七

 十時二分試合終了。きょうはヒーローインタビューを逃れるわけにいかなかった。一試合三本塁打の新記録を二試合つづけて達成したことや、二試合連続でMVPを獲得したことも含めて、打率、打点、得点、出塁率、すべて記録づくめのようだったからだ。うれしいです、できすぎです、あしたもがんばります、と適当に応えた。マイクが特別に場内放送用のスピーカーにつなげられているせいで、スタンドが拍手と喚声で揺れた。フラッシュがまぶしいほど焚かれる。
 私のインタビューのあとは、勝利監督と勝利投手小川への紋切り型の賛辞と質問。川上監督と私との和解の件はインタビューの質問に出なかった。しかし、川上本人が進んで話題に上(のぼ)せた。
「オールスターという宴がここまで盛り上がったのは、プロ野球の歴史始まって以来のことです。それも選手諸君が、神無月くんはじめ、彼を畏敬するドラゴンズメンバーの真剣さに打たれ、球宴という名のお祭り騒ぎに浮かれることなく、ふだんの試合と同様の意気ごみをもって戦ったからです。投・打どの局面も真剣勝負と捉え、全力を尽くして戦ったからです。ところで、先般よりご承知のごとく、私の不行届きからこれまでみなさまにおかけしたご迷惑を省(かえり)みると、はなはだ慙愧の念に耐えません。中日ドラゴンズの選手ばかりでなく、日本じゅうのプロ野球ファンのかたがたに与えた疑念や不満を、神無月くんと私との完全和解によって解消していただければと願っております。真に驚愕すべき人物に出会ったことで、私はある種の精神的禊(みそぎ)をいたしました。どうかファンのみなさま、禊をした川上の率いる巨人軍に対して、これまでに変わらぬ暖かいご声援、ご支援のほどよろしくお願い申し上げます。手前勝手な自己PRをしている場合ではございません。いまはオールスター戦の真っ最中であります。セリーグの監督として、もう一試合その真剣勝負をお見せしたいと思います。真剣勝負こそ、真の宴の名に値するものです」
 授賞式になった。きょうの副賞は二千ccの日産セドリックだった。連日トロフィーと賞品と賞金ばかり増えるので、きのうと同様、いったん足木に預け、いずれ球団事務所のほうから送ってもらうことにした。セドリックは菅野に進呈しようと思った。
 敢闘賞安井智規、打撃賞中利夫、優秀投手賞小野正一、優秀選手賞広瀬叔功。名を呼ばれた選手たちはスタンドに手を振って、背広姿の表彰者の前に立つ。私はカズちゃんや主人たちにいっときの別れの手を振った。
 竹園旅館に帰り着いたのは十一時を回ったころだった。深夜にもかかわらず何十人もの従業員たちの拍手で出迎えられた。テキパキと大会場に宴席の準備がなされた。風呂で汗を流し、身支度を整えた選手や球団関係者が会場に集まったのは十二時になんなんとするころだった。川上監督が、
「本日はご苦労さまでした。十二球団の宝であるきみたちをつつがなく起用するのは、気楽な仕事じゃありません。また球宴はペナントレースとはちがい、出番を終えてせっかく試合終了まで休息をとろうとしてる選手がベンチ裏でぶら下がりにつかまってしまう。お祭だけに機嫌よく応じなくちゃいかん。それも含めてご苦労さまでした。あさっての最終試合もがんばってください」
 一時過ぎまで食事会が賑やかにつづいた。一通りコースの肉料理が終わり、川上監督、コーチ連、各チームのマネージャー、トレーナー陣につづいて巨人の選手たちが早めに切り上げたのを潮に、全選手がすみやかに引き揚げた。
「あしたの出発は?」
 中に尋くと、
「午後一時の飛行機らしい。ここを十一時半くらいに出るんじゃないかな。団体行動だから心配ないよ」
 部屋に戻り、北村席へ送り返す荷物を梱包した。そうしているうちに案の定とつぜんの勃起が始まったので、深更なのが気にかかったけれども、設楽ハツに電話した。ハツはすぐ電話に出た。
「きっとお電話くださると思ってお待ちしておりました。すぐ参ります。三十分ほどで帰りますので、そのままお休みになってくださいね」
 十五分もしないうちに、頬を赤くしたハツがやってきた。淡くパーマをかけた髪を肩まで垂らし、五十二歳と思えない清楚なスカートを穿いていた。膝あたりまでしかないゆったりした焦げ茶のスカートで、パンストを穿いていなかった。
「ひょっとして……」
「はい、下着も脱いできました。お手間を取らせたくなかったので」
「興奮する」 
「私も……。下着なしでスカートを穿いたのは生まれて初めてです。きょうはマッサージをお呼びになる選手のかたが多かったので、私たちが私服で歩き回っていても目立たないんです。マッサージ師にまちがわれますからだいじょうぶですよ。神無月さんが満足なさったら、すぐお暇します。きょうはすばらしいご活躍、おめでとうございました。従業員用控室のテレビで拝見させていただきました」
 両手でハツの顔を挟みこみ、じっと見つめる。思いのほか肉感的な顔をしている。この前も洋風の顔と思ったが、今回はしっかり見定めた。洋風ではなく、中学時代に出会ったころの法子が年をとった顔だった。
「皺とシミだらけで、恥ずかしいです」
「いい土台をしてる。目が大きい」
「……好きです」
「きょうはハツのオマンコをよく見せて。こないだは確かめられなかったから」
「うれしい。そんなこと言われたの初めてです。……年をとりましたし、経産婦のものですから、きれいではないですよ」
 上着とスカートを脱ぎ捨て、ベッドの上に仰向けになる。私も裸になり、ベッドに上がる。茶色い乳首を載せた胸は思ったよりも厚く、重みで外へ垂れている。足を開いて繁みに鼻を寄せる。かすかに動物的なにおいがする。陰毛は濃いけれども、最初に後背位で覗いたときに感じたほどグロテスクな性器ではない。黒々とした小陰唇も、濃い茶色の包皮も、包皮から覗く白いクリトリスもしとやかに濡れている。全体に色づきが強いだけで、すべてが平均的に整っている。
「きれいなオマンコだ」
「うれしい……」
 クリトリスに舌をつけ、膣に指を入れる。心地よく壁が反発してくる。ざらついた上壁を触る。一瞬指を締めつける。アクメがすぐそこに近づいた証拠だ。
「……神無月さん、イク」
 小さく気をやる。指を小刻みに締めつける。乳首を咬みながら挿入する。ウッとうめき、アクメに達しようとする膣圧になる。
「あ、イキそうです、ああ、イクイクイク、イク!」
 柔らかく跳ねる陰阜を見つめながら、往復する。たちまち襞から湯が湧き出し、緊縛しながらうねりはじめる。
「ああ、神無月さん、イキます!」
 陰阜を突き上げてさらに強く収縮する。大仰に跳ね上がることはない。口を吸いながらあふれてくる湯と緊縛を味わう。射精が近づく。
「ああ、神無月さんイクんですね、私もククク、イク!」
 快適な痺れとともに吐き出した。ハツは私の律動をしっかりと新しいアクメで受けとめる。数十年かけてでき上がった反応だと思うと感慨深いものがあった。
「ああ、うれしい、好きです、こんなに男の人を好きになったことはありません」
 引き抜くときのアクメも身をよじって艶めかしく表現する。先回はなかったことだ。何度か心ゆくまで下腹を縮めると、ハツは枕もとのティシュを引き抜き、股間に当てた。口を吸い合う。
「信じられないほど気持ちよくて―まだからだが浮いてます。ありがとうございました。また神無月さんに抱いてもらえるなんて思ってもいませんでした。夢のようです」
「欲望の相手をしてるだけなのに?」
「年をとると、欲望の相手にしてもらえることに感謝するようになります。……抱き合って朝を迎えたい」
「きっとそういうチャンスはあるよ。いっしょにどこかへ出かけたいし」
「はい……でもそれはいけません。ご迷惑がかかります」
「マスコミがうるさいからね」
「最近は特にそうです。その手の雑誌も多いですし」
「まだ勃ってる」
「入れてください」
 ハツはティシュを取り去って足を広げる。挿入したとたん、息を深く吸いこみ、腹を極限まで収縮させて達する。往復を始める。一度目の射精が柔らかかったので、亀頭がヒリつかない。愛液の量が多いので摩擦も快適だ。
「あああ、うれしい、イク! あ、あ、あ、神無月さん、イクウ!」
「ぼくも!」
 二度目も爽快に射出する。ハツは両脚を突っ張らせ、激しく痙攣する。硬く勃起した乳首を吸う。引き抜き、亀頭をクリトリスにこすりつける。ハツは新しい刺激に全身を硬直させて悶える。もう一度挿入し、名残の緊縛を楽しむ。二分ほどもそうしている。間歇的な痙攣を幾度か繰り返し、ようやく落ち着いてきたので、口を吸う。
「愛してます、とても愛してます!」
 もう一度ティシュをボックスから引き抜いて股間に当てるとそっとからだを離し、あらためて私をきつく抱き締めながら唇をむさぼる。ふと気づいたように、シーツの汚れに目を瞠った。何度も大量にティシュを引き抜き、丁寧にシーツを拭う。
「お部屋掃除の人たちは口さがないので、神無月さんのお名に関わります。……そんなのいやです」
 汚れたティシュを集め、トイレに立っていく。私はもどってきた彼女のからだをきつく抱き締めた。ベッドに横たえ、臍にキスをする。
「こんなオバアチャンにやさしくしてくださって……。ありがとうございます」
 起き上がり、身じまいを始める。
「もういくの?」
「長居してはいけません。まんいちのことがあります。おケガのないように祈ってます。福岡でもがんばってくださいね。テレビで拝見して応援しています」
「ありがとう。また、かならず電話するね」
「はい、楽しみにお待ちしています。月のもののなくなった女にも欲望のあることをわかってくださるのは、神無月さんのように年配の女を僻目(ひがめ)で見ないかただだけです。ほんとうに愛しています。……お休みなさい」
「お休みなさい」
 ハツはもう一度口づけをし、スカートを揺らして廊下へ出ていった。
         †
 七月二十一日月曜日。九時起床。晴。二十六・六度。三十度になる気配。移動日。枇杷酒でうがいをし、軟らかい便をし、シャワーで洗い、入念に歯を磨きながら、からだをグルグル回転させるようにしてシャワーを全身に当てる。どういう仕組みかわからないが、からだに当たるしぶきの音が耳鳴りに共鳴してうるさい。ザザッ、ザザッ、という音。小便が水洗の便壺に落ちるときにも同じ音で共鳴するので、常々便壺脇の陶器の壁に当てるように排尿している。ささやかな障害を抱えて生きることが、人間の基本を満たしているようでうれしい。しみじみと充足感を覚える。おそらくだれも完全な状態では生きていない。そう信じることで、なつかしい連帯感が湧く。
 下着を替え、衣服を整える。梱包してあった荷物に折れたバットを載せて腹に抱え、必要な用具を収めたダッフルを担いでロビーに降りる。フロントで郵送する。ケースのバットは一本になったが、博多に何本か届いているだろう。各チームの大食い連中が、竹園のテイクアウト弁当を注文している。ドラゴンズはだれも注文しなかった。
 チームごとに卓を分かって三階の宴会場で食事。昨夜の会食が遅かったので、今朝は十時からおさんどん開始。老若の仲居があわただしくいききする。江藤たちに倣って、牛ロース土鍋めし。腹いっぱいにしておく。コーヒーだけを飲んでいる選手もいる。どの顔も疲労の色が濃い。おたがい目が合うと辞儀だけですませる。
 竹園旅館の玄関からバス待機所の一般道にかけて、ファンの規制がきびしい。撮影以外すべて禁止。十一時半、歓声を背に阪神バスで出発。バスの最後尾に巨人軍が陣取る。彼らは、マネージャー、トレーナー等スタッフ、チームメンバーを含めるとたいへんな徒党になるので広い座席が必要になる。残りのチームは前方へ順に、広島、阪神、中日。私たちの席の見晴らしはいい。小川が、
「甲子園だけなんだよね、オバチャンのダフ屋がいるのは」
 中が、
「そう、ほかの球場は男ばかりだね。ダフ屋のお世話にはならないにかぎるけど、今年は天馬フィーバーで仕方がない。ところで、きのうの金太郎さんのサヨナラホームラン、照明塔の鉄柱のあいだを抜けてったけど、抜けた先はスタンド最上段だよね」
 小野が、
「うん、百六十五メートルはいってる」
 江藤が、
「あれだけ飛べば、たいがいの球場の場外ホームランたいね。アメリカでもな」
 すぐ後ろの席にいた外木場が、
「ベーブ・ルースは最長でどのくらいのホームランを打ってるんですかね」
 中が、
「百七十五メートル。デトロイトのネビン球場、センター場外」
「じゃ、やっぱり甲子園の場外は世界最長だね」
「そうです。過去、大下弘さんが札幌の丸山球場で百七十メートル、中西さんが平和台で百六十一メートル、王くんが甲子園の最上段の広告に当てたことがあって、それが推定百六十六メートル。大下さんの記録を破って、金太郎さんが日本最長かつ世界最長となった。ベーブ・ルースは百九十センチ近い大男で、体重もほぼ百キロあったから、金太郎さんの世界最長はものすごく価値のある記録だ」
 さらに後ろの席から田淵が山本一義に、
「山本さん、プロ入り百号おめでとうございます」
「五カ月で百本の神無月くんがいるんだよ。九年かけて百本を褒められたら、からかわれてるみたいなもんだ」
 と言って笑う。長嶋が仲間に語りかける甲高い声が後部座席から聞こえてくる。
「あした、ぼく、休養。ワンちゃんたちにがんばってもらう。ベンチで声出しするからね」
 トレーナーの声が追いかける。
「坐骨神経系統に疲労が蓄積してますし、後背筋の張りもあります」
 小川が後部座席に聞こえない小声で、
「きのうの失態(エラー)が恥ずかしいんだろう。大したエラーじゃないのにな。守備に美学を持ってるから、めげちゃったんだな」
 山内一弘が、
「オールスター出場自体には大した金は出ないし、彼級のスター選手にしたら出るメリットは微々たるものだろう。それでケガをしないことだけを考えて試合に臨むから、試合そのものの空気が緩むというのがこれまでのオールスターだった。今回のオールスターはちがうんだよ。真剣勝負男がとんでもなく試合を引き締めてる。……休んじゃいけないな」
 小野が、
「大リーグは、勝ったほうのリーグにワールドシリーズの開幕権が与えられるから、常に真剣勝負だね。しかし、長嶋くんは出場辞退にペナルティを科されないのかな」
 小川が、
「ケガ扱いの特別待遇じゃないの。トレーナーがああ言ってるんだから。気持ちはわからないでもないよ。もともとオールスターは三試合なんか要らないんだ。一試合のほうが希少価値がある」
 伊丹空港まで一時間足らず。空港に人だかりはない。総勢三十数人の大移動を一般客に奇異の眼で眺められながら、一時五分のJALに搭乗する。機内では人目を引かないように、みんな寝たふりをして会話を避ける。機内食は食わない。


         八

 二時二十分に福岡空港に着いた。薄曇り。暑い。三十度を超えている。迎えにきていた西鉄バスでグランドホテルへ向かう。乗りこむ前に、各チームのマネージャーの手で竹園弁当が車中食として配られた。合わせて十人に満たなかった。プロ野球選手にとって弁当一つぐらいはおやつのようなものだ。みんなたちまち平らげる。
 二時四十五分、住吉通りから繁華な渡辺通に入る。国体道路、天神西通りを過ぎて西鉄グランドホテルに到着。ちょうど四カ月ぶり。ベージュに赤のツートンカラーの市電を眺めながら、ホテルの車寄せから駐車場に入る。ダッフルやバッグを手にバスを降り、ぞろぞろとロビーへ移動する。
 おとといきのうと戦ったばかりのパリーグの選手たちや、大洋、アトムズの選手たちがロビーのあちこちのテーブルにたむろし、浮世絵のかかる壁面には報道陣が貼りついていた。海老茶のお仕着せを着た従業員たちが酒瓶のように並んでいっせいに挨拶する。丸棒のボーイの姿や人工滝がなつかしい。館内の四方から嬌声が上がる。巨人軍選手に群がる。このホテルのあっけらかんとして隔てのない雰囲気を思い出した。
 竹園からずっと同道してきたセリーグ三チームと中日のマネージャーたちが、並んで記帳してチェックイン。監督、コーチ、球団スタッフは三階のシングル、ドラゴンズ以外の選手たちは五階から八階のツイン。ドラゴンズ五名は五階に一名ずつのシングルを割り当てられた。私は510号室だった。
「お荷物は各お部屋に届いております。夕食は六時半から九時まで、一階七店舗でご自由にお食事なさってください。ルームサービスも貸切の正餐形式も可能でございます。店舗紹介のパンフレットは各お部屋に備えてございます。朝食は朝六時半から十時まで、一階洋食レストラン『グランカフェ』あるいは和食『松風』でご注文形式でおとりください。チェックアウトは、あさって二十三日の正午になっております。ごゆっくりどうぞ」
 先回と同じ説明だった。冷房の効いている部屋に入るなり、ブレザーの上着を脱ぎ、ワイシャツを着たままひさしぶりに腕立てをやった。片手腕立ても左右二十回ずつやる。このごろ、タオルのシャドーをサボっている。左腕五十回やった。あした球場でもやろう。届いている荷物からユニフォームを取り出して、ソファに伸べる。バットも二本届いていた。岩波文庫が一冊入れてあった。斉藤茂吉の処女歌集『赤光』。カズちゃんの心遣いだろう。
 テレビを点けると、潜水服のような白装束の男たちが、黒い空を背景に砂地の上をゆっくり跳ねながら歩いている映像を流していた。月世界旅行か何かのドラマだろうと思ったが、ピンポケすぎるので観る気にならず、ジャージに着替えて、オープン戦のときにはやらなかった館内の散策に出る。両リーグの選手たちが歩いている。相手がだれと見定めずにいちいち礼をして過ぎる。
 客室は三階からなので、エレベーターで二階へ降りる。控室とマッサージ室、大小宴会場、美容室、託児室、専門学校ふうの店舗もある。階段で一階へ。写真館、ここにも大小宴会場、教会、結婚式場。洋品店の連なりのほかはすべて結婚式関係の部屋。フロントのロビーへいく。土産物店、花屋、画廊、オーディオ店、百席もあるカフェがある。ドアのところで選手たちがサイン攻めに遭っている。彼らを避けるように階段で地下一階へ。ダンス教室のほかはすべて食堂だ。和洋中とりどりある。腹がへっていないが、何か入れておきたくなった。あじ彩という蕎麦屋に入り、日本酒若波一合と、天モリを食う。夕食まぎわのおやつ。離れた席に堀内と高橋一三がいて、私と口を利きたそうにしたが、目礼をするだけですました。
 フロントの観光案内にいって、ホテルの玄関から徒歩二十分ほどの柳橋連合市場というのを教えられる。天神西通りに出て、公衆電話から西鉄バスの内線に電話する。電話をとった女に神無月と名を告げると、ふだんの一律な応対とは明らかにちがうと感じさせる華やいだ声を上げ、すぐに大信田奈緒に代わった。
「神無月さん! 約束を守ってくれたんですね。ありがとうございます! さっき二時に外勤から戻って、受け継ぎの書類仕事をしていたところです」
「夜間観光は?」
「ありません」
 フロントで聞いた市場のことを告げる。
「ご案内します。十分ほどで、天神西通り側のホテル前に参ります。××さーん、すみませんけど、きょうはこれで上がらせてもらいます」
「はーい」
 親しげな声が返ってきた。
 観光案内に戻って、西鉄観光バスのことを訊くと、西鉄ホテルから北へ三キロほどいった博多湾の埠頭に本社があると言う。
「車で十分ほどです。個人観光はしないはずですよ」
「わかってます。知り合いがいるもので」
 玄関から路上に出て待っていると、白いカローラがやってきて、少し離れた路肩に止まった。車を降りた奈緒が呼びかける。
「神無月さーん!」
 ポニーテールを垂らした豊頬の愛らしい顔が笑っている。
「乗ってくださーい」
 私は走っていき、
「運転できたんだね」
「バス会社の社員ですよ。大型車もベテランです」
 助手席に乗りこむ。化粧をほとんど落としている。薄化粧の甘いピンク色の顔に慣れていた私は、目の少し吊ったするどい雰囲気の素顔に驚いた。
「美人だねえ!」
「はい。神無月さんにはヒケをとりますけど」
「ムズムズしてきた」
「もう少しがまんしてください。私もムズムズしてます」
 一つ目の交差点を左折し、きらめき通りへ。三百メートルほどいって、渡辺通りの信号を右折する。五、六分走って住吉通りへ左折するとすぐ左手に市場の入口があった。奈緒は軽やかなハンドルさばきで道端に駐車した。私は助手席から降りた。いつか一度歩いてみようと思ったサンロードが道の反対側に見えた。
「何時までにホテルに戻ればいいんですか?」
「六時くらいかな。正式な会食会じゃないから出なくてもいいんだけど、ちょっとしたミーティングがあるかもしれないから」
「たっぷり時間がありますね。うれしい」
「大信田さんは?」
「いつも六時ごろ実家に大吉を迎えにいきがてら、父母や祖父母といっしょに夕食をいただきます」
 アーケードに覆われた商店街のような通路に入る。さまざまな店名を冠した鮮魚店や青物店が並んでいる。卸売りの店が寄り集まり、それらに雑じって、カレー店やラーメン屋や、寿司屋、和菓子店、喫茶店まであった。日々の惣菜はこの整然と仕切られた隘路の往復ですべて賄えそうだった。威勢のいい声をかけられるが、何も買う気はない。
「ちょうどよかった。私は夕食の食材を買っていきます。実家では私と母が料理係なので」
「きょうは……」
「六時まで……何度でもできます。この時間しかチャンスがありませんから、早びけしたんです」
 と言って明るく笑う。
「だいじょうぶな日?」
「はい、だいじょうぶな日です」
 奈緒は、鯛の干物と野菜数種類と豚挽きと明太子を買った。私のもてなしのために饅頭と茶葉も買った。定期ふうの財布にユニフォームを着た私の写真が入っていた。
 奈緒は車に戻り、ジャージ姿の私を助手席に乗せ、五分ほど走った。さっき左折した住吉通りの信号を直進し、ビルの谷間の下町ふうの道へ入った。枝道の合わさっている辻を抜け、行き止まった左手に狭い駐車場があった。その向かいに小ぎれいな二階建てモルタルアパートが建っている。
「イメージしていたのより立派だ」
 奈緒はポニーテールを揺らして微笑みながら大玄関を入り、一階の奥の部屋の鍵を開けた。六畳と八畳の和室に広い台所、タブ式の風呂、小振りな便所のついた清潔な空間だった。八畳の間に西松の小屋で使っていたようなスチール机と、鏡台が置いてあり、観光法規の解説書、観光文化学、観光地理、温泉、育児関係などの本を並べた書棚があり、子供用の絵本が書棚の裾の畳に何冊か散らかっていた。片隅の段ボール箱の中に玩具がきちんと片づけてある。六畳の居間には、中型の白黒テレビと長テーブルが据えられ、鴨居に私の新聞写真が飾ってあった。打球の行方を見ながら走り出そうとしているよく見かける写真だった。あのときの選手たちの寄書きも額に入れて並べてあった。
「なつかしいね」
「宝物です」
 大窓から、物干しのある幅広のベランダと、隣の民家の植えこみが見えた。落ち着いた環境だ。
「ここから何分かで両親の家?」
「小路の突き当たりから、左へ二分ほど歩いたところです。ここからは実家の屋根は見えません」
 奈緒はビニール袋をキッチンテーブルに置き、薬缶に水を汲んでシンクの横のレンジに載せた。火を点ける前に私は後ろから抱きつき、大きな胸をつかんだ。耳を咬みながら揉む。ああ、と奈緒は切ない声を上げた。紺のタイトスカートを引き上げ、パンストごと下着を引き下ろして股間を探ると、すでにじゅうぶん濡れていた。口を開けたあの丸い小陰唇が指に触った。
「ああ、恥ずかしい。さっき神無月さんに会ったときから、こんなふうに……」
 陥没している陰核のあたりをなぜ上げ、やさしく押し回す。
「ああ、愛してます、逢いたかった、とても逢いた……あ、だめ、イ、イキますね、ううん、イク!」
 ぶるん、ぶるんと尻を振る。
「神無月さん、好き!」
 振り向いて唇にむしゃぶりついてきた。ズボンの上から私のものを握り締めながら、舌で舌を探る。私はベルトを解いてズボンを下ろし、奈緒の脛(すね)に絡まっていた下着を足先で脱がせると、片脚を抱えて挿入した。
「あ、気持ちいい! いやいや、気持ちいい! 好き好き、好き、も、もうだめ、イキますね、イキます、ああああ、イクイクイク、イク!」
 床についている片足が挫けそうになりながら、陰阜を何度も激しく突き出して痙攣する。私は彼女を支えながら抽送をつづける。小さな小陰唇の膣口が強烈に収縮し、連続のアクメを伝えてくる。
「ああ、好き、愛してます、イク、何度もイク、イク! あ、ふくらんだ、うれしい、すごく気持ちいい! またイク、またイク、イイク!」
 吐き出した。結合したまま抱きかかえ、尻を抱えこみながら口を吸う。奈緒は私の口をむしゃぶり吸い、下通みち子のようにきりもなく痙攣しつづける。
「幸せェ……」
 とうめいて、最後の痙攣をした。私は奈緒からそっと引き抜いた。グーッと腹が収縮し、もう一度ぶるんと尻が揺れた。
「奈緒のイキ方はほんとにかわいらしいね」
「……ニューオータニのことは夢じゃないかと思ってたんです。……夢じゃなかったんですね。うれしい!」
 奈緒は太腿に精液を這わせながら下着を拾い、タイトスカートを腹に引き上げたままシャワーを浴びにいった。やがて全裸になって、絞ったタオルを手に戻ってきた。ポニーテールを解いて長い髪になっている。やさしく目を細めて、下半身を曝した私の腹や腿を拭いた。拭き終えると、萎みかけたものを含んだ。いつまでも舐めつづける。ようやく口を離し、うれしそうに言った。
「初めて神無月さんの大事なものをお口の中に入れることができました。口と舌で形を記憶しました」
 キクエのように整った豊満なからだがかわいらしい。畳の上に並んで横たわる。
「専門的な本がたくさんある。勉強家だね」
「好きで就いた仕事ですから詳しくなりたくて。二十二のときに、資格もとりました」
「どういう資格?」
「旅行管理主任者という資格です。業法、約款、国内実務の三科目。たいへんでした」
「たいへんなものを克服できるのは、勉強が好きだということだ。ひょっとして勉強家の集まる高校出身?」
「福岡女学院高校。明治時代に創立された中高一貫の高校です」
「何か自慢の種は?」
「日本で初めてセーラー服を着た学校です。あとは、梓みちよさんが中退したことくらいかしら」
「こんにちは赤ちゃんか。その高校までドライブしよう。遠いの?」
「車で二十分もかかりません」
「もう一度してから」
「はい!」
         †
 快楽に浸りきった奈緒が回復するのにかなり時間がかかった。私も愛らしく痙攣するからだから陰茎を抜きがたかった。離れるとき奈緒は名残の痙攣をつづけざまにした。それからどうにか起き上がり、股間を拭うと、髪をポニーテールにして服をつけた。
 五時になろうとしていたけれども出発した。渡辺通と住吉通りが交わる交差点を右折してひたすら南下した。頻繁に市電と行き交う。
「国道602号線です。見えませんけど、那珂川沿いに走ってます」
 ポツリポツリとビルの建つ小ぎれいな街並。右手に福岡日赤病院が見えてきた。節子とキクエを浮かべる。
「たいていの産院は流れ作業ふうで費用も高いんですが、日赤は出産費用が安くて、先生がたや看護婦さんたちの対応もとても評判がよかったので、ここで大吉を産みました。母が付き添ってくれました」
「つらい経験をしたね」
「過ぎてみれば、ぜんぶ幸せな経験です」
「…………」
「どうかしましたか?」
「つらかったことは、つらかったと記憶したほうがいい。何もかも幸福にしてしまったら、ほんとうの幸福を感じられなくなる」
「……はい。そうですね」
「ぼくは奈緒をつらい目には遭わせないからね」
「はい」


         九

 九大前に停車した市電と別れて直進をつづける。九大キャンパスを後方に見返りながら、進路をやや右方向にとる。見るべき景色はない。反対方向から九大を目指してくる市電に巡り合う。
「いろいろなところから九大を終点にして市電がやってくるんです。私が生まれたのはこの大橋のあたりです。借家でした。高校を卒えるまでいました。そのころとはすっかり様子が変わってしまってます。父は当時、もうすぐ右に見えてくる〈しんきん〉に勤めてました。いまは天神の本店のほうにいますが、もうすぐ定年です」
「しんきん?」
「中小企業と個人にしか融資しない銀行です。信用金庫」
 少し道が狭まり、〈しんきん〉と平仮名の看板が出ている小振りな平屋を過ぎた。町並が低くなった。
「県道に入りました。いまから渡るのは那珂川です」
 鉄道の高架をくぐり、しばらくして六車線の幅の広い橋を渡る。もうほとんど田舎町だ。
「さっきの信金のところからここまで市電で出て、高架を走ってた博多南線で日佐(ひさ)というところまでかよってました」
「古きよき時代だね」
「王子さまに巡り会いたいとぼんやり夢見るだけの、無邪気な時代です。何になりたいとも思っていませんでした。……夢が叶いました。一度失敗したあと」
「たとえ不幸な結果に終わっても、恋愛そのものに失敗はないよ。結果の不幸はきちんと不幸として受け止め、恋愛そのものは成功だったと思わなくちゃ。失敗だったなんて思ったら、大吉くんがかわいそうだ。大吉くんが生まれたのこそ成功じゃないか。ぼくに巡り会ったのは二度目の成功だと思ってね」
「はい―泣きたいほどうれしいです」
 井尻六ツ角という交差点でついに市電道と別れ、さらに南下する。須玖(すぐ)北九丁目という交差点を直進。もっと細い二車線の道へ入る。福岡女学院・直進・創立八十周年と書かれた古い大看板が道の入口に立っていた。民家がパラパラあるきりの田園になる。
「四年前の看板をまだ外さないで立ててます。大雑把ですよね。あしたは私も平和台にいきますけど、応援にはいけないんです。バス二十台出動です。いろいろなホテルの宿泊客を往復輸送しなくちゃいけないので。もちろん、プロ野球選手も送迎しますが、私の乗務するバスにはその予定は入ってません」
「このドライブでしばらくお別れということだね」
「はい。大切な時間です」
 須玖の交差点を右折、日佐中学校入口の交差点を左折。
「あと二、三分です」
 五時十八分。空の灰色がまだ明るい。ここまでグランドホテルから二十五分くらいか。
 車二台すれちがうのがやっとの路になった。密集度の薄い住宅街だ。団地群が見えてくる。ふと、眼鏡を置いてきたことが不安になった。
「人が寄ってきたら逃げるよ」
「そうしましょう。でもこのあたりはふだんからほとんど人通りはありません。あ、ここが福岡女学院大学の裏門です。このあたりからの石垣はずっと、中・高・大学の敷地を囲んでます」
 三階建の校舎が何棟か並び、遠く尖塔が見える。
「キリスト教系?」
「はい。クリスマスやイースターに大きな礼拝があるだけですけど」
 イースターの意味を訊く気がしなかった。車を数台停められる空き地に駐車し、小さな鉄門を入る。
「この付近からかよってくる人たちはこの門から入ります。さっきの駐車場の細道からこの門へこないと敷地内には入れないんです。不便でしょう?」
「たしかに。この門を通らなければ垣根をくぐるしかなくなるね。正門はないの?」
「ここを少しいくと裏門があって、その真反対側にあります。日佐駅で降りる人は正門までバスできます。このあたりからかよう人は鉄門からしか入れないので、最初面食らいます。ここじゃないと思って、大きな正門があることを期待しながらこのまま校舎塀と団地の棟に挟まれた道を進んでいくと、そのうち校舎の石塀が高くなり、金網と立木のほかに何も見えなくなります。そのまま正門を探していくうちに、この石塀のつづきが民家のつづきになっちゃうんです。民家が塀の代わりをしてるなんておかしいですよね。正門はそのずっと先です。結局、正門には出られるんですけど、細い道なので車ではいけません。徒歩でも、さっきの駐車場からだとたどり着くのにかなり時間がかかります」
「だから正門までバスでくる人がほとんどなんだね」
「はい」
 校舎の裏門に出る。外に出て門を振り返ると、福岡女学院 高等学校 中学校 とパネルを貼った角柱が建っている。
「ここへはさっきの道からじゃたどり着けないよね」
「そうです。ただの裏門です。この門の外は、鉄門のあたりとは別の町の区画です。町の外へはバスか車で出ていきます」
 遠くにバスが走る姿が見えた。もう一度門を入って構内に戻る。中庭に棕櫚の木を二本佇立させ、外周に糸杉の木を植えた小さな校舎群のあわいに二人で立つ。中庭から周囲を見回す。小さい校舎群の外周にギリシャ・ローマふうの円柱に玄関を飾られた三階建て校舎があちらにもこちらにもあるとわかる。それぞれに尖塔がそびえている。校舎間に拡がる石畳の校庭がバカに広い。オズの魔法使いのイエロウブリックロードのような、芝とタイルを綾なす遊歩道が縦横に走り、どこから入ってきたのか何十台もの車が駐車している。学生も職員もまったく歩いていない。
 大小の校舎の谷間を少し進んでいくと、これまたとんでもなく広い空間に棕櫚の木や楠や杉や松などが整然と植えこまれた庭に出た。校舎と庭が一体となって、高く薄青い空を戴(いただ)いていた。
「こっちは大学の敷地です」
「仕切りがないからどっちの敷地か区別がつかないね。あっ、大きな門がある! 守衛のボックスまである。門の外に広い私道が通ってるね」
「日佐駅につながる道です。門の外にも広い駐車場があります」
 やはり人がいない。守衛すらいない。門の外の団地群と民家を縫う道路にバスが走っている。
「遠くに山並が見えるから、ぼくたちがきたのと逆方向だな」
 門の外に出てみた。巨大なブロック積みの門に、学校法人福岡女学院という金属の看板文字が浮き彫りされていた。構内に入り直し、十分もかけて車に戻った。空が暮れかけている。
「人が歩き回ることがあるの?」
「けっこう学生がいるんですよ。こんなに静かなのは、きっときょうは授業が終わったからでしょう」
 運転席と助手席で微笑み合いながら、なかなか暮れなずむ道を戻っていった。
「今度逢えるのはいつかなあ」
「来年のオープン戦のときでしょうけど、そんなに待ってたら気が狂ってしまいます。私から逢いにいきます」
「子供がいると、なかなか自由が利かないね」
「父母に大吉を預けて、一泊の予定で逢いにいきます。研修で知り合ったお友だちのところへ遊びにいってくると話せばだいじょうぶです。実際、そういうお友だちが何人かいますし、研修以外にも、東京出張が年に一回はありますから。私がいくのが年に二回、神無月さんがくるのが一回」
「年に三回逢うのは新鮮だね」
「三回も逢えるなんて、夢みたいです」
 西鉄グランドホテルの玄関を望む明治通りで車を降りた。六時四、五分前だった。
「大ちゃんを大切に育ててね」
「はい。とてもかわいい子です。いつか会ってくださいね」
「もちろん。……家の人には会わないからね」
「はい、わかってます。あしたはがんばってください。仕事の合間にラジオを聴いたり、テレビを観たりして応援してます」
 奈緒は名残惜しげに手を振ると、のろのろと辻を曲がって去った。バックミラーで私を見ているような気がした。道の灰色が濃くなった。
 すぐに宴会場に上がった。ドラゴンズのテーブルへいった。盛り上がっていた。
「主役がきたばい!」
 中が、
「ドアノックしたけど、いなかったね」
「散歩してきました。港のほうとか、市場とか」
「金太郎さんは散歩が好きやけん。夜は博多ラーメンば食いに出るぞ」
「はい」
 小野が、
「ほんとに神無月くんは浮世離れしてるね。私もそんな人をけっこう見てきたけど、ちょっとレベルがちがう」
 小川が、
「神棚にいるんだから、そりゃ世界がちがうでしょう。野球をするときに棚から降りてきて助けてくれるんだよ。ふつう、神さまは物陰からこっちを窺ってるだけで、助けてはくれないんだけどね」
「金太郎さんが助けてくれんと勝てん。あしたはパリーグも総力戦でくるやろう」
「中さんと藤田平の打順を変えるといいと思うんですけど。ピッチャーの恐怖感がぜんぜんちがいます」
 中が、
「川上監督の考えだから口を出せない。藤田を引っこめるわけにいかないしね」
「どうしてですか」
「阪神から野手は二人だけだからだよ。田淵と藤田。あとはぜんぶピッチャーだ」
「藤田はホームラン何本ですか」
「七本」
「じゃ、中さんは一発を狙うべきですよ。その二倍近く打ってるでしょ」
 中が、
「私もそう思ってた。一番が三塁打で出て、二番の凡ゴロで一点取るのと同じになる」
「あとは王さんから八番まで一発狙い」
 江藤が、
「九番までたい。堀内やけん。オールスターらしゅうなる」
「オールスターのホームラン記録は?」
「日本は七本、大リーグは六本」
「個人最多は?」
「大リーグは知らん。日本は二本だったのを、金太郎さんが大幅に破った」
 分厚いステーキ。一切れでやめ、江藤たちに差し出す。
「あとで、ラーメンのチャーシューを食います」
「またこればい。食うとかんといけんぞ。しょうがなか。これからは食い切るようにしぇないかんばい」
「はい。あしたは完食します」
 コロッケと、小鉢数種で大盛りのめしを食う。
「おばんざいです」
 と言って給仕が並べたものは、ホウレンソウの胡麻和え、焼き厚揚げの餡かけ、ナスとかぼちゃの揚げ浸し、焼きしいたけと春菊の白和え、ミズナとがんもどきの煮物、これぞおかずというものだった。万菜―万(よろず)の惣菜という意味だろうと思った。
 食後、仲間に断って部屋に戻り、九時まで仮眠をとった。
         †
 江藤、中、小川、小野、私、五人連れ立ち二台のタクシーに乗り、グランドホテルから天神の交差点を曲がって、渡辺通りを一キロ余りいったところにある『おかもと』という屋台へいく。おかもとという赤い箱看板が灯っている。何軒か並んでいる屋台の中ではひときわ繁盛している常設屋台のようで、透明なビニールカーテンの中の長椅子に、店主を囲んで三方ぎっしり客が埋まっている。席が狭くて入る気になれないが、仲間たちとならなんとかがまんできる。外で待つことにする。
「神無月やで!」
「江藤もおるで!」
 つづけて、中、小野、小川と順繰りに五人の名が連呼される。客の一人が、
「あかん、あかん、神無月は騒がれるとヘソ曲げよるで。触ったり、肩叩いたりしたらいけんとぞ」
 私たちは彼らに背中を向け、ひたすら黙っている。二人、三人と客が出ていくかと思いきや、ほとんどの客が腰を落ち着けて追加注文している。江藤が、
「オールスターば観に全国からきとるけんな。どの屋台も満員たい。日が悪かったな。中州の『博多荘』にいこう。三時までやっとる。急がんでよか」
 タクシー二台に分乗し、那珂川に架かる天神橋、西大橋を渡って、博多荘なる店へいく。
「江藤さん、詳しいですね」
「春にも言うたばってん、日鉄二瀬の関係で多少な。博多荘は博多でいちばん古かラーメン屋たい」
「終戦直後創業というやつですか」
「ほうや。ワンタン麺が絶品ぞ」
「それ、食います」
「ワシャ、ラーメンたい」
 到着。赤文字で〈らーめん〉、黒文字で〈博多荘〉と装飾文字をあしらった白い看板が軒高く掲げてある。入口はちんまりした構えだが、中に入るとかなり広い。
「いらっしゃいませェ!」
 店員たちが声を張る。角テーブルが四卓、カウンターは長く、丸太格子を渡した天井も高い。テーブルはすべて埋まっている。カウンターにいた三人連れの客が私たちを見て、
「オー!」
 と声を上げた。壁に何枚も芸能人のサインが貼ってある。読み取れない。いつになれば人びとは有名人に飽きるのか? カウンターに坐り、江藤が瓶ビールを頼む。
「江藤さん、おひさしぶりです」
 店主らしき中年の男が五人にビールをついでいく。
「こっちにくることはめったになかけんのう。どうね、繁盛しよったとね」
 ビールがよく冷えていてうまい。
「はい、おかげさまで。……あの、そちらが」
「おおよ、神無月よ。水も滴るよか男やろ」
「はあ、聞きしにまさるですたい。中さん、小川さん、小野さんですね。こう派手に並ばれると、ちびりますよ。サインは少年ファンにしか書かんとでしょう」
「ほうや。ばってん、きょうは寄せ書き一枚なら書いてもよかよ」
「ほんなこつですか! ありがとうございます」
 出された色紙に五人で寄せ書きする。
「神無月さん、手の小さいかですね。この手で百本―」
「びっくりすっとやろ。そのへん歩いとったら、ただのヤサ男ばい。奇跡の男よ」
 テーブル席の客たちも気づいて、こちらを眺めている。



(次へ)