十六 

 北村席に電話する。女将が出た。みんなバラバラに帰ることになった、何人か親しい友人ができたので、彼らと食事をしたあと適当にキャンセル待ちの飛行機に乗って、夕方までには帰る、迎えはいらない、と告げる。見え透いた口実に、
「気をつけて帰っていりゃあせ」
 と女将は明るく応えた。
 神聖なウグイス嬢とのデートを秘密にするつもりはない。ただ、秘密を明かせば、野球を観るときに彼らの意識の奥に余計な知識が忍びこむ。彼女との北陸での一夜の件は、まだだれにも話していないけれども、千鶴の件を含めて、ネネのことも、奈緒のことも、勢子やハツのことも、いずれ何かの折に話すことになるだろうと思う。折がなければ話さない。話したところで、それが私と女たちのあいだのトピックにならないからだ。
 性欲を発散させること自体、恥ずかしい行為の最たるものだと思っている人は多いだろう。かつて私もそうだった。飯場の便所を思い出す。性欲があるとは思えない犬猫や昆虫にしても、交尾する仕草は見ていて美しいものではないし、ましてや人間にはその仕草に伴って襲ってくる快感があり、それに身も世もなく感覚が発揚されている図というのも恥ずかしいものだと思っていた。恥ずかしいので、便所でオナニーをしているとき自分のオーガズムの状態を見られないよう願った。心の底で人間を高等な生きものと看なし、快楽の行為や発作を高等な生き物に似合わない〈劣った〉現象と考えていたからだろう。〈すぐれた〉自分のからだの底にある〈劣った〉生理現象を自分以外の者に暴露したくない、肉体の快楽に関わらないときの〈すぐれた〉自分を思い起こさせたいというのは、人間の本能にちがいない。
 たしかにそういう考えを本能として尊重している人間が相手なら、性の告白もトピックになるだろう。慙愧して見せたり、嘲笑して見せたり……。しかし、自分の肉体と精神が成長するにつれ、私は、その快楽には優劣を凌駕する愛が介在していることを知った。本能を恥じ入る告白がトピックにならない人びと、愛に満ちた人びとが、少数だが存在することを知った。彼らは肉体の愉悦の行為や反応を劣ったものと思っていなかった。カズちゃんをはじめとする女たち、山口をはじめとする男たち……。そういう愛の観念にあふれた彼らに性の経験を一つ、二つ吐露しても意味がない。吐露された知識が一つ増え、折々私の性のありように余計な気遣いをするようになるだけだ。たとえわずかでも、それは彼らの心の負担になる。
 いのちの記録を開く。

 みっともなさや恥ずかしさを隠そうとするのは、愛し合っていない人間だけであると単純に考えると、愛のない人間には、みっともなさと恥ずかしさを隠蔽して生きようとする卑怯な習癖があるという単純な結論になる。愛のない人間は卑怯に染まりやすいと定義づける驚愕すべき単純な考え方だけれども、二十年間私が見てきたかぎり、そう定義される人間が多数派であることはまちがいない。それが社会であり、社会とは多数派のことだからだ。
 卑怯な本能を隠蔽する苦痛から遠ざかるために、その多数の人びとが宗教的な生活に埋没することは大いに納得できる。隠蔽の苦痛こそ、彼らの苦痛の中で最大のものだからだ。最大の苦痛は慰撫されなければならない。彼らを慰め愛撫してくれるものは愛ではない。徹底した隠蔽を美しく飾るものだ。社会制度と宗教。愛という高貴な代物で慰撫される必要があるのは、隠蔽に価値を置かない愚かな人間にかぎられる。
 愚か―私が多数の男女のように、隠蔽の苦痛を抱えた共同生活こそ愛と呼べるのだと考える人間なら、私は進んで秘密を保持して愚かさを脱するだろう。しかし、私はそういう生活を愛ある生活と思えない。苦痛は男女が集団で抱えこむべきだと考えてこしらえられた制度を、愛という名で神聖化する気持ちになれない。恥とみっともなさを二つとも隠し、集団意識で適度に摂取し、それをゼロに見せかけながら安堵の中で暮らすことに後ろめたさを感じる。とは言え、そういう安楽な生活の中へ逃げこみたいという切実な気持ちが人びとの胸にあることは理解できる。私の中を流れる小心な血に最大の圧力を持たせれば、その理解が可能になる。

 九時。歓声に包まれてロビーから車寄せを通って駐車場に出る。ブレザー一つでバスに乗りこむ。江藤が一人見送る。
「あさって、ニューオータニでな」
「はい、奥さんと、お子さんによろしく」
「おお、しっかり伝えとく。オールスターの自分の記録知っとうと?」
「三冠以外知りません」
「それでよか。愛しとるぞ」
「ぼくもです!」
 手を振る。車中のみんなで江藤に手を振る。私はほんとうに江藤を愛している。私は長いこと、自分はだれも愛することのできない人間だと思ってきた。愛し合ったり、睦み合ったり、許し合ったり、そういうことが生命の栄養剤にならない男だと思ってきた。しかし、周囲のすべてと戦いながらそれだけを生きる糧にする人間だとわかってきた。涙が流れてきた。反対側の座席にいた田淵が、
「神無月さんが泣いてる!」
 と叫んだ。川上監督が、
「金太郎さんはいつも涙を溜めてるんだ。ちょっとした刺激でそれがあふれてくる。知っておきなさい」
 中と小野がうなずき、小川が私の腕に手を置いた。
 昭和通りの路上に数百人の人びとが待ち構えていて、選手たちの名前を連呼した。手を振ったり、バスの脇腹を叩いたりする。窓を開け、全員で手を振った。
 どれほど親しく呼びかけても、バスの外の彼らは依然として肌の温もりを伝え合えない他人であり、たがいにその境遇を抜け出せない他人だ。私はそのうち〈触れ合えなかった野球選手として〉滅んでいくだろう。そして私が滅んでも、彼らはケロリとして生きていくだろう。野球しか私は見せられなかったからだ。このからだが野球選手として滅ぶ日まで、私は彼らと触れ合えず、野球を見せられるだけだ。野球選手として滅んだあとも、愛する者を愛しつづけるために、小心を押しこめて生きながらずっと戦いつづけたという私の気概は理解されない。その気概は自分しか知らない。
 飯場の男たちの六畳部屋。湿った万年蒲団が敷かれ、その周りには新聞や雑誌や紙くずや空箱などが散乱し、ほとんど畳が見えなかった。蒲団の下にもいろいろなものがもぐりこみ、蒲団の上を歩くと足の裏に段差を感じた。部屋のベニヤ壁はところどころめくれていた。机の上の装飾楯や家族写真はひっくり返っていた。めったに戸を開けないので、黴と煙草と男の体臭が混じり合った独特のにおいがしていた。小心を否定し、みっともなさと恥を礼賛する無頼の人びと―あそこから私の愛が始まったのだった。乱雑で、不潔で、無目的で、非権力的で、まるで長所の見当たらないものへの私の愛が。
 そんなものを愛するために戦う価値があるのか。私にはあるのだ! カズちゃんも、康男も、山口も、北村席の主人も、江藤もみんな、クマさんや小山田さんや吉冨さんや荒田さんの本質を変えずに変化(へんげ)したものだ。彼らは肌を触れ合えない他人ではなかった。それが私にはわかる。
 まぶたの裏で彼らは昂然と胸を張って言う。
「俺たちが護ってやる。俺たちがいないと、おまえは生きていけないだろう?」
 そのとおりだ。
 福岡空港で、羽田行と伊丹行と名古屋行の飛行機に三手に分かれて搭乗することになった。小野、中、小川と私は名古屋行。カメラマンとファンに揉まれながら、各チームのマネージャーが配る切符を一人ひとりの選手が受け取った。別のバスでやってきた選手たちとも合流し、名残を惜しみながら握手を交わし合った。
 飛行機の待ち時間に、川上監督と形ばかりでない握手をしていると、パリーグの西本監督が近づいてきて握手を求め、
「あんたの人に媚びん生き方がたまらんわ。日本シリーズでは全力で潰しにいくで。勝つに越したことはないし、そりゃ勝ちたいが、あんたにやられたとしても天の定めや。水原さんはいまええ気持ちやろ。自分の作ったチームが上り坂にあるときの気分は、優勝よりええもんやからな」
 返す視線で川上に、
「川上さん、今年は無理やろう」
「奇跡の起きるレベルを超えたね。捲土重来。それも中日ドラゴンズのせいで数年は難しそうだが、フロントにはそんなこと言えないしね」
「アハハハ、うちもひょっとしたら、土壇場で三原近鉄にハタキこみ喰らうかもしれん」
 王、堀内、高田の三人組が、江夏と田淵を連れてやってきた。王は両手で硬く握手し、
「百本を狙いますよ。五十五本以来、努力目標をそこに据えてきたので―神無月さんと関係なくね。努力が報われないうちは、それは努力と呼ぶに値しない。神無月さんをあこがれにします。最高のものに対するあこがれがないと、自己の向上は期待できません。じゃ、来月五日、中日球場で」
 高田が老松での乾杯のときと同じように、
「末永いお付き合いを」
 と握手の手を揺すり、
「これからは神無月さんのようにコンスタントに打てるよう努力します。意外性なんてもう言われたくないです。意外な力があるなら、いつでも出しとけですよね」
 江夏が、
「江藤さんが言ってた自分の記録、ほんとに知りたくないですか」
「別にいいです。七本ホームラン打ったことだけで満足です」
「ファン投票得票数から何から、ズラッと言うつもりだったんですが」
「あした忘れることは、どうでもいいです」
「それだ! すごいのはそこなんです。俺、神無月さんに一生ついていきますよ。神無月さんは理想の野武士です。この五カ月感動しっぱなしでした。俺も、管理野球とか組織野球とか考えたくない口です。どこが近代調なのか知らんが、チームワークなんてものをいちいち考えとったら野球なんかできん。要はやる気、情熱、意欲です」
 堀内が、
「いつか、一晩語り合いましょう。自分がいなければ何も始まらないと無意識に自覚できる―俺も神無月さんみたいなそういう選手になりたい。俺は神無月さんに命懸けでぶつかりますよ。それでホームランを打たれるなら本望です。命なんか惜しくないですよ」
 田淵が、
「神無月さんとの〈読み〉合戦が楽しみで仕方ないです。いまのところ、ほぼ敗けですけど。昨夜いっしょに飲んで、神無月さんが気持ちの人だと知って泣きたくなった。うれしかった。それでいて知性も並外れてる。南海の野村さんは、外野手は考える習慣を持っていないと新聞に書いてましたけど、神無月さんの一球ごとの緻密な守備位置替えと、一球ごとの考え抜いた打席を見ろと言いたいですね。……また会いましょう。失礼します」
 俠客金田は、森や弟の留広と大声で笑い合っていたが、私と目が合うと律儀な辞儀をした。森の辞儀がいちばん深かった。
 搭乗口がちがっていたので、これで別れだとも意識せずにたがいに自然と別れた。川上監督と羽田行搭乗入口でもう一度握手した。
 飛行機の中では機内食を断り、四人仲良く仮眠を優先した。
         †
 名古屋空港からタクシーに乗る。
「中さん、江藤さんと温泉にいくのはとりやめたんですか?」
「うん、やっぱり水入らずをじゃましたくなくてね。中日ドラゴンズの昇竜館」
 と中は運転手に告げた。運転手はハッと驚いたようだったが、返事をしたきり何も話しかけてこなかった。
「きょうは三人、寮泊まりですか」
 と尋くと小川が、
「利ちゃんと俺は市内の自宅に帰るけど、小野さんは自宅が東京だからこのまま寮に泊まる。福岡から羽田行で帰ればよかったのに、金太郎さんに後ろ髪引かれたんだね」
 私は、
「すみません、飛行機では寝ちゃって」
「いやあ、みんな寝てたよ。東京に帰ってもつまんないから」
 小野はさびしそうに笑った。
「つまらないなんて……大恋愛だったんでしょう? 月並みですが、仁木多鶴子さんとの馴れ初めを知りたいですね」
 小野は照れくさそうに耳をいじりながら、
「大映って、プロ野球チームを持ってたんだ。大映スターズ。昭和三十二年に高橋ユニオンズと合併して大映ユニオンズ、同じ年の十一月に毎日オリオンズと合併して大毎オリオンズになった。オーナーは大映の永田雅一。大毎オリオンズの結団式に、永田が山本富士子や市川雷蔵といった映画スターを引き連れて現れて、私たちをびっくりさせた。考えたら、映画俳優とプロ野球選手が系列会社の社員同士だったというだけで、別に驚くことじゃなかったんだけどね」
 小川が、
「でも、ふだんスクリーンでしか見たことがないわけだから、驚くよね」
「そうなんだ。で、試合のない日は調布の大映撮影所にいって、女優さんたちとおしゃべりするのが楽しみになってね。社内恋愛が持ち上がるというわけ。若尾文子によく似た和子に一目惚れした。あ、女房、本名鶴田和子って言うんだ。うちでは北村席のカズちゃんと同じように、カズちゃんて呼んでる」
 鶴田荘のカズちゃん……思わず微笑んだ。
「オヤジがトロンボーン奏者で彼女は音大のピアノ科。三十二年に大映十一期ニューフェイスで入社したばかりだった。うなぎのぼりに人気が出て、三十四、五年は絶頂期でね。私もそうだった。その年彼女は、一刀斎は背番号6という映画に出演した」
「初めて世羅別館でお話したとき、聞きました」
「そうだったね。助演として、いまコーチをしてる田宮謙次郎さん、山内一弘さん、榎本喜八さん、私、それに西鉄の稲尾さんも出た。和子と選手が共演するシーンはなかったけど、撮影中にはよく顔を合わせた」
「小野さんはどういう役だったんですか」
「一刀斎役の菅原謙二さんの打撃練習に登板してホームランを打たれるという役だよ。ハハハ。でもゲンがよかったのか、私は翌シーズン三十三勝を挙げ、最多勝、最高勝率、最優秀防御率の投手三冠を獲った。オリオンズも戦後初優勝したしね。和子とはその年の暮れに結婚したんだ。ハッキリものを言うしっかりした女でね。……女優は派手な仕事だから贅沢もピンなんで、私がしっかり稼がないとたいへんだ」
 小川が、
「子供はいないの?」
「いない。和子が作りたがらなかった。むかしから病気がちなところがあったんでね。もう元気な時代も過ぎて、無理を利かせて映画に出つづけるなんてことはできなくなったから、最近はよく家にいるよ」
 小野のさびしそうな笑いの理由がぼんやりわかった。夫婦仲がうまくいっていないというのではなく、一時期映画に出つづけた妻がほとんど不在にしてきた家に一人帰っていく習慣を思い出したくないのだ。その妻は繊弱な体質も幸いして、いまは家に落ち着いている。でも長いあいだに習慣になったさびしい彼の気分は、いまもその顔から苦笑の形で滲み出してくる。


         十七

 庄内川を渡り、浄心に出る。空港から一時間かかったが、あれこれ彼らが四方山の話をしてくれたので退屈しなかった。とりわけチームメイトの話は興味深く聞いた。小川は木俣の話をした。
「達ちゃんと俺は同じ昭和三十九年の入団だ。監督は杉浦さん。そのころ、中日は吉沢さん放出の穴がポッカリ開いて、捕手難に悩まされてた。そこで監督が中京大学に直接出向いて、在学中の達ちゃんを口説いたんだ。愛知大学野球リーグの首位打者でMVPだったからね。彼は大学を中退して入団した。その後、俺も達ちゃんもドラゴンズの貴重な戦力になっていくんだけど、一年目はおたがいサッパリだった。俺はゼロ勝、達ちゃんはゼロ本塁打。芽が出はじめたのは二人とも二年目からだ。あいつはホームラン十本打って正捕手になり、俺は十七勝してエース格になった。ところが次の年、駒大から新宅が入ってきた。達ちゃんは大学選手権の準決勝で駒大に負けてたから、さあたいへんてわけで、いよいよ張り切りだした」
「烈しい正捕手争いになったわけじゃないでしょう。新宅さんはホームランを打てない人ですから」
「その年は六本も打ったんだよ。達ちゃんも十五本打ったけどね。ただ、リード面で強気の新宅弱気の木俣と言われたせいで、総合的に頭一つ越されて、出場機会が四分六になっちゃった。そこで達ちゃんは、新宅に勝つにはバッティング面で徹底的に差をつけるしかないと考えたんだな。むちゃくちゃ打ちこんでたよ。これが実った。低いグリップから一気に高いトップへ持っていくマサカリ打法を編み出して、去年二十一本打った。今年はごらんのとおりの勢いだ。軽く三十本はいくだろう。新宅はピタッとホームランを打てなくなったから、勝負あったね」
 小野が、
「おととしは、健ちゃんは二十九勝で沢村賞獲ったしね。達ちゃんとオシドリ夫婦で階段を上ってきたわけだ」
「そんな感じかな。今年は二人で背面投球に挑戦したし」
 中が、
「あれは封印?」
「二度と投げない」
 名古屋駅前で降ろしてもらった。三人が声を合わせて、
「じゃ、あさって!」
「失礼します」
 笹島方向へ走り去るタクシーに手を振った。
 眼鏡をかけ、赤い角張った名鉄電車に乗って神宮前へ向かう。すぐに電車は地下から明るい地上へ出た。操車場の平坦な緑。民家雑じりのビル街へ入る。相変わらずの景色だが飽きはこない。やがてビルが減り、民家と緑が多くなる。金山停車。金山体育館停車。一時五分神宮前到着。
 木造の駅舎から表へ出ると、ロータリーを望むアーケードの下に下通が立っていた。小脇に黒いバッグを抱え、素足に薄茶のヘップサンダルをつっかけている。北陸のときと同じ淡い黄色のミディスカート、淡いオレンジのサマーセーター、ストレートヘアが肩まで垂れ、ついこのあいだまでむかしのキクエに似ていた顔が、キクエと同じように美しく進化している。女は美しくなると、まぶたの切れこみが深くなり、瞳の輝きが増す。微笑み合いながら握手をする。
「滑りこみセーフ。とうとう初デートだね」
「はい、緊張してます。五月五日、神無月さんの二十歳のお誕生日にお逢いしてから、ふた月と十八日」
「きょうが二度目だね。二度デートしたら、もう恋人同士だ。これからはみち子って呼ぶよ」
「はい、私も郷さんと呼びます」
 右手にノラの小路。ノラには顔を出さない。もちろん牛巻へつづく踏切も渡らない。右手を指差し、
「あそこが神宮商店街。あのビルの正体は不明だ」
 大昔からある蒲鉾型の背高ビルに何やら垂れ幕が下がっている。読まない。無数の電信柱。縦横に走る電線。舗道と車道の仕切りは、金属のパイプに鎖を架け渡したものだ。神宮前商店街を歩く。大衆食堂、洋品店、文具店、カメラ屋、煙草屋、ポツンとストリップ小屋が混じっている。薬局、サマーセール抽選場、電気店、たこ焼き屋、花屋、それらに混じってほぼ半数の店のはシャッターが下りている。レコード店から『ゼアズ・ノー・アザー・ライク・マイ・ベイビー』が流れてくる。
「クリスタルズのデビュー曲だ。中学二年のころよくラジオで聴いた。当時はあまりピンとこなかったけど、いま聴くと心に響く」
 並んで歩くみち子がまぶしそうに私を見上げる。三分も歩かないで、商店が途切れる。もう一度謎のビルのほうへ戻る。緑とアイボリーのツートンカラーの市電が、神宮東口へ渡る信号前の電停に停まっている。横腹にワンマンカーと書いてある。康男と乗ったバスも客待ちをしている。
「ここはいつまでも変わらない。思い出深い場所だから、何度もきてしまう。あの小路の入口の前に踏切があって、渡ると牛巻病院に通じる坂がだらだら昇ってる」
 みち子は何のことかわからず、やさしい表情で首をかしげている。
「寺田康男の見舞いにかよった坂だ……」
「ああ!」
 断片的に新聞や雑誌の記事で知っていたのだろう、みち子はたちまち感激して、
「ここがヤケドをした親友のお見舞いにかよった道なんですね」
「うん。中日新聞の連載が終わったら、その親友のことを書こうと思ってる。掲載してくれるかどうかわからないけど」
「五百野という小説、九月から連載が始まるんでしたね。中日新聞に予告が出てました」
「作文みたいなものだけど、野球選手が書いたということで評判にはなるだろうね。いずれきちんとした作品を書く足がかりにはなる。康男のことは牛巻坂という題名で書く。二年ほどかけて書き切るまでは、だれにも内容を漏らさないことにする。しゃべることでエネルギーが燃焼しちゃって、文章の密度が薄まるような気がするから」
「そういうものなんでしょうね。わかるような気がします」
 ロータリーの端のべんてん会館前の信号を渡って、粟田電器店を過ぎ、東門から入る。緑の洪水。樹木の生臭い香りが充満している。
「ほとんどの大木が樹齢何百年だそうだよ」
「そうなんですってね。熱田神宮には何度かきたことがあります」
「名古屋が地元?」
「いいえ。新潟出身です」
「新潟のどこ?」
「新潟市です」
 宮きしめんの幟が目に入る。
「腹がへった。まずおやつ。それからちゃんとした食事をしに鰻屋へいこう」
「蓬莱軒ですね。その店にも一度いったことがあります」
「神宮は勝手知ったるだったか」
「いいえ、ただ、名古屋が長いですから。神無月さんといるとまったく別物です」
 ニッコリ笑う。歯並が揃っていて美しい。カズちゃんや文江のような八重歯はない。
 宮きしめんに入る。勾配のある屋根形をした大テントの下に、粗末な長テーブルとベンチがずらりと並んでいる。思ったより客がいる。天井には長大な蛍光灯。大きな扇風機が回っている。食券を買い、厨房に差し出す。その場で待ち、品物を受け取り、テーブルにつく。醤油ダレのきしめんに、薄い油揚げ、ナルトとホウレンソウ、その上から鰹節をどっさりかけてある。麺の量は少ない。
「いいおやつになりますね」
 醤油が少しきつい。そのうえ甘すぎる。
「こりゃ、だめだ」
 二人、一箸つけただけで食べ残す。
 本殿で参拝。百円投入。カメラをぶら下げた外人カップルが多い。ここが観光地なのだとあらためてわかる。本殿の裏に回る。こころの小径と名づけられた遊歩道。
「ここに入りこんだのは何度目かな」
「私は二度目」
 樹木に囲まれた道を二人で手をつなぎ、のんびりと歩く。眼鏡を外して内ポケットにしまう。前を歩いていた中年女が、小さな泉で立ち止まり、何やら祈りはじめた。私たちは歩みを止めて、しばらくその様子を眺めた。女が去った。近寄って見ると、湧水の水溜まりのそばに、お清水と書かれた小札が立っている。浅い泉の流路の中ほどに小さな岩があり、三度水をかけて祈ると願いが叶うと別の札に書いてある。傍らに柄杓が用意されていた。みち子は手に取り、湧き水を掬って三度かけて掌を合わせた。
「何を祈ったの?」
「架空の神さまへのお祈りじゃなくて、私の隣で生きている神さまに感謝を捧げました。きょうの日をくださってありがとうって」
「……それはぼくの気持ちだよ。忘れずに電話をくれてありがとう」
「忘れるはずがありません」
 私はみち子の真摯な眼差しにたじろいだ。
「この神社はほんとうにきれいだ。大きくて、緑豊かで」
「第十二代の景行天皇のときに建立された神社です」
「いつごろ?」
「紀元百十三年。景行天皇はヤマトタケルのお父さんで、武勇の人です。記録に残っているだけでも、七十六人のお妃がいた人です」
「……よく知ってるね」
「新潟大学文学部。日本史専攻です」
「ふうん、ぜんぜん大学のにおいをさせてなかった」
「そう言ってもらうとうれしいです。ほんの少し郷さんに近づいた感じがします。世間には地位や肩書を感じさせる人と感じさせない人がいます。感じさせる人は近寄りがたくて、冷たい雰囲気を持ってます。郷さんがみんなから愛されるのは、もちろん絶対的な魅力のせいもありますけど、そういう飾りのようなものを感じさせないせいでもあるんです。東大と言われても、プロ野球選手だと言われても、百人が百人信じない雰囲気を持ってますから。私もそうありたいと思ってます、大した飾りじゃありませんけど」
「みち子はいまどこに住んでるの?」
「テレビ塔の真向かいです。道を隔てて中日ビルがあるのをごぞんじですか」
「うん。ランニングしてたとき何度か眺めたことがあるし、高校時代にも一度ビアガーデンにいった」
「あのビルの中に球団事務所もあります。十二階のうち、五階から七階がマンションになってるんですけど、私の部屋は六階の一室です」
「豪勢だな。高いんだろう?」
「球団職員は、一万円で優遇賃貸させてもらえます」
「ただみたいなもんだね。広いの?」
「和室と洋室の二間です。もちろんキッチンとバス、トイレもついてます」
「鰻を食べたら、そこへいこうか」
「危険です。郷さんはビル内のあちこちの壁に球団ポスターの貼ってある有名人なので、ビルに入ったとたんにワッとこられます。どんなにうまくやってもだめだと思います」
「そうだね。こうやって逢う機会はとても少ないんだし、一回ずつ思い出になる場所がいいね」
「はい」
 南門を出て、蓬莱軒に入る。二階に通された。カズちゃんや山口たちときたときと同じ席だった。熱燗と、鰻定食、肝焼きを注文する。
「ひつまぶしは嫌いなんだ。鰻は鰻、ごはんはごはん」
「はい」
 出てきた熱燗をさし合う。
「広報ってどんな仕事をするの?」
「球団に所属している選手や監督たちとマスコミのあいだに入って、スポークスマンとしていろいろなことをします。ヒーローインタビューをだれにするかを決めたり、試合後に選手たちのコメントを採ってマスコミに発表したり、球団の人気や集客力を高めるためにイベントやグッズ販売の段取りをつけたりするのが全体広報です。スター選手には専属の広報がつくのがふつうですが、郷さんはそういうのを嫌がるとわかっているので、小山オーナーの計らいでつけていません。郷さんのことは足木さんが一手に引き受けています」
 鰻定食と肝焼きが出てきた。箸をとる。一口運び、
「おいしい!」
「うまい!」
 肝焼きを歯でくじり取り、
「うまい!」
「おいしい!」
 串を打ち合わせる。燗酒をさし合い、ちびり。
「ウグイス嬢もそういう仕事をするの?」
「まずしません。アナウンスはとても過酷な仕事なので、ホームで試合のないときは、ほとんど休暇をもらえます」
「それできょう休めたわけか」
「はい。球場アナウンサーは、球団関係の業務を気にしないでアナウンスに打ちこめるんです」


         十八  

 私は下通に酒をさし、
「打ちこむほどに責任が重くなるから、つらいことも多いだろうね」
「ええ……。高熱があったり、頭や歯が痛かったり、家族や友人の冠婚葬祭に出られなかったり。いちばんつらいのは、家族の死に目にはまず会えないことです。私をかわいがってくれた祖母が危篤のときに駆けつけられなかったのは、ほんとにつらかった。公式戦が行なわれている真っ最中だったので、アナウンス席を空けるわけにいかなかったんです」
 山田三樹夫が死んだときに、サングラスやばっちゃが言った言葉を思い出した。
 ―その山田って人は、従容と死んでいぐべ。人が死ぬのは、自然の決まりごとだんだ。死ぬ者がいて生き残る者がいるのは、仕方ねこどだ。生き延びた人間がせいぜい励めばいんだ。
 ―だれだって、他人の都合に合わせて死ねねんだ。
 私は二人の言葉を標準語に直してみち子に告げた。みち子はハンカチを出して目を拭った。
「別れは人生に必要なことじゃない。必要なのは、人と出会い、その人と共に生きることだ。死んでいく人にはそれがわかってる。お祖母さんがいつもみち子に言ってた言葉が遺言だ。ぼくの祖父母はまだ生きてるけど、じっちゃが言ったことで印象的なのは、桜狩りするみてに生ぎろ、ばっちゃは、うーん、しゃべる人じゃないな、笑ってる人」
「笑って生きなさいって教えたんですね。私の祖母は、『とりあえず何でもやってみなさい』……」
「冒険しろということだね」
「大学を出て名古屋にいくことになったときにも同じ言葉を言ってくれました。私は本多選手の大ファンで、どうしても中日ドラゴンズのウグイス嬢になりたかったんです。戦前にはウグイス嬢という職業はありませんでした。場内アナウンスは男性だったんですよ」
「へえ! 知らなかった」
「戦後の昭和二十六年、私が十歳のときに、後楽園球場の青木福子さんという人がウグイス嬢第一号になりました」
「中さんに聞いた。彼はドラゴンズ一の物知りだ。で、裏日本に住む小学校四年生が、そんな情報をどうやって知ったの?」
「ラジオで聞き、それから新聞記事で見ました。これだと思いました。それで、中学高校と放送研究会に入り、新潟大学でもやっぱり放送研究会に入って、関東甲信越大学野球のウグイス嬢をしてました。東京六大学もそうですが、場内アナウンスは大学の放送研究会の部員がやってます」
「気にしたこともなかった。いまもどんな声で流れてたか思い出せない。……そうやってキッチリ下積みを経験してから、名古屋に出てきたんだね」
「はい。……二十三歳から十年、そろそろ後継者のことを考えなくちゃいけない齢になってきてます」
「早すぎるよ。まだ三十二じゃないか」
「いいえ。周りは六十歳でもできる仕事だと言いますが、私は四十歳までの仕事だと思ってます。声の質が微妙に老けてくるんです。その声を聞くだけで場内の雰囲気も暗くなります。淡々とした声でごまかしてもだめなんです。……ただ、後継者といっても、野球が好きな子でないとだめです。じょうずに声を出せるというより、野球が好きだという気持ちが声に出るような」
 私は最後の一杯を独酌して、
「じつは、あと二年半で東大を卒業して、ドラゴンズ球団の広報に入ってウグイス嬢になりたいという学生がいるんだ。スポーツ科学専攻。去年、東大野球部のマネージャーをしてた上野詩織」
「ああ、何度か雑誌の写真で見たことがあります。あの三人の中の一人でしょう? きれいな人ばかり。三人とも、郷さんに浄められてるとすぐわかりました。郷さんとそっくりの、すがすがしく抜け上がった雰囲気をしてましたから」
「いちばん地黒の子とは疎遠になってる。残りの二人のうち、大柄のほうは、東大をやめて名大の文学部にきて、名古屋城のそばで暮らしてる。小柄のほうが上野詩織だ。中日ドラゴンズの試験は受かると思うけど、そのときは球場アナウンサーになれるように面倒を見てやってくれない?」
 みち子は鰻めしを一掬いして口に入れ、
「もちろん。郷さんの息のかかった女の人を預かって指導できるなんて、身に余る幸せです。球場担当になるようコネクトします。そのあとも、一人前になるまで大切に面倒を見ます。最初の五年間ぐらい交代でウグイス嬢をやってから、そっくりあとを継いでもらいます。アフターケアもちゃんとします。本気を出して四十歳までがんばらなくちゃ」
「ありがとう。まだ先の話だけど、安心した」
 二人すっかり平らげ、大満足したところで腰を上げた。
 神宮の境内に戻って玉砂利の参道をゆっくり歩く。かぶさってくる緑が涼しい。三時を回っているが、まだまだ高い陽が梢のあいだから見える。
「神宮のあたりは小学生のころから歩き回っていたから、かなり詳しいんだ。……そのあたりの物陰でいい?」
 安易とは思ったが、節子やカズちゃんと入った旅館で思い出を積み重ねたくなかった。「はい、ドキドキします」
「濡れてる?」
「すごく……いつでもできます」
「廃小屋の中でもいい?」
「もちろん。そういう場所があるなら最高です。郷さんが仰向けになれる場所があるといいんですけど。あのときみたいに、郷さんの胸に両手を突いて……頭のてっぺんまで電気が走る感じ。とても神々しい気持ちでした」
 下腹が充ちる慣れた感じがあった。西門のそばの又兵衛の神域へ入りこんだ。建物の裏のホンザンの勉強小屋がそっくり廃屋になって残っている。
 ホンザンの説明を手短にした。みち子はおもしろそうに笑った。表の入口は土埃に滑りを妨げられて、引いても開かなかった。小屋の裏手に回って生垣の迫る薄暗い隘路に立つと、鬱蒼とした木立の向こうに信長塀が見えた。塀の向こうを人声が通る。やはり小屋に入りこむしかなかった。みち子はあたりをめずらしそうに見回している。裏口の戸はなんとか開いた。薄明るい土間に小流しがついていて、錆びついた排水口にゴミが溜まっている。置き残した生活用具もなく、さっぱり片づいていた。ホンザンの机があった部屋はがらんどうだった。蛇口をひねると、弱い勢いで水が出た。しばらく流していると流量が安定してきた。水道を止めた。
「こんなところでいい?」
「郷さんとするなら、お便所でもどこでも。場所なんかぜんぜん気になりません」
 みち子はバッグからティシューの束を取り出し、二、三枚を水道の水で濡らして流しの縁を拭いた。残りのティシューを私に渡し、バッグを足もとに置いて、スカートを脱ぎ落とした。サンダルを脱いで裸足になり、美しい両脚からパンティを引き下した。恥ずかしそうに私に預ける。私はティシュとパンティをズボンのポケットにしまった。
 みち子は裸足の片脚を流しの縁に載せ、もう一方の脚で立った。整った形の陰毛を見つめる。流しの窓明かりの中に濡れた襞がかわいらしく垂れて開いていた。クリトリスは包皮からそっくり顔を出していた。
「下から入れるから、みち子が肩に抱きつけば、ぼくが下になるのと同じ理屈だね」
「はい……考えただけでがまんできなくなりました」
 私はしゃがんで、そのぬめった二枚の唇を含んだ。なめらかな前庭から硬くしこったクリトリスまで舐め上げる。交わる女に対する最低の儀礼だが、行為を急いで怠りがちだ。体積を増したクリトリスは固くて舐めやすかった。やがて下腹がふるえはじめ、たちまち収縮した。アクメの発声はなく、喉の奥でうめき声がしただけだった。 私はズボンを引き下ろし、すぐさま挿入して突き上げた。
「ク、郷さん……」
 先回とまったく同様に膣が激しく脈打ちはじめ、
「はう!」
 まったく同じ歓喜の発声をした。喉を鳴らし、あわただしく陰阜が前後する。首に抱きついてからだの安定を保ち、うむむ、うむむ、とうめきながら下腹を痙攣させる。私は間断ない摩擦に耐えかね、固く締めつけてうねる膣の中へごく自然に射精した。挿入して一分も経っていなかった。
「あああ、うれしい! 郷さん、愛してます!」
 まるでコピーのように北陸と同じ反応だった。ふるえる喉が鳥肌立ち、片脚を突っ立てた格好で痙攣を止めようとしない。感激を得た膣に私の単純な感覚を取りこんだまま長くふるえつづける。ふるえながら新しい高潮を迎える。
「ああ、郷さん、ありがとうございます!」
 私に預けた上半身を打ちふるわせ、陰阜を前後させながら飽くことなくアクメを呼び寄せる。不安になってこっそり抜き去ると、反射的に片手を前後する股間に当て精液を指でこそぎ、その指を口に持っていった。そうしていよいよガッシリと私を抱き締め、全身のふるわせた。ようやくふるえが止み、私を抱き締める腕をほどいた。もう一度股間をこそいで口に含み、片脚を下した。
「おいしい?」
「はい、生まれて初めて舐めてみました。とても甘いんですね。……身も心も浄められました。……私は、北陸遠征のときもそうでしたが、抱いていただけるのはこれで最後だといつも思っています。一生に、この一度だけ、と思っています」
 みち子は私をもういちど強く抱き締め、
「私にとって神無月さんは神なんです。人間的な感情を超えた絶対物です。愛しているとしか表現できませんけど、言葉を超えた感情がからだを破ってはち切れそうです。あ、まだ萎みません。おつゆが出切ってないんでしょうか」
 一度射精をしても勃起が止まない私の生理をみち子は知らない。
「みち子、後ろを向いて。入れるだけから。まだできる?」
「はい……郷さんができるあいだは何回でもできます」
 もう一度流しの縁をつかんで尻を向ける。挿入する。
「ああ、うれしい、郷さんとこんな形、初めて。ものすごく感じます」
 すぐに膣が脈打ちはじめる。
「あああ、もうイッてしまいます」
「いいよ、イッて」
「イク!」
 しっかりと発声し、激しく下腹を収縮させる。すぐに次の高潮がやってくる。緊縛が強くなり、射精したばかりの私も高まりはじめる。
「郷さん! またイ……」
 私も近づいた。服の上から胸を握り締め、射精の近いことを告げる。
「いっしょに、いっしょに……郷さん……ックウ!」
 信じられないほどの快美感を伴った射精が訪れた。精液が放出される感覚よりも快美感のほうがまさっていた。思わず愛を口にした。
「うれしい! 私も、私も愛してます!」
 女たちがふるえながら愛を叫ぶ心とからだの仕組みがはっきりわかった。腹を抱き寄せ、みち子が求めるかぎり律動しようと決意して、恥骨を柔らかい尻へ強く押しつけた。
 私が萎みはじめてようやくみち子の痙攣も間歇的になった。私は離れようとしなかった。みち子は腰が抜けたようになり、流しの縁をつかんだまましゃがみこんだ。その瞬間に離れた。彼女は一分ほどうつむいた格好でいてから、立ち上がって振り向き、輝くように笑いながら私を抱き締めた。やがてバッグからハンカチを取り出し、水道の水で濡らした。薄明かりに透かしながら、ハンカチを何度も裏返したり、畳み返したりしながら私のものを念入りに拭う。納得がいくと、私からパンティを受け取り、器用にからだをくねらせて穿いた。私はパンツとズボンを引き上げた。二人で大量の光と緑の中へ歩み出す。みち子はあらためて又兵衛を眺めた。それから手水舎へいき、手に握ったままだったハンカチに水をかけて洗った。
 何の実体もない性の衝動や、道徳家が吐き気を覚える行為に惹きつけられる輩は何かが狂っている。私は性的な行為に想像を逞しくすることはないし、挿入や射精の衝動にあこがれることもない。つまり純粋な性の輩ではない。それでもやはり、常習性に負けて、切実に求めたものではない快楽を受け入れる心持ちは特別だ。何と言えばいいか……ひどく曖昧で、清浄な母なるものに対して悖徳の行ないをしたような感情を催す。その母なるものは現実の母親には重ならない。生物的な意味で肉体を産み出した存在ではなく、人間の精神を造形し包みこむ大らかな抽象的存在だ。
 具体的な母を切り捨てて以来、母を抽象物として思い出すことが多くなった。私は母なるものに対してきっと何かを求めてきたのだ。自分の行いを問い、私の行いは正しさを判断する存在として……。抽象的で大いなる彼女によって産み出された命を維持することに許しを得たかったのかもしれない。私はかつて具体的な母を愛していたし、いまもそのときの気持ちを忘れることはないし、輝く具体物だった彼女はいまも私の中に存在している。これからもずっとそうだろう。しかし、何かに取り掛かろうするとき、私の中に抽象的な母なるものの声が命令する。これをしろ、それはだめだと。具体的な母の命令には従ってこなかったので、彼女のことを思い出しはしても、抽象的な存在として認識し直すことはない。
「心から愛してます。言葉では表現できません。……今度お逢いできるのは、きっとシーズンオフだと思います。とてもつらい半年になります。でもこのつらさは、最初に社報の写真で郷さんを見たときから覚悟していたことです。こうしてかわいがってもらえるのはうれしいことですけど、甘えるのはいけないことだとわかっています」
 熱田駅に向かってみささぎの坂道を降りていく。
「オールスターの郷さんは記録づくめだったんですよ」
「田淵さんや江夏さんもしつこく言ってた」
「ホームラン競争十割、三試合で七本のホームラン、打率八割四分六厘、三試合連続決勝打。これ、自分で人間業だと思いますか?」
「人間業だとは思うけど、うまくいきすぎだね。ただ、ぎりぎりのホームランもちょぼちょぼ出てきたんで、打率と合わせてペースダウンしそうな気はする」
「そうなってくれたほうが私たちは安心します。このままだと、疲労でパンと弾けるんじゃないかって心配です」
 熱田駅から国鉄に乗って名古屋駅に出る。浅野とかよった電車だ。よく連結部に立ったという以外、細かい記憶は甦ってこなかった。車中では眼鏡をかけ、みち子と肩を並べて窓外の景色を見ていた。あのときと同じ涼しい風が吹きこんできた。
「きょうはほんとうにありがとうございました。また中日球場で、目と耳との逢瀬になります。私は目で、郷さんは耳で」
 コンコースの大時計の下で手を振って別れた。みち子はタクシー乗り場に向かった。私はゆっくりあとを追い、乗りこむ背中を確かめてから、西口へ踵を返した。



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