十三 

 巨人、中日、阪神、広島の選手、スタッフがもう一台のバスに乗った。後部座席に各チームのスタッフが集まり、あとは適当にパラパラと好きな席に座った。
「金太郎さんは、勲功表彰には関心がないみたいだね。みんな小躍りするか、得意になるのにね」
 バスの中で川上監督が言う。
「野球そのものとちがって、端で見ている人も退屈します。いちいち拍手するのを見ているだけで気の毒になります。業績を顕彰するのはおえらいかたたちの気まぐれです。応援は気まぐれじゃありません」
「なるほど。しかし、オフには表彰の嵐になるよ」
「気が重いです。いま流行りの言葉で言うと、記憶よりも、記録に残したいんでしょう。記録に残すには賞がいちばんですから。芸術でも何でもそうです。記憶する人は百年も生きないのに、記録されれば何万年も残ります。ぼくはリアルタイムで生きている人たちに記憶されればじゅうぶんです。何万年も妖怪のように生き延びたくありません」
 中がたまらずボロリと涙を落とした。
「人間界に生まれてきたのが不幸だったね、神無月くん。……そうやって、記録してもらって、保証書をいただいて、人間て生きていくんだよ。自分の存在自体に確信がないから表彰されて自己確認をしたいんだよ。でも、私もいまでは、一瞬のうちに燃え尽きる人生を送りたいと思うようになった。神無月くんが、いまの瞬間の命の貴重さを教えてくれた」
「ワシャ、きょうも泣くばい!」
 江藤が懲りずにタオルで顔を覆った。川上監督も眼鏡を外し、指でまぶたを拭った。バスの中にすすり泣きの声が拡がった。森が、
「きみと触れようとしない人間には話しかけないというのが、きみの偉大なところだ。そういう人たちを放っておく。彼らはそのまま何の疑いもなく生きていく。しかし触れたら最後だ。きみに話しかけられ、その瞬間から通俗の中で生きられなくなる。徒手空拳の赤ハダカに剥かれて、苦しい人生を課されるんだ。きみに遇わなかったら、私も通俗のぬるま湯の中で満足して生きていけた。きびしい、しかも充実した生き方なんて考える必要がなかったからね。いまはもう無理だ。充実して生きることの愉快さを知ってしまった。正直、私は、試合中、きみの野球のすごさなどどうでもいいというところまで感じていたんだ。まったく別のきみに圧倒されていたんだよ」
 小川が、
「森さん、ドラゴンズの全員がそう感じてるよ。金太郎さんの頭の中では、人間の精神的な交流が最上位だ。金も業績も人間の下にある。悟った若年寄というんじゃない。何も悟らずに天然のままそういう心持ちでいる」
 小野が、
「私は三十六で初めて、そういう心持ちがこの世にあることを知りましたよ。快適なショックだった」
 うう、と泣いている男がいる。田淵だった。
「俺は神無月さんの懸命さを学ぶだけで精いっぱいでした。でもそういう外見を学べる先輩ならこれまでたくさんいたんですよね。神無月さんが口にするような心のこもった言葉は学べなかった。業績のためじゃなく、充実のため……自分が恥ずかしいです」
 川上監督が後藤コーチに、
「クマさん、神無月くんの考え方はあんたと似たところがあるね」
 クマさん? 後藤阪神監督の顔を見ると、クマさんよりは小山田さんに似ていた。ほのぼのとした雰囲気のせいでそう呼ばれているのだろう。江夏が、
「後藤監督のスローガンは、みんな仲良くボチボチと、ですもんね」
 村山が、
「それと、〈お祭り野球〉やな。全員リリーフ、全員先発」
 後藤コーチは白髪雑じりの短髪を掻き、
「そういうバカな方針だと、選手を潰してしまうし、チームも崩壊する。神無月くんの野球に対する姿勢を見ていると、そういうのとはまたちがう。油断やデタラメがない。来年からは、村山くん、きみが監督になる。ビシッと頼むよ。たしかにワシは勝敗にこだわらんし、選手を辛抱強く使うタチだが、根っこのところに、もっと向上したいという欲がある。神無月くんにはそれすらない。ただ、そこに立っているだけだ。真の指導者というのはそういう人を言うんじゃないのかな。ワシは、どこまでいってもツナギの後藤、バトンタッチ役だな」
 根本コーチが、
「クマさん、俺たちは真の指導者になんかなれっこないよ。水原、三原、川上、そういう指導の達人につないでいくだけだ。神無月くんは指導者じゃない。だれも彼にはついていけないからね。真剣で、才能にあふれた野球少年だ。見ているだけでくつろぐ。やあ、なんだか後半戦、伸びのびがんばれそうな気になってきたな。いままでは、クマさんと同じように、チームを強くしようという義務感でいっぱいだったんだけどさ」
 外木場が、
「ほんとですか、監督」
「そうだよ。そう見えなかったか? 今年監督に就任するとき、全敗でもいいからチームの基礎作りをしてくれって松田オーナーに頼まれてね。さすがに全敗じゃまずいだろうって思うと、毎日針のむしろだった。神無月くんを連続敬遠して、勝つには勝ったけど、連盟から罰金喰らったりして。アホみたいだな」
「二試合に跨って五連続敬遠。あれやらされたの、俺と安仁屋ですよ。中日に対する唯一の一勝です。ちっとも自慢になりませんけど」
 右打者の外角に流れる高速スライダーとパワーカーブが目の裏に浮かんだ。あのボールで外木場はノーヒットノーランを二度、完全試合を一度やっている。左打者でよかったと思った。彼の決め球はたまたま私の得意球だからだ。安仁屋がいない。春に痛風を発して以来不調で、今年四勝しか挙げていないのでオールスターに出られなかった。外木場も五勝だが、実績がちがうということだろう。広島はキャンプで一日五百球を投げこませる方針だと聞いている。外木場と安仁屋はがんらい肩が頑健なので潰れなかった。
「すまなかった。そんなセコい精神で野球の基礎作りができるはずがない。伸びのび楽しんで野球やってれば全敗なんかするはずないんだよ。そうやって勝ったり負けたりするのが、プロというものだ。観てるほうだって感動する。このオールスターで、ほんとの基礎方針ができあがった。野球少年、これだな。チーム内には衣笠とか、外木場とか、そこにいる山内くんとか、少年がけっこういる。彼らに引っ張ってもらおう」
 山内がニッコリ笑いながらガッツポーズをとった。山本一義が、
「私のこともお忘れなく。野球選手というのは、程度の差こそあれ、みんな少年です。だれも、本質的に、金とか成績とか気にしてないんですよ」
 川上監督が、
「江藤くん、きみは小学校のころから捕手で、プロにも捕手で入った。何か捕手にこだわりがあったのかね」
「はあ、父が八幡製鉄で外野手をやっていたことで、早いうちから野球の手ほどきば受けとりました。あるとき父の出場する社会人野球ば観にいって、本塁突入で体当たりばされて血ィ吐いて死んだキャッチャーがおってですね、それば見て、みんながいやでもだれかがキャッチャーをやらんといかん、いちばんきつかところがよか、と思いました」
「……根っからの犠牲的精神の持ち主なんだね」
 目の奥が痛くなった。川上監督はうなずき、
「早稲田に誘われて断ってるね」
 よく調べている。人心掌握の基本なのだろう。
「弟三人の寝顔ば見て、給料取りになることにしました」
「二瀬か。安月給だったろう」
「ねじこんで就職させてもらった臨時工でしたけんね。七千円のうち五千円、家に仕送りしました。三人を高校大学に進学させたかったけん」
「二瀬でもキャッチャーだった。濃人学校で鍛えられてプロにきたわけだ」
「はあ……。プロでやる体力ばつけさせていただきました。小さかころから喘息持ちのモヤシでしたけん。県下に名が知られとるゆうても、からだ張ってキャッチャーばするのが自分でもどっか危なっかしく感じとりましたけん。ウサギ跳び、六キロランニング、素振り、ノック。それをいっさいインターバルなくつづけるゆう練習やったです。練習が終わると満足に歩くこともできんけん、目と鼻の先の新町遊郭にも遊びにいく気にならんかった。……とうとうその練習で肩ばやられました。終わった思うて、自衛隊に入って仕送りばつづけようとまで考えました。そういう気持ちのまま、ぼうっとバッティングに精出しとりました」
「肩は治ったの?」
「ブルペンキャッチャーをやっとるうちに、どうにか並に戻りました」
「で、打棒爆発だ。三十二年は六割打ったね。ホームランも連発」
「はい。ドラゴンズの柴田さんがスカウトにきました。十九歳やった」
 足木マネージャーが、
「あのころ柴田さんがよく言ってましたよ。中日はジェントルマン揃いで、よく言えば燻し銀、悪く言えば無気力なくすんだチームだ、とにかく打てない、ここに強烈な原色として江藤を入れたい、いつも大声を出して味方を鼓舞し、バリバリ打つ、元気を絵に描いたような彼を入れることでドラゴンズの体質改善を目指す、って。ところが―」
「濃人さんに一年間の差し止めを喰らいました。理由はまだプロではできん、でした」
 足木マネージャーは、
「それはあり得ないんで、二瀬の戦力として手離したくなかったんでしょう。柴田さんは江藤をほかのチームに攫(さら)われるかもしれないと恐れて、一年間せっせと名古屋から熊本のお父さんの家へかよいつづけましたし、飯塚の二瀬の宿舎にもドラゴンズのツケで、近所の店からトンカツやらハンバーグやらを江藤さんだけに届けさせました。栄養をつけさせることに余念がなかったんです。その年は、二瀬は都市対抗準優勝、産業別大会で優勝でした。江藤さんの打棒のおかげです。江藤さんにプロからの勧誘が殺到しましたが、一年間にわたる中日の心配りの効いた根回しには敵いませんでした。大毎は、小切手に好きな金額を書いてくれとまで迫ったんですが、お父さんの義理堅さは頑として動きませんでした。他球団と比べていちばん少ない五百万円で契約しました。江藤さんも異存はないと言ってくれました」
 涙が止めどもなく流れる。中も小野も指で目をこそいでいる。川上監督が、
「ドラゴンズは一人ひとり、人間そのものだ。筋金入りのチームだね。今年は奇跡の復活じゃない。なぜ去年まであんなありさまだったんだろうね。―わからないでもないが」
 根本コーチが、
「江藤さんを育てたということで、翌年濃人さんが呼ばれたからでしょう。二軍監督からすぐ一軍監督になった。それで、ドラゴンズを引っ掻き回した。たった二年間だったが、あの影響は大きかった」
「申しわけなか」
 江藤が頭を下げると、川上監督は、
「江藤くんが責任を感じることはない。世間もよく知っていることですよ。水原さんが今回、現役監督でありながらオールスター戦のラジオ・テレビの解説をしたと言うんで、諸方から非難が上がっているが、ようやく気持ちがわかった。休暇気分で解説をしたんじゃない。愛するきみたちをいっときでも目を離さずに見守りたかったんだね。……つくづく勉強になった。敵にとって不足はない。うちも後半戦は全力でぶつかっていきますよ」
 王、堀内たちの、オー、という小さい声が上がった。
 西鉄グランドホテルに着いた。十一時を回っていた。運転手の背中に見覚えがあったので、
「あの……」
 と声をかけると、赤い目で振り向いた。
「やっぱり坂崎さん」
「憶えていてくれましたか。きょうの送迎は志願しました。期待どおりすばらしい話が聞けて、いい涙を流しました。どうぞお元気で。また来年かならずお会いします」
 私は坂崎と固い握手を交わした。
 ロビーに入ったとたん万雷の拍手と連続するシャッター音で迎えられた。新聞カメラマンはいない。取材後の編集のために引き揚げたようだ。大広間に深夜の宴席が用意されていたが、
「私たちは外に食いに出ます」
 と川上監督に断ると、
「じゃ、あした空港で」
 とにこやかにうなずいた。フロントで鍵を受け取って部屋に戻った。湿ったユニフォームを脱ぎ、シャワーを浴びる。
 下着を替え、ブレザーを着る。バットケースとダッフルも含めて、すべての荷物をフロントに持っていった。ふたたび周囲の客や従業員たちから拍手が上がる。数人からサインを求められたので、機嫌よくサインした。江藤らチームメイト四人のほかに、江夏、田淵、堀内、高田の四人が濡れ髪でロビーの椅子に座っていた。連れていくのかと思った。江藤が私に手を挙げ、
「座敷にしたばい。落ち着きたかろう」
「はい」
 同行組を代表して堀内が頭を下げた。
「ご相伴に預かります」
「よろしく」
 江夏が深々と辞儀をする。玄関を出て、人待ちのタクシー三台に乗りこむ。江藤と小川と小野が前のタクシーに乗って先導する。真ん中は巨人組二人、後尾のタクシーには、大きい田淵を助手席に乗せ、中と私と江夏が後部座席に乗った。江夏が訊く。
「トロフィーも持ち帰らなかったみたいですね」 
「何もかもマネージャーを通して球団に預けることにしてます。あとで郵送してもらいます。賞金は税金清算しなければなりませんし、それは専門家にやってもらわないと」
 田淵が、
「来年は二億と言われてますよ」
「そうですか。デマでしょう。二、三百万円以上の金は見たことがありません。見たことのないものは架空の代物です。実際、一千万くらいもらえると、趣味や勉強に使えて身動きがラクになりますね。それ以上は、大半、国家機関の栄養でしょう。彼らは才能に寄生しますから。栄養を吸われて余った分は、大勢の愛する人たちに分配して初めて金として利用価値が出ます」
 中が、
「現実、金太郎さんはそうしてるものね」
「北村のお父さんと娘さんに預けてますから、面倒なくそうしてくれてます。それでも一人の人間の使える金額なんて微々たるものです。だからみんな余った金で商売をしたがるんでしょう。きょうの飲み代は水原監督が寄付してくれたものです。彼は余剰金をきちんと分配してます」
 田淵が、
「アブク銭は分配する、ですか。たしかにそれがいちばん正しい使い方だなあ」
 明治通りの天神西の信号を渡り、昭和通へ右折して、舞鶴一丁目の信号を左折する。飲食店の連なる繁華な街並を走る。
「この三百メートルほどの道は親不幸通りと言うんだ」
 高田が、
「衝撃的な名前ですね」
「水城学園、九州英数学館という地元の二大予備校がこの通りにある。浪人生がたむろしてるのでその名がついた」
 長浜公園を左に見ながら、舞鶴交番を右折し、裏道らしき鄙びた通りを進む。江夏が、
「開発されそうな界隈ですね」


         十四

 田淵が、
「中さん、目的地はどこですか」
「中洲の『老松』という料亭。昭和二年に創業した老舗だ。いい店だよ」
「食事をするなら、畳にかぎりますからね」
「浪人なんて、そんなもの親不孝にはならないのに……」
 私が呟くと、田淵が、
「神無月さん、王さんから聞いたけんだど、長嶋さんと一悶着あったみたいですね」
「悶着を起こしたつもりはないんです。ぼくは、肉親を他人と区別して愛着する情念のようなものがある時期から薄くなった人間なので、親孝行という習慣を持ち合わせていないんです。孝養ではなく、母恋しの本能は残っています。幼いころに見た、輝くような母の笑顔を執拗に思い出しますから。……長嶋さんは孝養という概念でぼくを括れなくて戸惑ったようです。産んでもらった恩義を忘れた思い上がった人間と感じたにちがいありません。誤解は解けたようですが、恩義を感じていないという意味で、長嶋さんの感じたとおりぼくは思い上がった人間だと思います」
「俺も親のことはあまり思い出さないタチやけど、神無月さんのような〈無視〉というのとはちがいます。ただ忘れてるんですよ。……神無月さんには、人に知れない深い心持ちがあるんだと思う」
「子供を産むことはまともな生命体ならだれでもできます。産んだあとで、どれほどの愛情を注げるか、それで親の価値が決まります。ぼくの母にはその点で価値がないと判断しました。生み出されることは強制的な神秘体験です。生命の神秘には常々感動していますし、神秘的な生命体として生み出されたことには心から感謝しています。長嶋さんには申しわけないですが、生命の神秘を強制的に背負わされた宿命に殉じるには、強く愛されていないと無理です。ほとんどの人は強烈に肉親に愛されています。みなさんもそうでしょう。愛されない宿命には縛られていない。思い上がった考えかもしれません。……でもこういう思い上がりは、産み出された新しい生命体の神秘をまっとうするうえで大切なものだと思っています。肉親との関係にかぎりません。宿命的なものに頓着しない意志を持ちつづけることが、個としてしっかり生きるということだと思いますから」
 中が、
「金太郎さんがそうなったのには歴史がある。そこを言わずにはしょると、思いやりのない人間だと誤解される。金太郎さんほど思いやりにあふれた人間はいないからね」
 田淵が、
「みんな知ってる有名な話ですから、はしょってだいじょうぶです」
 江夏が、
「―神無月さん、何があっても野球をやめないでくださいよ」
「やめません。野球に愛されてますから」
「永遠のライバルになることを約束してください」
「約束します。ボールをぶつけてもいいですけど、頭は勘弁してください」
「ぶつけませんよ。正々堂々と勝負します」
 木立の雑然とした須崎公園に突き当たり、右折、しばらく周回して一つ目の交差点を左折。須崎公演の噴水を眺めながらしばらくいくと、那珂川に架かる大きな橋が見えた。中が呟く。
「公園通り橋」
 手前を右折して川沿いに走る。左に小ぶりな弁天橋。真夜中の黒い静かな川面を眺めながら走る。西中島橋。
「ホテルから昭和通をまっすぐここまできてもよかったんだけど、慎ちゃんの考えがあるんだろう。博多の裏通りや川沿いを見せたかったんだな」
 西中島橋を渡る。
「遠いですね」
 運転手が、
「タクシーで五分は長う感じますばい。あと三分です。ここからは中洲ゆうて、街全体が大きな洲に乗っかっとるんです」
 渡り切ってもう一本の小さな川の岸までいき、左折。もう何曲がりしたろう。寂れた町並になる。川沿いに進む。すぐに重厚な黒板塀の二階家に巡り合った。運転手が、
「この角地からずっと老松です。老松は高かですよ。目ん玉飛び出るごたる。プロ野球選手には、なんちゃあなかろうばってん、ワシら庶民には手が出ん」
 江藤が水原監督のボーナスを使い切ろうとしているとわかった。
「この川は?」
「博多川。那珂川の支流です」
 運河のように細い川だ。
「玄関に着きました。ここです。ほれ、もう江藤さんやら待ってらっしゃいますよ。天下の神無月、中、江夏、田淵、それに江藤、小川、小野、巨人の高田、堀内ですか―九人も見れてよかったァ」
 私たちは見ものなのだとしみじみと感じた。
「ありがとう。これで」
 中は千円札を出してツリを受け取らなかった。玄関前にすでにタクシーが二台停まっていた。家の密集していない角地の闇に、大きな二階建ての旧家が沈んでいる。近くで見る黒板塀が古色を帯びている。露台がないだけの楼閣のような建物だ。
 タクシーが三台で走り去った。横長の大きな門灯の下に先着した五人が立って笑い合っている。江藤が手を挙げた。
「遠回りしたばってん、夜の博多を感じたやろう。昼よりはシッポリしとる」
「はい。新旧混ざり合った街ですね。川にいき当たるたびにホッとします」
 老松と小さな表札灯を梁板につけた格子戸を開けて入る。庭石沿いに簡素な植樹がしてある。葉の開いた万年青(おもと)に目がいった。
「すごかっちゃん」
 小川が思わず九州弁で言った。
「期待できますね」
「税込み二万円コースを九人分頼んだ。ここでいちばん高い料理や。これで水原さんの志をむだにせんですむ。酒で足の出た分はワシが払う」
 堀内が、
「足が出たら、俺たちが払います」
「若い者は気ば使わんでよか」
 短い御簾(みす)を垂らした質素な玄関。小庭に岩を置き、観葉植物を植えつけた凝ったしつらえの土間に入る。モミジの影絵を映した大障子の箱灯りが鴨居になっている。仲居が五人ほど出てきて丁重な挨拶をする。掘炬燵にツヤ出しの長テーブルを渡した二十畳の和室に通される。戸も鴨居もすべて障子だ。扁額と掛軸、違い棚、鉢の花、すべてがしっくりくる。扁額と掛軸の字は難しくて読めない。広い間隔で籐(とう)の座椅子が五対向かい合い、盆膳と箸が用意してある。室内の灯りに庭の緑が沈んだ色合で照らし出されている。料理長とおぼしき老いた男が出てきて、
「本日はまことにおめでとうございました。セリーグ三連勝。パリーグが地元の人間としては少々腑甲斐ない気もいたしますが、あれほどの好ゲームを見せていただければ、何の不満もございません。中西、豊田以来の野武士野球が戻ってきた感じがいたしました。きょうはごゆっくり私どもの料理をご賞味してくださいませ。お飲みものは何になさいますか」
「まず生ビール、中ジョッキでくれんね」
「承知いたしました」
 小川が、
「福岡の酒は何があるんですか」
「いろいろございますが、杜の蔵がおいしいでしょう。お食事なさりながらでもよく合います」
「それを一升瓶で二本ください。器はコップで」
「かしこまりました。ではどうぞごゆっくり。きょうは深夜二時まで店を開けさせていただきます」
「ありがとうございます」
「ありがとッス!」
 ビールで乾杯した。高田が、
「末永いお付き合いを」
 と周囲に頭を下げた。中が、
「金太郎さんがいるあいだは、約束する。そのあとは、人と付き合う気力がなくなるかもしれない」
 全員、中ジョッキを飲み干した。堀内が、
「よくわかりますよ。人に命を投げ出すというやつですね。そういう気持ちでいるチームの強さは桁外れです。巨人にも王さんという人格者がいるので、あの人に命を預ける気持ちがあれば、これから強く団結していけると思います」
 小野が、
「長嶋くんには命を預けないの?」
「あの人は人格者じゃなく、天才野球人ですからね。眺めているだけでじゅうぶんです」
 笑い声があたりにかすかにただよい、堀内の頬が恥ずかしそうに赤らんだ。江藤が言った。
「堀内くん、金太郎さんは人格でドラゴンズをまとめとるんでなかよ。金太郎さんはだれも何も統率しとらん。金太郎さんには人格なんてものはなか。存在そのものが飛び抜けとるけん、模範にもならん。ワシらの気持ちは尊敬というのでも崇拝というのでもなか。愛しとるんよ。どういう形でも、その人がおらんようになったら身も世もなくなるゆうこったい。人に命ば預けらるうこつは、金太郎さんは大嫌いやぞ。自分を失うようなことをするやつは毛嫌いする。きちんと自己達成して、その上で人ば全力で愛する、そういう人間しか好いてくれん。ワシらは寄ると触ると金太郎さんの話をしとるわけやない。そばにおると満たされ、いとしゅうなる。自然、金太郎さんから愛されとうなる。ばってん愛されるにはしっかり自己達成せんといかん。それでみんながんばるわけや」
 中が、
「そうなんだよ、満たされ、愛情が湧いてくるけれども、神無月くんのことを四六時中考えてるわけじゃない。ましてや殉じようという気持ちはない。そうされるのが嫌いな人だからね。練習場や試合場に近づくと、ああ神無月くんに会えると思う。彼に負けないくらいがんばっている姿を見せたいと思う。キリスト教に〈同伴する神〉という考え方がある。思い出したときだけ寄り添ってくれる神だ。神無月くんはまさにそういう人だ」
 小野がコップに酒をついで回ろうとするのを田淵と江夏が止め、二人でみんなについで回った。彼らと堀内と高田には私がついだ。仲居がぞろぞろ入ってきて、氷板のような角皿とガラスの小鉢を盆膳に置く。
「季節の前菜の盛り合わせです」
 板皿にはそら豆、蓮根、煮オコゼ、小鉢にはジュンサイとオクラ。つづけて、色絵皿に盛ったお造りが出てくる。薄引きのアコウダイ、伊勢海老の刺身、ウニ。いつになく酒が進む。小野が煙草に火を点け、
「じゃ、自己紹介的にやってみようかな。ぼくは福島県の高校を出てから、五年間、炭鉱会社でサラリーマンとして勤めながら野球をやった。社会人をやってると、仕事をする時間も野球をする時間も会社のスケジュールに組みこまれて、単調な日課を消化してるという感じになってくる。オリオンズに入団したときは、これで単調な生活をしないですむと思ってうれしかった。プロは華やかで、毎日が変化に富んだイベントの連続だった。そういう中で、いろいろな賞ももらったし、才能豊かな人たちにも遇ったし、よく遊んだし、きれいな嫁さんももらった。それなのにまた、あのサラリーマン時代の単調さを感じはじめたんだ。感じたのは、サラリーマンのころと同じ〈充実感のなさ〉だった。野球はみんなうまいし、相応の高給取りだ。だから野球にかまけ切って、だれも深みのある言葉を吐かない。いや、野球以外のことを思いつきさえしない。あの野村も、長嶋も、野球に関わる人生訓はしゃべるが、深い情緒や、知性や、創造性を感じさせる言葉は言わない。野球の才人はいるけど、人間がいない。それで退屈さを感じはじめた」
 江藤が、
「そこへ言葉と精神のかたまりの金太郎さんが現れたっちゃん。森が、野球なんかどうでもいいと感じた、もっとちがうものに圧倒された、と言ったんは、そういうことやろう」
 小野がうなずき、
「そう。楽しくなってきた。練習が、試合が、野球そのものが楽しくなってきた。いつも人間のことをしゃべる人がそばにいるからね。生き返った。三十六歳。最後の燃焼だ」
「お吸物でございます」
 黒字に金まだらの椀で鱧(はも)の吸いものが出る。ゆずの香りがいい。梅の酸味も効いている。
「うまい……」
 すぐに煮物。加茂ナス、鰻、車海老。美味。高田が酒をついで回る。九人ばらばらの味覚の喜びが入り混じり、九つの顔の感激が固まって、全体で一つの平和な相をかたちづくる。
「焼き物でございます。筑後川の鮎の炭火焼きです」
 枯山水の器に敷かれた笹に、ヒレに塩をビッシリまとった鮎が横たわっている。かぶりつき、噛みしめ、酒をちびりと流しこむ。私は、
「人に食わせようと思って作る人の料理は、お金を取らない家庭人でも、お金を取る料理人でもおいしいですねえ。自分が食おうと思って作る料理は、自分を喜ばせるだけの手薄なものになる」
 田淵が、
「それ、野球に引きこんで言ってません? 人を喜ばせるためのプレイ、自分で喜ぶだけのプレイ」
 中が、
「……練習も同じ文脈で言えるね」
 高田が、
「なるほど、それで特訓は自分を喜ばすだけのものだと」
 私は後頭部を掻き、
「野球に引きこんで意味深なことを言ったつもりはありません。特訓ばかりでなく自分の満足に眼が向いている技術鍛練は、結局人を満足させられないと思っただけです。たしかにそう言われると、野球についても同じことが言えるかもしれませんね。高度な技術の自己達成はそのまま観客に伝わりません。勝敗を懸けた戦いという見世物のワンクッションが必要です。そこでの勝利が彼らの主な喜びになります。ホームランとか、長打とか、三振奪取といった玄人同士の達成感は、玄人同士の喜びとして消化されて、素人にはなかなか伝達されません。でも、それを喜ぶ素人はかならずいますから、常に彼らを喜ばせようとして鍛練を積むことが肝心です」


         十五 

 四、五人が一服つけた。小野が、
「ね、みなさん、わかったでしょう。こうやって神無月くんは、どんなことでも考えようとする。みんなにもそれが伝染して、何とか考えてみようとする。その時間に同席することが楽しくて仕方ない。ところで神無月くん、一つ質問。自分で食おうと思って作る料理は自分を喜ばせるだけ、つまり武術の鍛練とおなじだよね。どうしてそれが手薄な未完成品になっちゃうのかな」
「人を喜ばせることを念頭に置かないからですね。自分を喜ばせる限界点の高い人はめったにいません。ま、このくらいでいいかって、妥協してしまうからです。たまたまうまくいけば大満足。うまくいかなくても、どうせ人に食わすものじゃないからって。そういう理屈からも、卓越した技量はもともと人のためにあるもので、自分のためにあるものではないことがわかります。よくインタビューか何かで、あなたにとって相撲とは何ですか、野球とは何ですか、と訊かれて、私の命です、私の人生ですと答える人が多いですが、恋人とは何ですか、子供とは何ですか、親友とは何ですかと訊かれているんじゃないんですから、その答えはいいかげんな社交辞令ということになります。たゆまず磨いた技量を喜んでくれる人のために一生懸命お見せする〈仕事〉です、と答えるべきです。他人に食べさせようと思って作る料理も同じです」
 拍手がいっせいに上がった。
「すばらしい!」
「ブラボー!」
 仲居たちが入ってきた。
「佐賀牛のスキシャブです。すき焼き用の甘醤油のだし汁で、霜降りの佐賀牛の柔らかな赤身肉を煮こみました。ベビーキャベツ、玉コンニャク、ホウレンソウ、プチトマトもいっしょに煮こんでございます」
 うまい、うまいの連発。二升の酒が空になり、生ビールを追加した。
「うああ、腹へった!」
 江藤が叫んだとたんに、めしがきた。
「生姜の土鍋炊きごはんでございます。明太子とあおさ汁といっしょにお召し上がりください」
 土鍋のどんぶりに盛られた炊きたてのめしだ。みじん切りに散らされた生姜のにおいがほんのりと香る。シャキシャキとした生姜の歯応え、米の甘み、博多明太子の辛味、吸物の磯風味。文句なし。食い切れないと見えためしが、どんどん胃袋に入る。みんなしばらく無言になって食っている。太田や菱川や星野秀孝を連れてきたかったと思った。ポツリと堀内が、
「猫も杓子もジャイアンツに入りたがるけど、十二球団どのチームに入るのも、ドラフトにかけられるかぎり同じ確率なんですよね」
 高田が、
「そうだな、すぐれてるから巨人に入ったというわけじゃない。プロ野球選手になれるのは、全国二十万人の高校・大学・社会人の野球部員からドラフトで絞られた百人だ。恐ろしいパーセントだ。それだけで気が遠くなる。どのチームにいく選手も、実力的に何の差もないことになる。その百人の中で、どこかのチームの一軍レギュラーとしてコンスタントな活躍をできるやつは、十人もいない。二十万人に十人。ゼロみたいなものだね」
 堀内が、
「その十人だって監督の肚しだいだ。せっかく中日で水原監督に重用されてたのに、わざわざ巨人にきて使われなくなった浜野は、そのことがわかってたのかな。かわいそうに」
 中が、
「その十人の中に、特別な一人がいたことが気に食わなかったんだよ。ふつうであってほしかったんだろう。天才をどう否定しても詮がない。ピッチャーにその一人がいたなら、自分の出番がないということで、トレードを願い出る気持ちもわかるけど、外野手と自分の出番とは何の関係もない。人間の信頼関係を最も大切なことと考える水原さんのことを甘ちゃんと罵った心根は屈折してる。いまでは水原さんと同じ心持ちになった川上さんのことも、いずれ罵るんじゃないか。ますます出番はないな」
 私は、
「浜野さんが愛してるのは巨人軍という権威の象徴物なので、その象徴物に属する人と悶着は起こしませんよ。使われないことにすごい不満を覚えながらもね。追い出されて初めて、集団の冠の無意義を悟るでしょう。自分は最終的に選抜された人材なのだから使われてあたりまえだが、人材が豊富なプロ集団ではさらにすぐれた人材しか使われない、自分が中日で使われたのは僥倖だった、たとえ所属場所はどこでも、その僥倖を大切にして最善を尽くせばよかった、と思うでしょう。巨人軍に属してしまった以上、いまは頭角を現す最大限の努力をするべきです。不満家は努力家になれない。……ぼくはむかし努力家じゃなかった。他人に不満を感じたり、他人からされたことに悲観したりすることに忙しくて、自分を磨くために努力する時間を持てなかった。いまはちがいます。ぼくから不満や悲しみを取り除いて努力家にしてくれたやさしい人たちが見守っている。彼らが教えてくれました。他人を巻きこんだ人生じゃなく〈自分だけの人生〉を生きろとね。自分の人生を生きるために必要なのは、自分に不満や悲観を与える人やものごとを退治することじゃない、自分の持つ素質のすべてを磨くことで、不満や悲観を覚える自分を克服することです。人と比べるのじゃなくて、自分自身そのものを曝け出しながらね」
 江夏が呟いた。
「すごいもんだな……」
 堀内が、
「こんな人にボールをぶつけようとしたり、バットにイチャモンつけたりしてたのか。川上監督があそこまで丁重に謝罪したのももっともだ。人生懸けて謝罪したくなりますよ」
 田淵が、
「浜野はドラゴンズにいるとき、神無月さんと口を利かなかったんですか」
「何度も利きました」
「ふーむ、口を利いた結果があれだとすると……」
 高田が、
「嫉妬ですよ。嫉妬は人をめくらにする。長嶋さんも、あっけらかんとしているようでなかなか嫉妬深い人ですが、野球の世界で頭角を表した。嫉妬を叩き台にしてノシ上がるには相当な才能が要る。川上監督もしかりです。大下に対する嫉妬であそこまで大家になった人です。あるのが嫉妬だけで、才能もそれほどでないとなると、残るは権力だけということになるけど、それも手に入れられない場合は、悶々と一生を送るだけですね」
 江藤が、
「どう否定しても、特殊な者がこの世にはキッチリおるばい。本人にしてみれば、望んだわけでなか、ただ授かったどえらい才能たい。ふつうの人間がどえらいものに嫉妬してあたりまえばってんが、愚かな行為たい。自分の器ば知って、愚かな嫉妬ば捨て、そこからやろ、一念発起して奮闘努力するんは」
 仲居たちを連れて料理頭がやってきた。
「〆の水菓子でございます。桃、石榴、枇杷、おいしく冷えております。ご堪能ください」
「ご主人、これ。酒代と心づけも入っとる。今夜は無理な時間にお願いしてすまんことやった。すばらしかごちそうありがとう。じつにうまかった」
 封筒を差し出した。
「老松の腕を揮わせていただきました。口の肥えたみなさまに気に入っていただき、料理人冥利に尽きます。また博多にお越しの節は、ぜひお立ち寄りください。遠く九州の地より、みなさまのご活躍を祈念しております。本日はほんとうにありがとうございました」
 平伏した。老人が去ると、茶が出た。壁の時計が一時五十分を指していた。江藤は枇杷の皮を剥きながら、仲居の一人にタクシーを呼ばせた。
         †
 フロントが二人いるきりの森閑としたロビーで、紫煙をくゆらせるみんなと話をした。彼らはプロに入るはるか以前の経験をなつかしそうに語り合った。高田。
「中学時代はけっこう成績がよくて、受験校の岸和田高校へいくつもりでいたんだけど、野球がやりたくて浪商にいきました」
 よく聞く話だ。江夏。
「奈良で生まれたんですが、生まれて半年でオヤジが失踪して、鹿児島のオフクロの実家に戻って五歳まで育ちました」
 驚いた。私と同じだ。そのことは言わなかった。
「それから尼崎へ引っ越して、オフクロと兄二人と高校卒業まで暮らしました。子供三人とも種ちがいで、母親の姓を名乗っとった」
 多情な母親だったのだ。複雑な家庭事情のようなので、興味本位に質問できないと判断した。兄に言われて右投げを左投げにした話は有名なので、あえて持ち出さなかった。それでも問わず語りにチラリと語った。堀内。右手の人差し指を見せてもらった。五ミリほど爪が残っていたが、たしかにほかの指より数ミリ短かった。
「指先の薄皮を厚くするのに苦労したでしょう」
「いつもトントン机を叩いてましたね」
 田淵。
「ぼくの父親は新聞記者で、裕福な家庭で育ちました。母親に溺愛されました。いまもされてます。入団記者会見のときに、母に〈ぼくちゃん〉と呼ばれて記者たちの失笑を買いました。中学校から野球を始めて、法政一高、法政大学と、恵まれた野球生活を送りました。エピソードなんて一つもない平凡な男です」
彼らが語ることは私の経験とほとんど重ならなかったが、爽やかな思いに浸されてほのぼのとうれしかった。学校の不得意科目は何だった、こんなやつと喧嘩した、授業をサボって校舎裏で煙草を吸って体操教師にぶっ飛ばされた、高校の野球部の先輩のしごきはひどかった、などといっただれもがする経験は語られなかった。自慢話しかしない浜野とはまったくちがっていた。野球の話になった。高田。
「浪商の一つ先輩の尾崎行雄。変化球はカーブしかないんです。それも中学生程度のカーブです。ところが速球は……あんなボール見たことないです。当然空振りするんですけど、ボール三つ四つ下をバットが通過するんです。剛球、剛速球、あんな球はいまもって見たことありません」
 江夏。
「王さんのすばらしいところは、フルスイングです。衣笠さんもそうですね。ピッチャーは力いっぱい投げる、バッターは力いっぱい振る、それが基本です。二人ともフルだとハッキリわかる。……そこへ異次元の人間が現れた。神無月さんです。二人よりもバットスピードは速いのに、力いっぱいに見えない。しかしたぶん物理的には力いっぱい振ってるんだと思います。おたがい悔いのない全力勝負の結果、四つしか三振してない神無月さんから二つも三振を奪うことができた。うれしいです。……じつは、こうしていま自分がプロでやれてること自体不思議に思っとるんです。地元の高校で多少目立ってた程度のピッチャーでしたから、雲の上のプロ野球にいけるなんてこれっぽっちも考えてなかった。東海大学への進学も決まって、さあ大学野球でがんばろうと思ってたところへ、阪神のスカウトがきて、俺はおまえなんてほしいと思わない、会社の社交辞令できてるんだ、と面と向かって言うので、この野郎と頭にきて、うるさいこのバカヤロウ、なら入ってやるわいと応えて入団することになったんです」
 田淵。
「高田さんの言った尾崎さんのことは知らないので、自分の経験した中でしか言えませんけど、今のプロ球界で速くてアウトローがピッと伸びるピッチャーは江夏さん、速くてシュートが切れるのは平松さんですね。堀内さんはそれ以上に速いホップボールなんですが、ドロップみたいに落ちるカーブと速球のコンビネーションで打ち取るピッチャーです」
 その堀内。
「ぼくのカーブは一度ちょっと浮いてから落ちるから、ほとんどのバッターは打てないんです。それを難なく打ったのが神無月さんだった。浮きぎわなのか落ちぎわなのか、どこを見切るポイントにしてるのかわかりませんでした。サッとバットがきらめいてボールをさらっていく感じ。ホームランだけが目立ってる神無月さんですけど、じつはゴロで抜けてくヒットもすごいんです。王さんに聞きました。ボールの上っ面を叩いたはずの凡ゴロがバウンドごとに加速していくって。ボールが速いと言えば、アトムズの松岡さんも速いんですよ。カーブも切れますし」
「彼には相当やられてます。研究するつもりです」
 人の話を聴くのは自分の話をするよりずっと楽しい。ドラゴンズの三人も自分の話をせずに楽しそうに聴いていた。
 あしたの飛行機の時間を確認し合い、三時にお開きになった。それぞれフロントで鍵を受け取って部屋に戻る。酒と笑いで浮いた脂汗をシャワーで洗い落とす。人と会ったあと、顔が疲れるという経験をするようになった。愛想笑いをしているつもりはないが、笑いを失った十五歳以来、笑おうとするたびに何か小刻みな無理が重なって、顔の底を疲れさせる。女といるときは、たとえ初対面の女でもこうならない。男は、ごく一部の親しい男といるときにかぎりこうはならない。江藤のような大声で笑ってみたい。それを写真に撮ってもらって、いつも眺めていたい。 
 パンツ一つになり、ベッドの上に横たわる。芯のない二枚重ねの枕に頭を埋める。することがない。非生産的な思い出だけがある。それを後半生懸けて彫琢しようという希望だけがある。目をつぶる。
 半睡のとき、けいこちゃんの夢を見た。死んだはずのけいこちゃんはめっきり育っていた。子供と大人のあいだぐらいの年齢に見えた。背丈が伸び、からだが一回りふくらんでいたのは当然のこととしても、一つひとつの立ち居振舞いの中に、まだ生硬だったけれども、大人の表情が宿っていた。それはもうけいこちゃんではなかった。
「人に言われるままに、ある農家の長男と見合いして結婚することになりました」
 きわめて退屈な告白だった。何の感慨も湧いてこなかった。
「ピリオドを打つと、人生は安定するからね。死以外のピリオドには何の価値もない」
 そんな冷酷なことを私は言った。けいこちゃんは愛からではなく、女の本能で抱きついてきた。私は振り払い、背を向けてつかつかと歩み去った。
         †
 七月二十三日水曜日。八時起床。曇。軟便をし、シャワーを浴びてサッパリする。柔らかい耳鳴り。備えつけの綿棒で耳垢を取っておく。電気髭剃りでそっとあたる。かなり確実な音がするようになった。手と足の爪を切る。
 ドアの隙間から読売新聞が差し入れてある。全員にこれをすると手間と金がかかるので、フアンの従業員がやってくれたことにちがいない。スポーツ面を開くと、

 
『夢の球宴』ハプニング          
 いいところで真っ暗け停電 フアン三万人騒然

               
 五十三分間も停電していたと知った。ほかに知りたい情報もなかったので、新聞を閉じてテーブルに置き、朝食に出ようとすると電話が鳴った。
「下通さまからお電話でございます。おつなぎします」
 きちんと約束を守って電話してきたのだ。
「もしもし、下通です。すばらしいご活躍、感動の連続でした。球場を光の玉が縦横無尽に走り回っているようで、目を疑いました」
「ありがとう。ANA十時五分発、十一時二十五分着」
「わかりました。名鉄神宮前駅で一時半までお待ちしてます」
「うん。空港からタクシーでいく。じゃ」
「はい、無事にお帰りください」



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