二百三十九

 ベンチ気温二十九・○度。中日―大洋十二回戦。ロッカールームに緊張した空気が張り詰めている。
「みんな、へんですよ。いつもの一本じゃないですか」
 中が、
「ただの一本じゃないよ。五十六号のときは、こっちの意識が集中しないうちに打たれちゃったけど、百号はそうはさせない。甲子園から意識のしっぱなしだよ」
 高木が、
「途中から、打つ気がないとわかって、思い切りゆるんだけどね」
 菱川が女のように自分の胸を抱く。
「きょうは百パーセントでしょ。ああ、緊張する」
 江藤が、
「ワシャ、金太郎さんが打ったあとで、アベックば狙うばい。百号に花を添えちゃる」
 監督コーチ陣が入ってきた。水原監督が、
「フリーやる? 走るだけにする? へんにからだ痛めたらいけないから、フリーはやめたら?」
 一同大笑いになる。葛城が、
「監督さん、気使いすぎ。神無月くんはポワーッとしてますよ」
「だからケガをするかもしれない」
 温かい笑いが拡がる。私は、
「ご心配ありがたくちょうだいして、ランニングだけにします」
 さあ、と声を合わせてグランドに出る。太田と菱川が先頭切って走る。だれもケージに入らずに二人についていく。私も中ほどに雑じってついていく。鏑木と藤波もいっしょになって二周。
 それぞれが守備位置につき、フリーバッティング開始。グローブをはめたままフェンスぎわで三種の神器をやっていると、藤波が筋肉を探りにきた。私をうつ伏せに平たく寝そべらせて、全身を触っていく。
「相変わらず柔らかいなあ! コンニャクみたいだ。適度に反発もするし。凝りだすのは来年あたりからだな。今年はほっとこう」
 ほかの選手を触りにいく。鏑木とダッシュ。打球が飛んでくる。ひょいひょいと避ける。まじめに守備をやっていない選手たちのあいだを抜けてくるボールを、柔軟をやっている審判員たちが拾って投げ返したりする。鏑木に語りかける。
「来年もいてくれるんでしょう」
「はい、先日水原監督に要請されました。キャンプから新人を走らせてくれって。何より神無月さんともう一年すごせることがうれしいです。いま、人生でいちばん充実してます。何かの拍子に神無月さんがやめたら、やめます。ベテランはみんなそのつもりでしょう」
「ドラゴンズが終わっちゃう。責任重大だなあ」
「重大です」
 蟻のように記者やカメラマンがフィールドに集まりはじめた。ビデオカメラに雑じって得体の知れないワイシャツ姿やトレーナー姿の男たちもうろうろしている。蒲原が私に貼りついて、寝転んだり立ったりしながらシャッターを押している。顔を見るとうれしそうに笑い返し、
「いい写真が撮れてます。神無月さんは美しいですからね。いい絵になる。中日スポーツの専属を打診されましたが、丁重にお断りしました。いい写真をときどき入れるということで了解してもらいました」
「一匹狼だからなあ、蒲原さんは」
「みんなと仕事をするのが億劫なだけです。きょうの歴史的瞬間は外しませんよ」
「きょうとはかぎらないよ」
「いえ、きょうです。おそらく第一打席でしょう。ただ、神無月さんのインパクトの瞬間はうまく撮れないんですよ。どのカメラマンもぼやいてます、カメラマン泣かせだって」
 遠巻きに私を撮っていたほかのカメラマンたちが、そのとおりだというふうにうなずく。
「どこから撮るんですか」
「三塁側カメラマン席です。正面から撮れます」
「何打席目で打てるかわかりませんが、一球ごとにシャッターを押しつづけてください。いい写真が撮れると思います」
「はい!」
 蒲原は外野でうろうろしている選手たちのもとへ走っていった。江藤がケージに入ったので、私はしっかり守備の構えをとった。観客がいちどきに埋まりはじめた。横断幕や幟を持った私設応援団がまず座席を埋めていく。
「ヒャー! 神無月選手だ」
 子供が叫ぶ。
「カッコいいなあ」
「脚、長げェや!」
 振り向いてグローブを振る。
「キャー!」
「すてきィ!」
 たまらずケージに走り戻った。水原監督が、
「やっぱり打つか?」
「はい、三本だけ。三遊間へ」
 おととしのドラ三、若生和也がバッティングピッチャーで投げている。昨年一勝、今年登板なし。内角、外角、微妙にタイミングをずらして三遊間へするどい打球を流し打つ。
「名人芸だ。芸術だね」
 スタンドがほぼ満員になった。下通の声。
「本日は中日球場にご来場くださいましてまことにありがとうございます。あえてご説明の必要もないかと思いますが、きょうの中日―大洋十二回戦には、神無月選手の百号メモリアルアーチがかかっております」
 スタンドがどよめく。鉦太鼓が鳴り、球団旗が振られる。
 大洋の連中がベンチに入った。江尻がいたので、朴訥そうな顔に向かって走っていく。
「ぼくのせいで、三日間も始球式、たいへんですね。すみません」
 親しく話しかけられて戸惑い、
「まったく、神無月くんのせいだよ。ほんとに困っちゃうよ。でも、ぼくが三日間じゃないんだ」
 十年選手の近藤和彦が、
「俺が二日目、三日目は中塚」
「でも、きょうぼくが百号を打っちゃえば一日で終わりでしょ?」
「いや、始球式は三日間て決まったんだ」
「そうですか。江尻さん、ホームランにしちゃえばおもしろいんじゃないですか」
「まず、ボールがホームに届かないね。空振りします」
 近藤和彦が、
「俺、百七十九センチ、七十九キロあるの。そう見えないだろ?」
「はい、でも大きいことは知ってました」
「天秤担ぎの格好もあるけど、毎年十本くらいしかホームラン打てないから、打率重視の短打屋に見られてるんだよ。いつも長嶋の後ろの二位の人。三割を六回も打って、打率二位四回。今年は神無月くんのおかげでスカッとした。首位打者だ、三割だなんて言ってたのがぶっ飛んだ。三冠ぜんぶ、だれとも競争しないで持ってっちゃう人間がプロ球界に現れるとはね。きょうは、女房子供がスタンドにきてカメラを構えてるんだ。打ってね」
「はい。がんばります」
 大洋がバッティング練習に入った。ジョンソン、松原、伊藤勲、中塚、近藤昭仁と打っていく。下通の声。
「大洋ホエールズのバッティング練習が終わりましたら、すみやかにご自身のチケットのお席に戻られるようお願い申し上げます。バッティング練習中でございましても、その席のチケットをお持ちのお客さまがご来場されましたら、その際もすみやかにお席をお譲りくださいませ」
 近藤和彦と並んでケージに入った江尻がいい打球を飛ばす。小川が、
「やばいよ、要警戒」
 中日の守備練習が始まった。ビッシリ満員になった観客席が、ふだんどおりにざわめいている。祝百号と書かれた横断幕が随所で揺れる。五時半を回ったが、空はまだ明るい。気温は二十八度を少し切るくらい。蒸し暑い。バックネット裏の最前席三列が来賓で埋まっている。外人の姿もちらほら。テレビで見たことのある目の大きい女子プロゴルファーがいる。年間席に主人とカズちゃんと素子、菅野一家が中段に陣取っている。その脇からテレビカメラが睨んでいる。ネットの裾にはラジオ放送席がいくつか並び、すでにアナウンサーが着席している。その並びの一室に下通の顔がある。無と千佳子は一塁スタンドにいるようだ。宇野ヘッドコーチが、
「金太郎さん、昼のニュース、感動したわ。言葉の魔術師だね。水原さんはCBCからニュースフィルムの音声をテープに落としたものをもらうそうだ」
 田宮コーチが、
「きょうが六十四試合目か。あしたで半分だ。八月半ばあたりに胸突き八丁の急坂がくるんだが、今年はその前にマジックがシングルになりそうだな。金太郎さんはシーズン半ばで百本。こんな記録は千年も万年も出るものじゃない。規定打席は四百だろ。百試合まで出て、残り三十試合を休んだとしても三冠王だ。しかし、金太郎さんが休んだらパニックが起こる。だれも休ませてくれないな」
 水原監督が、
「私はいいよ。しかし、ファンもフロントも承知しないでしょう」
 江藤が、
「ワシらも承知できんたい。張り合いのなか」
 両チームのスターティングメンバー発表。大洋、センター江尻、ライト近藤和、ファースト中塚、サード松原、レフトジョンソン、セカンド近藤昭、キャッチャー伊藤勲、ショート松岡功祐、ピッチャー島田源太郎。
 中日は、六番にショート一枝、七番にライト伊藤竜彦、八番にサード葛城が入った。千原と菱川と太田は控え。
 六時二十五分。大喚声の中、中日チームが守備に散った。一塁スタンドの看板の向こうへ太陽が橙色に輝きながら沈んでいく。残照のまぶしさに目を細める。飯場の築山から眺めた夕陽を思い出す。事務所の油じみた木床のにおいが甦ってきた。眼鏡をしっかりかけ直し、中とキャッチボール。
 短パンに野球帽をかぶりグローブを持った女が、岡田塁審に付き添われてベンチとカメラマン席とのあいだの通路から出てきた。満面の笑みで四方のスタンドに手を振りながら、夕焼けを頬に受けてマウンドの裾に立つ。四方のスタンドに手を振り、幸福感のにおわない全力の笑いを振舞う。胸が痛む。彼女はこの生活が、この世界がいつまでもつづくだろうと漠然と考えて生きている。そして幸福でない。すべてが幻想だと早く思い知るのがいい。そうすれば、いまの一瞬一瞬の幸福感が最大になる。
「ご来場のみなさま、マウンドにご注目くださいませ。モデル、女優などで、幅広い活躍をなさっておられる榊原るみさんの始球式でございます。バッターは大洋江尻選手、キャッチャー中日木俣選手、球審は平光でございます」
 下通の潤いのある声が流れる。拍手が湧き起こり、鉦太鼓が鳴り、スタンド全体に旗がたなびく。平光がバッターボックスに入るよう江尻を促す。江尻がボックス前でブンブンとスイングをする。笑いと喚声。両ベンチの冷やかしの声。岡田塁審と先発の小川が榊原るみの傍らに所在なさげに寄り添う。短パン女はもう一度四方にお辞儀をして振りかぶる。思い切り投げたが、山なりに軌道の逸れたボールは三塁側へ遠く外れるワンバウンドになり、木俣がチョコチョコ横っ走りしてミットに収めた。江尻はタイミングを合わせて、ボックスを出ないまま強い空振りをした。ストライクのコール。榊原は満足し、四囲に愛嬌を振りまきながら通路へ走り去っていく。無意味なイベントだが、だれも不満の声を上げない。私の百号を記念する行事の一環だとわかっているからだ。
 平光のプレイボールの声。レフト線審の福井と目が合ったので帽子を取る。
「郷さーん!」
 明らかに雅江の声だった。視線を泳がせながら捜すが、どこにいるのか見つけられない。声のやってきた方向に向かって帽子を振る。スタンドがどよめく。
 江尻がバッターボックスに入った。静かな構えの左バッター。江藤ほどではないが、ユニフォーム姿がよく似合う。始球式のせいでグランドが少し汚された思いがたちまち消え去り、神聖な気持ちに返って腰を落とす。
 小川、軽く振りかぶって、サイドスローの腕をしならせる。初球、内角高目、伸びのあるストレート。ボール。速い。センターの中と遠く顔を見合わせる。中が左手で、シュッと浮き上がる格好をする。球が走っているという意味だ。センターからよく見えるのだろう。しかしノースリーになった。江尻がバッティング練習で当たっていたことを思い出した。なるほど要警戒か。四球目、外角に外してストレートのフォアボール。
「健ちゃん、遊ぶな!」
 高木が怒鳴る。高木は知る人ぞ知る短気な男だ。瞬間湯沸かし器と言われている。最近小川から聞いた。自分のファインプレーに難癖をつけた杉浦監督に腹を立て、試合中に宿舎へ帰ってしまったこともあるそうだ。そんな面を一度も見たことはなかったが、いま片鱗が窺えた。小川は両脚をきちっと揃え、帽子を脱ぐと高木に向かって最敬礼した。場内に笑いが湧く。
 二番近藤和彦、初球をバント。懲りない。一点勝負と見ているのか? 江尻二進。ここでほんとうに爆笑ものの珍プレイが突発した。江尻は俊足でないし、わざわざ三塁に走る状況でもない。それなのに小川は二塁に牽制球を三度しつこく繰り返した。そのつど高木がベースに入ってタッチの格好をする。四度目の牽制球を高木はグローブで捕らず、スパイクの底でマウンドに蹴り返した。ピタリとマウンドのふもと近くへ転がって止まった。たしか、むかしも一度こういうことがあったような話を小川から聞いた覚えがある。
「いいかげんにしろ!」
 高木の怒鳴り声。小川はボールを拾い上げ、また最敬礼。ドッと球場が沸いた。二人で申し合わせたスタンドプレイだと気づいた。場内の緊張感を和ませるためだろうか。ランナーの江尻が二塁塁審の筒井に笑いかけながら何か話している。中がグローブを叩いて喜んでいる。福井レフト線審を見ると、あらぬ方向を眺めながらニヤニヤ笑っていた。
 小川はここから鬼神に変じた。中塚、松原、ジョンソンと三者三振。高木にグローブで尻を叩かれてベンチに戻った。
「景気、ついたか」
 小川がベンチで仲間を見回す。
「ついたっち!」
「ついたぞ!」
 水原監督も小川の尻をポンと叩いて、コーチャーズボックスに向かった。中が、
「それにしてもうまくマウンドに蹴り返したものだな」
 高木は満足げにうなずき、
「名人ですからね。どう転がっても、ランナーは走れなかったでしょう」


         二百四十

 一回裏ドラゴンズの攻撃。大洋のピッチャーは背番号20、砲丸投げの島田源太郎。ドロンと落ちる大きなカーブ、ふつうの直球、ときたま少し曲がるシュート。完全試合をやったときには、どんなボールを放っていたのだろうか。
「一番、中、背番号3」
 島田、担いで、ヨイショ。初球、外角ストレート。キン! 三塁線へ糸を引いて飛んでいく。
 ―よし! 進撃開始。
 ジョンソンのクッションボールの処理がもたついているあいだに、中は悠々スタンダップダブル。笛、鉦、太鼓。一塁ベンチが賑やかになる。半田コーチの甲高い声。
「ビッグ、イニーング!」
 二番高木、しょんべんカーブをセンター左へ痛打。まず一点。爽やかに黒ずんだ空の下でカクテル光線が明るさを増しはじめた。江藤、外角高目のストレートをライト前へクリーンヒット。ノーアウト一、三塁。
 歓声がこだまする。ラジオのアナウンサーの興奮した声がバックネットから入り乱れて聞こえてくる。
「さあ、天馬神無月だ……終わりなき……世界の頂点……」
「あま翔けよ天馬……いけ、いけ、越えていけ……」
「……インコース、ストレート……使えるのか……度胸が……」
「……グイグイ……間合いが問題……ベースをちゃんと踏むまでは……」
 笛太鼓に混じる観客の叫び声。
「金太郎! 打て!」
「ペガサスゥゥ!」
「百号! いけェ!」
「打ってェ! 打ってェ!」
 ライトスタンドの横断幕が上下に振られる。ベンチの気勢が上がる。
「ヨ!」
「ホ!」
「そりゃ!」
 初球外角遠目のドロンカーブ。ボール。水原監督のパンパン。もう一球ドロンをつづけるか、内角ストレートのどちらか。ボックスの少し後ろに下がって、ドロンを誘う。二球目、真ん中ストレート、ワンバウンド。伊藤のミットをくぐってバックネットに転がっていく。すぐ撥ね返る。三塁の高木動かず、江藤ゆっくり二塁へ。伊藤はニューボールをしごいて、島田に強く返す。萎縮するなという叱咤だ。ライト線審の久保田を見る。緊張している。やっぱりドロンを狙う。
 三球目。きた! 大きなカーブが外角のストライクコースをかすめて落ちてくる。クロスに踏みこみ、両腕をしっかり伸ばして絞りこむ。食った。ライナーになる。バックスクリーンの左へ上昇していく。打球がスタンドに到達しないうちに、内外野の観客が総立ちになり、バンザイ、百号、の連呼が始まる。森下コーチもやっている。バックスクリーン左方、照明塔の真下のスタンドに飛びこんだ。一塁を回ったとたんに、下通のアナウンスが流れる。
「神無月選手、百号メモリアルアーチでございます。六十四試合、二百五十二打数目の達成でございます。百号ホームランも含めまして、百七十五安打、打率六割九分四厘、二百三十打点。ほんとうにおめでとうございます。心より祝福いたします。そして、この場に居合わせることのできた幸運に感謝いたします」
 グワングワンと拍手と喚声の渦。一塁スタンド、外野スタンド、三塁スタンドに向かって右手を振りながら大股で走る。紙吹雪が舞う。水原監督としばし抱擁。フラッシュのまばゆいきらめきの中、ホームイン。先にホームインした高木と江藤が出迎えて抱きつく。江藤はいち早くベンチに去り、榊原るみといっしょに花束を手に走ってくる。
「おめでとうございます!」
「おめでとうさん!」
 紅潮した顔でお辞儀をする。
「ありがとうございます!」
 黄色いハニードロップ、紅バラ、白バラ、胸に抱えて受け取り、空いた右手で握手する。江藤のゴツい手、榊原るみの華奢な冷たい手。バックネットのカズちゃんたちに向かって花束を高く掲げる。カズちゃんは拍手しながら激しくうなずき、素子は両手で顔を覆っている。主人と菅野一家は口ラッパを作って何やら叫んでいた。一塁スタンドの名大生たちにも掲げる。大きな拍手が返ってくるけれども、二人の姿は見つけられない。喚声を上げる選手たちの腕でアーチができている。二つの花束を太田に渡し、背を丸めてアーチをくぐる。抱擁、抱擁、握手に次ぐ握手、背中叩き、抱擁、握手、尻叩き……。ベンチのコーチ陣が涙を流している。菱川が号泣している。
「バッターラップ!」
 平光球審の声に促されて、木俣が打席に入る。どんな派手な記録が達成されようと、試合は坦々と進む。木俣は涙を何度も拭いながら、三球三振。ここで島田はマウンドを降りた。ワンアウトしか取れなかった。
「百号だぜ」
「百号!」
「年に五、六本しか打てないやつは、二十年かかるぞ」
 ベンチが鎮まらない。半田コーチのバヤリース。
「島田に代わりまして、ピッチャー木原、背番号29」
 顔を洗ってきた木俣が、
「島田というやつはよくよくついてる男だな。二つも名前を残しやがった。完全試合と百号被弾か。そのツキに敬意を表して、三球三振を献呈してきた」
 田宮コーチが、
「何が献呈だ。感涙に咽んでただけだろ」
「ザッツ、ライト!」
 浮ついたことを好まない別当監督は、木俣のせっかくの〈献呈〉を無視して、ピッチャー交代で場内の喧騒を鎮めようと目論んだようだ。太田が、
「花束どうしますか」
 私はベンチの片隅にいた足木マネージャーに、
「足木マネージャー」
「ほい」
「この花束、球団の事務所にでも飾ってくれませんか」
「わかりました」
 木原というピッチャーを初めて見る。大柄、サイドスロー、変化球。ストレートはホップしない。
「木原義隆、近鉄に三年いて十三勝、去年大洋にきて勝ち星なしの一敗、得意球は外角低目のストレートとカーブ、内角にするどく落ちるシュート。東京オリンピックの日米大学デモンストレーションゲームで先発したほどのピッチャーです」
 太田が言う。そういう能書きは、たいてい無理にこしらえたものだ。前で打つとか、呼びこんで打つとか、古くからある能書きも、このごろではすべて根拠のない思いこみだとわかっている。ボールが速すぎたり、タイミングが合わなかったりすると、まともに打てないし、前で打とうと、呼びこんで打とうと、スピードのあるスイングで芯を食わせなければ遠くへ飛ばせない。のめったり、ふんぞり返ったりしないかぎり、バッティングというものは成功する可能性が高いのだ。
 木原の投球練習のあいだに場内のざわめきが静まった。六番一枝、ツーナッシングからボールとファールをこき混ぜ、八球も粘ってフォアボールで出る。七番伊藤竜彦、ツースリーから三振。八番葛城、レフトフライ。ゼロ対四で一回の表裏を終了。いち早く守備位置へ走っていって、雅江一家を捜す。見つからないので帽子を振る。喚声と祝福の拍手が返ってくる。横断幕の間断ない揺らぎ。
 二回表。六番近藤昭仁、ライト前ヒット。七番伊藤勲、三振。八番松岡功祐、セカンドゴロゲッツー。小川すこぶる順調。
 二回裏。九番小川、ファーストゴロ。一番中、三振。二番高木、三振。いつもの一回お休み。
 三回表。九番木原の代打長田、セカンドゴロ。一番江尻に廻ってきた。小川はどうしても不吉な予感を捨てられないようで、二打席連続フォアボールで歩かせる。彼の直観はまず正しい。もう高木も怒鳴らない。二番近藤和彦、三振。三番中塚、流し打って私の前へヒット。打球が左バッター特有のスライスをしながら弾んでくるので、きちんと腰を据えて捕る。四番松原、サードゴロ、二塁封殺。
 三回裏。木原に代わって高垣というピッチャーが出てきた。木原も初めて見たが、高垣という男も初対面だ。背番号58、目の細いノロマ顔。投球フォームは本格派だ。からだを低くして投げてくる。平松や高橋一三に似ている。平松のように腕がしなる感じはない。いい勝負になると感じた。太田が、
「三年間で一勝ですね。こういうピッチャー、多いなあ」
 先頭打者の江藤、初球ど真ん中のストライクを打ち気なく見(けん)した。スピードの乗ったストレートだった。私に球筋を見せたのだ。伊藤がびっくりして立ち上がった。マウンドに向かって大声を投げる。危険だと感じたのだ。高木が江藤に向かって、
「百号に花添えろ!」
 二球目、顔の高さから曲がり落ちるカーブ、ジャストミート。レフト最上段へふっ飛んでいった。四十号特大ホームラン。約束どおり三十一回目のアベックホームラン。水原監督に尻を叩かれ、仲間たちに揉みくちゃにされながら還ってくる。私はネクストバッターズサークルから飛び出し、ガッシリ抱きついた。
「大台に乗せましたね」
「おお、六十号が見えてきたばい」
「八十本です」
「年の分、割り引きばい」
 ゼロ対五。ネクストバッターズサークルからベンチを振り返り、太田に訊く。
「高垣についての注意は?」 
「初めて見たので、まったくわかりません。フォームはうちの二軍の北角にそっくりです」
 北角? たぶんまだ会ったことはない。
「ヒントなしだね」
「はい」
 江藤が、
「打ちやすかぞ。ぶっ叩け」
「わかりました」
 それにしてもこの高垣という男、眉の下がった情けない顔をしている。打席に入る。
「金太郎さん!」
「百一本!」
「好きにしろ! 怪物!」
「神さま、仏さま、天馬さま!」
 初球、膝もとのスライダー。ストライク。とたん、バッテリーは何を思ったのか、二球目からとつぜん外角へ高く外してきた。バットの届かない高目だ。五球目に伊藤がついに立ち上がり、敬遠になった。観客のオーというため息。伊藤勲の〈直観〉だろう。ここでホームランを打たれたら致命傷になると考えたのだ。一塁へ走る。森下コーチに肩を叩かれる。
「きょうは、あとぜんぶこれかな」
「そうだと思います」
 長谷川コーチが、
「大洋が大きく逆転でもしないかぎりな」
 高垣はスピード豊かな速球とスライダーだけで、木俣、一枝、伊藤竜彦と後続三人を凡打に打ち取った。
 四回表。五番ジョンソン、二球つづけて空振りのあと、内角低目のストレートを無理やり流してライト前へヒット。六番近藤昭仁、ワンナッシングからセンター前へヒット。七番伊藤勲、ツーワンから三振。八番松岡の代打関根、ツーツーから見逃し三振。九番ピッチャー高垣、当たりそこねのフライがセカンドとライトの間に落ちる。ジョンソン、ホームイン。近藤昭仁は三塁へ。ツーアウト一、三塁。一対五。
 ここでまた江尻だ。今度はさすがに小川も勝負に出た。満塁にして近藤和彦を迎えるのは怖い。なんと言っても、江尻よりも近藤和彦のほうが高打率なのだ。内角カーブ、見逃しストライク。外角シンカー、ボール。内角高目速球、ファール。するどいスイングだ。小川が恐れるのもわかる。次は外角のシュートか。スローボールはないだろう。いまの江尻の目先を狂わすのは難しい。四球目、やはり外角シュート。
 ―よし、打ち取ったろう。ゲッツーか。
 江尻は少し泳ぎ、スイングを誘導する右手に左手を添えるようにして、じつにうまくジャストミートした。打球が私に向かって高く舞い上がる。フェンスぎりぎりだな。私は素早くフェンスの前へ走り、ジャンプの体勢をとった。
 ―ん? こりゃ越えるかもしれないぞ。
 ボールは不思議な揺れ方をしながら、私の頭上の二メートルほど上を越えていった。福井線審の白手袋が回る。観客が左右に割れたまさにその場所に、雅江一家を発見した。すぐに父親と目が合い、彼は思い切り手を振ってきた。気づいて母娘も手を振る。試合中にグローブを振り返すわけにはいかない。守備位置へ走り戻る。江尻が律儀な走り方でホームインするところだった。大洋ベンチの出迎えは派手でない。江尻は次打者とタッチしたあとは、ベンチ前に並ぶ仲間と静かにタッチしていった。
「江尻選手、八号ホームランでございます」
 四対五。もちろん、小川続投。二番近藤和彦、セカンドライナー。チェンジ。


         二百四十一

 四回裏。八番葛城、深い左中間のフライ。江尻が軽やかにランニングキャッチ。小川三振。中、ファーストゴロ。中休みがいつもより長引いている。
 五回表。三番中塚に代わって大橋勲。私の前へ痛烈なワンバウンドのヒット。松原、バットをこねるような苦しいスイングでサードゴロゲッツー。ジョンソン、ファーストフライ。駆け戻る。内野にトンボが入る。
 五回裏。高垣続投。一枝が、
「さっきヒット打った大橋な、巨人でいじめられて追い出された男だ」
「どういうことですか」
「強肩のキャッチャーでな、おととし入団五年目で、ようやく森を追い落として正捕手になった。打率も三割を超えた。ところが大洋戦で、ほれ、そこの伊藤勲に右肩にファールチップ喰らってな。そのまま長期欠場よ。シーズンを棒に振った」
 菱川が、
「そっからがひどい話なんですよ。オフに森が、大橋にサイン色紙の届け物を頼んだ。大井競馬場にファンの役員がいるから届けてくれとね。わかりましたと出かけていったところを、いかせた当人の森が、大橋が大井に競馬をやりにいったと川上に告げ口した」
「テレビドラマみたいな陰険な話ですね」
「現実の話です。で、五万円の罰金と一週間の謹慎処分。謹慎が解けても、もう出場させてもらえなかった。結局、大橋は今年、桑田と交換トレードで大洋にきたというわけです」
「森って、ひどい野郎だな―」
 私は思わずうなった。江藤が、
「プロ野球界の恥たい。大橋が週刊誌に書いとった。森というやつは、あらゆる手段を使ってライバルを蹴落とそうとする極悪人だってな。まっこと巨人戦は気が抜けん。金太郎さんに何ば仕掛けるか心配でな」
 高木が、
「バット事件以来、森はシュンとしてるよ。金太郎さんには悪さしないだろう」
 そう言いながら、高木が先頭打者でバッターボックスに入った。
「さ、モリミチ、いこ!」
「ヨーオ!」
「ホ!」
「イヨ!」
 初球、ギシッという独特の打球音を響かせて白球がセンターの右を抜いていった。二塁へ華麗に滑りこむ。つづく江藤、三遊間を抜こうかという渋い当たり。関根、追いついただけで送球できず。ノーアウト、一、三塁。長い中休みが終わった。丸眼鏡の別当監督が出てきて、ピッチャー交代を告げる。これほどあわただしい交代は趣味の域と言っていい。
「大洋ホエールズ、高垣に代わりまして、ピッチャー小谷、背番号24」
 あごを上向けた気の強そうな男が出てきた。これまた知らない男だ。投球練習を観察する。スリークォーターの担ぎ投げ。ストレートは百四十キロ程度、ほとんどシュート。ときどき、チョロリと曲がるカーブ。コントロールはいい。
 もう一本いけそうだと思いながらバッターボックスに入る。轟々と金太郎コール。内外野が深い守備位置をとる。初球を狙おう。球種は何でもいい。一球目、外角の遠いところへストレート。バットが届かない。
「おいおい、キンタマついとんのか!」
 一塁ベース上の江藤が叫ぶ。バッテリーは一向に気にする様子はない。二球目、ベースのはるか手前でワンバウンド。伊藤がからだで止める。投球練習とまったくちがうコントロールの悪さだ。体のいい敬遠だと気づいた。場内の不満のざわめきが大きくなる。
「別当、何のためにピッチャー代えたんや!」
「罰金やぞ!」
「高校野球かや!」
 三球目、やはりワンバウンドを狙ってきた。ワイルドピッチになっても、高木がホームインし、江藤が進塁するだけだ。一点ですむ。そうなれば晴れて敬遠ができる。そんなことは許さない。ボールが跳ね上がるところへチョンとバットを出した。ふらふらとセンター前に上がる。最深部までバックしていた江尻は追いつけない。手を拍って高木生還。江藤三塁へ滑りこむ。四対六。大洋ベンチが茫然としている。森下コーチと握手。
「おみごと!」
「一か八かでした」
 三塁ランナーの江藤と水原監督が並んで私に向かって拍手している。ワンバウンドを打って有効打にしたのは、村山のフォークをホームランにして以来二度目だ。ヘルメットをボールボーイに渡す。尻ポケットから帽子を出してかぶる。お守りを確認する。バックネットを見ると、主人とカズちゃんと素子が立ち上がって拍手していた。
 木俣が張り切ってバッターボックスに入る。リードを大きくとる。小谷、セットポジションから一球目を木俣に投じる。内角シュート、ストライク。江藤のリードがかなり大きい。顔が合い、了解する。二球目、球筋からボールになる外角カーブと見切って、私だけスタート。伊藤ためらわず二塁へ送球。その瞬間、江藤スタート。近藤昭仁、ベース前で送球をカットして、本塁へ全力送球。江藤足から滑りこんで、間一髪セーフ。もちろん私もセーフ。さまざまな声や音が入り混じって轟く。ともにアウトにならなかったので、二人に盗塁の記録がついた。四対七。
 大洋ベンチからまったく精気がうせた。一点ごときを虫眼鏡で見て、まるで蚤か虱の拡大像を見たかのように恐怖にふるえているから、こんな結果になるのだ。
 ―打たれてしまえ!
 一点など大きくない。まとめて取られる点が大きいのだ。大きく取られたら大きく取り返せばいい。一点を守るためにチマチマ投手交代などせずに、もっと大らかに野球をしなければいけない。木俣がボックスの外で素振りをしている。彼の打席であることを忘れていた。ワンエンドワンからの三球目、木俣は真ん中低目のシュートをスコーンと左中間へ打ち返した。ハイ、二塁打。私は快足を誇示するように水原監督の前をよぎる。無駄な滑りこみをせずにホームベースを駆け抜け、ベンチまで走っていく。四対八。
「神無月さーん!」
 一塁側ベンチの上方を見やると、睦子と千佳子が手を振っていた。帽子を取って掲げた。一塁スタンド全体から拍手と歓声が湧き上がる。ベンチに腰を下ろしたとたん、一枝が右中間にポトンと落とすシングルヒットを放った。木俣生還。五連打。四対九。
「ほれいけ!」
「ビッグイニーング!」
 ノーアウト。伊藤竜彦、正念場の三打席目。交代させられる前に少しでも役に立っておきたいと思ったのか、バントをした。この消極性はまずい。ちっとも多彩な攻撃にならない。だれも感心しない。凡打のほうがまだいい。一枝二塁へ。ワンアウト二塁。これまた三打席目の葛城。あえなく打ち上げて、レフトフライ。小川、サードゴロ。こうなってしまう。
 六回から小川を継投して山中が登板した。ひさしぶりだ。先回の登板がいつだったか思い出せない。六月中ごろの巨人戦だったような気がする。そのとき四勝目を挙げたはずだ。豪快な投球フォーム、走るストレート、するどく落ちるフォーク。決め球だ。四、五年前までは準エースとして十五勝前後を挙げていた人だ。肝臓が悪いせいで今年かぎりと言っていたが、まだ二十五歳なのに無念なことだろう。
 守備交代を下通がアナウンスしている。ライト伊藤竜彦に代わって菱川、サード葛城に代わって太田。伊藤や葛城たちは一軍正規の控えなので、一度や二度の不発では二軍に戻されない。球場内の選手用シャワーを浴び、一、二軍共棲の宿舎へさびしく帰るだけだ。彼らに足りないのは才能ではない。三振してしまおうという捨て身だ。次の出番は相当先になるだろう。
 山中は先頭打者の近藤昭仁をショートフライに打ち取ると、伊藤勲をフォークで空振り三振に仕留める。いい出足だ。五点差を守り切れるだろう。関根の代打、江夏殺しの林健造をたちまちツーワンと追いこむ。四球目、五球目とファールを打たれ、六球目スピードの乗った真ん中寄りのストレート。合わされた! 菱川がむこう向きにバックする。すぐに追うのをあきらめた。低いライナーがライト最前列に飛びこんだ。久保田線審の右腕が回る。五対九。
「ドンマーイ! ドンマーイ!」
 私は声をかぎりに叫んだ。太田、一枝、高木、江藤がマウンドに寄っていく。三人が交互に山中の肩を叩く。山中は大きくうなずいた。小谷に代打が出る。チビの重松。意外なホームランバッターだ。打率も二割五分前後。いつもスタメンなのに、きょうはバッティング練習で当たっていなかったのだろうか。いずれにせよ油断できない。
 初球、内角シュート。足もとへファール。危うく自打球になるところだった。山中のボールが切れている。躍動するフォームから二球目、内角へストレート。ボール。重松はピクリともしないで見送った。初球を打ち損なって内角を捨てたということだ。外角に投げると危ない。狙っている。内角高目のストレートを投げればおそらく凡フライに打ち取れる。
 ―山中さん、内角高目!
 三球目、外角遠くスライダーが外れる。つんのめって見逃し。狙っているのだ。ワンツー。山中さん、内角だ! 低めでもいい。四球目、外角フォーク。するどく落ちた。
 ―打ち取ったか? や、合わされた。うまく合わされた。
 高木のグローブの下を渋い当たりがライト前へ抜けていく。ツーアウト一塁。ここで江尻だ。敬遠すれば、ホームランで一点差になる。四点差しかないのに、ランナーを溜めるのは得策でない。勝負だ。
 初球、内角高目のストレート。首のあたり。わずかにボール。わからない。きょうの江尻には、どこに投げても打たれそうだ。二球目、内角低目のカーブ、凡ゴロ狙い、打て! 打たない。見逃してストライク。江尻は自信を持って見逃す。三塁側スタンドから満足げなため息が上がる。ワンワン。さっきの江尻のホームランは外角低目のシュートを合わされている。じゃ内角か? あの構えは内角に強い。それでは真ん中か。いや、真ん中はきょうの江尻にはぜったいだめだ。スッと持っていかれる。あえて外角だ。外角高目で私へフライを打たせればいい。三球目。快速球。
 ―ワ、真ん中高目!
 江尻フルスイング。確かなミート音。瞬間山中が膝を落とした。失投だったのだ。白球がライトスタンド目がけてまっしぐらに伸びていく。あっという間に上段に突き刺さる。江尻が感激を抑えるふうにうつむいて一塁を回る。
「トオルちゃーん!」
 レフトスタンドのファンが叫ぶ。
「よう打った!」
 大洋の球団旗が派手派手しく振られる。七対九。
「江尻選手、第九号のホームランでございます」
 水原監督が出てきて木俣を呼び、いっしょにマウンドまでいって山中に語りかける。監督はすぐにベンチに退がる。続投。木俣がパンパンと山中の肩を叩く。これぞ手に汗握る展開なのだろうが、私は手に汗をかけない体質だ。顔と頭に汗をかいている。青森高校野球部のかけ声を思い出し、私は空に向かって吼(ほ)えた。
「オエ、オエオエー!」
 福井線審が驚いてこちらを見た。すぐに中と菱川が呼応した。
「オエ、オエオエー!」
 山中は芸のない檄を上げた外野手三人に向かってグローブを挙げた。そうして生き返った。近藤和彦を外角高目の速球でキャッチャーフライ、大橋を真ん中に落ちるフォークで三振、松原を内角シュートでサードゴロに打ち取った。
 六回裏。中からの打順だ。またまたピッチャー交代。ドロップの及川宣士(のぶし)。背丈はふつうだが、顔はジャイアント馬場に似ている。オーバースローから投げこむストレートが重い。二点差。あと二点取られれば小川の勝ちが消える。小川を負け投手にしてはならないと思うが、こればかしは山中のできしだいなのでどうにもならない。とにかく山中だけでも負け投手にしないように一点でも多く取っておこう。
 中、カーブを打って一塁線突破! みごとなホーバークラフトであたりまえのように三塁を陥れる。高木、二塁前へセーフティバントを決め、中を迎え入れる。七対十。江藤、ドロップを打って三塁線を抜く二塁打。高木、二塁、三塁を蹴って長駆生還。七対十一。着火。
 私の打順になった。なぜか鉦太鼓の音が静まっている。観衆が声援を自粛し、固唾を飲んで見守っている。百号を超えたホームランが一本一本何か特別なものでもあるかのようだ。彼らの真剣に見つめたいという思いが伝わってきた。感激した。四点差。私に打たれれば大洋は回復不能になるだろう。敬遠だ。しかし三度もつづけて敬遠じみたことをすれば、また連盟からお叱りを受けるかもしれない。敬遠とバレないように、バットの当たらない安全なコースに散らしてくるはずだ。中の声。
「金太郎さん、ここから一号だ!」
 私はベンチを振り返ってヘルメットの鍔(つば)を上げた。露骨に外せない初球を狙う。平光にヘルメットの鍔を上げて目立たない一礼。むろん礼は返ってこない。わざとらしいという記事を一度ならず読んだことがあるが、プロの審判に敬意を払うようになって以来、最低限の礼儀として実行している(ふと忘れることはあるが)。伊藤勲が、
「よし、こい!」
 這いつくばるように低く構えた。この低さに直球はこない。打ちやすい低目のストレートになる。この低さからさらに変化球を落としてくる。
 ―だれも見たことのないような、大きな、美しいホームランを打つ。
 それが私の使命だ。目にも留まらぬ一振りで上空へ伸びていく打球。それを観るために人びとは球場にやってくる。




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