第三部


八章 オールスター



         一

 七月十九日土曜日。六時起床。曇。二十三・二度。朝の日課を終え、初めて浴室の裏の小庭に出て、冬の終わりに植樹した木や、七月の草花を眺める。木は、ユズリハ、白花の散ったシャリンバイ、赤い実を垂らしているソヨゴ、生垣の連続でキンモクセイ、ドウダンツツジ、イロハモミジ。花は、マリーゴールド、ルドベキア、ヒマワリ、ノウゼンカズラ、トケイソウ。朝顔は手入れがたいへんなので植えない。
 三人で朝食。焼き鱈、明太子、昆布・油揚げ・シメジの煮物、キュウリとチクワの酢の物、ジャガイモとタマネギの味噌汁、赤飯。
「五日間、くれぐれもケガのないように。何かあったら、すぐ電話ちょうだい」
「わかった」
 カズちゃんとメイ子を送り出し、菅野と大鳥居往復ランニング。
「オールスターで敬遠はできないですから、相当ホームランを打ちそうですね」
「二本ずつ打ちたいな」
「いけるでしょう。デッドボールくさい球も投げてこないでしょうから」
「阪急と近鉄のピッチャーと対決できる」
「阪急は米田と梶本の二人、近鉄は鈴木、佐々木、清の三人です。野手も阪急近鉄まみれですよ」
 北村席へ帰ると、主人と女将がいろいろな車のカタログを広げていた。
「菅ちゃん、門脇のガレージ、何台くらい車が入るかな」
「普通車で七、八台はいけるでしょう」
「ミニクーパーなら、もう二台はゆるゆる入るな」
「余裕です。どれどれ、ちょっと拝見。ベンツ! だめだな。北村家のイメージに合わない。クラウンか。これもあの二人のイメージに合わないですね。オープンカーはアホくさいし、ワゴン車はもういらないし、やっぱりローバー・ミニですかね」
「だな。お揃いがええやろ。色は素子が赤、千佳ちゃんは白。あ、神無月さん、バーベル注文しときましたからね。オールスターが終わるころには届いとるやろう」
「ありがとうございます。これで腕の筋力を維持できます」
「アヤメは来月初めにほぼ完成しますよ。税理士をもう一人雇いましたし、料理人と店員の最終名簿もできあがって、あとは開店を待つだけです。そのあと、アイリスは二週間休業して店舗拡張ですわ」
「わくわくしますね。アヤメの店員は、羽衣や鯱から何人ぐらいくるんですか」
「十人ずつぐらいですかね。塙さんの銀馬車から三人ほど。ほかに、アイリスから天童と丸の二人がいきます。幣原さんが厨房からアヤメへいく代わりに、三上ルリ子と千鶴が厨房に入ります」
「千鶴が……」
 女将が、
「高校にかよいたいらしいでな、北村からのほうが便利やわ。キッコもたぶん再来年あたり大学生になるで、助け合っていけるやろ」
「みんな放り出さずに、受け入れるんですね」
「船に乗せたるゆうより、同じ船にいっしょに乗っとるゆうことですかね」
 菅野は無言でうなずき、カタログの小さな車体を検分した。
 シャワーを浴び直し、しっかりと身支度をした。十時半に、江藤、中、小川、小野の四人がやってきた。迎えに出た数寄屋門が報道陣でざわついている。インタビューはされなかった。北村席という古風な屋敷を背景に、オールスター出陣前のドラゴンズ選手の集合風景でも撮りたいのだろう。悠然と門を入る彼らの背景として北村席は恰好の絵になる。
「一服して、出かけましょう」
 北村席を初めて訪ねた小野は、数寄屋門を入るときからキョロキョロと新奇なものを見る目で周囲を眺め、座敷のテーブルについてからも、コーヒーをすすりながらステージ部屋や別テーブルの女たちを眺めていた。女たちは遠くから遠慮がちに頭を下げた。
「とんでもなく大きい家ですね」
 傍らに控えていた腹の大きいトモヨさんに言う。お腹の子が私の子だとは思いもよらない。トモヨさんは答えて、
「ご存知のように、特殊な商売の家ですから。一階、二階、離れを合わせると、二十も部屋があります。お義父さんは八つか九つと思ってるようですけどね。八月からはそのほとんどが埋まります。喫茶店のほかに、来月から食堂を開業しますので、従業員のかたたちの一部が住みこむことになりますから。学校の寄宿舎みたいなものですね」
「実際、学校か寺を営めますよ」
「奥さんと喧嘩なさったときは、どうぞ駆けこんできてください」
 江藤が大声を上げて笑った。主人が、
「小野さんはオシドリ夫婦だから、喧嘩なんかせんでしょう」
「そうでもありません。私はカーキチなので、よく衝突します」
「大毎時代はリンカーンに乗ってましたね」
「はあ、お恥ずかしい。いまは女房に負けて、マークⅡです。門のところに紺色のがありましたね」
 菅野は話が長くなると思ってか、ローバー・ミニの話題は出さなかった。江藤が、
「ワシは車には興味がなかです」
 中が、
「修理工場やってたのに?」
 江藤はさびしそうに笑いながら、
「利さん、弱みを突いたらいけん。あれは車に興味あったんやなく、単なる商売やったとじェ。家族のためにしよったとよ」
「知ってるよ。その家族にひさしぶりに会えるね」
「おお、平和台の第三戦が終わったら、西鉄ホテルには泊まらんと実家に帰る。二十五日の大洋戦に間に合うよう東京へ戻るけん、よろしく。省三もクニに帰っとるはずやけん、いっしょに戻ってくるばい」
「平和台は二十二日か。けっこうゆっくりしてこれるね」
「おう、一家で脇田温泉にでもいってくるばい」
「この三日間、選手たちはチーム別にちがうホテルに泊まるんですね」
 私は中に尋いた。
「監督、コーチ、選手合わせて六十四名、審判団八名、その他の関係者を含めれば百人ほどの人たちの移動だから、バラバラと分かれて五つぐらいの宿になるね。私たちはいつものとおり、東京はニューオータニだよ。甲子園は芦屋竹園旅館、平和台は西鉄グランドホテル。西鉄グランドホテルにはセパ両リーグ全員泊まる。他チームの人間と顔を合わせても、口を利こうなんて気を使わなくていいからね」
「はい」
「金太郎さんはやさしかけんが、気に入った人間以外には、基本的に無関心ばい。寄ってきよったら応えはするばってん、こっちからは寄っていかん。あ、そうや、水原さんが五人でうまかもんば食えて、二十万円もくれたっちゃん。きっちり使い切らないかん」
 中が、
「先発とか打順とか、聞いてる?」
「利さんとワシと金太郎さん、それから王は、一、三、四、五番で全試合出場と決まったげな。長嶋は六番やろうもん。全試合出るかもわからん。健ちゃんは第一戦の先発、小野さんが第二戦の先発や。第三戦は堀内」
 菅野が、
「首位を走る中日最優先。川上監督もエコヒイキのしようがないというわけですね」
「おおよ。連日主役やけん、やっぱり腹ごしらえが重要になるばい。この金ば使ってたっぷりごちそうば食って、早寝を基本にしぇな。打ちまくり、投げまくるばい」
 主人が、
「がんばってください。甲子園は応援に駆けつけますから」
「甲子園にくるとね!」
「十三人でいきます。ネット裏です」
「こりゃ、まっこと本気で張り切らんといかんばい」
「そろそろいきますか」
 中が立ち上がった。私は背広の胸ポケットに眼鏡とお守りをしまった。本は持たなかった。ダッフルを担ぐ。ソテツが五人に弁当を渡す。革靴を履いた。一家の者全員が式台に膝を折った。
「いってらっしゃいませ!」
 女将が玄関で男たちに切り火を打った。古風な作法に四人の男は目を丸くした。二十人ほどの報道カメラマンが門で待ち構えていた。彼らは曇り空の下でしきりにフラッシュやストロボを焚きながら新幹線のホームまでついてきた。
 車窓に主人と菅野とソテツが見送った。ソテツはべそをかいていた。
         †
 三時半。ユニフォームに身を固め、運動靴を履き、ズックのダッフルを肩に担い、二本入りのバットケースを提げて、ニューオータニのミニバスで東京球場へ出発した。在京球団の選手は、自宅や寮からやってくるようで、ホテルでは一人も見かけなかった。阪神と広島の選手と同乗した。江夏、村山、田淵、若生、藤田平、外木場、山内、山本一義。コーチを務める阪神の後藤監督と広島の根本監督は、タクシーで先発したようだった。私たち五人にだれも語りかけてこなかった。私は、
「中さん、一チーム三十二人もいたら、ベンチ、入り切らないですよね」
「ふつう無理だな。立ち見が出るね。ブルペンかロッカールームに退避するやつも出る。でも、東京スタジアムは五十人入るベンチだ。きょう出場する予定のない選手もゆったり見物できる。心配ないよ」
「それでも退避しようかな。打順になったら出てきて」
 江藤が、
「川上を避けとると思われたらシャクやろう」
「そうですね、何とも思ってませんからベンチに座りますか。森はイヤだけど」
 小野が、
「どうせジャイアンツが最前列だから、後ろの列にいれば顔を合わせなくてすむよ」
 江藤が紙切れを出し、
「きょうのスケジュールを教えとくばい。タコがおらんと、こういう役はワシに回ってくる。四時十五分から五十五分までパリーグのバッティング練習、五時から五時四十分までセリーグのバッティング練習、つづけて五時五十分までセリーグの守備練習」
「たった十分なんて、やる必要ないですね」
「肩を見せるデモンストレーションたい。つづけて六時までパリーグの守備練習。六時十分から四十分までホームラン競争。終わったらすぐに開会式。ホームラン競争に出る四人は、セリーグ金太郎さんと王、パリーグ長池と野村。その予定やったが、野村がケガでオールスターの出場ば辞退した。野村から急遽、阪急の矢野になった」
「去年二十七ホーマーですね」
「そうや? それぞれ十球打つ。同点のときはつづけて五球で決着をつける。それでも同点なら引き分け。勝ち抜きは一人と決まっとるから、引き分けのときは、今年ホームラン数の多いほうの勝ち」
「開会式ってどんなものですか」
「例年だと、ブラバン全国優勝した高校生の演奏行進、徒手体操なんかやな。それなりに豪華なんやが、ざわついとる球場の中であのまじめな演技を見せられると、やるせなくなるばい。それから芸能人のくだらん開会式宣言。最後に始球式」
「だれが投げるんですか。バッターは中さんでしょう」
 小野が、
「荒川区長じゃないの。それか、去年野球殿堂入りした苅田久徳」
 小川が、
「案外、地元の強豪少年野球チームのピッチャーかもしれんぞ」
「ホームラン競争以外、無視してもいいんでしょう?」
「もちろんたい。なだ万の弁当でも食っとろう。四時半に選手控室に届くけん」
 村山がウィンドブレーカーの背中をクックッと揺すって、振り返り、
「あんたらねえ、いつもそんな話しとるの? 抜け上がっとるねえ。おかしすぎるわ。闘将江藤さんよ、神無月くんのおかげで骨抜かれて、あんたの本質が開花したね。いいお父さんや」
「何ばぬかす。金太郎さんと三日いっしょに暮らしたら、からだにビシッと骨が入るんぞ。金太郎さんの本質は喧嘩屋ばい。刃物男に襲われたときのことを思い出さんかい。バット事件もそうや。審判も選手もみんなふるえ上がったんぞ。恐ろしか。おかげでワシはホンモノの闘将になったとたい。心配なんは、金太郎さんが暴力事件で球界を追放されることばい。それを防ぐのがワシらの使命たい」
 山内が、
「神無月くんには勝てないね。天真爛漫すぎる。敵なしだ。この田淵も相当能天気だが、ちょっと敵わないね」
「金太郎さんは能天気やない。怒りのかたまりなんぞ。田淵やら、お坊ちゃんがただボーっとしとるだけやろ。比べんな」
 藤田平はブスッとしている。江夏が、
「たしかに神無月くんはいつも怒っとる。マウンドにいるとコワなる。ヤクザか殺し屋みたいでね。ただ、澄みわたっとるんで、ふつうの人間には恐ろしさが見えてこん。俺は初見でわかった。俺の本質はヤクザやから、わかった。……神無月くん、あんたが怒っとる相手は、正義を無視する人間や。しかしこの世に正義漢は少ない。こらえて爆発せんようにしてほしい。田淵みたいに、ほんとに能天気でいてほしい。あんたは球界の宝やから、いなくなったら火が消える」
 田淵が、
「大学野球のころからわかってました。そばにいると怖いんですよ。星野が逃げ出したのもそのせいだと思います。でも俺たち、勝負を仕事にする人間は怖いものから逃げ出したらいけない。逃げ出せば、挫折しか待ってない」
 藤田がボソボソ言う。
「無謀な怖さは怖くない。神無月くんは尾崎さんの背番号に手のひらつけて泣いてた。涙がからだの真ん中にある怖さは底なしだ。ああいう怖さはスケールがちがう。俺はショートから神無月くんを見たとき、仁王が立ってるように感じた」
 山内が、
「涙を流す仁王か。たしかに怖いな。尾崎からホームラン打っちゃったものね」
 山本一義が、
「仁王は模範的人物じゃない。だから、長嶋や王とちがって人気が出ない。野球人としてはもどかしいけど、ホッとする。球界の中だけの偉人ですね」
 小川が、
「ホッとする、じゃない。ありがたい、だろ。俺たちふつつかものを相手に、いっしょに野球をやってくれるんだからな。人気が出ないのはファンに媚びを売らないからだよ。人気のあるやつは微妙に媚びてる。模範を気取って自分を出さん」
 江藤が、
「神無月論争はキリがなか。金太郎さんがけむたがっとるばい。やめやめ」


         二 

 外木場が小川に、
「小川さんは、オールスターは今年で四年連続でしょう。もう慣れたもんですね」
「去年は二試合投げて、自責点ゼロだった。おととしは第二戦に投げて、長池にスリーラン打たれて負け投手。初めてオールスターに出た三年前は、第一戦で、七回にリリーフで出て、船田にダメ押しソロを打たれた」
「克明に憶えてるんですね。私は去年、第一戦、十回の表たたった一回投げただけで勝利投手になりました。その裏に江藤さんがサヨナラホームランを打ってくれたんですよ。ついてました」
「そういや、そんなことがあったな。忘れとったばい」
 四時、東京球場着。オープン戦のロッテ戦以来四カ月ぶりだ。どのゲートの近辺も黒山の人だかり。バスを降りるのを躊躇する。組員の姿を探す。いる。七、八人いる。警備員も十人ほどいる。彼らに護られてメインゲートを入る。三塁側の回廊をいく。先攻だとわかる。中に、
「先攻ですね」
「うん。パリーグのフランチャイズだからね」
「なるほど」
 球界一広くて壮麗なロッカールームが祭りのように賑わっている。
「よろしくお願いします!」
 と大声で挨拶する。みんな驚き、呆気にとられる。堀内と王が、
「よろしく!」
 と挨拶を返す。つられてその他大勢が、ウース! と言う。補充選手の浜野はロッカーを向いたままだった。平松が飛んできて握手を求める。
「百号、おめでとうございます!」
「ありがとうございます」
 スパイクに履き替える。江藤が大きな冷蔵庫を覗きこみ、
「この冷蔵庫は、アルトマンと醍醐が金出し合って買ったものげな。ビール、キリンレモン、コーラか。バヤリースがなかぞ、金太郎さん。キリンレモンかコカコーラたい」
「キリンレモンにしましょう。ホームラン打ったら、ここにきて飲みます」
「おお、景気づけやからな」
 私はダッフルから千円札を一枚取り出して、賽銭箱のような小箱に入れた。大洋の伊藤勲がキョトンとしている。アトムズのロバーツがやってきて、
「ナイストゥ、シーユー、アゲン」
「セイム、ヒア」
 と返して握手する。
 ダッグアウトにいき、出口の壁に凭(よ)って、内野二層外野一層の観客席を望見する。二本のポール型鉄塔に支えられた照明塔。日本初のラバーフェンス。青、黄色、赤の座席。センター後方全体をスタンドの高さで遮るバックスクリーン。越えれば場外だ。そのやや右手場外にそびえるスコアボード。旗が四本たなびいている。どうやってもあそこは越えられない。両翼九十メートル、中堅百二十メートル、左右中間のふくらみはほとんどなく、野球盤球場とも呼ばれている。
 一塁ベンチを眺めやる。パリーグ連中が和気藹々と語り合っている。祝祭の雰囲気に酔っている顔だ。長池、土井、張本、広瀬……。グランドを眺める。外野とファールゾーンばかり出なく、マウンドの周囲も四角く芝生が覆っている。芝の面積は大きいが草丈が揃っていない。手入れはあまりよくない。走り回りにくいが、ゴロは止まりやすい。狭いファールエリア、後楽園と同様低い内野フェンス。観客の顔が間近に見える。
 ケージ二基でパリーグのバッティング練習が始まる。一塁ベンチの何人かが急いで見にいき、打順待ちの連中とたがいに握手をしたり、辞儀を交わしたりしている。私は飽かずその様子を見つめた。ケージの後ろに記者やカメラマンが群がり、選手に親しげに声をかけている。
 セリーグベンチに視線を戻す。最前列にどっかと座っている背中が見える。川上監督、後藤コーチ、根本コーチ、森、長嶋、金田、その脇に土井、高田、黒江、高橋一三、浜野。遅れて王と堀内が混じる。さらにその後列に他チームのメンバーが十五、六人。最後列に各球団のマネージャーやトレーナーやスコアラーや、ぶら下がりの記者連中が立っている。
「弁当、きたばい!」
 背中に江藤の声。出口から引き返し、ドラゴンズの仲間三人と選手控室の空きテーブルでうまい弁当を食う。離れたテーブルにアトムズの武上と石戸がいて、ラーメンをすすっている。
「一番後ろの列に座ろうや。余計な神経を使いたくなかけん」
「ぼくもそうします。小川さんはいまからブルペンですか」
「ああ。トレーナー室で、まず藤波さんに腰を揉んでもらってからな」
 小野が小川に、
「あの室内ブルペン、二人しか投げられないだろう」
「はあ、いま阪神の若生と大洋の平松が投げてますよ。俺、並んで投球練習というやつが苦手でね。みんなデカいから」
 二十分かけて食い終え、中や江藤たちとベンチ後列に座る。ケージで永淵と大杉が打っている。森がチラと振り返るが挨拶をしない。三列、ぎっしりセリーグの選手たちが座っている。めいめい振り返るが、頭を下げるだけだ。江夏だけが手を上げた。江藤が小さい声で、
「シックリせんのう―」
「はい」
 私も小さい声で応えた。
「オールパシフィック、バッティング時間終了です」
 務台嬢の律儀な声の場内アナウンスが流れ、セリーグのバッティング練習が始まった。ダッグアウトからマウンドの後方を見やると、六人の素人くさい男たちが並んでいる。鏑木もいた。江藤につづいて中がケージに入る。江藤は尻餅をつくほどの空振りを三度やって観客を笑わせた。中はバントを三本やった。鏑木のボールはなかなか素直で、打ちやすい球筋をしていた。江藤と中に投げて引っこむ。川上が振り向いて、
「きみは打たんのか」
「見ているだけで胸がいっぱいですので」
「サービス精神がないね」
 土井が、
「本塁打競争の前に運を使い果たしちゃったらたいへんだもんね」
 ダッグアウトに残っているコーチ、選手連中は静まり返っていた。小野が私の手の甲をポンポンと叩いた。江藤と中が戻ってきた。黒江が、
「右大臣左大臣のご帰還だ。さあ、打ちにいってくるか」
 江藤は足を止めて黒江を睨みつけ、
「アホはどうしようもなかね。売られる喧嘩に見どころがなか」
 森は沈黙していた。金田が立ち上がり、江藤に向かって深くからだを折った。
 セ・パ両リーグの短い守備練習が終わり、おのずとどよめきはじめた喚声の中でホームランダービーが始まる。
「みなさまお待ちかねのホームラン競争でございます。まず、右のケージ、セリーグ中日ドラゴンズ神無月郷選手、左のケージ、パリーグ阪急ブレーブス矢野清選手!」
 渦巻く喚声。満員の内野二階席の眺めが壮観だ。マウンド右裾の鏑木が帽子を脱いで挨拶する。私は笑顔で応える。ストレート以外は投げてこない。いや、投げられない。矢野付きのピッチャーがマウンドの左裾から矢野に挨拶する。矢野も帽子を取って挨拶する。二人で交互に打つ。
 鏑木の初球、真ん中低目、バックスクリーン目がけて打つ。やや右へ逸れて、スコアボード下の場外仕切り看板へ。矢野、左翼スタンド中段へみごとなライナー。私、ライト場外へ。矢野、左中間フェンスにワンバウンド。
「オー……」
 スタンドのため息。私、つづけてライト場外へ。矢野ぎりぎりレフトの前段へ。私、左中間場外へ。矢野、左翼ポールぎわへファール。私、右中間スコアボード右下へ。矢野、レフト前のゴロ。私、ライト照明塔の鉄ポールへ。ついに観客が声を失った。矢野、左中間最前列へ。私、レフト上段へ。矢野、ショートゴロ。私、バックスクリーン直撃。矢野、レフト前のライナー。私、右中間上段へ。矢野、レフトポールをすれすれに巻く。私、スコアボードの時計の右横へ。矢野、サードフライ。
「第一回戦は、ごらんのとおり、十本対四本で、神無月選手の勝利でございます。なお、十本中十本という成績は、ホームランダービー始まって以来の新記録でございます」
 鏑木が子供のように飛びついてきた。ベンチから走り出てきた江藤が抱き締めた。矢野が握手を求めた。へつらった笑いのない真摯な表情の握手だった。王がまじめな顔で私の手を握り、
「力をもらいますよ」
 王対長池は、七本対五本で王の勝利になった。王もライト場外に二本、長池もレフト場外に一本叩き出した。
「オールスターホームランダービー、一回戦の勝ち抜き者は神無月選手に決定いたしました」
 ベンチが王と私を大きな拍手で迎えた。金田がまた最敬礼をした。長嶋が、
「ワンちゃん、ナイスバッティング!」
 と言って握手した。王は戸惑った顔をし、江藤と中が苦笑いした。
 整然とした隊列をなして、ブレザー姿の楽隊がワシントン・ポストを演奏しながらファールグランドの通路から入場してきた。胸が躍る。
「都立竹台(たけのだい)高校吹奏楽部による開会演奏でございます。竹台高校は今年度全国大会準優勝校です。有吉佐和子、林家三平、早野凡平等の母校でもあります」
 野球に世俗の権威が入りこみ、耳に障る。無名人たちの純粋なブラスバンドの響きを心ゆくまで聴かせてくれ。バトンガールたちの演技。すばらしいシンクロだ。私は思わず拍手した。小野も中も江藤も拍手した。よそ見していたベンチの連中は、ふたたびよそ見した。江夏と藤田平が遠慮がちに拍手していた。
「ピンキーとキラーズの今陽子さんによる開会宣言でございます」
 なんと出てきたのは、山高帽をかぶり黒いパンタロンを穿いたピンキーだった。
「ワースレ、ラレ、ナイノー!」
 と一節歌い上げると、
「ピンキーでーす! きょうはすばらしいホームラン競争を見せていただき、ものすごく感動しました! それでは、エヘン、昭和四十四年度オールスター第一戦の開会を宣言します!」
 ウオーという喚声の中、ピンキーは恋の季節を演奏する楽隊といっしょに去っていった。
「レッツゴー!」
 七時十分前。江藤に腕をつかまれ、マウンドに走らされる。マウンドの両側にセ・パ両軍に分かれて並ぶ。アナウンスが流れる。
「両チームのスターティングメンバーを発表いたします。先攻のセリーグ、一番センター中、背番号3、中日ドラゴンズ」
 中が一歩前に進み出て帽子を振った。納得。こうやるのか。
「二番ショート藤田平、背番号6、阪神タイガース、三番ライト江藤、背番号9、中日ドラゴンズ、四番レフト神無月、背番号8、中日ドラゴンズ」
 一歩前に出て、帽子を振りながらテレビカメラに向かって笑いかける。怒号のような喚声が上がった。
「五番ファースト王、背番号1、読売ジャイアンツ、六番サード長嶋、背番号3、読売ジャイアンツ、七番キャッチャー田淵、背番号22、阪神タイガース、八番ピッチャー小川健太郎、背番号13、中日ドラゴンズ、九番セカンド武上、背番号2、アトムズ」
 川上の趣味で、またピッチャーが八番だ。
「つづきまして、後攻のパリーグ、一番セカンド山崎、背番号2、ロッテオリオンズ、二番ライト永淵、背番号10、近鉄バファローズ、三番センター長池、背番号3、阪急ブレーブス、四番レフト張本、背番号10、東映フライヤーズ、五番ファースト大杉、背番号51、東映フライヤーズ、六番サード船田、背番号8、西鉄ライオンズ、七番ショート阪本、背番号4、阪急ブレーブス、八番キャッチャー醍醐(ダイゴと片仮名で掲示されている)、背番号24、ロッテオリオンズ、九番ピッチャー成田、背番号46、ロッテオリオンズ。チーフアンパイアは富沢・セリーグ、塁審は一塁坂本・パリーグ、二塁平光・セリーグ、三塁久保山・パリーグ、線審はレフト柏木・セリーグ、ライト吉田・パリーグ。以上でございます」
 ようやくパリーグのメンバーが守備に散った。
「ザ・タイガース、ジュリーこと沢田研二さんによる始球式でございます。野球をこよなく愛する沢田さんは、かつてご自身もプロ野球選手になることを夢見ていられたそうで、現在も寸暇を見つけては早朝野球を楽しんでいらっしゃいます。きょうはユニフォーム姿で登場です!」
 どこまでお祭りがつづくのだ、早く終われ。ジュリー! ジュリー! ジュリー! とあちこちのスタンドから黄色い叫びが上がる。そのジュリーは吉田線審に伴われ、背番号26のユニフォーム姿で走ってきた。額にJをつけた野球帽をかぶり、使い慣らした柔らかそうなグローブをはめている。成田にボールを渡され、しっかり振りかぶり、足を高く上げ、九十キロぐらいの山なりのボールを投げる。草野球をやっているくらいだからもちろん届く。中、まじめに空振り。ジュリーは四方に帽子を振って愛想を振りまき、また吉田線審といっしょに走っていった。終わった。中があらためて打席に立って構える。
「プレイボー!」
 富沢球審のするどい声が上がる。時計を見ると、ピッタリ七時だった。すでに空は暮れていて、照明塔からオレンジがかったカクテル光線が降ってくる。
 成田は初球、グローブを高く掲げて、低く右腕を引き、伸び上がって胸を張り、空手の手刀のように投げ下ろした。高速スライダー、ストライク。喚声。中がバッターボックスの中で、考えごとをするようにうつむいてたたずんでいる。デッドボールになるほど切れる変化球でなければそれほど恐れるに足らない。二球目、外角ストレート、ガシ! 三塁ラインぎわのゴロ。船田が横向きに腰を落としてさばいて送球、ワンアウト。惜しかった! 
 二番藤田平、内角カーブと宝刀スライダーで三球三振。
 三番江藤、内角のゆるいカーブ、外角の速いシュートで、ツーナッシング。三球目、外角のするどいスライダー、ファール。バットの先に当たったボールがパリーグのベンチに飛びこんだ。成田がセンターを向いてボールをこねている。私まで回したくないのだ。オープン戦で私は彼のスライダーをホームランしている。四球目、やはり外角へスライダー。江藤は予想していたようにクローズドに踏み出し、ブッ叩く。火を吹いてライト前にすっ飛んでいった。胸を張って一塁ベース上に立った江藤は、後藤一塁コーチと軽くタッチした。
 歓声に歓声が重なる。金太郎コール。当てるだけで入る狭い球場。外野がぎりぎりまでバックした。私の内角低目はホームランと紙一重のコースだから、よほど追いこまないかぎり決め球のスライダーは投げてこないだろう。中に似た顔の好男子が前屈みにキャッチャーのサインを覗きこむ。空振りは取ろうと思っていないはずだ。凡打で打ち取る。ツーストライクまではストレートとシュートで追いこみにくる。それを打つ。スライダーは待たない。平行スタンス、ややボックスの前方で構える。なかなか投げない。醍醐がタイムをかけ、成田に走り寄る。一塁ベースから江藤がマウンドに向かって怒鳴る。
「何ばしちょるとね、お祭りたい!」
 醍醐が駆け戻り、成田はセットポジションに入った。初球、スローカーブ。外角へふらふらと落ちる。ストライク。目くらましか。そんなものには手を出さない。瞬間、江藤がスタートを切った。ピッチャーへ返球するばかりで安心しきっていた醍醐は、あわててセカンドへ送球した。高い。山崎ジャンプ。タッチをかいくぐって、セーフ。拍手と大歓声でスタンドが揺れる。味方ベンチの視線がセカンドからバッターボックスに戻る。


         三

「金太郎さん、一発!」
 中のするどい声が飛んでくる。
「神無月くん、いけ!」
 小野の声だ。成田セットポジションから二球目、外角低目、シュートの軌道だ。江藤と同様クロスに踏みこみ、少し屁っぴり腰で両手首を絞りこむ。余裕で芯を食った。ネクストバッターズサークルの王が、
「いった!」
 と叫んだ。怒涛の喚声。低い打球がグングン上昇する。長池と張本がすぐに追うのをやめた。左中間の看板にぶち当たって観客席に撥ね返った。張本の後方まで走ってきた柏木が派手に右手を回した。江藤が振り返って私にピースサインを送り、スピードを上げて三塁を回った。私もスピードを上げ、二人のベースコーチたちとタッチせずにダイヤモンドを回った。ホームイン。中、江夏、平松、小野、王、それにベンチ脇のブルペンから走ってきた小川がホームに出迎えた。ベンチ内でいくつかの手にタッチしながら、江藤と二人、ベンチ裏からロッカールームに駆けこんでキリンレモンを飲んだ。スタンドのざわめきが聞こえてきた。
「まず一本」
「はい!」
「しかしスターというのは嫉妬のかたまりやのう」
「この孤独、たまりませんね。生きてるって感じます。これがあるから、人のやさしさがしみじみわかる」
 ワーという喚声が聞こえた。出口から覗いてみると、王が三振したところだった。
「江藤さん、守備!」
「よしきた!」
 背番号8がライトへ走っていく。二対ゼロ。 
 小川がいつものとおりスタートで躓く。山崎にフォアボール、永淵にフォアボール、長池に痛烈なレフト前ヒットを喰らい、満塁。しかし、ここからがすごかった。張本をゆるいカーブでボテボテのセカンドゴロに仕留め、武上から王、王から田淵へ転送して長池を本塁タッチアウト。大杉ツーワンから胸もとストレートで空振り三振。
「ナイス、ピッチーング!」
 江藤と中と声を合わせながらベンチへ走る。小川は、
「いやあ、薄氷、薄氷。キリンレモン飲んでくるわ」
「ワシは今度はコーラ」
 江藤も中といっしょにベンチの奥から出ていった。私は最後列に腰を下ろす。いっさいだれからも話しかけられない。傍らに鏑木と池藤トレーナーが座っている。ひそかに二人と熱い握手をする。カクテル光線がさらに明るさを増してきた。夜になるとじつに美しい球場だ。涼しい風が吹いている。旗が萎れずにたなびいている。二十六・一度。
 二回表。六番長嶋から。フラッシュが瞬く。尋常でない歓声。
「長嶋ァ!」
「ミスタープロ野球!」
 三塁ベンチの屋根で関屋さんの笛、紙吹雪。長嶋、ワンナッシングから大きなカーブにヘッドアップして、あえなくピッチャーゴロ。田淵、初球のスローカーブをうまく引っかけてレフト前ヒット。江夏、村山、藤田平、若生が拍手する。他チームで拍手しているのは、王と平松と堀内と私たちだけだ。三日間が思いやられる。打ち解けることはまずないだろう。小川、三振。武上、ライトフライ。
 二回裏。小川続投。船田をショートゴロ。阪本、ライトオーバーの二塁打。醍醐、深いセンターフライ。阪本タッチアップして三塁へ。成田、低目のカーブで空振り三振。これでチェンジと思った瞬間、田淵パスポール。阪本生還。二対一。川上監督がピッチャー交代を告げる。
「え!」
 声を上げた私の手を中と江藤が押さえる。外木場の名がアナウンスされる。あっという間に山崎を三振に切って取る。
「すみません、小川さん」
 田淵がしきりに頭を下げる。
「いいんだよ、薄氷が割れそうだったから」
「は?」
「自責点がつかなかったから、平気、平気」
「すみません、ほんとに」
 私たちドラゴンズの三人の外野手は、お役御免の小川と握手をすると、走って守備についた。
 三回表。成田に代わってスリークォーターの田中調(みつぐ)。中に高田が代打で出る。江藤が、
「なんやと! 最後まで出すんやなかったんかい」
 今度は中が江藤の手を押さえる。高田がバッターボックスに入る。小野が、
「なるほど、こうやって中日のメンバーを入れ替えていくわけね」
 高田、サードゴロ。藤田平、ライトオーバーの二塁打。江藤、顔のあたりのカーブをひっぱたいてレフト場外へツーランホームラン。むしゃくしゃした顔で高速で戻ってきた。ガッシリ抱き合う。四対一。つづく私も、初球曲がりの甘い内角スライダーを掬って、ライト上段へライナーで叩きこむ。次打者の王と握手、江藤と抱擁。五対一。
 田中調から木樽に投手交代。細身の大柄。その美男子ぶりに驚く。たしかに高木が言ったとおりモンゴメリー・クリフトの顔だ。踵をクッと上げてカクンと落とす投げ方は、ドラゴンズの英雄権藤博に瓜二つ。腕をからだに巻きつけるように投げ終えたあと、ススッとマウンドに後退する仕草が独特だ。王、フォアボール。長嶋、三塁ベースに当たる内野安打。ロバーツの代打山内、センターフライ、田淵、三振。
 三回裏。永淵、センター前ヒット。長池、サードゴロゲッツー。張本、セカンドゴロ。
 ベンチへ走り戻りながら、蒼黒い空の下に照らし出された三万五千人の観衆を眺める。一人ひとりに目を凝らしたり、全体を眺めたりする。なだらかな一階席、かぶさるようにせり出した二階席。ゴンドラシートがポールぎわまである。キャンドルスティックと呼ばれる煌々と輝く照明塔。かすかなざわめきに同調しているせいか、まったく耳鳴りが聞こえない。
 四回表。武上、ファーストゴロ。高田、三振。中と交代させた意味がまったくない。藤田平、レフト前ヒット。江藤の打順になった。木樽の美しい顔が紅潮している。江藤はバッターボックスに入る前に三塁ベンチを見た。彼の視線を追ってネクストバッターズサークルから振り返ると、川上が貧乏揺すりをしているのが見えた。江藤に打ってほしくないのだ。一瞬のうちに江藤の気持ちがわかり、私は立ち上がってベンチに帰った。江藤でチェンジだ。訝しげな視線がまとわりつく中で、私はバットをバットスタンドに差しこんだ。江藤は気のないセンターフライを打ち上げた。
 四回裏。大杉、三振。船田、センター前ヒット。阪本、ピッチャーゴロゲッツー。
 五回表。江藤のセンターフライが頭にある。ベンチを見る。巨人連中が不機嫌だ。タイムを取り、ベンチに走っていって江藤を呼ぶ。二人でネクストバッターズサークルへ歩きながら、
「江藤さん、ぼくたちは巨人の機嫌取りに野球をやってるんじゃないんですよ。負けてあげる相手じゃないでしょう。何ですか、あのセンターフライは。出会って以来、最低のバッティングでしたよ。川上の貧乏揺すりや腰ぎんちゃくたちの不機嫌面は、ある種、タチの悪い迫害ですけど、めげずにいきましょうよ。給料はドラゴンズがくれるんですから」
「すまんかった、金太郎さん、すまんかった。一瞬、濃人の恐ろしさを思い出してな」
 掌で目をこすった。
「恐ろしいことをされたらされたで、いっしょに辞めましょう。いつでも喜んで辞めますよ。そんな腐った球界に未練はないですからね。じゃ、打ってきます。江藤さんも次はお願いしますよ」
「おお!」
 初球、かなり速いストレートが内角低目にきた。早く打ってベンチの江藤のもとに戻りたかったので、軽く掬い上げた。インパクトの感触で、スタンドに届くとわかったので、全速力で走った。中段に突き刺さった。だれともタッチせずにベンチへ走りこんだ。六対一。
「中日ドラゴンズ、バンザイ!」
 と私は大声で叫んだ。いまのホームランが江藤と何か作戦を打ち合わせた成果ととったのか、ベンチ連中は何も言わなかった。黒江や土井は相変わらず不機嫌だった。一瞬のうちに怒りの感情が沸騰した。
「おい、こら! 読売新聞の腰ぎんちゃくども。俺たちが何かおめえらの気に触ることをしたか! なんだその不機嫌面は。帰れと言うなら帰るぞ!」
 江夏と藤田平がびっくりして立ち上がった。合わせてドラゴンズの中と小野と江藤も本能的に立ち上がった。王がレフトオーバーの二塁打を打ったところだった。金田が飛んできて、
「誤解だ、誤解だ、神無月くん、みんな感激してるのに、どう表現していいかわからんのだよ。すまんかった、誤解を与えてすまんかった」
 ネクストバッターズサークルからこちらを窺っていた長嶋が打席に入った。シャワー室で汗を流してきた小川が、タオルで頭を拭きながら入ってきて、
「きれいなトレーナー室だったよ。しっかり肩も冷やしてきた。第三戦もいけと言うならいくぜ。ん? どうしたの」
 小川は金田の平身低頭の様子に驚愕の表情になった。川上が立ち上がって帽子を脱ぎ、
「神無月くん、じつは、きょう、いいタイミングできみに謝罪しようとチャンスを狙っていたんだよ。緊張しちゃってね。脂汗までかいてたんだ。しかし、この顔だ。緊張すると不機嫌な顔になっていくし、貧乏揺すりは出る。黒江や土井は、それをきみたちに対する私の反感ととって、気を回して、意地の悪いことを言ってしまった。長嶋はきみたちを黙殺した。きみが江藤くんのセンターフライで堪忍袋の緒が切れたことはすぐわかった。きみが怒ってくれて、謝罪のときを得た。これまでのことはすべて水に流してくれたまえ。ほんとにすまなかった。どうか許してほしい」
 長嶋がフォアボールで出た。次打者の田淵があわててベンチから飛び出していった。巨人軍の連中が立ち上がってこちらを向き、川上といっしょにいっせいに頭を下げた。浜野もあらぬ方向を見つめて頭を下げた。堀内がやってきて、私たち全員と握手した。川上が、
「長嶋が勝手に腹を立てて、きみに親子の道義を説くなどという失礼なことをしたそうだね。王から聞いた。勘弁してくれたまえ。きみはけっして道義を欠いた人間じゃない。もろもろの事情を知れば知るほどわかってきた。森も最近愚痴を言ってたんだよ。悪いことをしてしまったってね」
 森がもう一度礼をし、
「なかなか素直になれなくてね、そういう気持ちをチームのみんなに伝達するのが遅れてしまった。申しわけなかった。どうか勘弁してください」
 信じられなかった。人はここまで瞬時に変われるものだろうか。何かチームの利益が絡んでいるのかもしれない。私はそれには応えず、
「楽しく野球をやれさえすれば、ぼくには何の不満もありません。人間の最大悪は、不機嫌と意地悪ですから」
 そう言って腰を下ろした。田淵が高々とレフトスタンドに放りこんだ。藤田と村山が出迎えにいった。九対一。
「きょうは、ベンチで応援させてください。気持ちがへんに昂ぶったままだと、ファンにいいプレイが見せられません。選手交代をお願いします」
「わかりました。ただ、ドラゴンズのメンバーを全員下げたとなると、ファンが騒ぎます。江藤くんは出つづけてくれないか」
 江藤は渋々うなずき、
「たしかにそうせんばな、お客が騒ぎだす」
 ジャイアンツのメンバーが腰を下ろしてグランドを向いた。
 木樽から金田留広に交代した。川上が外木場の代打を告げにいった。山本一義が出た。王と長嶋が戻ってきて、森に小声で事情を説明されている。すぐさま二人で最後列にやってきた。長嶋が、
「あれ以来、ずっと反省してたのよ。きみがどれほど親や親族に尽くしてきたか、どれほど苦しい環境で野球をやってきたか、水原さんから電話もらってね。ソーリーね。考えが足りなかった。これからも仲良くしてください」
 握手の手を差し出す。私は渋々握ってやった。山本一義、ファーストゴロ。王が、
「監督と森さんが謝罪したことで、神無月くんがプロ野球界に幻滅しないですんで何よりです。ほんとによかった。金田さん、安心したでしょう」
「おう、ワシも四百勝に邁進できるわ。シゲに神無月くんの啖呵を聞かせたかったよ。清水の次郎長だね。命を張って生きてるのがよくわかった。江藤くん、それからドラゴンズの諸君、あんたらはえらい! 命には命でという気概で神無月くんに接しとる。川上監督も森も命懸けで謝った。これからの巨人は盛り返すで。腰ぎんちゃくがおらんようになるでな。おお、留が出よった。ドキドキするわ」
そう言って自分の席に戻った。江夏が、
「神無月さん、ワシ、あなたを尊敬します。口で言っても信用されん。しかし、どう行動すればいいかもわからん。とにかく心から尊敬します。ペナントレースでは全力で勝負させてもらいます」
 川上監督が、
「金やん、武上の代打でいって兄弟対決してきて。次の回からアトムズの石戸くん、お願いしますよ」
「ほい」
 その金田はセカンドフライに倒れた。うれしそうに笑って戻ってきた。すでにベンチに退げられている中が、
「金太郎さん、きみはいま、巨人軍だけじゃなく、プロ野球界に革命を起こしたかもしれないよ。鬼神の怒りでね」
 小野が、
「私、まだからだがふるえてますよ。野球より感動的だ」
 小川がすべてを察して私を抱き締めた。
「そうか、爆発しちゃったか。イヤな雰囲気だったもんな。俺たちはいつでも身を引く用意はあるからな。金太郎さんと野球をやってるあいだだけが青春だからさ」
 江藤が、
「板ちゃんのとき以上の迫力やったばい。金太郎さんが怒鳴りだして、ああ終わった思って、よっしゃ、野球やめても金太郎さんと一生離れんて覚悟したとたんに、考えもせん奇跡が起きたばい。まだワシら金太郎さんと野球して生きられるっちゃん。そういうことなら、やっぱり一生離れんたい。ウハハハハ」
 あちこちで顔にタオルを当てる連中がいる。高田サードゴロ。チェンジ。
 五回裏。江藤が私の代わりにレフトに回り、ライトに山内が入った。武上の代打に出た金田に代わって二塁に土井が入り、田淵は森と交代した。ピッチャーは石戸に代わる。
 私の交代アナウンスに場内が大波のようにざわめいた。私の左隣に小川と中と小野、右隣に無言で江夏が座ってきた。電話が入っていると球場係に呼ばれて川上が出ていった。大幅なメンバーチェンジに、後藤コーチと根本コーチが何ごとかと周囲に糾した。
「神無月くんが疲れました。わがままではありません。監督の気配りです」
 守備につこうとしていた王が後藤たちに大声で答えると、一塁ベースに向かって走っていった。




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