百十三

 六月十日火曜日。則武で八時起床。シャワーを終えたころにはカズちゃんとメイ子の姿はなし。キッチンパラソルもなし。そのほうが気楽。冷えた惣菜は食いたくない。
 快晴。十九・九度。三十度まで上がりそうだ。ひさしぶりに菅野と朝のランニングに出る。西高まで走り、花屋に寄る。
「神無月さん! 薄情じゃないですか、何カ月になります? 菅野さんも同罪ですよ」
 マスターが厨房から顔を覗かせ大喜びする。
「おお! 神無月!」
「ホンモノだ!」
 客が椅子を鳴らしてざわめき、しきりに握手を求めてくる。
「雰囲気あるなあ」
「ええからだしとるわ」
「貫禄あるゥ」
 モーニング目当ての客で立てこんでいるので、相席になった。隣り合った中年客がドギマギして尻をずらしながら、私に手を差し出す。握手する。マスターが、
「このところたいへんでしたな。やっと落ち着いた感じですか。おい、ソーダ水」
「はーい」
 女将が華やいだ声を上げ、婆さんといっしょに厨房に入った。板壁を見ると、私のサインを中心に、新しい写真が整理されて貼ってあった。古い写真や記事は何冊かのアルバムにまとめて、店内の隅の本立てに並べられていた。短冊のように店内を巡っていた品書きは取り外され、各テーブルにメニュー帳が載っている。開くと、大好評・金太郎スタミナ丼という手書きの装飾文字が目に入った。ソファの背中を接している客が、
「連勝に継ぐ連勝ですね」
「はい。この先どうなるかわかりません。安心してはいけない」
 お婆さんがソーダ水を二つ持ってきて、
「ようホームラン打ちますね。ホームランはお手のものなんですか」
「いや、難しいです。打ち返すには、一球ごとのイメージが必要です」
 隣の客が、
「神無月さんのバッティングは芸術です。鑑賞品ですね」
 壁の写真を指差す。ほかの客が、
「浜野が巨人で苦労してるみたいですよ」
「求めていったチームですから、苦も楽のうちでしょう。浜野さんは、人が信頼し合ったり愛し合ったりすることを甘えと受け取る人です。信頼も愛もなく、ひたすら闘争で苦労することこそ彼の本道なんじゃないでしょうか」
 ストローを外してコップから直接ソーダ水を飲む。菅野が、
「いくら苦労しても、投げさせてもらえないんじゃね。乞われてのトレードじゃないですからそうなる。そろそろドラゴンズを出てったことを後悔してるでしょう」
 客の一人が、
「無償トレードって言われてますよね。中日が浜野をタダでくれてやったわけでしょう」
 菅野は、
「巨人からの金を中日が断って、浜野の土産金にしました。実質引き取ってもらったわけですから当然でしょう」
 またほかの客が、
「神無月さんはチームメイトにかわいがられてますか」
「異常なほどかわいがられてます。練習嫌いというのがデマだとわかったことが大きいです。彼らは努力家を非常に好みます」
 マスターが、
「オールスターのセリーグ監督が川上だから、神無月さんが出場辞退するかもしれないという噂がありますよ」
「それができないんです。それをやっちゃうと、後半戦十試合出場停止という罰則があるんです。オールスター後のペナントレースは熾烈になりますから、一つの黒星で優勝戦線から脱落しかねない可能性があります。そこで十試合出られないのは痛い」
「せっかくのオールスター、神無月さんを一打席で引っこめてしまったら、川上はまた叩かれるね。出すなら三試合とも出ずっぱりじゃなきゃ」
 女房が、
「今年のファン投票の結果は出たの?」
 後ろのテーブルの客が、
「とっくに。セリーグは神無月さんが、パリーグは長池がナンバーワンだ。神無月さんは百二十三万票、長池十二万票。セリーグの二位は長嶋の十三万票、パリーグの二位は土井正博の八万六千票。差がついたなんてもんじゃない、国民の百人に一人が神無月さんに投票したことになる」
「たしかに一、二打席で引っこめたら天誅ものだわ」
「西高の軟式野球、どうなってます」
「鳴かず飛ばずですね。ベストエイトの話すら聞きません。神無月さんの顕彰碑が泣いてますよ」
 菅野が、
「神無月さんが通り過ぎた跡は、どこも荒地になるんですよ。神無月さんとリアルタイムで生きてるあいだだけの栄華か。千年小学校、宮中学校、青森高校、名古屋西高校、東大」
 マスターが、
「ドラゴンズも! くわばら、くわばら」
「じゃ、このまま走って帰りますので。また」
 いっせいに拍手。
「がんばってください!」
「応援してます!」
「巨人にだけは負けんでください!」
 菅野がきちんと支払いをした。
 花屋前の美濃路を歩いて市電通りに出、押切北の信号を右折してから走りだす。
「三原近鉄が六月一日まで十二連勝です。それから三連敗して二連勝。日本シリーズは近鉄になるかもしれませんね」
「鈴木啓示ですか」
「はい。開幕当初の九連敗が最終的に響くかも。バッキーの不調もね」
「きょう観にくるのは?」
「社長と私です。それとアイリスの店員一人。当分そのメンバーです」
「落ち着いてきたましたね」
 押切のだだっ広い信号を渡る。
「……巨人初代監督の藤本定義って知ってますか」
「阪神の監督だったころは知ってます。去年までやってましたね。藤本さんがどうかしたんですか」
「巨人軍の歴代監督勝率ナンバーワンで、七割一分五厘もあるんです。二位は六割三分八厘の水原監督、三位は六割の三原監督です。ほかの監督はみな五割台です」
「なるほど―」
「つまり、えらぶってみても口ほどにもないということです。藤本監督はマスコミ嫌いでしてね。知っている記者だけにしゃべるのがいちばんいい、というのが口癖でした。根性のある野球人はおミズと江夏と神無月だけだと、今月の報知新聞に書いてました。おととしからずっと、川上と不仲です」
「どういうことですか」
「川上が去年のオールスターで新人の江夏を三連投させたんですよ。オールスター三連投は前代未聞です。投手がいないならまだしも、巨人の金田も城之内も、菅原も初戦に一回投げただけで引っこめ、江夏には投球練習さえさせてなかったんです。阪神は巨人とペナントレースを競ってましたからね。江夏を潰しにかかったんですよ。藤本さんはかつての部下の川上に江夏がいいようにされたと考えて、オールスター明けの巨人戦の試合前に川上を阪神ベンチに呼び出して、『おい哲、ユタカを乱暴に使いやがって! このバカヤロウ!』とものすごい剣幕で叱りつけたんです。川上は直立不動のまま何も言えませんでした。江夏は心底衝撃を受けたと言ってます。藤本さんはその三連戦、二勝一敗と勝ち越しました。一勝は江夏です。『哲の姑息な手でつぶれる江夏ではない』と巨人の番記者に語ったことは有名です」
「すばらしい人ですね。いま何歳ですか」
「六十五歳です。報知新聞の評論家をしてます」
「川上監督のことは、もう過ぎ去った風景にして忘れることにします。……西高の軟式野球部、一度見にいかないとね」
「神無月さん、そんなことまで気にしてたら、からだがいくつあっても足りませんよ」
「そっか。騒ぎになっちゃうしね。さあ、天ぷらきしめんだ」
「またですか」
「大好物なんだ。それが食えないと思うだけで、名古屋を離れるのがつらくなる」
「離れる予定があるんですか」
「一生離れない。遠征のことです」
「脅かさないでくださいよ」
「きょうの試合の帰り、餃子とラーメン食いましょう」
「いいですね。どこか飛びこみで入りますか」
「はい。きょうはその足で則武に戻ります」
「了解です。六時半開始なら、九時ぐらいに試合は終わるでしょう。ラーメン食べても十時には帰れます」
 北村に戻ってそのことをトモヨさんに告げると、
「わかりました。夕食は用意しませんね。お義父さんは?」
「ワシもいい。あ、神無月さん、ファン投票の結果が―」
「さっき花屋で聞きました。うれしいです」
「東京球場、甲子園、平和台ですから、応援にいくのは無理ですけど、遠くから活躍を祈ってます」
「それよりきょうの試合が肝心です。巨人の連勝復活に備えてね」
「そう、常に油断しないようにしないと、いつなんどき足もとをすくわれるかわかりませんからね。そうそう、菱川さんが背番号10を4に替える話、ご存知ですか」
「いえ」
「きょう新聞発表されました。オールスター明けからだそうです。もともと10番は、昭和十四年から三十三年まで服部受(つぐ)弘という人がつけていたもので、中日ドラゴンズの永久欠番だったんです」
「投打で活躍した天才選手ですね」
「はい。西沢の15番と服部の10番が永久欠番です。江藤さんが神無月さんに8番を譲って、菱川さんが江藤さんに9番を譲ったとき、いま東京でラジオ解説者をしている服部さんが、菱川は大型新人として入団したころから期待してきた選手なので、五年間の凍結を解いて快く譲りたいと話した経緯があって、菱川さんの背中にくっついたものだったんです。しっかりとレギュラーの地位を確保できていない身であまりにも畏れ多いと、菱川さん本人が球団本部に申し出て、退団したフォックスの4を引き継ぐことになりました。4はもともと杉山悟(さとし)の背番号です。杉山は昭和二十三年から三十四年まで在団しましたが、4をつけていたのは二十六年から三十一年です。二十七年に二十七本塁打でホームラン王になってます」
「ふうん、ぜんぜん知らなかった。たしかに永久欠番は重いですね。これで菱川さんも肩の荷が下りて、ますます活躍するでしょう」
         †
 武上、ロバーツ、福富がケージの後ろに居並んで、私のバッティング練習を見守っている。武上と福富の声が聞こえてくる。
「よくあんなふうに肘を畳めるなァ」
「最短距離でバットが出る。みごとだ」
「スイング速ェ!」
「フォローが大きいなあ」
「何もかも特殊だ。参考にできないぜ」
「二カ月で七十一本だよ。人間業と思えない。でも信じなくちゃいけないんだろうなあ」
「うん、現実だ」
 アトムズのバッティング練習のあいだに選手食堂へいき、腹に溜まるカツ丼を食う。太田が、
「お客さんもそうなんでしょうけど、プロ野球の選手は神無月さんのバッティング練習が始まると、見入ってしまって動きが止まりますね」
「だれでもボールが遠くへ飛ぶのを見たいんだよ。いちばん見たいのはぼくだけど」
 守備練習に入り、きょうはバックホームを一本披露する。満員の観客の吐息が高波になって寄せてくる。スタンドは内外野一塁側も三塁側も、ドラゴンズファン一色だ。ベンチ気温二十九・一度。弱い風。下通の声が流れてくる。
「お待たせいたしました。間もなく中日ドラゴンズ対アトムズ九回戦の試合開始でございます。スターティングメンバーとアンパイアをお知らせいたします。初めに先攻のアトムズ、一番センター大塚、センター大塚、背番号30、二番サード丸山、サード丸山、背番号8、三番セカンド武上、セカンド武上、背番号2、四番ライトロバーツ、ライトロバーツ、背番号5、五番ファースト小淵、ファースト小淵、背番号32、六番レフト福富、レフト福富、背番号34、七番キャッチャー加藤、キャッチャー加藤、背番号27、八番ショート中野、ショート中野、背番号6、九番ピッチャー石戸、ピッチャー石戸、背番号20」
 スタンドが一向に沸かない。
「対しまして後攻のドラゴンズは、一番、センター中、センター中、背番号3……」
 ドワッと球場が沸き立つ。笛が鳴り、旗が振られる。二番セカンド高木、三番ファースト江藤、四番レフト神無月、五番キャッチャー木俣、六番ライト菱川、七番サード葛城、八番ショート一枝、九番ピッチャー田中勉のオーダー。太田がいないが、ほぼ不動のオーダーができあがった感じがする。マウンドに上がった田中勉のボールの伸びはふだんどおりだ。どことなく張り切っていないのが気になる。きょうもどこからマウンドにやってきたのかわからない。
「なお、スタンドに飛びこむボールは非常に危険でございます。試合中の打球のゆくえにはじゅうぶんご注意くださいませ」
 そう言って下通はアナウンスを締めくくった。


         百十四

 六時半、球審山本のプレイのコール。緊張はない。自分のやることは決まっている。守備位置へ走る。
 一回表。先頭打者で出てきたのは、小柄で肥大漢の大塚徹、五年目、めったに試合に出ない守備の人。私と同じ眼鏡をかけた外野手。初球のストレートを見逃し、二球目の切れないカーブをライト前ヒット。きょうの田中はダメだ。二番丸山、初球を犠牲バント、大塚二進。そんなことをすれば田中を生き返らせてしまうぞ。初回、ノーアウト一塁、バント、こういうチームに未来はない。武上三振。ほらね、もうツーアウトだ。ロバーツ、ツーツーから低目のストレートを右中間へ痛打。あら? 大塚生還。一対ゼロ。ラッキー以外の何ものでもない。小淵、ツースリーまで粘るもセンターフライ。おそらくスミ一になる(と思った)。
 一回裏。酒仙石戸の球も走っていない。中日の一方的な攻撃になりそうだ。ここまでホームランを打てなかった試合は九試合。三振二、デッドボールなし。そんなことをぼんやり考える。
 先頭打者中、初球を得意のレフト線二塁打。高木も初球をライト前へクリーンヒット。中還って一対一。たった二球で同点にした。江藤、ワンツーから外角寄りの高目ストレートを引っ張って、左中間中段へ三十号ツーランホームラン。一対三。
 私はワンワンから、内角へ鋭角的に曲がってきたスライダーに詰まったが、どうにかセンター前に落として出塁。五番木俣の初球、いきなり走る。木俣はそれを見て一塁線へセーフティバントをした。小淵ダッシュ、拾って木俣にタッチにいくが、木俣はうまくかわしてセーフ。その間に私は一気に三塁へ滑りこむ。立ち上がると、コーチャーズボックスの水原監督が予想外の機動力野球に手を叩いて喜んでいた。ノーアウト一塁、三塁。
 菱川、レフトへ深いフライを上げ、私が生還して一対四。ワンアウト一塁。葛城、バットの先に引っかけてゆるいライトライナー。ツーアウト一塁。一枝、センター前へゴロで抜ける渋いヒット。ツーアウト一、二塁。田中勉、三遊間を抜こうかというライナーを打つも、中野横っ飛びでキャッチ。二者残塁。
 二回表。六番福富、ツースリーから、センター右横へ三号ソロ。二対四。七番加藤、フォアボール。八番中野、三振。九番石戸、三振。一番大塚、三遊間ヒット。ツーアウト一塁、二塁。二番丸山、ワンツーからセカンドフライ。とにかく野球というゲームはファールボールが多い。私はほとんどファールを打たない。空振りもめったにしない。ただ、ストライク、ボールに関わらず、見逃しは圧倒的に多い。
 二回裏。中、初球の外角高目のストレートを思い切り引っ張ってライト前ヒット。間断なく内外野のスタンドから聞こえていた喚声が意識から消える。大量得点のデジャブ。高木がバッターボックスに向かう。太田の小冊子を借り、だれが内野を守っているかをパンフレットに照らして短い時間で確認する。
 高木初球、石戸の変則横手からの外角スライダーを見逃し、ワンナッシング。
 ファーストずんぐり小淵泰輔。九州人。十三年目、三十四歳。江藤が日鉄二瀬にいたころの三番打者だ。昭和三十三年の日本シリーズのとき西鉄にいた。第五戦の九回裏、長嶋の脇を抜いて同点打を放った。ファールだと長嶋が二出川に猛抗議したあの打球だ。結局稲尾のサヨナラホームランで勝った。その後、中日に三年いて(飯場時代だがまったく記憶にない)、国鉄へ移り、一度三割も打った。以来、コンスタントに二割五分を打つ打者としてそこそこの活躍をしている。
 二球目、外角ストレートを打ってネット裏へファール。
 セカンド武上四郎。ひげの濃い九州人。三年目、二十八歳。百七十センチ、七十三キロと小柄。新人のとき一試合四安打を三回やっている。江夏を抑えて新人王。長打力のついた今年売出し中。もう十一本もホームランを打っている。
 三球目、内角シュート、ボール。
 ショート中野孝征。作新学院で主将をしていた。いまオリオンズにいる八木沢壮六と、亡き加藤斌(たけし)(中日ドラゴンズに入団して二年目に交通事故死した)を擁して甲子園春夏連覇。夏には木俣の中商や伊藤久敏の久留米商とも戦っている。甲子園つながりの選手にとって、プロ野球はちっとも目新しい人生にならない。伊藤久敏は加藤の死の二年後、駒澤大学からドラゴンズに入団している。
 四球目、真ん中低目スライダー、ボール。早打ちの高木がきょうはよくボールを見ている。
 サード丸山完二。国鉄スワローズ以来の生え抜き、八年目二十九歳。丸顔のオッサン。目鼻立ちはいかつい。金田がだれかを敬遠したあと、四度も次打者として立ち、三打数三安打一四球というめずらしい記録で有名だ。バッティング、守備ともに特徴なし。
 喚声の竜巻が戻ってくる。高木ツーツーから内角シュートを打ってヒットエンドラン。当たり損ねのサードゴロの間に、中二進、高木アウト。バントだけの効果になった。私はネクストバッターズサークルに向かった。外野手の確認に移る。
 ライトロバーツ。左打者。パナマ人。私のバッティング練習をじっと見つめていた目がやさしかった。十五年間マイナーとメジャーをいききしたのち、三年前三十四歳で日本にきた。以来、常に王のホームラン王を脅かす存在と言われてきたけれども、本数に大差があった。百八十三センチ八十四キロ。日本文化に詳しく、日本人以上の日本人の評判がある。
 江藤じっくり選んでフォアボール。ワンアウト一、二塁。つづく私は外角カーブを中と同じように引っ張って右中間を割り、中を還した。二対五。ワンアウト二、三塁。二塁ベース上からレフトを見つめる。
 レフト福富邦夫。五年目、二十六歳。左の二割五分打者。私はロバーツの次に買っている。中より十センチも背が高いくせに中ほどの長打力はないが、いい当たりのヒットを飛ばすときのフォロースルーがよく似ている。人気取りの円月殺法の構えがかえってタイミングをとりにくくしている。いただけない。あれをやめれば三割を打てるだろう。
 木俣内角高目のシュートに詰まってサードのファールフライ。菱川、内角低目のストレートを叩いて三遊間を速い球足で抜くヒット。二者生還。二対七。葛城、三塁前へセーフティバントを敢行するも小フライになってアウト。
 三回表。三番武上、ライトへ抜けそうなセカンドゴロ。高木低くジャンプして飛びつき素早く立ち上がって送球、アウト。超美技。大音量の拍手。私もグローブを叩いた。ロバーツ、初球顔の高さのストレート、ライトスタンド中段へライナーで打ちこむ十号ソロ。三対七。小淵フォアボール。福富、ファーストゴロ、3・6・3のダブルプレー。案外田中がもっている。しかし限界がほの見える。
 三回裏。一枝ワンツーから四球目の内角低目のシュートを叩いてセンター前ヒット。
 センター大塚徹。中背、かなり肥満気味。六年目、二十四歳。入団以来ホームランはたった一本。野次将軍の定評を除けば目立った特徴なし。田中勉に代わってピンチヒッター太田。 
「ヨ! タコ、いけ!」
 初球、初球外角低目のスライダーを空振り。一枝盗塁。強肩加藤送球、セーフ。サインなしの自発的なプレイだ。二人でサインを出し合っているようには見えない。
 キャッチャーの確認を忘れていた。加藤俊夫。三年目、二十一歳。百七十八センチ、八十五キロのすばらしいガタイ。日本軽金属から入団。戸板のいる会社だ。去年デンスケ若生から初本塁打。二割五分ちょいの打者。パンフレット確認終了。
 太田、二球目同じ外角低目のスライダーを引っ張って、バックスクリーン左へひさしぶりのホームラン。十三号ツーラン。三対九。中、ツースリーから内角低目スライダーをライト中段に一直線のソロホームラン。
「中選手、第八号のホームランでございます」
 落ち着いた笑顔で水原監督とハイタッチ。三対十。ついにピッチャー交代。酒仙石戸がよろよろとマウンドを降りた。新人サウスポー安木祥二登板。二十一歳の新人なのにアトムズでいちばんのオヤジ面。変則二段モーションからの大きなカーブが武器。
 高木ツーナッシングから大きなカーブを掬い上げてセンターフライ。江藤、初球、同じ大きなカーブの上っ面を叩いてショートゴロ。あのカーブは私にも投げてくる。しかも全球だろう。
 大歓声にまぎれてボックスの最前部にいざり出る。顔のあたりから曲がり落ちてくる一瞬を狙う。初球外角遠くへ落ちるカーブ。ボール。
「さ、一本!」
「さあ、場外!」
 二球目、同じコースへカーブ。左中間をイメージしてレベルスイングをする。バックネットへファールチップ。三球目、しつこく同じコース。屁っぴり腰で強振。レフトポールすれすれに大きなファール。よし、これでもう投げてこない。水原監督、パンパン。
「もう一球きたらいただきだよ!」
「いただきよ!」
 金太郎! 金太郎! の大合唱。四球目、カーブのすっぽ抜けが屈んだ頭の上を通過。まじめそうな安木にだれも怒りの野次を飛ばさない。水原監督も動かない。ネクストバッターズサークルの木俣が、ボール百個ハズレてるぞ! と冗談ぽく叫んだだけだった。ツーツー。次もカーブだろう。私はクモのようにじっと同じ位置で待ち構える。
 五球目、クモの網に向かって顔のあたりに落ちてきた。私は大きなカーブの曲がり鼻を目の高さで削ぐようにかぶせ打った。ベンチの声が弾けた。
「よしいった!」
「よろしい! オッケ!」
 低い打球が伸びていく。白球はカクテル光線にきらめきながらライトポールの先をライナーで巻いた。日動火災の看板に打ち当たった。線審の白手袋がクルクル回る。七十二号ソロホームラン。雨のような拍手と大歓声が溶け合う。森下コーチとハイタッチ、水原監督と両手ロータッチ、尻をポーン。バヤリース。三対十一。
 木俣、〈三振前の大ファール〉を打ったあとに、頭から落ちてくるカーブにヘッドアップして三振。
 四回表。土屋紘(ひろし)が出てきた。びっくりする。
「田中勉(つとむ)に代わりまして、ピッチャー土屋、ピッチャー土屋、背番号26。なお葛城に代わって江藤省三がサードに入ります。七番サード江藤省三、背番号28」
 喚声が静まる。彼らが初めて聞く名前のピッチャーだからだろう。投球練習。それほど緊張した手足の動きではない。尾崎のようなスリークォーター。速球がわずかにお辞儀をするが、重そうだ。手首の使い方はいい。適度に荒れ気味のコントロール。打ちにくそうだ。アトムズベンチから野次が飛ぶ。
「ヘイヘイ、アルバイト坊や、ボール止まってるよ」
「見たことねえなあ、どこの山から下りてきたの」
 無名につけこまれて揶揄されたピッチャーが、動じず、焦らず、淡々と、七番加藤、八番中野、九番安木の下位打線を凡打に打ち取った。外へかわす変化球ピッチングではない、適当に荒れる速球を生かした真ん中主体のピッチングで、すべて内野ゴロに仕留めた。すばらしい一軍デビューだ。土屋はベンチに戻るとすぐに、長谷川コーチと握手した。入団二年先輩の二十五歳の土屋が私にペコリとお辞儀をする。恩義を感じているのだ。お辞儀を返す。新宅が、
「こいつ、駒大で俺の二年後輩。伊藤久敏と同期。デビュー遅れちゃったよなあ」
 長谷川コーチが、
「金太郎さんのお墨付きに恥じないピッチングだったよ」
 四回裏。すでに田中勉の姿がない。シャワーを浴びるついでにとっとと帰ってしまったのだろう。安木はカーブの連投。たまに半速球。打ちやすいことこの上ない。菱川左翼フェンス直撃の二塁打。当たりがホンモノになってきた。土屋、一塁前へバント。菱川三塁へ。一枝左中間を破る二塁打。三対十二。江藤省三セカンドライナー。中レフトフライ。
 アトムズは五回に入って反撃に転じ、土屋を打ちこんだ。大塚がライト線にツーベースを放つと、つづく丸山に代打を出した。痩せた大男城戸。もと西鉄、中西のあとの三塁手だった。初球、キンと乾いた音がし、ファールラインの内側へ痛烈なライナーが飛んでくる。走りながらワンバウンドで捕球し、上半身を回転させてダイレクトのバックホーム。大塚ホームへ突入。木俣わずかに追いタッチ。セーフ。三塁側スタンドの割れんばかりの喚声。木俣が抗議する。私が三塁ベースまで走っていくと、
「足がホームを踏む前に背中に完全タッチだ!」
 という木俣の叫び声が聞こえた。受け入れられない。水原監督はベンチから出てこない。私の目から見てもセーフだった。江藤省三が私に、
「セーフですね」
「はい、セーフでしょう」
「でもあの豪快な返球と木俣さんのきわどいタッチは、アウトにとりたくなるプレーですよ。ブルッときました」
 城戸が二塁ベース上に立っている。四対十二。ノーアウト。守備位置に走り戻る。土屋がうなだれている。そう簡単に問屋は卸してくれない。ここが試練だ。乗り切れ。武上フォアボール。ロバーツ、センター前ヒット。城戸生還、五対十二。ノーアウト一、二塁。小淵に代打が出る。右投げ左打ちの赤井喜代次。ツーナッシングから深いライトフライ。武上三塁へ。ワンアウト一、三塁。当たっている福富、フォアボール。ワンアウト満塁。水原監督は辛抱強く土屋を見守っている。
 中野に代打、これまた右投げ左打ちの無徒志郎。左中間へ大飛球。中が捕球し、武上ホームイン、福富一塁、ロバーツ二塁のまま。六対十二。ツーアウト一、二塁。安木、チョコンと出したバットにボールが当たり、ふらふらとサード後方へ。ぎりぎりフェアグランドに落ち、江藤省三がすぐ抑える。ロバーツホームイン、安木一塁、福富二塁。七対十二。ツーアウト一、二塁。打者一巡して一番大塚。私へ浅いフライを打ち上げて、ようやく攻撃終了。打者一巡で四点ではあまりにも効率が悪い。土屋はガッカリする必要はない。


         百十五
 
 五回裏。高木がサークルの中でバットをブンブン振って派手なデモンストレーションをしたあと、静かに打席に立った。一発狙いだ。安木、バカの一つ覚えの大きなカーブ。顔の高さのクソボール。制球がおかしくなっている。二球目、また大きなカーブ。高木はデモンストレーションのとおりにハッシと叩いた。するどい打球がレフト前にワンバウンドで弾んだ。高木は一塁ベース上で素振りの格好をしながら、打球が上がらなかったことをしきりに訝しんでいる。
 江藤、ツーツーまで一回も振らずに球筋を見きわめ、五球目、少し低目に落ちてきた大きなカーブをごくラクなスイングで掬い上げた。ボールが弾け飛んだ瞬間、ドーとスタンドがざわめいた。打球がレフト上空へピンポン玉になって上昇していく。アトムズの内外野は微動だにしなかった。糸を引く白球が大観衆のひしめくレフトスタンドの看板にガンと当たった。江藤は喜びを押し隠して神妙な顔でダイヤモンドを回る。三塁の水原監督と固く握手。背中をバンと叩かれた。
「江藤選手、三十一号のホームランでございます」
 五十五号が射程に入った。ネクストバッターズサークルを走り出て江藤に抱きつく。みんなで重なるように抱きつき揉みくちゃにする。七対十四。
「ヨホホーイ!」
「取っちゃれ、取っちゃれ!」
 私、レフト前ヒット。きょう四安打の固め打ちだ。木俣、初球をわざとゆるい空振り。私、ありがたく二盗。二球目木俣強振、左中間を真っ二つに破った。私、悠々ホームイン。七対十五。手を抜いてはいけない。これでもういいということはないのだ。菱川、フォアボール。ノーアウト一、二塁。ラジオアナウンサーの興奮した声がいくつも重なって聞こえてくる。何をしゃべっているのかわからない。観客の歓声が止まない。ピッチャー交代。
「アトムズ、安木に代わりまして、ピッチャー渋谷、背番号16」
 渋谷? 知らない。ベンチの太田がネクストバッターズサークルの省三に、
「ノーコンです。デッドボールに気をつけてください!」
 と声を投げた。投球練習を見る。変則モーションからしゃにむに投げこんでくる。速い! 軽く百五十キロは出ている。この左ピッチャーと対戦したっけ? それにしてもなんてひどいコントロールだ。これだけ速いと、とっさによけるのはかなり難しい。太田が私に、
「王のインタビュー記事だと、渋谷は日本最速だそうです。ノーコンなので、デッドボールはほんとに危ないです」
 長谷川コーチがウェイティングサークルに向かって、
「省三、ヘルメットをしっかりかぶって、バッターボックスすれすれに下がって立ってろ」
「はい!」
 プレイ再開。初球、キャッチャーの加藤は、闘将江藤の弟にぶつけるのを危ぶんでか極端に外角に構えた。ギクシャクしたモーションから、異様に速いストレートがふっ飛んでくる。加藤が外角に構えているのに肩口にきた。省三わずかにからだをひねってよける。
 ―こりゃ、まともにくれば美しいストライクだな。
 私はふと思い当たって、
「渋谷って、青森県出身ですか」
 と長谷川コーチに訊くと、
「そうだね、数少ない青森県出身者だ。戦前に二人、戦後に三人。その三人の一人だ」
 葛西さんの主人より情報が詳しい。
「戦後一人目の三浦方義(まさよし)は、五戸高校出身の右腕。巨人でゼロ勝、大映で二十九勝を上げて最多勝投手になった。稲尾に破られるまでパリーグ記録だった。ロッテの成田を育てた男だよ。二人目は八戸高校出身の中島淳一。西鉄で五年やったが、大した成績は挙げられなかった」
 高木が、
「俺がまだ県岐商に入る前、例の清沢忠彦と甲子園の準決勝で投げ合って負けたピッチャーだよ」
「三人目が弘前商業出身の渋谷誠司。高校出てから日通で軟式をやってた。全国大会で活躍して、浦和支社に異動して硬式をやりはじめた。めっぽう球が速いんで、金田二世と騒がれた。三十七年に国鉄に入団して六年目になる。ノーコンで伸び悩んで、毎年五、六勝しか挙げられない」
 渋谷はノーワンから、百四十キロ程度に落としたストレートを三球つづけて、立ちん坊の省三を三振に取った。
「バカもーん、振らんか!」
 兄の叱り声。どこかホッとした響きがある。省三は頭を掻きながらベンチの奥に引っこんだ。ワンアウト一塁、二塁。
 一枝、ノーコンのボールを二つ見逃し、三球目、外角低目にきたカーブを強打した。百四十キロ以上あるカーブなので、ボールの圧力に負けないようにしっかり絞りこんだ。バットの先端に当たった。バットが真っ二つになり、ヘッドが森下コーチ目がけて飛んでいった。ジャンプしてよける。打球はサードの頭上を越え、へんなスライスをしながらレフトの守備位置までいびつに転がっていく。木俣ホームイン、菱川長駆ホームイン。七対十七。九番土屋、一球も振らずに三振。一番中も腰が引けて空振り三振。ベンチ上から怒声が飛ぶ。
「こらァ! フラダンスやっとるんやないぞ。怒涛のドラゴンズらしくせい!」
 六回表。水原監督が球審に近寄り、土屋に代わってピッチャー水谷寿伸を告げる。土屋は二イニング、自責点四の初登板だった。上出来とは言えない。みんなと遠慮がちにタッチしてベンチ奥のトレーナー室に引っこむ。
 休養じゅうぶんの水谷のストレートにキレがある。城戸、ロバーツ、赤井と強気に内角攻めをし、三者連続三振に打ち取った。
 六回裏、相変わらずドラゴンズ選手の腰は引けたままで、高木、胸もとの速球に反り返ってバットの根もとに当てるピッチャーゴロ、江藤、遠く逃げていくシュートを屁っぴり腰で引っ張ってサードゴロ。私はふところへストレート攻めをされて、空振り三振に打ち取られた。開幕以来三つ目の三振だ。
 七回表。守備に就くと、レフトスタンドから、ドスの利いた野次が飛んできた。
「きょうは店じまいか!」
 すぐに呼応する声が上がる。
「いいよ、いいよ、それで。もうきょうはアトムズを勘弁してあげて!」
 もう一波襲ってくるだろうと思って、緊張して守備についていたが、何ごとも起こらなかった。福富三振、加藤ショートフライ、無徒の代打東条サードゴロ。
 七回裏。観客は席を立たない。あちこちからアトムズの野手に向かって飛ぶ野次をつまみに、飲んだり、食ったり、笑い興じたりしている。八時四十分。まだ試合開始から二時間十分しか経っていない。九時半までには試合が終わるだろう。
 木俣の代打に新宅が出た。新宅はどこへくるかわからない速球にこわごわバットを三度繰り出し、空振り三振に切って取られた。菱川はボックスの外枠ギリギリに立ち、見物でもするように見逃し三振をした。一枝も大事をとり、ボックスの後ろに構えた。一球ファールチップをしただけで見逃し三振をした。六者連続三振。点差が開いたまま、とつぜん退屈な投手戦に切り替わり、スタンドのざわめきが退屈そうな吐息に変わった。八年目のベテラン渋谷が、中日ファンに速球の威力を見せつけている。このままだと、速い荒れ球しか特技のない男に自信を持たせてしまう。
 八回表。東条の代打倉島、センターフライ。渋谷、キャッチャーフライ。大塚、私の定位置へのフライ。水谷寿伸はすべて内角の速球で打ち取った。
 八回裏。最後の攻撃。
 土屋、めくら振りで三振。
「中さん、お得意さんにならないよう一発かましてください。調子に乗ってます。最後までうちの野球をやりましょう」
「よし、まかしとけ! 当たり屋やってやる」
 田宮コーチが、
「このままやられちゃ、夏以降に響く。三点もぎ取れ!」
 初球、腰のあたりに荒れ球がきた。中はクルリと背中を向けて、ボールを尻に当てた。
「テイクワンベース!」
 尻をさすりながら一塁へ走る。背中が笑っていた。スタンドから声援が飛んでくる。
「高木、中を見殺しにすな! 最後の一発見せてくれえ!」
 吐息から一転して圧力を増した歓声の中、高木がバッターボックスに入る。初球、顔に向かってカーブがきた。まともにぶつかるわけにいかないので、高木はひょいと頭を下げてかすらせるデッドボールを狙った。目測が少し狂ったのか、ヘルメットにかすらなかった。ベンチがスワッと色めき立ったが、ノーコンだとわかっているので飛び出すことはしない。二球目、腰のあたりにまたカーブが曲がってきた。腹を引いた。当たらず、すれすれに通り抜ける。必死のコンビネーションだろう。スリークォーターからのカーブなので、右バッターには見切られる。とにかくとつぜんやってくる直球が厄介だ。ここで打たないと中日戦にはかならずこのピッチャーをぶつけられる。ホームランは要らない。連打。三球目、加藤が外角に寄って低く構えた。渋谷は一塁上の中を眺めやり、セットポジションからギクシャク動き、スリークォーターの腕を畳んで伸ばす。快速球! ストレートがナチュラルシュートをして真ん中、スネの高さにきた。高木は狂いなく芯を食わせる。ビシャ! ギュンと左中間に伸びる。
「利ちゃん、ゴー!」
 高木は声をかけながら先輩の背中を追って走る。打球がワンバウンドでフェンスにぶつかる。中が三塁に滑りこむのを見届け、高木は二塁ベース上に立った。江藤が頭の上でバットを二本振り回している。彼らしくないパフォーマンスなので微笑ましい。鉦や太鼓や旗が、もっと点を取れと叫んでいる。野球好きにとって大量点は麻薬だ。
 江藤は重そうなバットをコックすると、外角高目の速球を思い切り叩きつけた。サードの頭、城戸ジャンプ。届かない。ボールは白線を削ってバウンドし、勢いを増してフェンスにぶつかる。勝手に方向転換して塀の底を滑る。江藤が右手で舵をとりながら一塁を回る。二者生還。江藤は二塁へ滑りこんだ。七対十九。ここで私が打てば、渋谷は完全に自信を失くす。
 私はベルトの腹周りを両手でしごいて、ユニフォームの中心部を合わせた。ワイシャツの中心部を合わせる要領だ。西高に転校したころカズちゃんに教えてもらった。めずらしい知識だったが、何気なく身についた。
 初球、二球目と、内角低目スライダー。ストライク。三球目は外角の速球だろう。いやシュートか。もう一球スライダーで攻めてきたらホームランにする。シュートだとホームランは難しくなる。三球目、スライダーできた。なぜ? でもいただきだ。私は右足を引き、タイミングよく掬い上げる。重たい快適な音がした。瞬間、キャッチャーの加藤が両膝を突いた。ライナーで左中間上段に突き刺さった。森下コーチと強烈なタッチ。
「神無月選手、七十三号のホームランでございます」
 大股で走る。水原監督に抱きつくと、ポンポンとやさしく背中を叩かれた。
「苦労したね!」
「はい!」
 私につづいて木俣がセンター左へ十五号ソロを打った。菱川がライト前ヒットで出、江藤省三がピッチャーゴロゲッツーでチェンジになった。
 九回表。丸山サードゴロ、武上ショートゴロ、ロバーツセカンドゴロ、仲良く内野に打ち分けてゲームセットになった。七対二十二。勝利投手は水谷寿伸三勝目。
 十時五分。下通のアナウンスが流れる。
「中日ドラゴンズは本日の勝利によりまして、引分けを挟んで十八連勝となりました。これは昭和三十五年大毎オリオンズが達成した記録とタイ記録でございます。おめでとうございました。盛大な拍手で祝福をお願いいたします」
 下通の要求どおりの盛大な拍手が湧いた。しかし偉業というほどのものではないのだろうという感じがした。インタビューは、私たちをベンチに下がらせて水原監督だけが受けた。思ったとおり、十八連勝おめでとうございます、のひとことで、それ以上の質問はなかった。江藤が、
「下通嬢がこっちを見とるぞ。いっちゃれ」
 新聞記者やカメラの混み合う向こうに、バックネット下の放送席から下通がこちらを見ている顔が見えた。江藤に背中を押され、ベンチを出て走っていった。狭い空間にスコアラーの姿はすでになく、彼女がポツンといるきりだった。下通は私を見上げてニッコリ笑った。
「きょうもいい声、ありがとう」
「いいえ……。すごい活躍、いつも感激して観てます」
 水原監督がインタビューに応える声が聞こえる。
「田中勉くん、土屋くん、水谷寿伸くん、三人ともよく投げた。打は全員がヒーローです」
 下通は私を真剣な目で見つめ、
「オールスターのあとに、デートしてくれませんか」
「……」
「……寝ても醒めてもなんです。すみません」
「わかりました。オールスターは十九日の東京球場からですね。十七日までゲームがあって、十八日からオールスターのための移動日になりますから、たしかにオールスター明けしか空いてませんね。二十三日の昼に平和台から帰るということは、その二十三日がたった一日のピンポイントです。二十五日からは川崎です」
「二十三日ですね。うれしい。……一日だけ、私のところに降りてきてくださいね」
 下通は赤い顔をうつむけて言った。
「二十三日の朝、福岡のホテルのお部屋に電話します。飛行機の搭乗時間を教えていただければ到着時間がわかりますから、その一時間後から二時間後まで、神無月さんが指定する場所でお待ちしてます」
「わかりました」
 インタビューアーの声が聞こえる。
「三月、四月ごろは、どのチームのピッチャーも神無月選手を徹底的に研究すると言っておりましたが、一向にその成果が出る気配がありません」
「神無月を研究することはできないからですよ。彼はその場でめまぐるしく考えるバッターです。つまり、特有の癖を持っていない、相手しだいのバッターなので、研究しようがない。無駄骨ですね。十本のうち三本ヒットを打てば褒めたたえられる球界で、六本以上のヒットを打つ、そしてその半分がホームランとなれば、それはもう人知を越えた脅威です。各球団のピッチャーにとって彼に挑むことは、脅威を克服しようとすることでしか得られない興奮と充実感の源になります」
 金網のあいだから指を二本挿し入れ、下通の二本の指と触れた。
「七月二十三日、飛行機到着から二時間以内に、名鉄神宮前駅の改札にいきます。熱田神宮を歩きましょう」
「はい。ほんとにありがとうございます」
 手を振ってベンチへ戻る。


         百十六

 インタビューがつづいている。
「いまのドラゴンズの打撃陣は、どのチームのエース級でも抑え切れないと思いますが」
「それはない。工夫して懸命に投げれば、どんな有能なバッターもかならず打ち損なうものです。考えが足りなかったり、気のない投球をしたりすれば、まず百パーセント打たれます。神無月を三球三振に仕留めるピッチャーを見てみたいものです。いや、三球でなくてもいい。何球費やそうとも、三振に仕留めるだけで、じゅうぶんなアトラクションになります。きょう彼は、渋谷の内角ストレートにやられて、今シーズン三つ目の三振を喫しました。すばらしい見ものでした」
「開幕以来、中日ドラゴンズのこの快進撃の原因は、何でしょうか」
「ホームランのような大物打ちばかりが目立っていると思われるでしょうが、じつは上位打線下位打線一丸となってのチームバッティングです。犠打や短打を率先して行なう選手が増えてきました。もう一つ、ほとんどのピッチャーが無理のないローテーションで完投や継投を頭に置いたピッチングができることです。打撃力が充実しているのでそれが可能です。打撃力が低下すると、投手力だけで無理な勝利を目指し、一部のピッチャーが酷使されることになります。東映時代に尾崎行雄くんを潰してしまったのは、私の責任だと思っています。慙愧の念に耐えない。権藤博くんしかり、杉浦忠くんしかり、稲尾和久くんしかり。有能な人材を潰した監督は、いくら悔やんでも悔やみ切れないでしょう。そうならないためにも、バッティングで勝ち進むことが重要なんです。いま、わがチームは理想的な状態にあります」
 江藤が、
「下通嬢と何ば話しとったと?」
「オールスター明けのデートの約束です」
「ほう! 下通嬢、喜んだやろう」
「はい。真っ昼間の熱田神宮ですけど」
「それでええ。神さまのデートに似合っとる。マスコミに気をつけんばな」
「はい」
 菱川が、
「いまも神無月さんの背中を追っていったカメラランがいたので、きょうの俺のバッティングどうだったって話しかけて止めましたよ」
「ありがとう」
 ベンチの連中はみな興味深げに聞いていた。足木マネージャーがやってきて、
「神無月さん、ホームランボールを捕ったファンが、サインをもらいたいそうです。ベンチ裏の通路で待ってます」
「わかりました」
 足木について通路に出ると、壮年の夫婦者と、ドラゴンズの野球帽をかぶりグローブをはめた七、八歳の少年が立っていた。
「あ、神無月選手だ!」
 手にしっかりボールを握っている。
「看板に当たって、ぼくのところに撥ね返ってきたんだ」
「そう、よかったね」
 帽子を撫でる。父親が、
「この子は神無月選手の大ファンでして、ホームランを捕るんだと言ってグローブまで持ってきたんですが、頭の上を通過していってしまって。撥ね返ってくれてほんとによかったです」
 何度もお辞儀をする。母親は微笑みながらわが子の横顔を見ている。母親が、
「いろいろご苦労が多いでしょうが、めげずにがんばってください。日本全国のファンが心から応援していますから」
「ありがとうございます。きみの名前は?」
「将太! 大将の将」
 少年が差し出したボールに、『中日ドラゴンズ 神無月郷⑧ 将太くんへ』と楷書で書き、日付を書き添えた。
「神無月さん、ぼくがドラゴンズに入るまで、がんばっていてください」
「そうか、ドラゴンズにくるのか。ぼくも小さいころからドラゴンズに入りたくて一生懸命野球をやったんだ。待ってるよ」
「ドラゴンズに入って四番を打つ!」
「うん、その意気だ。そのときは喜んで四番を譲り渡すからね。肩と肘を大切にね。投げすぎないこと、バットを振りすぎないこと。それ以外の練習はどんなことにも耐えなくちゃいけないよ。握手しよう」
 小さな手をしっかり握る。母親がまぶたを拭った。父親が、
「オールスター、一位得票おめでとうございます。今年は中日球場で試合がないので、三試合ともテレビで応援しています」
「がんばります」
 父母とも握手する。胸を張る子供をあいだに、やさしい父と母はお辞儀を繰り返しながら去っていった。足木マネージャーが、
「神無月さんのファンへの応対は胸に響きます。ファンレターもだいぶ溜まって、毎日こつこつ読んでますが、まだめぼしいものはありません」
「ときどきアットランダムに五十通選んで送ってください。シーズンオフに読みます」
「わかりました」
 いつものとおり、駐車場までの通のりを厳重にガードされながら歩いた。時田の顔があったが、田中勉の素行を思い出し、微笑で目礼しただけで、会を訪ねることはあえて告げなかった。
 帰りのクラウンに、先回とちがうアイリスの店員が乗っていた。カズちゃんや素子と並んでカウンターに入っている男だ。お辞儀をしただけで寡黙にしている。助手席の主人が、
「ジョージくん、ガチガチに緊張してるな」
「はい。こうしてすぐ隣に神無月さんがいるのが信じられなくて。私、大崎譲二といいます。二十九歳。中村高校を出てからずっと錦町の喫茶ルノアールに勤めてました」
「何かコーヒーの資格でも持ってるんですか?」
「コーヒーにまつわる公的な資格というものは、日本国内にはもともとないんです。私も誤解していましたが、北村店長から教えていただきました。彼女も最初、そういう資格があるものと思っていたそうです。資格を取ろうとして、いろいろ研究し、役所も訪ねたそうですが、そういう資格は存在しないことがわかったんです」
「そうなのか! 最初アイリスに入って辞めさせられた人が、バリスタだって……」
「勝手に名乗っていただけです。たとえコーヒーをいれたことがなくても、バリスタを名乗ることができます。バリスタはイタリアの正式な資格です。国内の喫茶店開業にあたって必要な資格は、食品衛生責任者だけです。北村店長は東京でそれを知ったとき、兵藤副店長だけに言って、こっそり衛生責任者の資格を取ったそうです。神無月さんがバリスタという名称を気に入っていたので、知ったらショックを受けるだろうということで、神無月さんには内緒にしたと言ってました。私的な団体が認定している趣味的な資格はいろいろあります。実質、コーヒーに関する知識が得られるだけのものですが、通信講座や養成講座を経て、実技講習、認定試験を受けて取得します。ドリップマスター、コーヒーマイスター、コーヒーインストラクター、コーヒー鑑定士といったものです。世間では通用する資格なので、就職には有利です」
「女の人がバリスタと自称して求職してきたとき、カズちゃんにはわかっていたんだね」
「ですね。仕事ができればいいだろうと考えて、一応雇って様子を見ていたら、人格的になっていないことがわかったと言ってました」
「ぼくは自分じゃ肩書をつけたがらないくせに、他人の肩書は喜ぶ癖があるからね。カズちゃんも素子も内緒にしたくなるのももっともだ」
「この資格社会にも、国家的な資格は意外と少ないんですよ」
 主人が、
「文江さんの書道なんかもそうかな」
「ええ、国と関係ありませんね」
 菅野が、
「国になんか認められる必要はないでしょう。大学入学のための模擬試験も、ホームラン王もすべて私的団体が序列をつけるものですから」
「そのとおり!」
 三人同時に言った。私は、
「秀才も天才も国家的な資格じゃない。周囲の人びとの評価です。国家という権威が認めるのは、人びとの福祉に与(あずか)る公共的なものばかりだ。あとは学術的文化的な業績に与えられる勲章。国という言葉は恐ろしい。それが学校の国立私立の序列立てになる。私立の名門高校が国立大学合格を優秀さの指標にしてるなんてお笑い草だ。……ところで、日本のバリスタってどういうもの?」
「日本バリスタ協会というという私的団体が認定する資格です。そこが認定する学校で二日間受講し、試験を受け、合格者は認定証をもらい、ライセンス登録をします。そのすべてに金がかかります。ライセンスの有効期限は三年」
 主人が、
「それで就職できるとはかぎらないんやな」
「はい。履歴書に書きこんだところで、何をする人間なのかほとんどの雇用者は知りません」
「何をするの?」
「エスプレッソをじょうずに抽出できるだけです」
 菅野が、
「なあんだ。それならお嬢さんはそんなもの必要ないですよ」
 コーヒー通の主人が、
「たしかにな」
 私は、
「エスプレッソて、何ですか」
 ジョージが、
「イタリアとフランスのコーヒーです。アメリカにも拡がりました。カップ半杯ほどいれて飲む、濃い泡立ちコーヒーです。とても細かく挽いた深煎り豆をエスプレッソマシンで圧力をかけ、瞬間湯通ししたものです。濃くて苦い。砂糖を入れるとおいしくなります。結局、そのマシンの使い方を専門的に知ってる人をバリスタと言うんです。店長も副店長もバリスタどころではありません。あらゆるコーヒーを抜群においしくいれます。エスプレッソマシーンは入れましたが、それも名人のようにうまく使いこなします。注文はほとんどありませんけど」
 山王橋交差点の南側に車を停め、えびすというラーメン屋に入る。大小七つほどのテーブルが並び、カウンター席もある。広い。十時に近い店内に五、六組の客がいて、私を認めると、
「おー、神無月だ!」
「ええ男やなあ!」
 店主と女将が口をポカンと開けて立ち尽くす。
 私と大崎はラーメン・チャーハンセット、それに餃子を頼む。主人と菅野はチャーシューメン。三十半ばの店主が料理にかかるのを横目に見て、小肥りの女将が、
「……あの、来店なさったとたんにぶしつけなお願いなんですが、サインをいただけないでしょうか」
「いいですよ」
 色紙に文江サインをする。女将が拝むように受け取り、大切そうに新聞紙に挟みこむ。
「しっかりビニール包装して貼らせていただきます」
 客の一人が、
「ここの餃子は有名で、よくプロ野球選手が食べにくるんですよ」
 壁を見ると、得体の知れない文字で書かれた色紙が三枚ほど貼ってある。だれのものか尋く気にもならない。女将が、
「こちらのお三かたは、有名な北村席のかたですか」
「そうやが、そんなに有名ですか」
 主人が答えると店主は、
「そりゃそうですよ、神無月選手を高校時代からお世話しているタニマチということで、よく新聞に載ってます。バット事件のあと、神無月選手のインタビューをしたのも北村席の門の前でしょう」
 注文の品がどんどん出てくる。チャーハンをレンゲで掬って口に入れる。脂っぽいが味に輪郭がある。ラーメンも醤油が強くてうまい。浅間下の支那そば屋を思い出す。
「うまいなあ。汗をかいたあとなので、よけい濃い味がうまい」
「鶏がらでスープをとってます」
 店主がうれしそうに言う。主人たち三人は少し箸の進みが遅かったが、それでも食っているうちに勢いが出た。しょっぱさの中にコクがあるからだ。店主が、
「渋谷の速球にバットが折れましたね」
 カウンターの客が振り向いて言う。
「はい、ベキッて」
「ふつうのバットだということですよ。川上の野郎、新聞読んでたまげるかな」
 隣の同僚らしき男が、
「たまげないだろ。わざと抗議したわけだから」
「そのふつうのバットで五打数五安打、看板直撃のホームラン!」
 私は、
「みなさんはホームランが好きですか」
「嫌いな人間はいませんよ。またどうして」
「食傷気味じゃないかと思って」
「すごいことを言うなあ。自分のホームランが飽きられると思ってるんだ。評判どおりの変人ですね。内野安打を十本見たら飽きますが、ホームランは千本見ても飽きません」
 一座がやさしい声で笑った。
 三品平らげ、餃子をもう一皿頼んだ。三人も倣った。店主が餃子を焼きながら、
「とうとう四十勝に到達しましたね」
「はい、水原監督の目標は八十勝ですから、ようやく半分です。野球は怖いです。過去の記録を見ても、七連敗、八連敗ぐらいすぐしてしまいますから」
 客が、
「二連敗するとズルズルいっちゃうよなあ。何がきっかけになるかわからない」
 ほかの客が、
「神無月さん、ときどき外角の低目を屁っぴり腰で打って、長打やホームランにしてしまいますけど、よくあんな芸当できますね」
「小学生のころからあの振り方を練習してきたんです。外角の膝の高さだと正常なスイングができるんですが、低目だと、ヤマが当たらないかぎりあの振り方しかありません。野球教室でも子供たちに教えました。何千回もあの格好で素振りをすると、それなりの筋肉がついてきます」
 二皿目の餃子を食う。うまい。女将がカメラを用意している。客たちが私たちのテーブルに集まってきた。明石の再現だ。菅野が、
「ご夫婦も入って。私が撮りましょう」
 店主が、
「この写真も貼らせていただきます」





(次へ)