がる。センター藤井疾走。レフト線審筒井、老体に鞭打って走る。藤井落下点に入って待ち構える。中日ベンチの怒声。
「入れ!」
「いけ!」
 藤井ジャンプ。筒井の白手袋が回った。
「やったァ!」
 ベンチがドンチャン騒ぎになる。八対七。再逆転。三十六歳の吉沢の小柄なからだが躍動しながらダイヤモンドを回る。顔がゆがんでいる。三塁ベースを回ったところでしばらく立ち止まり、水原監督と抱擁。全スタンドの暖かい拍手。泣きながらホームに還ってきた吉沢は仲間たちにもみくちゃにされた。とてつもない感動が押し寄せる。身動きできない。あの女房の冷笑が浮かぶ。ホームの花道に入っていけない。
「吉沢選手、今シーズン第一号のホームランでございます」
「吉沢さん、スバラシね。ナイスホームランよ!」
 半田コーチのバヤリース。
「ありがとうございます。うまい! こんなにうまいジュースだったんですか」
 菱川が抱きつく。木俣が抱きつく。小川がグローブで尻を叩く。五人、六人、十人と握手する。本多コーチの霊感にふるえが止まない私は、やっとの思いで握手した。吉沢の掌は硬く大きかった。彼はベンチの前列に腰を下ろすと、タオルを顔に当て、嗚咽をこらえながら、
「最高だ! 思い残すことはない」
 田宮コーチが、
「俺の代わりに打撃コーチをやるか。推薦するぞ」
「いえ、勇退します」
「そう依怙地になるな。とにかく推(お)すよ」
 伊藤久敏三振。ダッシュ。早く終わらせて、吉沢をヒーローにしてやりたい。
「ピッチャー伊藤久敏に代わりまして、小川、ピッチャー小川、背番号13」
 小川がリリーフカーを使わず、遠いブルペンから駆け足でやってきてマウンドに上がった。吉沢はブルペンキャッチャーに戻って、土屋のボールを受けようとしたが、水原監督に命じられてキャッチャーに入った。木俣が楽しそうにライトへ走った。吉沢は小川とバッテリーを組んだことがない。監督、コーチ陣のプレゼントだ。
 九回裏。ひょいひょい、すいすいの小川の緩急自在な投球が始まる。吉沢もキャッチングをするのがうれしそうだ。辻佳紀、タイミングを外されながらファールをつづけたが、結局サードゴロ。ワンアウト。ここまではよかった。バッター江夏。内角スライダーでたちまちツーナッシング。ここで油断が出た。小川は江夏が出塁率二割近いシュアなバッターであることを一瞬忘れた。三球目、気を抜いたようなスローカーブを江夏が強振すると、ボールはグイグイ伸びてライトスタンド前段に落ちた。小川の、アチャー! という声が聞こえたような気がした。八対八。同点。やはりもう一点取らなければいけなかった。伊藤久敏は四勝目を逃した。吉沢の決勝ホームランも消えた。小川と吉沢バッテリーは臨機、速球に切り替えた。ツーワンから藤田を三振に、最後のピンチヒッター本屋敷金吾を一球でセンターフライに切って取った。あの立教三羽烏の本屋敷がここにいた。
 延長戦に入った。十回表。ベンチの二列目に座っている伊藤久敏と吉沢に向かって、小川がしきりに謝っている。伊藤が顔の前で手を振り、
「何言ってるんですか。あのままだったら、俺、やられてましたよ」
 吉沢が、
「きょうのシーソーの展開から考えて、こうなるのがあたりまえですよ」
 彼らの顔を見ると、ケロリとして、ほんとうに何も考えていないようだった。
 一枝三振。高木、バッターボックスへ。高木は意外な一発のあるバッターなので、江夏は慎重に投球間隔を空けて投げる。外カーブ、外シュート、内ストレート。さっきの打席で三振している千原がウェイティングサークルで、マスコットバットを手に江夏の投球に合わせてしきりにタイミングを計っている。外角高目シュートを空振りして高木三振。頭にサヨナラ負けがよぎる。千原が素振りを三回してバッターボックスに入った。
 初球外角へ速いカーブ、バックネットへファール。田宮コーチが、
「陽三郎、タイミング合ってるよ!」
 高木が、
「陽ちゃん、合ってる、合ってる!」
 二球目、江夏の得意球、左バッターの膝もとに食いこむシュート。スムーズに掬い上げた! 
「オッシャー!」
「ドンピシャァァ!」
 ライト中段までブッ飛んでいった。江夏ふたたび両膝に手を突く。ラッキーゾーンへ二号ソロホームラン! 千原が両手を挙げて走る。水原監督と握手。仲間たちと握手、タッチ、抱擁。張り切ってバッターボックスに入った江藤、あえなく三振。
「よし!」
「さあ、しまっていこ!」
 十回裏。吉沢が、オェース! と内外野に声をかける。私たちも、オェース! と応える。小川変身。遠井、カークランド、藤井、すべて高目の速球で三者連続三振。
「ゲーム!」
 私たちはめいめい叫び声を上げながらベンチに駆け戻った。七勝目を挙げた小川と、根気よくすばらしいピッチングをした伊藤久敏と、一時的に逆転の一打を放った吉沢が固く握手した。十時五分。九対八の辛勝だった。報道陣がなだれこみ、ストロボやフラッシュの光が雨のように降り注ぐ。一般客もグランドを走り回っている。小川がインタビューの集中攻撃を受ける。ベテラン組は池藤らのマッサージを受けにトレーナールームに去り、阪神ベンチもさっさと引き揚げた。小川のあとで、水原監督、吉沢、千原、伊藤久敏、それから私と葛城がインタビューがつづく。
「水原監督、阪神戦二連勝、おめでとうございます。四十四戦して、三十九勝、三敗、二分け。このペースだと八月中旬には優勝が決定する勢いですが」
「早さよりも、優勝そのものです。九月でも十月でもかまいません。きょうも紙一重で勝てました。とにかく油断なく闘っていきます。吉沢くんの代打起用は、本多コーチの英断です」
「吉沢選手、乾坤一擲、貴重な勝ち越しホームランでした」
 頭を掻きながら、
「一瞬の勝ち越しでした。本多コーチにいけと言われたときは、驚きと緊張で腹がくだりそうになりました。水原監督と仲間たちの温かい出迎えに涙が止まりませんでした。天にも昇る気持ちです。代打起用を心から感謝しています。最高の思い出ができました」
 吉沢は新しい涙を湧かせた。
「決勝ホームランを打った千原選手です!」
「今季第二号が貴重な一本になってうれしいです。もっともっと使ってもらえるようがんばります」
「伊藤投手、ナイスピッチングでした」
「ちっともナイスじゃないです。七点も取られてしまい残念でした。せっかく神無月くんが同点にしてくれて、吉沢さんが勝ち越しのホームランを打ってくれましたけど、自分のせいで劣勢を呼びこんでいたので、あのまま投げていたら大きく逆転されていたと思います。小川さんが最高の中継ぎをしてくれて、負け投手にならずにすみました」
 小川がインタビューの輪の外から、久敏かんべんしろよ! と叫んだ。伊藤はにっこり手を挙げて応えた。
「葛城選手、絶妙なスクイズバントでしたね。ノーサインでしたか」
「はい。スクイズというより、ラン・エンド・バントですね。神無月くんの突っこんでくる姿が左肩越しに見えたので、思わず一塁方向へプッシュバントしました。どうしても一点取って同点にしたいという神無月くんの執念に打たれて、からだが自然に動きました。晩年になって印象深い仕事をさせてもらってます。ありがたいです」
「神無月選手に伺います。葛城選手が気づかなかったら、ホームでアウトでしたね」
「はい、ワンアウトランナーなしになって、一点ビハインドのまま一から出直しでした。あの場合、外野フライかヒットを打つしか策がありませんでしたが、江夏さんに対してそれはかなり難しいと感じました。葛城さんの打力を信じてなかったのではなく、バントで一点取れるなら、そっちのほうが得策だと思ったんです。ぼくが走り出せば葛城さんが気づいて、かならずバントすると信じてました。江夏さんから一点を取るのは至難です」
「それが起死回生の一点になり、吉沢選手の勝ち越しホームラン、千原選手の決勝ホームランに結びついたんですね」
「投打のドラマチックな成果に身動きできないほど感動しました。……吉沢さんは長年ドラゴンズに貢献してきました。チームメイトはみんな彼を尊敬しています。過去に不遇のときもあったと思いますが、最高の思い出などとさびしいことを言わずに、またこうして一選手としてドラゴンズに戻ってきて活躍の場を得たことを誇りにし、さらに精進してほしいと思います。これからもいっしょに長く野球をしてください。江夏さんの同点ホームランが出たとき、一瞬サヨナラ負けを覚悟しましたが、伊藤さん、吉沢さん、小川さんの踏ん張りに応えて、最後の最後に千原さんが乾坤一擲の一発で報いてくれました。チーム進撃の勢いを削がない劇的な一勝を挙げることができてほんとうにうれしいです」
「あさってから、アトムズ戦、巨人戦とつづきますね」
「相手がだれであろうと、チーム一丸となってがんばります」
         †
 十時半から、三階の宴会場で特別会席が催された。太田コーチが、
「きのうの広島戦で巨人の連勝がストップした。四対二。勝ちは外木場、負けは初登板の浜野。初回に興津にツーランを打たれ、三回までに六安打打たれて四点失った。あとは三人のピッチャーでゼロに抑えた。浜野の登板はしばらくないな。中日戦でも投げないだろう」
 ハマチ、トロ、赤身の刺身、和牛のステーキ。小川が、
「人を呪わば穴二つ、だな」
 中が、
「金太郎さんは呪い殺されないから、墓穴は一つだ」
 高木が、
「そのうち浜野は川上を呪って、ちゃんと穴二つになるんじゃないの」
 足木マネージャーが、
「昇竜館の室内練習場がリニューアルしました。さらに照明を明るくし、近代的なマシンを入れた本格的なものです。付属のジム設備もあります。せいぜい有効利用してください」
 池藤トレーナーが、
「マッサージ室もありますよ。マッサージ師が四人常駐してます。遠征先では外注のマッサージは料金が二倍もかかるし、納得のいくまで受けられません。筋肉の質が一般の人とちがうからです。いくらやっても昇竜館は無料です。マッサージはスポーツ選手には重要です。二十代半ばを越えたら、毎日やってもいいくらいです。モリミチさんと中さんは毎日やってます」
 中が、
「おたがい三十あと先だからね。からだをいたわらないと」
 徳武が、
「最強コンビ、いつまでも」
 中は笑い、
「私とモリミチは、十二球団最強のコンビといわれてるけど、対等のコンビじゃなく、モリミチあってのコンビなんだよ。私はたしかに打率もいいし、出塁率も高い。でも、ここ一番というときに案外弱い。ここ一番のときに一発かましてくれるのがモリミチだ。それから私は、肩が弱い。モリミチは強い。守備でもここ一番の人だ。監督にとっても、これほど頼りになる選手はいない。めったに人を褒めない中西太が、ただ一人褒めた選手だ」
 葛城が、
「天才はなかなか人を褒めない。それが褒めたんだからホンモノだ」
 高木が、
「褒められない人というのがいる。天才の上をいってる人。ものすごいことがあたりまえだから、おこがましくて褒められない」
 みんなが私を見る。


         百九 

 水原監督が、
「そのとおり。金太郎さんを褒めちゃいけないよ。逃げちゃうから。試合後たいていベンチ裏へ走っていくだろ。記者たちがいつも嘆いてる。金太郎さんの談話なしじゃ新聞作れないってね。きょうのインタビューなんか、ひとりの記者が金太郎さんのベルトをつかんで逃がさないようにしてたよ。でもわれわれとちがってそういう事実を知らない野球人は、たとえおこがましいと感じても、もっと金太郎さんを褒めるべきだね。球界を代表する野球人が、なかなか金太郎さんを褒めない。褒めるのはマスコミだけだ。私はしっくりこないものを感じてる。だれもが川上哲治になっているとしか思えない。そして、これが金太郎さんの宿命だと悲しくあきらめるんだ。われわれだけでも、金太郎さんに感動して、金太郎さんを愛してあげよう。ところで、中くんと高木くんの話に戻るが、私はきみたちを心から信頼しているよ。二人とも守備範囲が広いし、足も速い。攻走守揃った名選手だ。しかし、二人とも満身創痍だ。中くんの眼病は治ったが、長年膝の持病を抱えている。高木くんも、去年堀内に喰らったデッドボールの後遺症が完治していないんじゃないか。きみは何も言わないが、まだ相当痛むんだろう」
 高木はただ微笑んでいる。新宅が、
「むっつり右門だもんな」
 鯛の唐揚げ、赤飯、酢の物、赤出汁(だし)。江藤が、
「人に心配かけるようなことを言わんだけたい。けっこう口数は多いし、ひょうきんなことをよう言う。ウィットゆうんやろ」
 水原監督が、
「ものごとに真剣に取り組む人間は、みんなウィットに富んでいるよ。きみたち全員がそうだ。ほんとうのユーモアがある。いつまでもきみたちと野球をやりたい。中くんと高木くんにかぎらない。球史に残る天才選手たちが、ドラゴンズにはごろごろいる。私はドラゴンズの疾風怒濤の時代の目撃者になれて幸せだ」
 赤飯のお替わり、海老と野菜の煮物。
「気が早いが伝えておきたい。来年度は、田宮くんの後釜に杉山くんを一軍の打撃コーチとして招く。徳武くんには二軍の打撃コーチになってもらおうと思う。徳武くん、板東殺しの誉れ高かったきみが、板東くんの負担を減らすために同じチームにきて、彼と同じ釜のめしを食ったのも何かの因縁だ。その板東くんは来年去っていく。きみも転身の時期だ。どうかね」
「はあ、喜んで」
 田宮コーチが、
「吉沢くんを二軍バッテリーコーチに推挙したいんですが。来季は長谷川さんが一軍引き上げになるでしょう?」
「うん。もちろん、頑固者の吉沢くんさえよければ」
 吉沢が箸を止め、
「え……ほんとうでしょうか。信じられない話ですが」
「ほんとうだ。捕手全般のコーチとしてやってもらいたい」
「―ありがたくお引き受けします。精いっぱい尽力します。何とお礼を言ってよいか」
「すでに金太郎さんからの強い推(お)しがあった。みんなの気持ちを代表して、真剣な表情で推薦してきた。むろん、それがなくても私の意向は決まっていたが、金太郎さんの推薦が最終的な決め手になった」
 江藤たちの集団から大きな拍手が上がった。私は吉沢を見つめて微笑んだ。吉沢がうなずいて微笑み返した。
「長谷川くん、ピッチングコーチとして一軍にきても、いままでどおり二軍にも目を配って、土屋くんと水谷則博くんをものにしてやってくれ。ピッチャー陣はもとより、江藤省三くんと三好真一くんと井手峻くんら控えの野手陣も鍛えてほしい」
「承知しました。井手は、今年でメドをつけます」
「堀込くん、佐々木くん、新谷くん、大西くん、豊永くん、北角くん、石川くん、金富くん、川口くん、以上九名は残念だが来年退団と決まった。前もって伝えておく。今年一軍の試合にときたま呼ぶことがあるかもしれないが、成績いかんにかかわらず進退の変動はない。高木時夫くん、きみを二軍バッテリー総合コーチに招請したい。吉沢くんを補佐して投手・捕手を総合的に見てほしい。竹田和史くん、松本忍くんと大場隆広くん、それから星野秀孝くんを長い目で鍛えてほしい」
 ついに星野秀孝という名前が出た。
「お引き受けします」
 高木時は即答した。
「葛城くん、きみにはもう少し活躍してもらう。そのあとでコーチに要請する。一度きりの優勝、そんなふうに私はマスコミの前で言いつづけてきた。いまも私はそれ以外のことを望んでいないけれども、中日ドラゴンズはこの半年のあいだに、努力すれば一度と言わず優勝を狙えるチームに成長しはじめた。だから努力しよう。中くん、江藤くん、伊藤竜彦くん、高木守道くん、木俣くん、高木時夫くん、一枝くん、千原くん、葛城くん、徳武くん、菱川くん、太田くん、江島くん、島谷くん、どうか神無月くんと一丸となって奮闘努力し、可能なかぎり二度、三度と優勝を狙ってほしい。小川くん、小野くん、伊藤久敏くん、水谷寿伸くん、山中くん、田中勉くん……田中くんの姿がないね。まあいい。門岡くん、若生くん、きみたちも奮闘努力の要員として精いっぱいやってほしい。きみたちの努力に影が差さないかぎり、あるいは私が病に冒されないかぎり、私は引退しようと思わない。きみたちも自分の身に引きこんでそういう気持ちでいてほしい」
「オス!」
「ウース!」
 メロンとイチゴとネーブルのデザート。コーヒーが出た。吉沢は背筋を伸ばしてコーヒーを飲んだ。
「吉沢くん、実働十六年、不遇の中で打率二割を維持し、ホームランも四十本打ってきたきみだ。まだ現役に未練があるかもしれないが、すっぱり断ち切って、後進の指導に邁進してくれるよう期待してるよ」
「はい!」
「江藤くん、弟の省三くんは守備を離れて打撃に専念すれば、二割五分、ホームラン十本も打てるかもしれない。チャンスがあれば極力代打で出てもらうことにします。打ちこみを増やすように言ってください」
「ありがとうございます!」
 江藤が目を拭った。  
 深夜の十二時に打ち上げになり、十人ほどで八階の大浴場にいった。吉沢と背中を流し合う。
「よかったですね、吉沢さん」
「はい、まだ信じられません。女房が喜びます。……神無月さんのおかげです。インタビュー、ありがとうございました」
「みんなの気持ちを代表して言っただけです」
 湯船から江藤が声をかける。
「スパッと辞めるなんちゃ言わんで、スカウトの仕事でも申し出ればよかったのにのう」
「責任が重すぎます。それに、私には人の能力を見抜く目はありません。でき上がった能力に感動するだけの人間です。神無月さんを見てしまったいま、ぜひスカウトしたいというような人材に巡り合えるとも思えませんし」
「そぎゃんたいねえ。しかし、名古屋西高時代に金太郎さんを訪ねたのは、ドラゴンズの村迫代表だけやったちゅうのは、別の意味で驚きばい。どの球団も、金太郎さんばほしくなかったんやろうか。いっちょ、スカウトの腕のなかごたるな。雑魚ばっか拾ってきよって。甲子園ぎり見とるけんよ」
 菱川が、
「それ言われると耳が痛いです。俺は甲子園で拾われた雑魚だから。でも、スカウトは神宮にもいったわけでしょう。何を見てたんですかね。いろいろな雑魚は拾ってきましたけど、神無月さんは拾わなかった。青森高校のころからひと声もかけなかった。水原監督が言ったように、褒めることさえしなかった」
 太田が、
「大学時代も、卒業まで勧誘してはいけないというプロ野球規約に安心して、神無月さんの中退までは考えなかった。神無月さんがなぜ東大にいったかを理解してたのは、ドラゴンズだけだったんですよ。ほかのチームは、野球のうまい男が学歴にあこがれて東大にいったぐらいにしか考えてなかった。地方紙や週刊誌にかかれていることを信じてなかったんでしょう。で、東大が優勝し、中日が電撃契約してあわてた。怠慢が神無月さんという大魚を逃がしたんです。いまさらいじめても遅いです」
 みんなで湯船に浸かった。高木が、
「お母さんから連絡は?」
「まったく」
「そう。うちはうまくいってるから、金太郎さんの状況って信じられないんだよね。三年前の松山キャンプのときはオヤジが訪ねてきて、西沢監督がオヤジの肩を抱いて俺と三人で記念写真を撮ってくれた。よくオフクロを球場に招待してくれたしね。プロ野球選手は親孝行、家族孝行と決まってるから、金太郎さんの週刊誌の記事なんか信用されなかったんだろうね。親子の角逐なんて噂を流して、ある種のスタンドプレイをしてる男と見られたら、事情を知らない球団は声をかけないね。入団させても、チームの和を乱すだろうと思っちゃうからね」
 江藤が、
「ワシらの親兄弟たちとはまことちごうとる。川上や長嶋や王や金田、どいつもこいつも親に認められ、甘やかされた幸せもんたい。ワシは実際金太郎さんの母親に会うた。噂の何倍も意地の悪か人やった。ワシは金太郎さんが憐れで泣いたばい。金太郎さんは笑っとった。金太郎さんは笑いながら何年も生き地獄におったんやろう。そんな母親のために名門高校、名門大学と突破しながら野球をやったんぞ。だれもまねできん。学校に記念碑が建つのもあたりまえくさ。村迫さんも一度母親に会うて確信したようや。守らんばいけんて。金太郎さんを獲得できたんは、金銭的な損得抜きでその一心が先やったからばい。真心でしか金太郎さんは動かんけんな。もちろん、金太郎さんがドラゴンズを愛しとったこともうまう噛み合うたちゃろうが」
 小川が、
「北村席の人たちはすごいね。そういう金太郎さんをガッチリ守ってる」
 高木が、
「あれには驚いたよ。女性たちが全員母親代わりなんだもの。鳥肌が立った」
 江藤が、
「飛島建設は、社員が全員父親代わりやった。西松建設もほうやったんやろう」
「だろうね。でも、そこまで父親母親代わりをしないと金太郎さんが崩壊してしまうと考えるのは正しいと思う。穿った見方だけど、金太郎さんの一生は父母を訪ねて三千里の旅じゃないの?」
 吉沢が、
「能天気な天才としてだけ存在していないことが、神無月さんを神秘のベールに包んで庶民から遠ざけてるんです。長嶋や王とは一味も二味もちがう。神無月さんの人生を追跡したら、野球どころじゃない。頭がパンクしちゃいますよ。神さまとして祀りあげておくほうがラクです」
 江藤が、
「実際神さまやぞ。からだの白さとチンポの形、見てみい。人間やなかぞ」
「やめてください。みっともないと思ってるんですから」
「ウハハハハ」
 中が、
「いつまでもそばにいるよ。金太郎さんを知って金太郎さんから離れたいと思う人間はいない。金太郎さんもどこにもいかないでね」
「いきません」
 一枝がジャバッと浴槽の湯で顔を洗った。江島と千原も同じことをした。私も湯で涙を洗った。男たちが涙でつながったように感じた。
         †
 九日の真昼に北村席に着いた。千佳子と睦子が跳びはね、上を下への大騒ぎになる。女将が私の服を剥ぎ取り、めしに帰っていたカズちゃんが風呂へ連れていく。二人裸になって湯船に浸かる。心ゆくまで長いキス。
「六月にモクレンの真っ白い花を見ないのはさびしい。団扇のような葉っぱもね。則武の庭に植えてもらって。玄関のそばに」
「わかった。東京遠征のあいだに植えといてもらう。じゃ、先に出るわね。のんびり浸かってから出てね。ごはんを食べてお仕事いってきます。甲子園新記録、おめでとう」
「ありがとう。あとは本数を増やすことに専念するね」
「がんばってね。……だれか呼ぶ?」
「いい。このままゆっくり浸かっていたい」
「そうね。じゃ、いってきます」
 キスをして出ていった。頭を洗い、からだを洗う。風呂を出て、トモヨさんとソテツとイネのおさんどんで、そうめんの大盛りとライス。ミョウガのつけ汁がうまい。
「でっかく宣伝打ちましたよ」
 主人が、ミズノのジャージを着て走っている私の新聞写真を見せる。菅野が覗きこむ。
「私と走っているときですよね。那古野町あたりかな。絵になりますね。こりゃ、ミズノ製品売れますよ」
 主人が、
「売り上げが倍増しとるて、保田さんから連絡あったが。特別ボーナス二百万振りこまれとった」
 女将が、
「甲子園でええことしたなあ。マンションのご夫婦、めちゃくちゃ喜んどったがね。テレビのニュースで何度も観たわ」
 菅野が、
「ああいうときも神無月さんは笑わない。ファンの太鼓持ちでないということが日本じゅうに伝わりましたね」
 主人が、
「優勝を決める試合が中日球場ならええのにな。八月の末かな」
「気が早いですよ。きっと二連敗、三連敗があるので、やっぱり九月ごろになると思います」
 菅野が、
「八月の末じゃなく、初旬の五、六、七日、巨人戦あたりだと思いますけどね」
 主人が、
「そりゃいくらなんでも早すぎる。八月十二日から十七日までの、アトムズと阪神の六連戦、それか、二十六日から二十八日の大洋戦やろ」


         百十

 トモヨさんが、ヨイショと言って、テーブルに両手を突いてつらそうに立ち上がった。大きな腹がテーブルをこすりそうになる。幣原が、
「坐っててください、奥さん、下ごしらえは私たちがしますから」
「別に病気じゃないのよ」
 主人が、
「そうは言っても、周りから見れば病人のようなもんや。無理すな」
「お洗濯物の取りこみをしないと」
 ソテツが、
「ほんとに奥さん、そんなことは私たちがやりますから」
「ありがとう。八月、九月はちょうど出産の月ね。優勝当日は病院にいるんじゃないかしら」
 女将が、
「お産のころは何が起こるかわからんから、そのほうがええよ」
「でも、なんか残念」
 睦子が、
「九月も産後の体調が戻ってからじゃないと動けません。私たちが中日球場にいって見届けます」
 イネがコーヒーを持ってくる。膝を突いたスカートの尻が艶かしい。撫ぜる。
「あ、やんだ、神無月さん」
「みんなのを撫ぜたかったんだけど、代表して」
 主人夫婦が大笑いする。ソテツが、
「神無月さん、私のお尻も撫ぜて」
 撫ぜてやる。十七歳の尻が固い。
「ああ、気持ちいい」
 千佳子が、
「いやだ、ソテツちゃん、大人っぽい」
「大人です。十七歳のこの胸に」
「古いな。五年前の歌だよ。そっと呼ぼうか思い出を十七歳のこの胸に。ソテツはそんな孤独な女じゃないよ」
「五年前は小学六年生。片想いの男の子がいました。ラブレター渡せなくて」
「ふうん、それなりに孤独だったんだ」
 座敷の女たちがワッと笑った。近記れんがやってきて、
「こんな自由気ままな話、お店の女の子同士もしませんよ。聞いててぜんぜん嫌味がないから、ほんとに気持ちが伸びのびします」
 トモヨさんが、
「郷くんのそういう性格のおかげで、私たちも女の幸せを満喫できるの。そうそう、今夜はムッちゃんの誕生日祝いをしなくちゃ。あとでケーキ買ってきます」
「六月七日だったね」
「はい。二十歳になりました」
「おめでとう。千佳子は十二月二十日。まだ十九だ。ソテツは五月十五日に十七歳になったし、イネは九月十八日に二十五歳になる」
「わあ、あだしの誕生日もおべでら。誕生日、教えたっけが」
「憶えてるということは、きっとそうなんだね。睦子、金魚は何歳?」
「わかりませんけど、一歳にはなってないと思います。むくむく大きくなりました。指を差し出すとつつくんですよ。頭も撫でさせます。とても人間に慣れるんでびっくりしました」
 主人が、
「三年もすれば扱いきれないくらい大きくなる金魚もあるらしい。そうなったら、業者に引き取ってもらうんやな」
「でも、お魚が悲しがるんじゃ……」
「大きい金魚はうまく飼わないと、突然死するらしいよ。そのほうが憐れだ。大きなったら、うちの池に放したらどうや」
「それだとさびしくないですね。そうします」
 私は主人に、
「松葉会からまだ連絡ありませんか」
「おお、それや。十六日の月曜日に寺田さんが帰ってくるそうです。都合がよければ、十七日の昼にでも熱田のほうに顔を見せてくださいということやった。後楽園の巨人三連戦が終わってちょうど名古屋にいるときやったんで、勝手に了承しておきました。大勢で移動すると目立ちますので、ワシと菅ちゃんと和子だけがついていくことにします」
「ありがとうございます。マスコミに気をつけないと」
 菅野が、
「抜かりなくやります」
 睦子と千佳子といっしょに離れの裏門から出て、ひさしぶりにアイリスにいく。行き交う人が視線をまともに私たちに当てながら、感嘆したふうに頭を下げる。人びとのあこがれの視線が痛い。
 店に入った瞬間、ひとしきり大勢の客たちに拍手喝采されたが、そのあとは静かに放って置いてもらえた。店員たちの熱心な仕事ぶりを見つめる。店に気品が漂っているのがうれしい。メイ子が、奥の窓ぎわのテーブルに案内した。壁に据えられたテレビが三台に増えていた。野球放送のみという注意書きが横壁に貼ってあった。サイン会の貼紙はもう剥がされていた。
 小学生の男の子が、硬球とサインペンを持って近づいてきたので丁寧にサインした。男の子も丁寧にお辞儀をして、母親のいる席に戻った。母親は私に深く頭を下げた。何日も何週間も、ボールを持って私を待ち構えていたのだろう。いじらしかった。
 名大生の大坪がやってきて注文を尋く。三人ともサントスとチョコレートケーキを頼んだ。
「甲子園の場外ホームラン、おめでとうござます」
「ありがとう」
「××さん、テレビ点けて」
 大坪に命じられた女子従業員の手で特別にテレビが点けられた。高峰三枝子が司会をする三時のあなたという番組だった。コーヒーとケーキを運んできた素子が、
「キョウちゃんの特集をするんよ」
 あらかじめ知っていたらしい客たちが拍手した。客が大勢いた理由がわかった。カウンターのカズちゃんを見ると、笑ってウィンクを返した。
 阪神のかつての名サードだった三宅秀史がゲスト出演していた。きのうおとといと守備練習でノッカーをしていた男だ。左眼に小山正明のキャッチボールの逸れ球を受けて大ケガをし、現役引退に追いこまれた悲運の人物だ。高峰のアシスタントをしている野間脩平という男が、
「神無月選手は少年ファンに大きな夢を与えました。彼のおかげで、将来のプロ野球界に有為の人材が送りこまれる可能性が高まりましたね」
 発言を受けて三宅は、
「何ごとも可能だと思うことと、実現できることとは別物です。七十一本のホームランを打っている人が実際にいるわけですから、何ごとも可能だとは言えるでしょうが、それを後進たちが学んで実現できるかというと、それは希望の範囲で考えるべき可能性になります。百八十メートル級のホームランもしかり、神がかりの天才選手にしか実現できないこともあると学ぶほうが自然です。自分に可能だろうかと疑うことで、人間はひたすら努力を重ねて、あこがれの選手の足もとにでも近づこうとするようになります。努力の量がちがってくるんです。神無月選手はそういう努力目標であって、わが身に引き寄せられる人ではありません」
 甲子園のライト場外へ消えていくホームランが映し出された。客たちが私のほうを向いて拍手した。私はお辞儀をした。高峰が、
「神無月選手をスタジオにお招きすることはできません。メディアに表立って取り上げられることを嫌っているからです。試合後のインタビューで、タオルをかぶって逃げ出す姿も何度か目撃されています。神無月選手をそこまでかたくなにさせている理由こそ、私たちの反省すべき点だと思います」
 野間が、
「私もそう思います。マスコミには、有名になったら騒いでやるといったご都合主義のところがありますし、黙殺と中傷という飛び道具も抱えていますから。―たとえば、神無月選手の高校時代のフィルムはほとんど残っておりません。北の怪物とまで呼ばれた人物の活躍ぶりが映像記録に残っていないんです。野球では無名の高校の一選手が、どれほど異様な記録を残しても、私たちマスコミの心にはどこか侮っているところがあります。注目するのは常に甲子園です。いわゆるメジャーというやつですね」
 三宅が、
「甲子園は、チーム力のすぐれた高校が出場するのであって、個人的なパワーのある選手とはほとんど関係していません。中にはすぐれた個人もおりますが、きわめてまれであって、プロで活躍するほどの人物が見つかることはめったにありません。そういう人物は世間の片隅で、チームから浮き上がった存在として異彩を放っています。個人に注目するのは一般の人びとの好みではないので、一般を代表するマスコミが注目することはありません。金田、中西、稲尾、野村、小山、山内、長嶋、村山、江藤、中、張本、江夏、すべて高校時代に異彩を放ちながら無名に甘んじて活躍していた天才ばかりです。甲子園組で騒がれてものになったプロ野球選手は、両手の指で指で数えられるくらいじゃないでしょうか。風聞に惑わされずに見抜く慧眼こそプロスカウトの誇りです。誇りという名の船がプロ野球の港から大むかしに出帆したきりになっている。すべからく誇りの船はプロ野球の港に帰帆すべし。中日ドラゴンズは高校時代から神無月選手に目をつけていました。野球を休止していた名古屋西高時代にスカウトにいっています。プロの誇りを忘れていなかったんです」
 千佳子と睦子はうれしそうに手を握り合った。野間が、
「神無月選手のマスコミ嫌いは徹底しています。プロ野球界にそんな選手は一人もおりません。優勝したあとでさえ、水原監督やチームメイトといっしょにスタジオにきていただけるかどうか心もとないものがあります。私たちは彼の活躍する姿を、現場で見るか、日々のニュースフィルムで見るしかないわけです。これは別段、神無月選手が奇をてらってマスコミを好まないふりをしているのでないという点に、解決困難なものを感じます」
 高峰が、
「有名とか権威といったものを、彼が生理的に嫌っているということですよね。よくわかります。その二つに縛られると、人間は自由でなくなりますもの。神無月選手は私たちとちがって、有名であるための、また権威的存在であるための不自由を生甲斐にするような人種ではないということです。生まれながらの自由人なんですよ。天馬ですね。私たちのような、視聴率イノチのテレビメディアにとって、それはたしかに不都合なことですけれど、活字媒体にはかなり率直に応えてくれますし、こうしてニュースフィルムにも収めさせてもらえるし、国民の英雄として公の電波に乗せられないという厄介な問題は、これまで一度も生じていないと言っていいんじゃないかしら。スタジオに呼べないくらいのこと、長い目で見てがまんしなくては。それより何より、あれほど純朴な人に不信感を与えるマスコミの体質こそ改善すべきだと思います。ところで三宅さん、高校時代の神無月選手に注目していましたか」
「注目していました。フロントにも進言しましたが、全国区でないということで見切られました。ほかのチームも注目していたと思います。専門人でないフロントは、選手の才能を見極められません。監督、コーチ、スカウト一丸になって押し切る覚悟がなければ、ダイヤモンドは拾えません。もっとマスコミが騒いでくれていれば、球団上層部も一考したと思います。騒ぎ出したのは、東大が快進撃をしはじめたあたりからです。それでも、ドラゴンズを除いた各球団フロントは、神無月獲得に積極的でなかったと記憶しています」
「なぜでしょう」
「神無月選手の庶民性のなさです。孤高な、超然とした雰囲気がありました。長嶋選手とは正反対です。マスコミ嫌いという評判もよくなかった。球団経営も人気商売の要素が大きいですから、客寄せができないと予想されると、獲得に弱腰になります。しかし、孤高な神秘性にも庶民が絶大な反応をするという点が見落とされていました。しかも、神無月選手はこの上ない包容力の持ち主でもありました。ユーモアあり、深い同情心もあり、思い定めた人物を守るための激しい正義感もある人物だということがわかったんです。人びとは彼の一連の行動に感動しました。そして記録破りの大ホームランときては、熱狂的なファンになるのもあたりまえです。彼のいく球場は連日超満員です。ドラゴンズ以外のチームは大魚を逃がしました」
 店中が大拍手に満たされた。
「川上監督の態度もその口惜しさから出ていると思ってよろしいでしょうか」
「あれは球団の利益を度外視した個人的なものです。川上監督は純粋に神無月選手が嫌いなんです。川上監督はヒエラルキーの権威を尊重しない人間を毛嫌いしますから。巨人軍の選手たちはちがうと思いますよ。偏見のない野球人なら、かならず神無月選手を尊敬します」
「きょうはいろいろと有意義なお話、ありがとうございました」
「どういたしまして」
コーヒーを飲み終わり、客たちの拍手の中、メイ子に金を払って出た。睦子が、
「わかってくれてる人がいて、とってもうれしい」
 千佳子が、
「神無月くんの面倒くさがりは見抜かれないのね。有名になることより、面倒くさいほうが優先」
「引っ張り回されなければ、有名税なんて面倒なものは払わなくてすみます。引っ張り回されてたら静かに暮らせないし、好きなことができません」
 二人が両側から腕をギュッと握った。
「ぼくについては答えを探さないでね。ぼくも探してないから。いまから睦子の誕生日のプレゼントを買いにいくよ。何がほしい?」
 微笑しながら黙っているので、
「月並みだけど、ハンドバッグと靴にしよう。名鉄百貨店の一階だ」
 睦子が私の腕をもっと強く握って喜びを表した。千佳子が、
「ハンドバッグは大阪の岩佐のがいいわよ。靴は神戸のカワノ。いつかほしいなって思って、ときどき名鉄にいってたの」 
「十二月二十日には千佳子にもプレゼントするね」
「ほんとですか、うれしい!」


         百十一

 名鉄百貨店へいき、まず靴のコーナーに回る。千佳子が、
「これが、カワノの婦人靴よ」
 睦子はローヒールのコーナーにたたずみ、丹念に品定めを始めた。彼女は候補を二足選び出し、私に選んでほしいと言って、ローファー一足と、フックで留めるローヒール一足を示した。どちらも焦茶の牛革だった。私はローファーを指差した。
「こちらは値段が倍もするんです」
「造りがしっかりしてるからだよ」
 一万四千六百円。千佳子が鼻を近づけた。
「いいにおい。底も牛革よ」
 さっそく買う。店員が上気した顔で応対し、デパートの客たちが遠回しに私たちを見つめている。シャッターの音が聞こえる。睦子はブランドの紙袋を受け取り、浮きうきとバッグのコーナーに移動する。二人の女の大きな胸が揺れる。何人かの店員が私に気づいてしばらく凝視していたが、客たちは物色に夢中なふりをしてチラチラ見るだけだ。
「バッグは抱えるものより、腕に提げるものがいいよ。女らしい」
「はい」
 すばらしい品揃えだった。私はすぐに黒革のシンプルなものが気に入ったが、睦子は今度はかなり時間をかけた。歩いて回る。コーナーの店員や客たちが私を見て、ひそひそ囁き合っている。睦子はついに一つのバッグの前で立ち止まり、動かなくなった。最初に私が気に入ったバッグだった。三万八百円。高価な値段に逡巡している。
「それだね! 腕に提げてみて」
 千佳子が、
「わあ、似合う。すてき」
 においをかぐ。
「これも牛革よ。いいにおい」
「でも―」
「これください!」
 有無を言わさず奪い取って、店員に差し出す。
「お買い上げありがとうございます。創業四十年、老舗の岩佐が手がけた確かな逸品でございます。専門の職人が丁寧に作り上げました。フォーマルな冠婚葬祭から、ちょっとしたお出かけ、レジャーまで、どんなTPOにも合わせてお使いいただけます。収納力も抜群でございます」
 四時。もう直人がとっくに帰っている。一日の終わりにかならず心に浮かぶ面影。ふと浮かべて喜びや安らぎが訪れるような面影など、私の周りにはほかに一つもない。睦子は二つ目のブランド袋を提げ、紅潮した頬で表の通りへ出る。
「うれしい?」
「もう、どう言っていいか」
「何も言わなくていいよ。子供の好きなお菓子は?」
 千佳子は少し考え、
「ドーナツ、バウムクーヘン、ロールケーキ」
 睦子が笑い、
「それ、私たちが好きなお菓子でしょう。シュークリームじゃないかな」
「ぜんぶ買っていこう」
 太閤口のアカギというパーラーで、四種類ぜんぶ買った。ロールケーキはフルーツと抹茶を買った。揚々と北村席に帰る。やはり直人が座敷で走り回っていた。睦子と千佳子はさっそく居間へいって報告をする。私は座敷に声をかける。
「直人、シュークリーム買ってきたぞ。みなさんもロールケーキをどうぞ。ドーナツもバウムクーヘンもあります。食事前だから食べすぎないように。ソテツ、皿に分けてみんなに出してあげて」
「はーい」
 直人が居間にバタバタ駆けこんでくる。手につかんだシュークリームにかぶりつく。トモヨさんが、
「こらこら、お行儀悪いわよ。ちゃんとお坐りして」
 女将が紙袋から靴とバッグを取り出して、
「神無月さんらしいわ。サプライズにせんと、直接お店に連れてって買ってあげるなんて」
 睦子が、
「そうしてもらったことがサプライズです」
 ソテツと菅野がバッグや靴を手にとって眺めている。
「こりゃ、相当な高級品ですね」
 千佳子が、
「合わせて五万ウン千円。私は十二月のお楽しみ。ムッちゃんもいっしょにいってね」
「うん」
「ソテツは十八歳の誕生日からプレゼントするからね」
「はい。楽しみです!」
 ソテツとイネが座敷に皿を運んでいく。
「厨房にもあげて。たっぷり買ってきたから」
 主人が、
「三時のあなた、観ましたよ」
「ぼくたちもアイリスで偶然観ました」
「三宅コーチの気持ちが、球界全体の気持ちやな。神無月さんに包容力があるゆうことをちゃんとわかっとる。甲子園遠征で神無月さんが留守のときに、素子やキッコとじっくり話した。神無月さんはぜんぜんむかしのことを訊かん、いつまでもいっしょにいよう、そればかり言うってな。ワシは言ってやりましたよ。おまえらが過去に何をやって、どんな人生を送ってきたか、そんなことは自分にいっさい関係ない、いまが幸せならばそれを長つづきさせることに全力を注ぐ、それ以上の何がある、神無月さんはそう思っとる。神無月さんはふつうの感覚の人やない。歌の文句やないけど、人の過去などほんとうに知りとうないんや。神無月さんが自分のむかしをようしゃべるのは、過去を知りたいのがふつうの人間の心やとわかっとるからや。それと、自分を大きく見てくれるなと言いたいからや。大きく見られると申しわけない気持ちになって、幸せな気分が長つづきせんからな。そう話してやりましたわ」
 トモヨさんが、
「最初に抱いてもらったときに、私は自分の過去の話を問わず語りに話しました。お義父さんのおっしゃるように、郷くんは知りたいわけでもないのに、真剣に聞いてくれました。むかし話を地図のように頭に入れてるようでした。そんなふうに聞いてもらうと、もう二度と話さなくてすむようになるんです。話さなくても、その地図でこちらのことをぜんぶ理解してくれてるとわかりますから。郷くんは一度聞けば二度と聞こうとしません。もちろんむかしのことなんか話したくなければ、最初から話さなくてもいいんです。余分な地図を描く手間がいりませんし、もともといまのその人だけが郷くんにとって重要なわけですから」
 千佳子が、
「人と自分のあるがままの現在をそのまま受け入れて、水のようにいっしょに流れる。神無月くんの人生はそういう人生。いいなあ」
 菅野が、
「むかし話が、現在の調味料になるだけということですね。振りかけたくないなら、かけなくてもいい。そういう〈いまだけの人生〉もあるというのがすばらしい。このごろ川上監督の過去のことをよく聞いてきたのは、調味料で少しでもいい味にしたかったんでしょうね。ますますひどい味になっちゃったけど」
 主人が、
「そうか、そいつの現在に不満があると、過去のいいところを探したくなるんやな。現在のそいつに満足しとるときは、いっさい過去など関心がないわけや。ふつうの人間は、現在に満足しとっても過去にこだわったりするもんやけどな」
 睦子が、
「人の過去をほじくってみたり、神無月さんみたいに謙虚さからじゃなく、つまらない罪悪感から自分の過去を暴露してみたり、そんなことばかりしてる人が多いですよね」
 私は、
「さあ、睦子の誕生日のバックグラウンドを流そう。夕食の準備をしているあいだに、ぼくは一曲唄います」
「よう!」
 主人の声を座敷の拍手が追いかけた。千佳子がダウンライトを点けにいく。
「森進一、ひとり酒場で。バックグラウンドのつもりで唄うので、拍手もかけ声もなしでね。無視してください」
 私がスツールに腰を下ろして、歌詞の画面を見ると、千佳子が機械のスイッチを入れた。抒情的な短い前奏が流れ出す。すぐに唄う。

  広い東京にただ独り
  泣いているよな夜がくる

「ホォォ……」
 という主人のため息が漏れた。

  両手で包むグラスにも
  浮かぶいとしい面影よ
  夜の銀座で飲む酒は
  なぜか身にしむ 胸にしむ

  嘘で終わった恋なんか
  捨てて忘れてしまいたい
  男の意地も思い出も
  流せ無情のネオン川
  夜の銀座で飲む酒は
  なぜか身にしむ 胸にしむ

  暗い東京の酒場でも
  夢があるから酔いにくる
  今夜はとてもさびしいと
  そっとあのこが言っていた
  夜の銀座で飲む酒は
  なぜか身にしむ 胸にしむ

 いつのまにか店の女たちがステージの前に集まり、涙を流していた。彼女たちに混じって坐っている睦子を呼び寄せた。
「睦子、二十歳の誕生日、おめでとう」
「はい……」
「キスして」
 抱きついて唇を合わせる。涙で頬が濡れていた。直人を抱いたトモヨさんがいちばん前に坐っている。やっぱり泣いている。
「次、江利チエミ、新妻に捧げる歌」
 千佳子が頬を拭いながら、曲を切り替える。ドラマチックな前奏が流れ出し、今度は私の涙腺が危うくなる。

  幸せを求めて 二人の心は
  寄り添い結び合う 愛のともしび
  悲しみを慰め 喜びを分かち合い
  二人で歌う愛の歌 
  ララララ ララララ ララララ ララララ 

 とうとう涙が流れ出した。長い間奏のあいだに指でこそぐ。あたりから嗚咽が聞こえてくる。

  幸せを夢見て 二人の心は
  手を取り触れ合って 愛のゆりかご
  悲しみはひそやかに 喜びは大らかに
  二人で歌う愛の歌
  ララララ ララララ ララララ ララララ
  ララララ ララララ ララララ ララララ

 明るく、悲しく、悶えるような後奏。涙があふれ出して止まらない。直人が泣き顔で寄ってきた。
「おとうちゃん、だいすき」
 抱き締めてやる。睦子が、
「直人くんにも、おとうちゃんのやさしさがわかるのね」
 菅野が、
「神無月さん、本人が泣いたら反則だよ! 輪をかけて泣けちゃうじゃないの」
 エプロンをした賄いたちが涙顔で菅野の後ろに控えていた。


         百十二

 主人が、
「ビール、いくよ! 飲も飲も」
 女たちが大小の包みを睦子に手渡す。食卓に大鉢、小鉢、大皿、小皿が運びこまれる。 カズちゃんたちが帰ってきた。めいめいバッグからプレゼントを取り出して睦子に手渡す。菅野と千佳子が集まったプレゼントをステージに持っていって小山にした。
「ほんとにありがとうございます。うれしくてどうにかなりそうです」
 カズちゃんが、
「そのままでいてね、いつまでも」
「はい、死ぬまでこの睦子です。もう神無月さんからプレゼントをいただきました。牛革のハンドバッグと、ローファです」
「よかったわね。両方ともちゃんと使いなさいよ。宝の持ち腐れにしないでね」
「はい。歌のプレゼントもいただきました」
「だと思った。みんなの目が赤いから。さ、まずお風呂」
 ドヤドヤと風呂へいく。賄いたちのおさんどんが始まる。トモヨさんが、
「誕生日のケーキは別腹にしましょうね。さっきアオキから大きなのが届いたわ」
 菅野が、
「まったく、北村は美人揃いですね。いつもつくづく思いますよ。素ちゃんとムッちゃんと千佳ちゃんが、うちの美人頭だと思うけど、お嬢さんとトモヨ奥さんと、東京の法子さんのきれいさは、またちょっと別の世界のものですね。あらためて言うのもなんですけど」
 女将が、
「困ってまうほどやね。よう顔が似とるしな。和子とトモヨとムッちゃんはそっくりな日本人形やろ。素子と千鶴と千佳ちゃんとイネ、それから東京の法子さんは西洋人形のきれいさや」
 主人が、
「キッコと天童ちゃんもきれいやで。あとは節子さんやな。彼女の猫目は相当なものやろ。とにかく芸能人顔負けや」
 百江が主人に、
「ほかの私たちは?」
「九十点。みんな並をはるかに越えとる。神無月さんは面食いやなあ」
 菅野が、
「野球選手はほとんど芸能人と付き合いますけど、北村席の豪華メンバーに比べたらずっと格下ですよ。神無月さんが芸能界なんか見向きもしない理由がよくわかります。もちろん理由はそれだけじゃないですけどね」
 私は、
「江藤さんや小野さんたちも北村席の女性たちを褒めちぎってました。しかし見れば見るほど、ほんとに美人揃いだ」
 ソテツが、
「他人ごとみたいなことを言って。ぜんぶ神無月さんの女でしょ。私も九十点ですからね」
 菅野が、
「そりゃ社長の同情票だ。眉の手入れとか、化粧の仕方をトモヨ奥さんに教えてもらったほうがいい」
 ソテツはバンと菅野の背中を叩いた。女将がホホホホと笑う。
「あんたもキクエさんもきれいやよ。ほんときれいになったわ。最初のころは神無月さんが気の毒やったもの」
 箸が動きだす。女将の膝に乗った直人に、スプーンとフォークが与えられる。主人が菅野にビールをつがれながら、
「吉沢さん、どうなりました。きのうはええホームラン打ちましたなあ」
「田宮コーチが水原監督に、吉沢さんをコーチで残留させるよう進言しました。監督が二軍のバッテリーコーチを勧めると、信じられない顔で引き受けました」
「よかったなあ。これであの女房ともうまくいくやろ」
 私はそう思わなかった。もっと根深い人間的な齟齬を感じた。カズちゃんたちが戻ってきて、食卓についた。素子がトモヨさんに、
「注文しといたアオキのケーキ届いたん?」
「はい、三十人分ぐらいカットできる大きいケーキです」
「うちらはケーキ作れんから、外注するしかないわ。アイリスの店用のケーキはアオキから納れてるんよ。一切れ直ちゃんに残しといてね」
「はい。ムッちゃんは二十歳……十一月に私は四十歳。それなのに、あんまり生きてきた感じがしないの。不思議」
 カズちゃんが、
「生まれ変わってまだ日が浅いからよ。ここにいる女はみんな、キョウちゃんに遇ってから人生が始まったの。それまでは、なかったもいっしょ。だから私は十歳。あなたたちは四、五歳。一歳になってない人たちもたくさんいるでしょう。生まれ変わった女の中では私が一番年上よ。男では―」
 睦子が、
「神無月さんが二十歳で一番年上。ほかの男の人は四、五歳未満」
「そう、キョウちゃんに比べればみんな若いわ。自分の成長していく姿を見せてあげなくちゃ」
 直人がスプーンを取り落として、コックリを始めた。
「キョウちゃんの分身はもうすぐ二歳。童貞を失うのは何歳かしら。そのときまで私たち元気でいたいわね」
 主人が、
「いちばん年寄りが十歳なら、元気でいるに決まっとるやろが。直人のやつ、神無月さんの歌を聴いて泣いとった。腰が抜けた」
 カズちゃんが、
「歌というより、おとうちゃんの涙を見たからよ。すごい感受性ね。いろいろな経験をさせてあげないと。いいことも悪いことも。おとうちゃんに感動するのはずっとあとでいいんだから」
 直人が眠りこんだ。思わず髪をさする。私はこの子を愛している。なぜ?
 ―父親だから?
 いや、新しい存在の誕生の奇跡に感動しないではいられないからだ。この子が生れたときから、私はこの子に夢中だったということだ。奇跡を経験するたびに、私はいよいよ敏感になり、愛情が深まる。人間は肉体が成長して大人になり、精神が濃やかになり、責任を感じる存在になる。しかし、そんな人間一般の摂理にかまけて自分の心に枷をはめることはできない。愛したい人を愛したいように愛するだけだ。トモヨさんが直人を抱いて立ち上がり、
「寝かせてきます」
 和洋中の料理が平らげられようとしている。かよいの賄いたちが座敷の奥の別の食卓についた。食事をいただいて帰るのだ。彼女たちとは笑顔で見合うだけで、これほどそばにいるのに知り合いにはなれない。これからも知り合えないだろう。まともな生活の中へ帰っていく人たちだからだ。とっくにまともを捨てているトルコの女たちとも知り合えないだろう。異次元の心のシステムの中で暮らしているからだ。
 大きな円盤ケーキがテーブルに載った。二十本の小さな蝋燭が立ててある。火が点けられ、部屋の明かりが消された。ハッピーバースデイの合唱。歌が止み、睦子の弱い息が何度かに分けて蝋燭を懸命に吹き消す。拍手。灯りが戻る。ソテツとメイ子のナイフでケーキが切り分けられ、座にいる全員に配られる。
 ―六月十九日に三十二歳になるメイ子には何を贈ろうか。化粧品?
 睦子にいちばん大きく、主人夫婦、私、菅野、千佳子、カズちゃん、素子、メイ子、百江、天童、丸、キッコ、ソテツ、メイ子、遅番で出ている以外の女四人、賄いたち、それから戻ってきたトモヨさんに小さく。二十人。文江さんと節子とキクエはいない。だいぶ残っているのは直人の分と、遅く帰ってくる女たちの分だ。私といっしょに暮らしている人びと。浅瀬に見える淵。するべきことは、少しだけ強く足を踏み出して淵のほうへ進むことだ。進み、淵に足をとられ、流される。力強く、ときにやさしい、抗えない力の方向へ。
 玄関で電話が鳴った。厨房にいた賄いの一人が受け、すぐ座敷にやってきた。
「横山さんというかたから神無月さんにお電話です」
 私は立っていき、多少のなつかしさを覚えながら受話器を握った。明るい声が耳に飛びこんでくる。
「よう、元気か。いま鹿児島だ。仲間たちと旅して回ってる」
「信徒たちとだろ」
「……教えてくれ」
 前置き抜きでいきなり切り出してくる。
「何?」
「おまえ、東大で場ちがいと感じたか」
「ああ、初めはね。頭の良さとか身分をひけらかす学生や教授も大勢いるから……その自信過剰に食傷した」
「うん、うん」
 あわただしく返事をする。
「でも、野球グランドに入って思った。これがぼくの場所だ、ぼくの世界だって」
「北村席はどうだ」
「やっぱりぼくの世界だ。……グランドと、北村席以外を場ちがいに感じる」
「……それを聞いて、問題がわかったよ。おまえは人と何も変わらない。好かれることが好きなんだ。……俺の世界はおまえが〈以外〉と切り捨てる場所だけだ。笑いたきゃ笑え」
「なにも笑ってないよ」
「いいから聞け、大事な話だ。電話を切るな、五分でいい」
「わかった」
「俺は勝ち負けが気になる。おまえには関係ないだろうが、いまいる仲間の頭目と言えば俺だ。俺こそ、こいつらの監督役さ。おまえはおまえの世界で好かれてる。しかし、俺も俺の世界で好かれてる。俺の世界のやつらはおまえに会っても、おまえを好きにならないだろう。理由は何だと思う? やつらは俺の中に自分を見るからだ。子供のころのメンコの勝ち負けや、恋のさやあてを思い出すんだ。しかし、おまえを見ると不安になる。敗北や引き分けを泰然として、まるで勝利のように祝える人間は不安のもとだ。じつはおまえの身近な世界にも、こいつらと同じ人種はいる。強い態度を好む人種がな。そいつらがおまえの周囲の騒ぎのもとだ。おまえに自分の未来を託せないと思うからだ。俺は未来を託せると思われてる。だから、俺はこれからおまえなしでもうまくやっていける。強い態度が好かれるんだ」
「強い態度をとってるのか」
「ああ、川上監督のようにな。だが、おまえの態度は……問題を引き起こすだけだ。以上だよ」
「……死んだほうがいいと思うか」
「俺の世界では死んでるから、その必要はない。おまえは超絶な天才だし、おまえの世界で生きる価値がある。そっちの世界で死のうとしたら、人非人だ」
「―脅してるのか、よしのり」
 鼻をすする音がした。
「俺がおまえを? 死ぬほど好きなおまえを脅す?」
 私は黙った。
「それじゃな。おまえの世界に紛れこんでる俺たちに負けるな」
 電話が切れた。食卓に戻ると千佳子が、
「横山さん、何だって?」
「いろいろな妨害に負けずに野球をやっていけって」
 カズちゃんが、
「ちがうでしょ? お別れを言ったんでしょ。安住の地を見つけたからって。でも強がりよ。あの人にはキョウちゃんしかないの。長い目で見てあげて」
「うん」
 私はケーキにフォークを立てた。睦子が、
「人を愛する心は自由だと思います。心の奥にある想いは、だれにも消せません。横山さんの折々の行動に惑わされずに、横山さんに愛されるままでいてください」
 私の世界。愛情という名の、感激と慈愛に満ちた世界。死ねばこの世界の結末を見られない。しかし、早いうちに命を断ち切ろうという誘惑は絶えずある。結末を見れば、すべてがわかってしまって退屈だからだ。でも、感激と慈愛に裏打ちされた愛情に退屈するとは思えない。真剣に生き延びよう。





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