十九
 
 北村席では祝宴の準備をしていた。玄関に私の声を聞きつけると、居間や座敷で喝采が上がり、直人が走り出してきて飛びついた。
「おとうちゃん!」
「いい子にしてたか」
「うん! おばちゃんたちとおえかきしたり、つみきしたりした。テレビでいっしょにおとうちゃんをみた」
「そうか。格好よかったろう」
「かっこうよかった」
 うれしそうに鸚鵡返しに言う。母が私に与えたのとはちがう世界。……親は思わず子供を傷つけてしまう。子供は傷つきやすい。親は自分のために生きてはいけない。親子のありようなど関係ない。子の目を覚まさせるほどの愛情を持ち、子の人生を豊かに彩る仕事をしていれば、子は完結する、そのことさえわかっていればいい。子供の顔をいつも脳裡によぎらせ、とつぜん別れがやってくることを毎日意識し、二度と会うことがないかもしれないと思いながら濃密な年月をすごせばいい。
 北村夫婦と菅野がにこやかに私たち父子を眺めている前で、ブレザーとワイシャツを脱ぎ、パンツとランニングになる。めずらしがって私のパンツに顔を寄せた直人の額にキスをする。抱いてあぐらをかく。見回すと、カズちゃん、トモヨさん、素子、文江さん、節子、キクエ、百江、メイ子、キッコ、ソテツ、イネ、優子、信子、睦子、千佳子がそばにいて、やさしく微笑んでいる。
 近記れんと木村しずかと三上ルリ子は遠慮して、座敷の別テーブルからかすかに頬をゆるめながら眺めている。主人が夕食前のひとときを利用して、この数日のスクラップを見せる。

 
神無月三戦七発十一安打 八割五分 打点十二 
 
  三戦連続決勝打 すべてオールスター新記録

 下通の言ったとおりのことが書いてある。

 
中日水原無期限続投決定 二十一日会談で受諾
   
小山オーナー「すごい働きだ。十年を申し出た」
 最下位からの再建、大躍進を評価。十年を申し出たが本人に一年契約を強く乞われた、と小山氏。「体力を心配なさっているのだろうが、それなら、体力に限界を感じるまでということで了承していただいた」


 東奥日報の日曜特集号に、百号までの道のりという見出しで、折々の私のインタビューを編集して載せてあった。そこに読者の投書欄があって、近ごろ青高の神無月郷顕彰碑が参拝対象になり、深夜に訪れて祈る学生が多くなっているというのがあった。受験合格祈願がほとんどだと書いてあった。ゾッとした。

 
八月半ばにマジック点灯か?

「マジックって、何度聞いてもよくわからないんだけど」
 菅野が、
「面倒なんですよ。ほかのチームの試合結果に関わらず、あと何勝すれば優勝が見えてくるか、という目安なんですけどね。その時点まで勝率を比較して推測するわけだから、あくまでも推測にすぎないんで、考える必要はないと思います。ほかのチームが全勝しても現時点の勝利数に追いつかないとわかったら優勝というわけなんですから、それまで待てばいいだけで、何もマジックなんか考える必要はないと思いますよ」
「そうだね、いつもと同じ結論だ。めし食ったら床屋へいきます。いっしょにいきますか」
「いきましょう」
 賄いたちがどんぶりに盛った枝豆をテーブルに並べ、ビールをついで回る。主人が、
「神無月さんのオールスター凱旋を祝って、乾杯!」
「乾杯!」
 ソテツ、イネ、幣原たちがどんどん料理を運びこむ。お櫃のめしがなつかしい。刺身盛り合わせ、マグロ、ハマチ、ウニ、イカ、タコ。別皿に馬刺し。キンキの煮つけ、牛蒡掻き揚げ、長芋の千切り、ホタテのクリーム煮、ポテトサラダ、厚揚げ煮、フキとインゲンの煮物、酢茗荷、モロキュウ、茹でトウモロコシ。老松よりごちそうだ。みんなで箸をとった。カズちゃんが、
「甲子園でキョウちゃんがバックネットに手を振ったでしょう? ああいうときって、周りのファンに申しわけない気分になっちゃう」
 千佳子は、
「特権階級になった感じでしたね」
 キッコが、
「でも、みんな自分に手を振られたと思って大喜びやったよ」
 女将と文江さん、節子とキクエが顔を見合わせて残念そうにする。文江さんが、
「優勝決定戦はぜったい観にいくわいね」
 節子が、
「あたりまえよ。キクちゃんなんか、今回も病院休みたがってたんだもの」
 キクエが下通そっくりの愛らしい笑顔を作る。百江が、
「あの川上監督たちの最敬礼の写真、新聞には和解とあっただけで詳しいこと書いてなかったんですけど、どういうことなんですか」
 経緯を話した。睦子が、
「郷さんを怒らせてしまったんですね。捨て身で生きてる人の姿は、だれの胸も打ちますから。……見たかった」
 主人が、
「鬼の怒りだ。みんなふるえ上がったやろな」
 菅野が、
「川上監督、あのあとで、ホームランを打った神無月さんの手を握ってませんでしたか」
「握ってました。福岡の空港でも、最後までぼくの手を握ってたのが川上監督だった」
 トモヨさんが、
「それはもう保身や見せかけじゃないですね。郷くんがほんとうに、川上監督や巨人軍選手の心を動かしたんだわ」
 ソテツが、
「好きになっちゃったんですよ。女を好きになるみたいに」
 トモヨさんが直人に食事をさせながら、
「テレビ中継のゲストに水原監督が出てましたけど、神無月郷は男が惚れる選手だと言ってました。惚れると、人間離れしてるところがはっきり見えてくるって。いっしょに出ていた稲尾さんが、自分は怖いだけで惚れる余裕なんかなかった、オープン戦で初めて対決したとき、二打席ともフォアボールで出したが、とても勝負できなかった。からだが光の渦のように輝いていて吸いこまれそうだった、ホームラン性のファールを打たれたときは、同時代のライバルでなくてよかったとつくづく思った、とため息をついて言ってました」
 おさんどんのついでに幣原が座敷のテレビを点けると、コント55号が走り回っている。いち早く食事を終えた直人もいっしょになって座敷の中を走り回る。三上や近記や木村たちが両手を差し出すが、睦子の腕の中へ飛びこむ。
「直人、お風呂入りますよ」
「はーい」
 母子が風呂へいくと、歌番組が始まった。森進一、年上の女、黛ジュン、雲に乗りたい。聞き飽きた。歌謡曲好きの丸が青江三奈の長崎ブルースをいっしょに歌った。千佳子が、
「二十五日から、春学期定期試験です。八月三日まで」
「それから夏休みだね。いろいろ忙しくなる」
「ええ、運転免許とか、短答試験のための予備校とか」
「何、それ」
「司法試験の一次試験です。一般教養の試験です」
 睦子が、
「人文科学とか英語とか、すごい科目数なんでしょう?」
「うん。人文科学、社会科学、自然科学、英語、法律七科目、五百字程度の論述一問。それぜんぶで一次試験。中学生からでも受けられるの。法律科目が八割取れれば、あとは零点でもいい楽な試験よ。でもこれを通らないと二次試験が受けられないの」
 私は、
「二次試験はどうなってるの」
「憲法、民法、刑法の短答試験。憲法、民法、商法、刑法、民事訴訟法、それから刑事訴訟法の論文試験。最後に口述試験。大学を卒業していれば一次試験は受けなくていいんだけど、どうせなら二年生ぐらいまでに一次試験に受かっておいて、三年生から二次試験を受けたほうが気分に余裕が出るから。神無月くんが、試験は受けておくだけ受けておけって言ったので」
「肩書や資格については、大学人って案外セコい考え方をしてるからね。まともに学問するだけですませてくれない。法学部の教員なんか、あいつ司法試験通ってるとか通ってないとか、コソコソ言われていそうだな。そんなくだらないこと言われるくらいなら、取っておいたほうがいい。しかし忙しいなあ! 千佳子って、高校の勉強がスムーズにいかなかっただけだったんだね」
 睦子が、
「難しい勉強が肌に合ってたのね。才能よ」
 主人が、
「公認会計士は、やめかや?」
「はい。司法試験の一次試験に受かっておくと、公認会計士や弁理士や不動産鑑定士、社会保険労務士の二次試験受験資格が得られるんですけど、受けません。司法試験もトライしてみるだけで、受からなければ受からないでよしとして、刑法なら刑法、商法なら商法と決めて、専門的に勉強しようと思ってます」
「そうか、それがええやろな。千佳ちゃんに合っとる。学者らしいわ」
 私は、
「千佳子も睦子もキッコも、うんと勉強してね。この三日間で、七、八百万くらいの賞金が入ったから。お父さん、この三人にかぎらず、ぼくの賞金のプールは、勉強や習い事をしたい人のために使ってください。カラオケ教室もスイミングスクールもそうです。いわば教育費ですね。病気などの治療費にも使ってください。とにかく、北村席やアイリスやアヤメの運営費に使ってください」
「どっちがタニマチかわからんようになるがや。でも、お言葉どおりにしましょう」
 情けなさそうに笑いながらうなずく。
「カズちゃん、ぼくの毎月の給料は、そのほかの大きな出費に使ってね。ぼくはいつもポケットに十万円入ってればいいから」
「ええ、そうしましょう。でも、キョウちゃん、その十万円さえ使わないでしょ」
「使うチャンスがないんだ。今回も水原監督が江藤さんに二十万も餞別を渡して、みんなで飲み食いしろと言ってね。江藤さんはどうにか使い果たした。才能ある人間に、人は湯水のごとく金を使う。正常じゃない」
 菅野が、
「才能自体が正常なものじゃないし、とてつもないお金を稼ぎ出すんだから、大金を使われて当然ですよ。だれも異常に思いません。正常な人間に戻ろうとして、報酬を剥ぎ捨てていくほうが異常です。しかし、それが神無月さんの喜びなら仕方ありません。仰せのとおり役立てさせていただきます」
 カズちゃんが、
「トモヨさんの部屋の机の抽斗も、則武の机の抽斗も、ぜんぜんお金が減らないのよ。トモヨさん、使っちゃえばいいのに」
「和子さんだって使えないでしょう?」
「それはそうだけど、トモヨさんと私では入費がぜんぜんちがうでしょう?」
 女将が、
「トモヨも神無月さんからそう言われとるみたいやがね、あの子も使うチャンスがにゃあみたいやわ」
「みんなそうなのよね。まあ、おとうさんや私の商売が傾いたら使わせてもらいましょう。ところで、ローバー二台、いつ届くの?」
「素ちゃんと千佳ちゃんたちが岐阜から帰ってくるころには届いとるんやない」
 菅野が、
「近々、日産セドリックと電化製品一式が届きますよ。大きなマッサージソファも届きますけど、社長の風呂場の脱衣場にでも置きますか」
「うん、それは遠慮のういただくわ。家電はどうするかな。いったん小屋に入れといて、ほしいやつにボチボチ分配するしかあれせんな」
「セドリックはガレージに収まります。問題はだれが乗るかですよ」
「菅ちゃんの自家用車にすればええ」
「維持費がたいへんです。社長がもらっといてください」
「おお」
「景品や記念品がこんなに溜まるとは思わなかった。管理は菅野さんの手だけじゃてんてこ舞いになるから、適当に気のついた人が協力してあげてね。ぼくはそっちのほうには気を回せないから」
 私が言うと、カズちゃんが、
「どんなときも、気なんか回さなくていいの。そういえば、五百野の一回目の原稿を中日新聞に渡すのは八月十七日だったわね」
「うん。落合という人が受け取りにくる。ぼくがいなかったら、机の上の角封筒を渡しといて」
「わかった。何も心配しなくていいわ。好きに時間を使いなさい」
 直人を寝かせたトモヨさんが戻ってきた。あらためてソテツとイネがおさんどんをする。トモヨさんに倣ってみんな最後の箸を動かす。カズちゃんが、
「入院はいつから?」
「八月三日の日曜日から入ります」
 キクエが、
「産科棟の個室だから、快適ですよ。付き添いの助産婦さんもベテランの人がつきます。入院の前にお産の気配がやってきたら、すぐ救急車を回す手配もしてあります」
「何から何までありがとうございます」
 節子が、
「入院のあいだ、直ちゃんの面倒見はだいじょうぶですか?」
 幣原たちが、だいじょうぶです、と声を上げ、力強くうなずく。私は、
「ぼくはちょうどそのころ、中日球場で巨人三連戦だから、名古屋にいられるよ」
「ですな。神無月さんが西京極へ遠征しないうちに生まれてくれればええけど」
 カズちゃんが、
「そんなに都合よくいくかどうかわからないけど、きっとそうなるわよ。西京極のあとはまたこっちでしょ?」
 菅野が、
「中日球場で十二日から十七日までアトムズと阪神の六連戦です」
「そのときに生まれてもそばにいられるわね」
 トモヨさんは、
「もう、ほんとに、そんなに気を使っていただかなくてもいいんですよ」
 女将が、
「ほうよ、私らみんながついとるで。神無月さんは野球だけやっとればええの」


         二十

 主人が、
「則武にベンチプレスが入りましたよ。神無月さんが注文した重さを組み合わせられるようなプレートが一式揃っとります。部屋のつづきにシャワー室をこしらえ、ジム部屋にバットを振るための大鏡もつけました」
「ありがとうございます!」
 睦子が、
「ベンチプレスは人がついてないと危ないんです。菅野さん、なるべくついててあげてくださいね」
 菅野が、
「わかりました。走る前でもあとでも、かならずついてることにします。私もやって少し筋肉をつけよう」
「三十キロくらいから始めるのがいいですよ。毎日やらないでくださいね。三日に一回ぐらいでじゅうぶんなんです」
 めしのあと、菅野と閉店まぎわの床屋へ。並んで髪を刈った。菅野は店主の女房の手で七三に、私は店主の手で慎太郎刈りに刈り上げた。店主が異常に丁寧に刈るので、
「適当に」
 と言うと、
「そうはいきません」
 と、まじめな顔で答えた。早く終わった菅野が、鏡に映るうつむいた私の顔を見つめている気配がした。
 刈った髪の手触りを楽しみながら涼風に吹かれての帰り道、
「高校一年の夏から四年か。同じことばかり言うみたいだけど、菅野さんとは長い付き合いになったね。風呂も床屋もいっしょだ」
「ありがたいです。そっくり人生変わりました。何より毎日が楽しい。私こそ何度も言いますが、いまがこの世の春です」
「ぼくもだ。いつも幻が醒める覚悟をしてる。……一生懸命生きることは幸福だ。でも、その幸福が無性にさびしい」
「……ホームランを打つたびにも、そう感じますか?」
「うん。でもこうして話してるときは、さびしさを忘れる」
「いつも話してましょうね」
「そうだね」
 門のガレージでクラウンに乗りこむ菅野と別れた。睦子の自転車はなかった。薄闇の中を庭石伝いに一人で玄関の灯りのほうへ歩く。
 賄いと混じって一家の者たちが座敷で茶を飲んでいる。千佳子の姿はない。定期試験の勉強をするために部屋に引っこんだのだろう。主人が新聞を前に、さまざまな選手の移籍や引退の話を報告する。いつかバスの中でドラゴンズの選手の進退についてはおおよそ聞いた。どんな残酷な事実でも、話題にのぼれば深刻さは消える。
「気の早い話題ですね」
「そろそろマスコミが嗅ぎつける季節なんですよ。十月の初旬にはハッキリすることですがね」
「ドラゴンズ以外で、何かめぼしい情報はありますか」
「巨人の桑田武がアトムズへ移籍が決まりました。八時半の男宮田退団、中村稔退団」
「宮田とか中村とは対決しましたっけ」
「宮田とは六月の半ばに二試合当たってます。ライトオーバーの二塁打、左中間の、えーと、八十何号だったかな。中村とは対決しとらんですね」
「阪神は後藤監督から村山監督になるんですか」
「はい、選手兼任監督になります。なんですな、毎年オールスターが明けると気になりだすというか、毎年百人以上がやめていきますし、数十人が移籍します。先に花道の用意された笑顔の引退会見なんてものは、よほど大物選手以外あり得ませんからね。こんなことを追っかけてもしょうがないんやが、有名どころは目に入ってしまいますな」
「パリーグはどうです」
「南海の野村が、コーチ兼任から監督兼任になります。ブレイザーは退団して守備コーチになり、東映は、巨人からいった伊藤芳明が退団。三十七年に中日を退団した与那嶺がいずれヘッドコーチとしてドラゴンズにくる予定になってましたが、フロントが帳消しにしました」
「与那嶺はどうもね。こすっからいプレイをする理屈屋とは、水原監督もぼくも合いそうにない。野球が美しくなくなる」
「立ち消えになったのは、もろにそういう理由だそうです。現在のドラゴンズの野球に合わないということでした」
「杉山さんは?」
「打撃コーチとしてドラゴンズにくることになってます。巨人から今年西鉄に戻っていた田中久寿男が退団。おととし板東さんからサヨナラ満塁ホームランを打った男です」
「船田とトレードで巨人にきた人ですね。眉毛の太い人でしたね。豪快なスイングを憶えてます」
「インタビューはいつも博多弁でしたよ。えっと、稲尾と中西監督が退団。稲尾は中西と交代で来季監督就任が決まってます。近鉄から鎌田が阪神復帰」
「鎌田? ああ、阪神の二番セカンド背番号41。悪球打ち。目立たなかったなあ」
「阪神から近鉄に移籍したバッキーが退団」
「長嶋のデッドボール、指骨折、いつだったですかね」
「たしか三十八年、九月に入ってすぐじゃなかったですかね。四十本の王に三本届かず三冠王を逃がした。あらら、みんなあくびしよる。さ、きょうはこのへんにして、ワシらは風呂入って寝ます」
 私はトモヨさんやソテツたちにお休みの挨拶をして、カズちゃんとメイ子と則武に帰る。途中まで素子と百江も同行した。私は百江に、
「野球の話なんかつまらないだろう。野球は観て楽しむものだからね」
「いいえ、少しずつ神無月さんの世界がわかってきてうれしいです」
 素子が、
「キョウちゃんが野球をしとるかぎり、少しでも知っとかんとあかん。いろんな人が北村にくるんやから」
 そんな必要はない、ただ微笑していればいいだけだ、と思いながら黙っていた。アイリスの前で二人とキスをして別れた。
 三人で風呂に入り、からだを流し合った。カズちゃんが、床几に坐って歯を磨いている私を湯船から見つめながら言う。
「筋肉隆々になってしまったけど、このからだの中に十歳のキョウちゃんがいるの。いつもそう思って見てる」
 カズちゃんといっしょに浸かっていたメイ子が、
「私は想像するしかありませんけど、よくわかります。いまでも体毛がほとんどありませんから」
「たしかにつるつる。もう生えてこないわね。オチンチンと腋の下に少し。鼻の下にも脛にもほとんど毛がない。中三のときは、脇はぜんぜん、オチンチンにほんの少し生えてた。かわいくてかわいくて、童貞をもらうのが痛々しかった。そんな気持ちでいたら、天国に連れていかれちゃった。アハハハ。……からだもそうだけど、心」
 泣いている。メイ子ももらい泣きした。
「お嬢さんの心臓ですものね」
「そうよ。大事な大事な心臓」
 湯上りのさっぱりしたからだにパジャマを着、キッチンテーブルにつく。カズちゃんのいれたサントスを三人で飲む。
「移籍だとか退団だとか、キョウちゃんの興味のないことばかりね。ただ、野球を楽しみたいだけなのに。くたくたになるでしょう」
「ぜんぜん。お父さんたちとの会話は疲れない。いまのぼくは、チームメイトやチームの動向にとても関心がある。野球に没頭していた時代に貯えた知識があるから、人の話をちゃんと聞けるし、人にも多少語れる。これまではそれが厄介な疲労の素になってたんだけど、お父さんや菅野さんが相手だと、なぜかそうならない。どんなことも〈好き〉だけに留めていると、アタマを疑うのが人の常だ。それで人は〈好き〉ですまさずに知識を貯えようとするんだね。ゲームも勝負事もそうだ。かならず知識の蓄積を求められる。お父さんたちはぼくにそんなものを求めない。江藤さんや中さんたちも同じだ。知識のおぼつかない〈好き〉だけの人間に親切に説明してくれる。だから、野球に幼いころほど熱い関心がなくても、情熱を甦らせることができるんだ。ぼくは、知識屋に知識を語ったり、知識屋から知識を聞いたりしないようにしてる。適度を知らない人たちにうなずいたり語ったりすると、自分が哀れになってグッタリ疲れるからね。無理な関心を掻き立てるのは疲労の素だ」
「それを聞いたらおとうさんたち喜ぶわ。じゃ、私たち、寝ます。お休みなさい」
「お休み」
 二人が去ったあと、私は深夜のジム部屋へいった。離れの灯を反映する大きな明り窓を立てた二十帖のトレーニング部屋。室内にはチェストプレスとラットプルダウンが床に固定して置かれ、ベンチプレス台の脇に三種類のダンベルと、六種類のプレートが二枚ずつケースに並べられている。ベンチプレスは要らなかったなと一瞬思ったが、いちおう七十キロを五回、物足りないので八十キロを五回、百キロを二回挙げてみた。百五十キロが限界かなと感じた。いずれ挑戦してみよう。
 洗面台つきの三帖ほどのシャワールームも新しく取り付けてあった。壁に嵌めこまれた大鏡は、全身が映る立派なものだった。バットの架け台まであり、フィルムに包まれた久保田バットが五本、刀剣のように架けてあった。私はその中の一本を手に取り、鏡の前に立ってポーズを作った。何もかも幻に思われた。
         †
 七月二十四日木曜日。八時起床。曇。二十四・一度。一連のルーティーン。二人の出勤の物音。メイ子はきょうは出かけた。
 八時半にやってきた菅野にベンチプレスの仕方を教わる。プレートが五キロ、十キロ、十五キロ、二十キロ、二十五キロ、三十キロ、三十五キロ、四十キロと八種類、二枚ずつ準備されていた。バラエティに富んだ重さを試すことができるとわかった。名古屋にいる日にかぎり、朝十五分ほどやることにした。きょうは菅野にそばについていてもらって、無理をせず七十キロを十回挙げた。
 ランニングに出る。暑い。昼には確実に三十度を越える気配になった。自転車には乗らず、一キロのダンベルを両手に持ってテレビ塔まで競歩でいった。菅野はバットを持った。テレビ塔下の緑地で素振り百八十本。菅野と軽いストレッチ。三種の神器。ダンベルを手にゆっくり歩いて戻る。キッチンマツヤの前を通るとき、朝めしを食っていないことを思い出した。
 西口で菅野と別れて則武に戻った。パラソルに用意されていた焼魚とハムエッグで一膳だけめしを食い、カズちゃんの勉強部屋へいく。遠征に持っていく本を物色する。宮本又次『関西と関東』と『茨木のり子詩集』にする。
 十一時に近く、フレアスカートを穿いた文江さんが則武にやってきた。河合塾へ出講する途中の寄り道だと言う。スカートをめくって股の割れたパンティを示し、陰毛をつまんで恥ずかしそうに笑った。
「雑誌で見て、取り寄せたんよ。キョウちゃんが興奮してくれる思って」
「興奮する!」
「ほんと? 入れて!」
 つい先日、半年にいっぺんでいいと言ったばかりなのに、天真な心変わりがかわいらしい。文江さんはスカートを脱ぎ落とし、私をキッチンの椅子に座らせると、パンティを穿いたまま跨った。布のあいだに私の性器が入りこんでいくのが見える。興奮し、おたがいに激しく腰を使い合う。文江さんは何度も絶頂を繰り返しながら悶絶して気を失った。私は射精しなかった。文江さんが回復するのを待って離れた。
「こんな強いセックス、やっぱり半年にいっぺんにするわ。好きやよキョウちゃん。私、長生きするね」
「百歳までね」
「キョウちゃんが七十歳やないの。八十歳までにしてや。キョウちゃんが五十歳。シラガの顔をはよ見てみたい。……無理やね。八十歳じゃボケとると思うし」
「ぼくは小っちゃいころからボケてるよ。天才文江が、やっとボケ助に追いつくね」
「キョウちゃんには救われるわ」
 和んだ空気の中でコーヒーを飲ませて送り出した。
 ややあって、ミートソースを持ってキッコがやってきた。アイリスの清楚な制服を着ていた。一膳めしだったので小腹がすいていた。キッコの前でフォークを使う。愛しげに見つめている。射精していなくてよかったと思った。
「しようか?」
「うん!」
 きちんと蒲団に横たわって温かい肌を接し合った。
「あ、ヌルッてしとる」
「文江さんとしたばかりだから。出してないんだ」
「お師匠さん、焦っとったんやね。うちに出して」
 キッコはクリトリスのアクメから始めて、快感を大事に楽しみ、最後に爆発的に気をやった。そうして、文江さんに吐き出さなかった精液をすっかり搾り取ってくれた。とみに美しくなったキッコの唇を心ゆくまで吸った。
「かわいい女だ。すごくきれいになった」
「ありがと。たまらんほど愛しとるよ。うちね……」
「うん」
「……うち、名大の文学部にいって、神無月さんが書きもので暮らすようになったときのために、資料集めとか、校正なんか手伝える知恵をつけようて思っとる。しっかり勉強するで」
「がんばって勉強してね。ぼくのことなんかどうでもいいから。手伝ってもらうほど大したものじゃない」
「キクちゃんに詩のノート借りて読んだんや。あ、神無月さんは何も言ったらあかん」
 指で私の唇を押さえる。
「……すごいわ。机に隠しとくもんやない。九月からの小説の連載が楽しみや。ぜんぶスクラップする」
「理系に進んでも、資料集めや校正はできるよ。自分の好きな勉強をして」
「うん。でも、文学のほうが楽しそうやさかい」
 キスをして出ていった。
 午後、五百野の手入れ。牛巻坂の書き継ぎ。
 夜は則武でカズちゃんとメイ子の手料理を食ったので、北村席に出向かなかった。一日則武にいた。


         二十一

 七月二十五日金曜日。快晴。朝からうなぎ上りに三十度まで気温が上がった。きょうはメイ子がいて、洗濯、掃除。食事の用意はしなかった。
「席でお願いします」
「オッケイ」
 熱射病を警戒し、ランニング中止。菅野といっしょに、冷房の効いたジム部屋で汗を流す。ベンチプレスは七十キロを十五回。慎重にやる。体調がいいので、素振り五十本掛ける六コース、計三百本。振りすぎか? 翼ダンベル少々。板床に寝転んで菅野と三種の神器。メイ子がコーヒーをいれる。
「昼も夜も一人で食事するの、さびしいだろう」
「いいえ、独身生活のようで独身生活でないのが新鮮です。アイリスの昼の忙しい時間帯はお手伝いにいきますし、ついでにご飯も食べてきます」
 菅野と二人で北村席に出かけていく。ちょうどガレージの後ろの広い空間に、記念品置き場を併設した菅野の事務所が建設の真っ最中だ。大きな平屋の建物になるようだ。
「瓦を葺かないだけで小屋として申請が通ったと社長が喜んでましたよ。外見はバラックふうでも、内装がしっかりしてますからね。席の二階の事務所と、景品小屋の品物は来月引越しします。ファインホースの板看板は注文に出しました」
 玄関に入るなり、菅野は直人を呼んだ。女将と園児服を着た直人がパタパタ出てきた。
「お願いするわ」
 菅野は女将にうなずき、
「じゃ、直人を送りがてら見回りにいってきます」
 菅野は直人を連れて主人と定時の見回りに出た。
 朝めしはソテツのおさんどんで、軽くソーメンライス。一家の人たちはふつうの食事。千佳子は食事をそそくさとすませると大学の定期試験に出かけた。
 池の端に出て一升瓶。女将が門のブザーに呼ばれて郵便物を取りにいく背中が見えた。
 引き返してきた女将に呼ばれて居間へいく。
「東奥日報から小包が届いたがね」
「そうですか。トモヨさんは? 朝から姿が見えないけど」
「具合が悪いゆうて臥(ふ)せっとる。ツワリやないんやけどな。あと二週間もにゃあよ」
 分厚い箱形の小包を手渡す。破って開けると、大部の本だ。

『天馬・神無月郷の軌跡①―青森高校・東大編―』(東奥日報新聞社刊)

 青高一年から東大優勝までの、克明な解説付きの写真集だった。女たちが寄り集まってきた。
「きれい!」
「格好いい!」
 写真の説明を求められるたび、できるだけ詳しく話す。三、四十分もして主人と菅野が帰ってきて、さっそく覗きこみ、
「これやこれや、ワシのスクラップブックにない時代や」
 主人が手放しで喜ぶ。野球部のなつかしい連中の顔をあらためて眺める。とりわけ阿部主将の顔を見つめた。目が潤んだ。菅野が、
「①ということは、年明けには②が出るということですね」
「ほうやろな。②はドラゴンズ入団から優勝までやないか」
 具合の悪いトモヨさんまで起きてきて、ひとしきり一家で写真集にうつつを抜かす。
 十時に江藤、菱川、太田の三人が到着。彼らも写真集をたがいに手渡し合って、ため息をつく。
「いまとまっこと同じたい。このままの姿で生まれてきたんでなかと?」
 と言って笑う。太田が、
「俺の知らない時代です。泣けます」
 そしてほんとうに涙を流す。菱川が、
「このころから、人間離れした雰囲気ですね。……これ、一枚だけ、東大ベンチの中で笑ってる写真。あ、睦子さんだ、顔を見合わせてる!」
「睦子さん、一途な顔」
 トモヨさんがまぶたを押さえた。主人が、
「江藤さん、家族孝行してきましたか」
「はあ、一日、温泉に浸かってきました。いい骨休めになりましたばい」
 女将が、
「お子さんは何人?」
「三人です。五歳、四歳、二歳。女ばかりです。女房に似てくれてよかった」
「宝塚の瀬戸みちるさんやったね」
「お恥ずかしい。金太郎さんの前でそういう世間話ばするのは身がすくむばい」
「神無月さんも二人の子持ちやよ」
「ワシらとは次元のちがう話ですばい。ワシらには油断と甘えがある。比べんでください」
 私が、
「太田も大分に帰ったんだろ」
「はい、二泊して、江藤さんといっしょに帰ってきました。三日もゴロゴロして、からだがすっかりなまったみたいで、振りがちょっと鈍い感じです。バッティング練習で見抜かれたら、きょうの先発はない気がします」
「戻ってきて、だいぶバット振った?」
「振りました。菱川さんといっしょに」
「波打つ癖がまた出たんじゃない? ダウンを掬い上げに戻せばすぐ回復するよ」
「ピンポン玉を思い出して、手首の返しを素早く連続で振ってみます」
「あれは素早さだけの訓練じゃないんだ。どんな小さなボールでも上に打ち上げるためのものだったんだ。太田はあのときそうやって打ち返してたよ」
「そうだったんですか! あァ、イメージが戻ってきました。たしかに振ってるうちに小さいボールが大きく見えてきて、なんとか芯を食わせようとしてました。よし、川崎は狭いから二本は打ちたいな」
 私は菱川に、
「そう言えば、川崎球場でバッティング練習していると、ときどきジャンジャンて景気づけみたいな音が聞こえてきませんか?」
「さあ、気づきませんでしたね。火見櫓でもあるのかな」
 江藤が、
「あれは、球場のすぐ隣にある川崎競輪場の(ジャン)たい。健太郎がときどきいきよったけんが、最近は自重しとるな」
「何ですか、ジャンて」
 主人が、
「ゴール一周半前から一周前にかけて、手で打ち鳴らす鐘のことですよ。ジャンジャンと聞こえるのでそう呼ばれてます。ジャンが鳴ると、位置取りの争いをやめて、先頭誘導員が走路から退避して、最後の勝負に入ります。ものすごい高速状態になります。各競輪場はだいたい月に三日しか開催しないので、ジャンの音はめったに聞けんと思いますよ。ところで、グルメの評判の高い江藤さんのことだから、ほとんどの球場の食べものは征服したんじゃないですか」
「いやあ、そうでもなかです。ほとんどの球場で好物しか食わんです。まだまだこの道は奥が深か」
「川崎球場はどうですか」
「みんな肉うどんがよかて言うばってん、醤油ベースのふつうのラーメンがいちばんうまか」
 私は、
「三塁側の照明灯の足もとで食うんですよね」
「ほうや、まさにラーメンば食っちょる気になる。ほかには、西宮の選手食堂の硬いビフカツ。ソースがうまい。後楽園のベースボールランチ。AとBがあるんやが、どっちも食った」
 菱川が、
「昼も夜も、ランチって言うんですよね。AもBもハンバーグがごろんと入ってます」
「藤井寺の肉うどんは絶品やった。大阪球場の一般食堂の、オムライスと野菜サラダ。このあいだの平和台は、球場入口の軽ワゴン車で営業しとるホットドッグが穴ぞ。ケチャップとカラシのバランスがよか。一般食堂の丸天うどんもうまか」
 ソテツが、
「マルテンて何ですか」
「丸いさつま揚げ」
「ああ、あれ。今度うどんに載せてみようっと。地元の中日球場はどうなんですか」
「何やったかな」
 太田が、
「選手食堂の山屋の出前定食じゃないすか。重箱に、鮭、卵焼き、冷奴一丁、糠漬けおしんこ」
「そやったな、あれはシンプルすぎて好かん」
 主人が、
「なんだ江藤さん、ほとんど食べてるじゃないですか」
「ウハハハ、食いしん坊ですけん」
 女将が、
「……江藤さん、奥さんとのなれそめだけでも教えてくださいや」
「はあ……。金太郎さん、聞き流してや」
「聞き流しません」
「まいったの。……ワシのふるさと熊本山鹿から出た宝塚の大スターで、上月晃(のぼる)ちゅう人がおるったい。その人の激励会に出席して、上月さんより二期上の瀬戸みちるちゅう宝ジェンヌと知り合うたっちゃ。ワシのごて無骨な男が、デートば持ちかけて『ベン・ハー』ちゅう映画に誘った。意気投合してのう。みちるの最後の舞台『華麗なる千拍子』も観にいった。三年越しで付き合うて結婚した。ちょうど濃人さんがおった三年間や。結婚の仲人ばしてもろうて、それが彼との別れになった。もう、このへんにしときましょう」
 江藤は真っ赤な顔をしてイネの出したコーヒーを飲みながら、予想先発のナックル投手山下律夫の検討に移る。
「ストレート、シュート、カーブ、どれも球威があってコントロールもよか。コースいっぱいに決めてきよる。揺さぶりは天下一品で、駆け引きがうまか。打てんときはぜんぜん打てん。五月の巨人戦、二対ゼロでシャットアウトしちょる」
 主人と菅野はにこにこ顔で聞いている。菱川が、
「それ、たしか月曜日でセリーグの試合のない日でしたよね。昇竜館のテレビで観てました」
 太田が、
「俺も観てた。五月十九日」
 江藤が、
「長嶋のフォアボール二つと、ピンチヒッター金田のセンター前ヒット一本だけ。金田のヒットがなかったら、ノーヒットノーランやった。ばってん、江夏や安仁屋のいいときみたいにどうしようもなかゆうんやない。ほやろ? 金太郎さん」
「はい。たしか、山下との初対決は、その巨人戦のあとの五月二十二日でしたね。ぼくは第一打席でライトの照明に当てました。そのあとの打席はどうだったかな」
 太田が、
「右中間二塁打。五月二十八日も、ライトポール直撃、レフト看板。あ、レフト看板は平松だ。じゃ三打数三安打、二ホームランです。結局カモにしてますね」
 私は首を横に振り、
「中日ドラゴンズが彼をカモにしてるんだよ。あの日、プロ野球新記録を続々樹ち立てただろう」
「はい。一イニング最多十五安打、一イニング最多十四得点。十五安打目は俺の二塁打です」
 菱川が、
「十四得点目は俺の十号ソロです。ヘヘ」
「対策を立てた覚えがないけど、なぜか打ちやすいんですよ。サイドスローだからかな」
「山下は左バッター殺しやぞ。金太郎さんは例外たい」
 太田が、
「照明塔はスライダー、二塁打はストレート、二十八日のホームランは、やっぱりスライダーでした」
 私は、
「復習しといてよかった。彼のきょうのぼくへの勝負球は、きっと浮き上がるストレートか、するどいシュートだ。それを狙う」
 菱川が、
「楽勝とはいきませんよね」
 江藤が、
「たぶんな」
 十一時過ぎ、女将、トモヨさん、イネ、幣原たちに玄関で手を振る。主人と菅野、弁当を持ったソテツにホームに見送られて新幹線ひかり乗車。ドアに立つ三人にソテツが弁当を差し出した。主人に、
「トモヨをよろしくお願いします」
 主人が、
「つまらん心配せんと、しっかりがんばってきてください」
 菅野が、
「帰ったら、アヤメとファインホースが完成してますよ。アヤメの初試食は、八月の広島三連戦から帰ったあたりですね」
「まずはカツ丼です。カツ丼は食堂の顔だから」



八章 オールスター 終了

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