四十三

 三人で深夜の風呂に浸かった。
「結局してもらっちゃった。思わぬプレゼント」
 カズちゃんが肩をすくめて笑う。
「メイ子でもう一度出したくなったのには驚いた」
「メイ子ちゃんは名器だから」
「最高はお嬢さんです。次はムッちゃん、素ちゃん、その次は天童さん、そしてイネちゃん、キッコちゃん……」
「きりがないわね」
「でも神無月さんは、お嬢さん以外はみんないっしょのものに感じてると思いますよ。きょうは私すごく興奮して、中が妙な動き方をしたんだと思います。……神無月さんとお嬢さんがどれほど愛し合ってるか、セックスのときに痛いほどわかります。そのおこぼれをもらうことは心苦しいですけど、神無月さんのを入れられると、もう……」
「みんなそうよ。おたがい遠慮しないで、大切に分け合っていきましょ」
 そっと握る。
「あしたは北村席に泊まる。キッコ、優子、イネ、ソテツ」
「伝えとく。……キョウちゃんも勃たないときがあるのね」
「お嬢さんのものを触らないとだめでしたね。うんと齢をとっても、お嬢さんとだけはできるということです。その途中で私たちは引退」
「引退する必要はないのよ。齢とっても、私で勃つんだったら、そのときこそおこぼれをもらえばいいじゃない」
「はい、そうします」
 メイ子も肩をすくめて笑った。
         †
 八月十一日月曜日。六時半起床。すでに二十五度。きょうも三十度を超えるだろう。
 うがい、歯磨き、下痢便、シャワー。七時前に菅野がきた。朝めしを食わず、ジャージを着、四人打ち揃ってアヤメに出かける。眼鏡をかけた。陽射しの隠れた曇り空。暑い。
 アヤメの駐車場を縫うように切られた花植えの小径に、すでに二十人ほどの客たちが並んでいた。出勤前の背広姿や、家族連れも雑じっている。列につく。だれにも気づかれない。桃色のナデシコの咲く小径の先に、念入りに普請された立派な二階家がある。
「朝七時にこれか。すごいですねェ」
 菅野が驚嘆の声を上げる。カズちゃんとメイ子がうれしそうに微笑む。
「いらっしゃいませえ! 開店でーす!」
 玄関戸から店員たちの声が上がり、列が動きはじめる。
「きょうはすべてのお品が五十円引きです! 五十円以内のお品は無料になります」
 列について引き戸を入る。レジに百江が立って、お辞儀を繰り返している。十人ほどの店員が正真正銘のイチゲンさんたちを畳の小上がりに案内し、水を出し、単品客の注文をとる。六人用の大テーブルが壁沿いの畳に二十も並んでいる。惣菜を組み合わせて食いたい客は、カウンターから好みの惣菜を皿に取って卓に戻る。そこで店員たちが品物を確認しながら勘定書に記入する。六人用のテーブルなので、相席をしてもゆったりだ。知らない顔の店員ばかり。私は単品でカツ丼を頼んだ。女二人もそれに倣う。菅野はカウンターへいった。
「塙さんの銀馬車の人もチラホラいるわ。足を洗うのはやっぱり齢のいった人ばかりね」
「中年の店員もアクセントになって、かえって落ち着くよ」
「そうね。厨房に入ってる人たちはみんな一流だし、ホールの動きがよくなれば、ぼちぼち繁盛してくれるでしょう」
 惣菜を載せたトレイを持って菅野が戻ってきた。女がついてレシートを書く。鯵のヒラキ、ホウレンソウのおひたし、目玉焼き、納豆、ミョウガが載っている冷奴、板海苔、ワカメと豆腐の味噌汁、どんぶりめし。黄金の組合せだ。
「最強ですね」
「めしと味噌汁はその場で盛ってくれるんですよ。お先に」
 菅野が納豆を掻き混ぜているあいだに、カツ丼が出てくる。
「わあ、おいしそう!」
 女二人が胸に手を組む。タマゴのとろみと固まり具合がすばらしい。食ってみるとカツは柔らかく、この上ない美味だった。
「絶妙の甘辛さだね」
 菅野はどんぶりの真ん中に穴を開け、納豆を混ぜこむ。
「うまい!」
 味噌汁をすする。
「うまい!」
 キッコたちも主人夫婦といっしょに五、六人でやってきた。
「ヘーイ!」
 私たちに声をかけてぞろぞろカウンターの惣菜を物色にいく。奥の壁に私の写真が見えた。

 
ファイト! 中日ドラゴンズ! 天翔けよ天馬!

 達筆の墨字が添えてある。文江さんの手だろう。ちらほら私に気づく人も出てきたようだが、気遣ってか声をかけてこない。カズちゃんが、
「お客さんの行儀がよくて、ホッとした」
 メイ子が、
「アイリスの貼紙の成果ですよ」
 菅野がじょうずにヒラキをつついている。冷奴、板海苔とうまそうに食う。
「うまいですか」
「はい、ゼツですね」
 カズちゃんがヒョイとホウレンソウのおひたしをつまんだ。
「熱の入り方がさすが」
「それ以上だめですよ。私の好物なんですから」
 カズちゃんは自分のカツを菅野のどんぶりの上に載せた。
「はい、おあいこ」
「許す」
 私は笑いながら、
「好きなものは先に食わないと」
 菅野も笑いながら、ホウレンソウに醤油をかける。二十卓が満席になり、ひっきりなしに店員が飛び回る。
「ああ、うまかった」
 四人満足して箸を置く。笑顔がほころぶ。
「お先に」
 主人たちのテーブルに手を振って、レジへ向かう。レジ二つに二人の会計係だった。百江は手慣れたふうに計算機を打っていたが、伝票を取りまとめる助けが必要のようだった。
「三十分ぐらいいっしょにやってあげます」
 レジに慣れたメイ子に手伝いをまかせて外へ出た。
「ありがとうございました!」
 店員たちの声が追ってきた。菅野が、
「十時ぐらいから走りましょうか」
「ええ。北村の賄いの人たちは食べにこないんですか」
「午後の手隙のときでしょう」
 カズちゃんが、
「キョウちゃんは、きょうはゴロゴロしててね」
「そうだね。走って、一休みしてから―」
「あしたから中日球場六連戦ですか」
「うん、アトムズと阪神」
「十九日から二十五日まで東京。名古屋に戻ってきて、そろそろ優勝ですね。今月末……できれば中日球場で決めてほしいな」
「中日球場は、二十六日からの大洋三連戦?」
「はい、その三日間は、北村席は店仕舞いです」
「その期間でない中日球場は?」
「九月三日からの広島三連戦です」
「そこかもしれないな」
「いずれにしても、北村席は店仕舞いです」
 席の居間に落ち着くと、ソテツがコーヒーを出した。イネが直人に園児服を着せている。
「どのあたりを走ります?」
「セドリックで遠出して、河原あたりをダッシュしたいな」
「庄内川は食傷気味だし、木曽川までいきますか」
「木曽川か。いいなあ。でも名前の雰囲気からして、ひどく遠そうだ」
「津島の少し向こうで、四十分ぐらいです。河原でゆっくり運動して帰ってきても、二時間ですよ」
「いきましょう」
 カズちゃんが、
「木曽川までいってくる気? うーん、いいんじゃない。きれいな川だから、気分治しになるかも」
「直人を送り届けた足でいってきましょう」
 カズちゃんとメイ子はアイリスの内装工事を見に出かけた。キッコは高校へ。後ろ姿を眺めながら、
「定時制って制服がないんだね」
「いろいろな仕事の人がいますし、年齢幅が広いですからね」
「なるほど」
 九時。バットをセドリックのトランクに納れ、助手席に乗りこむ。直人を膝に抱く。
「おとうちゃん、どこへいくの?」
「木曽川というところへいって、バットを振ったり走ったりして運動をしてくる。直人も保育所で運動したり、楽しく遊んだりするんだよ」
「うん、しんゆうコウキとおにごっこや、おすなをする」
「いい子だ。あとでまた菅野おじちゃんが迎えにいくからね」
「うん。おかあちゃん、もうすぐカンナといっしょにかえってくるよ」
「カンナに会った?」
「うん、ちっちゃかった。ゆびにぎった」
「大事な妹だ。うんとかわいがってあげるんだよ」
「うん、ぼくおにいちゃんだから」
「そうだ、えらいぞ」
 どこか気品のある、か弱そうな直人を保育所の門まで送り、バイバイをする。保育士が私たちにお辞儀をして連れていった。
「かわいすぎていじめられるということはないのかな」
「そういうことがあったら、相手をそっと痛めつけてやりましょう」
「加勢を求めるんじゃなく、自分で戦える子にしないと」
「空手でも習わせますか」
「いじめられる兆候が出たらね。いまのところ、その気配はないよね」
「中指を床に圧しつけられて、関節を脱臼したことはありましたけど、だれにやられたか保育所もとぼけ通しましたし、直人も言いませんでした」
「そのやさしさが気がかりだな。本人の気持ちを聞いて、保育所をやめさせたほうがいいかもしれない。……いや、やっぱり通わせて強い子にしよう。ぼくも小一から小四までいじめられた。でもそれがあったから、康男と戦えた。その四年間で強くなってたんだね」
 太閤通を大鳥居から右折し、混み合う道を北上して中村高校へ出、ものの五分ほどで庄内川を渡る。この先へいくのは初めてのことだ。工場、倉庫、低層のマンション、いろいろな看板を掲げたオフィスビルが点在する一本道を走る。まるで、阿佐ヶ谷や高円寺のホームから見通した中央線のレールのように真っすぐだ。ときおり、広い空の下に食い物屋のチェーン店、ガソリンスタンド、コメダ珈琲、トヨタのショールームなどが現れ、たちまち過ぎ去る。まれに見かけるビルは輪郭がくっきり見える。ビルとビルのあいだにほとんど建物がないからだ。
「ほんとにこの車、走りが軽快だね」
「クラウンよりサスペンションがいいんです。乗り慣れると手離せなくなりますね」
 大治、七宝と過ぎる。
「七宝って、七宝(しっぽう)焼の?」
「はい」
「名前を聞いたことしかないな」
「ガラスかエナメルみたいな焼物ですよ。金属を釉薬(ゆうやく)に浸して焼くんです。京都の高槻七宝、京都以外では加賀七宝、近江七宝、いろいろあります。七宝焼と呼ばれたのは、幕末に尾張藩士の梶常吉が尾張七宝を創始してからです。近代七宝と呼ばれてます」
「ふうん、見てみたいな」


         四十四 

 七宝焼販売店の前で車を停め、ひやかしのつもりで入る。見ているうちに、あまりのきらびやかさと清楚さに眼を奪われ、じっくり物色しだす。貝殻模様のイヤリングが目につき、カズちゃんに買ってやりたくなった。ふと、ほかの女たちにも買わなければならないと気づき、やめた。カズちゃんだけに買うわけにはいかない。菅野は女房に五千円の貝殻形のイヤリングを買った。
「すみません。一穴主義はこういうときにラクですね」
 思い直して、まさかりを持ったかわいらしい金太郎の置物を買って、一家のプレゼントにした。一万四千円だった。
 車に戻り、美和、篠田と走る。道は真っすぐのままだ。日光川を渡る。河田、藤浪、町方。
「そろそろですよ」
 車が行き交う幅しかない一車線に変わった。カーブが多くなる。家々の点在する間隔が広くなった。道の両側に拡がる畑の中にポツポツ農家が望見できる。典型的な田舎の光景だ。霞んで見えていた山並がくっきりしてきた。稲田に挟まれた道を走る。田に突き出した農家以外の建物が失せた。どこで降りてもバットが振れる。菅野が、
「席からここまで三十七分かかりました」
「意外と短時間でこれたね」
 車一台分の道を走り、氾濫原で車を停める。
「あの土手の向こうが木曽川です」
「木曽川が県境?」
「はい」
「どこか橋のあるところまでいってみよう」
「ほいきた」
 一っ走りして長大な橋に出る。一級河川木曽川という白い文字で書かれた標示板が立っていた。
「この橋は東海大橋と言って、千二百メートルの有料道路です」
 そう言って、料金所に二百五十円を払った。氾濫原に架かる橋をしばらく走る。
「でかい川だなあ!」
 水位の高い、湖のように静かな川面を見下ろす。あたりにはランニングをする場所もバットを振る場所もない。しばしのあいだ雄大な川を眺めながら走る。洲の森を越える。
「あれ? 洲を境に川筋が変わった」
「長良川です」
「ふうん、二つ跨ぐわけか。雄大すぎる。渡り切って引き返しましょう。両岸が森なんだもの。青森の堤川みたいな土手道がないから、川沿いをダッシュできない。バットは家で振ります」
 渡り切って、横道でUターンし、また入口で二百五十円払った。
「菅野さん、先に渡って待っててください。脇舗道があるので走っていきます。十秒で五十メートル走れば、六十秒で三百メートル、千二百メートルを四分で渡れるでしょう。ゆっくり走っても五分です」
「ほいきた」
 橋梁関係者が歩く特別な舗道らしいと感じたので、車を降り、歩かせてほしいと橋詰の衛所に申し出る。老年の係員は、
「あれ? ひょっとして、中日の神無月選手ですか?」
「はい」
「うわあ、こりゃ!」
 胸ポケットを探る。
「こ、この手帳にサインをお願いします、すみません」
 快く了承し、すらすらと書いた。男は興奮してしきりにしわぶいている。
「孫が大ファンでしてね。ありがとうございます。向こう口の係員に連絡しておきます。どうぞ、お気をつけて歩行してください!」
 係員は咳をしながら歩行許可の切符を渡した。菅野のセドリックが走り去る。
 しばらく歩き、やがてゆっくり走り出し、橋の後半から五十メートルダッシュを数回繰り返した。足もとからへんな弾ね返りがあった。微妙に揺れているのだろう。薄っすらと汗をかいたからだに、川風が心地よい。切符を渡し、橋のたもとで待っていた車に乗ろうとすると、青年の係員二人にサインを求められた。微笑しながら機械的に書いた。固く握手された。
「お気をつけて。ありがとうございました!」
 助手席に乗り、木曽川をあとにする。
「私、走ってないですよ。どこかで走らなくちゃ」
「ここいらはそっくり田舎です。空地はいくらでもありますよ。適当なところで走ってください。ぼくはそこで筋トレをやってますから」
 崩れ落ちそうな鐘撞き堂のそばに、丁寧にコンクリートを敷いただだっ広い空地があった。レーンの仕切りや車止めはなく、車そのものも一台も停まっていない。駐車場でないのかもしれない。セドリックを入れ、降りて眺め回す。周囲に古い民家が二、三軒あるきりだ。鐘撞き堂の裏の小森に寺院らしき建物の屋根が見える。
 菅野はコンクリートの空地を走りはじめた。私はトランクからバットを取り出し、素振りを始める。あたりは森閑としたままだ。百八十本振り、三種の神器に移る。菅野はせっせと周回と往復を繰り返している。
「たぶん、日本じゅうこんな景色ばかりなんだろうね。名所というのは特定の場所にしかなくて、名所の周囲は整備されているものなんだな」
「だからみんな、わざわざ出かけていくんでしょう。ああ、走った! もうじゅうぶんです。帰りましょう」
 ふたたび田舎道を戻っていく。道の分岐に、ようこそ津島市へ、という看板が立っている。
「津島か。神宮前の名鉄電車の行先板で見たんだったかな。それとも聞き覚えかな」
「神宮前から津島へは佐屋行ですね。プレートじゃないです。聞き覚えでしょう。ここは愛知県の西の外れです。県境が立田村。木曽川を挟んで岐阜県と三重県に接してます」
「名古屋駅から県境まで車で四十分とはね」
「車はすごいですよ。北村席には正午ぐらいまでに帰り着きます」
 信号のほとんどない青田と畑の道を戻っていく。畑の縁にイボタの潅木が植えられているのは蝋を採るためだとわかるが、道沿いにポツポツある小森が何のためのものかわからない。まれに車がいきちがうだけで、まったく人の姿はない。ときどき民家が固まって建っている区域があっても、すぐに通り過ぎる。単調さの極み。こんな土地では暮らせない。
「家の中にいれば別か―」
「え?」
「こんな土地でも、家の中にいれば楽しく暮らせるかもしれないと思って」
「はあ、ほかに学校とか公民館とかね。神無月さんはここでは暮らせませんよ」
「どの家にもテレビアンテナが立ってる。架空の現実の中で暮らしてるんだね。……サインを求められるはずだ」
「テレビとラジオがあるかぎり、芸能人とスポーツ選手は永遠ですね」
「こういうところで暮らしてる人たちの幸福って、架空の現実だけ?」
 菅野はしばらく考え、
「みんなと同じように健康であることじゃないですかね。どこにも故障がないこと。立ったりしゃがんだり寝転んだり歩いたりできること。小便一つするにしても、自由に、みんなと同じ格好でできること。みんなと同じように飲んだり食ったりできること。両手両足五本の指をみんなと同じように使えること。その作業が不自由になると、彼らにとって不幸ということなんでしょう」
「他人と同じじゃいやだという気持ちにならないのかな。他人より勉強ができたり、面相がよかったり、他人にできない特技があったり」
「それは志のある野心的な人間の幸福でしょうね。このあたりの人間の幸福じゃない。そういう意味では、幸福は二種類あるのかもしれませんよ。他人と同じであることと、他人とちがっていること。烏合と野心が五分五分の人たちは、二つの気持ちの出し入れで生きてる。神無月さんはどちらにも関心がない。ひとことで言うと、異常です。付和雷同も野心も神無月さんには何の思いも引き起こさない。自分の幸福に徹底して無関心な奇人です。そのせいで悲しい生活を送ってきた。地元のスターにすぎないと誤解されて、十把ひとからげに、従順と野心の入り混じったふつうの人間にされ、あれこれ勝手に生きる方向を指図されてきた。そのうち、どうもふつうの人間ではなさそうだ、マレな少数派だと気づかれる。しかし彼らは、自分たち多数派の判断を訂正したくないので、憎しみや嫉妬という方針に切り替える」
「へえ……そんな複雑な心理じゃないと思うけどなあ。とにかく、こういう和やかな土地で暮らせないような人間は、どこでも暮らせないね」
「暮らせる場所はあります。ふつうでない人間が集まってる場所です。テレビやラジオという場所じゃないですよ。そこも最終的に、付和雷同と野心の入り混じった人間どもの巣なので、憎しみや嫉妬の対象に切り替えられる可能性が高い。彼らに殺されたときにいっしょに死ねる私たちのような人間がいないと、神無月さんは悲惨なことになります。……ま、こんな土地には極めつきのふつうの人間しかいない。もし神無月さんがこんなところで暮らしたら、憎しみや妬みなんて高級な対応をされるどころか、村八分に遭って叩き殺されます」
「そうなんだろうね。……いっしょに死んでくれる人って、どういう人たちなのかな」
「へんな人間です。もともとからだを流れていた血液は、多少野心の混じった付和雷同型でしたが、神無月さんに透析されてふつうでなくなりました」
「透析!」
 ふと笑いが喉からせり上がり、噴き出した。菅野も声を上げて笑い、二人笑いが止まらなくなった。
「野球、野球、菅野さん、野球の話がいちばんいいよ。それ以外の話をしてると、先行き感がどうもよくない」
「そのとおり!」
 雲の陰でカッと日が照っているような暑さの中を、私たちは窓を開け、野球の話をしながら、クーラーを効かさないで走った。
「ジャイアント馬場は、自分は新潟出身のプロ野球選手第一号だと長いこと信じてました。じつは彼の前に三人もいたんです。それくらい人と付き合わなかったという証拠です。だれからも話が入ってこない」
「その先人というのはだれですか」
「新潟出身の第一号は、昭和二十三年に高田中学から野手として金星スターズに入団した渡辺一衛(かずえ)、二人目は二十七年に新潟中学から巨人に入って一度も登板しなかった杉本定介(ていすけ)、三人目は二十八年に巨人に入って一勝を挙げて翌年退団した鈴木実(みのる)です。巨人は、関西や四国九州の名門校出身の選手が多く、ツテを欠かさない。馬場は、巨人は西の系統で徒党を組んでいると誤解して、チーム内のだれとも付き合わず、孤独に暮らしてました。あるとき、監督やコーチにお歳暮を贈るのはやめようと仲間内で決まったので、実際にそうしたところ、彼だけが贈らなかったというわけで、浅野内匠頭みたいな冷たい扱いを受けました」
「陰湿だな。彼はどのくらい活躍したの?」
「昭和三十年に三条実業高校から超高校級ピッチャーとして入団したんですが、三十二年に一軍で七イニング投げただけです。二軍では、三年連続最優秀投手でした。当時の巨人は第二期黄金時代で、大友、堀内庄、安原、藤田元司なんかがいて、投手陣が充実してたんです。同期入団は森と国松です」
「へえ! 馬場ってそんなむかしの人じゃないんだね。どんなボールを投げてたの?」
「角度のある速くて重いボールです。カーブがよく、コントロールもよかった。ただ、フィールディングがひどかった。彼の右か左にバントを転がせばだいたいセーフ。ベースカバーで転ぶほどでしたから。そんなわけでほとんど二軍暮らし。三年目に一軍に引き上げられ、三試合に登板し、七イニング投げて、防御率は脅威の一・二九。ゼロ勝一敗で選手生活を終えました」
「だれと対戦したか覚えてますか」
「甲子園の阪神戦で、八回裏に敗戦処理で登板したときの相手しか覚えてません。牛若丸吉田、並木、大津を三者凡退に切って取りました。セカンドゴロ、セカンドフライ、ショートライナーだったかな。キャッチャーは森でした。吉田義男に投げる初球のサインはカーブだったのに、森に楯突いてストレートを投げたのは有名な話です」
「なんで引退したんですか」
「遠因(えんいん)は脳腫瘍です。生存率一パーセントの手術が成功して、翌年チームに復帰しましたが、その年、次の年と登板機会がなく、クビになりました。戦力外通告というやつです」
「それであきらめた?」
「いえ、三十五年に、明石でキャンプしていた三原大洋の入団テストを受けました。もちろん合格。ところが、練習休みの日に朝風呂を使っていたとき、上がろうとしたとたんに貧血起こしてぶっ倒れた。ガラス戸に突っこんで血まみれ。左肘と指をやられて、一巻の終わり。左手の自由が利かなくなったんです。それでクビ」
「不幸な人だなあ!」
 そのあとのプロレスへの転身の話は聞きたくなかった。菅野もしなかった。
「左手はその後完治したんですけどね」
「どんな人の人生も話せば長いですね。まだまだつづきがあるんでしょうけど、もういいです」


         四十五

 菅野の言ったとおり正午に帰り着いた。アヤメの中番のキッコと丸信子以外のみんなが食卓を囲んでいた。早番チーフの百江も帰ってきている。私たちはシャワーを浴びにいった。
「きのう誕生会でみんなが言ったのとちがって、この北村席が特殊な世界とは思えないんだ。子供が遊び回り、タバコの煙の中で女たちが世間話をしてる。人情の篤い長屋みたいだね。飯場と同じに見える」
「彼らもこの〈世界〉が特殊だとは思ってないですよ。そう表現するしかなかっただけで。最悪のたとえですけど、マフィアも同じですよ。環境ではなく、人間が特殊なんです」
「ふーん」
 サッパリして上がると、カズちゃんが、
「お土産は?」
「七宝焼の金太郎の置物。水屋に載せておいて」
「私は女房にイヤリングです」
「見せて、見せて」
 ひとしきりカズちゃんがはしゃいでいるあいだ、私はビールを飲みながら、主人に語りかける。
「ぼくが東京にいたころ、直人が保育所で指を脱臼させられたことがありましたね」
「ありました。中指が腫れ上がって、痛ましかったですわ。骨を戻して二週間ほどで治りましたがね。トモヨと菅ちゃんが相手の坊主はだれかと訊きに出かけたんだが、保育所は口をつぐんで、訴えたりして大ごとにしないでくれと頼みおった。子供同士のことだから、もののはずみだとね。トモヨは、その子に報復するためにきたんじゃない、直人が名前を言わないんだから報復できるわけがない」
「理屈が通ってる」
「すべてやられるほうが悪い、やられる側に原因がある、中途半端に指ぐらいですまさないで、目を潰したり、首を折ったりしてくれとその子に頼んでほしい、頼めないならあなたたちが全力で護ってほしい、そう伝えるためにきた、と言って帰ってきました。それからは何もされとりません」
「初耳だわ。やるわね、トモヨさん。まるでヤクザのアネゴじゃないの」
 菅野が私に片目をつぶって、
「ね、すばらしき特殊さでしょ」
 天ぷらソウメンの大盛り。大鉢一杯。
「そういう母親ならば、直人はしっかり特殊な子に育つ。特殊な子なのに臆病じゃいけない。自分に危害を加えた相手を庇うなんて、やさしさじゃなくて、報復を恐れる臆病さだよ。トモヨさんが怒ったのはそれだ。臆病と卑怯さは紙一重なんだ。卑怯な子に育てないようにしなくちゃね。―どうしたもんかな。殴られたら、殴り返せと教えよう。子供のうちは目には目をでいい。大人の理屈は要らない。どんなにかわいくても、女じゃないんだから、顔に傷の一つも作るくらいでないと」
 イネがふるえる声で、
「まだ二歳だべに」
「年齢は関係ない。と言っても、保育所はトモヨさんの啖呵で一応鎮まったので、目には目をのチャンスはないね。幼稚園からだな。四歳くらいから喧嘩の仕方を教えるか」
 ソテツが、
「神無月さん、目が怖い」
 カズちゃんが、
「怖くないのよ。これが小学校からのほんとうの目」
 菅野が、
「神無月さんの世間に知られていない面だね。だめだよ、ソテツちゃんもイネちゃんも知っておかなくちゃ。この、なるようになれ、当たって砕けろの心意気で、静かに青白く発光してるんだよ。バット事件や、暴漢事件を思い出せばわかる。お嬢さんはああいう顛末を聞くたびにニコニコしてた。男の基本は、理不尽な暴力をあと先考えずにねじ伏せる力があることなんだ。神無月郷は、松葉会の連中からもオトコと讃えられ慕われてる人なんだからね。怖いなんて言うやつは、そばにいる資格がない」
「だめよ菅野さん、そこまで言っちゃ。キョウちゃんは怖く見えるほど深い決意を持ってる人間だってことを、そういう人間こそ頼りになるんだってことを、やさしく教えてあげなくちゃ。暴力という形も身を守る一つの方法かもしれないけど、危険を避ける手段が暴力しかない場合ね。それが、キョウちゃんが康男さんから学んだ〈喧嘩の仕方〉。要は身を守るための実行力。口だけじゃないってこと。……いつもそこで人生を終わってもいいって思ってるからよ。小さいころからそうだった。死ぬ気で喧嘩し、死ぬ気で逆らう。その結果がいま。ふつうの人たちはキョウちゃんから遠ざかって、気力のある人たちだけが残った。直人もそういう子に育てなくちゃ」
 私はステージ部屋を覗き、
「プレゼントの整理終わったみたいだね」
 幣原が、
「たいへんでした。離れの一部屋がもうごちゃごちゃ」
 イネに、
「片づけることを教えてね」
「はい」
 女将が、
「おもちゃのケースを買おまい。押入に納まるような」
「いま買ってきましょう。三好町の富士家具までいってきます。あそこは輸入家具も多いから」 
 菅野が言うと、主人が、
「三好は車で三、四十分はかかるやろ」
「一時間です」
「そんなにか。帰ってきたら見回りやな」
「はい。押入に納れるような小型のものじゃなく、ちゃんと部屋置きできる大型のものでないと。これからどんどん溜まるんですから。ハイエースでいってきます」
 行動派の菅野は浮きうきと出ていった。カズちゃんが、
「天童さんと百江さん、キョウちゃんといっしょに則武にいってらっしゃい」
「はい」
「夜はキッコちゃんとイネちゃんだから」
        †
 優子と百江と三人で則武まで歩く。百江に尋く。
「初日の仕事、どうだった?」
「緊張のしっぱなしでした。メイ子さんに手伝ってもらって、なんとか計算ミスなしでやれました。九十人もきたんですよ」
「よくそんな大人数がくるもんだね。チラシの効果かな」
 優子が、
「はい。アイリスを考えたら、一日二百人くらいじゃないでしょうか。出入りの業者が、食材・備品を合わせて十人もいますから。私はきょう、四時から遅番。三時四十分ぐらいに入ればいいかしら」
「五分前でいいのよ。更衣室でエプロンして、中番と引き継ぐだけだから」
「優子は危ない日?」
「ええ、ちょうど……それで百江さんにお願いしました」
「百江はたいへんだ。イキすぎて苦しくなる」
「天国です」
 優子が、
「私もそうですけど、みんなすぐでイッてしまいますから、神無月さんが出すまでがまんをしてあげる人がいないと」
「だいじょうぶ、苦しそうになったらすぐ抜いて、すぐ次に入れるから、一人に締めつけられてるのと同じだよ。女は好きなように早くイケばいい。ただ、最後に受ける女がつらいよね。無理やり何度もイカされるから、息ができなくなったり、気を失ったり、気の毒だ」
 則武に着くと私は全裸になり、玄関で二人のスカートをまくって後ろから交わった。存分に気をやった二人を玄関に残して、式台のすぐ右の客室にいって、蒲団を敷き、射精していない陰茎を屹立させたまま横たわる。 女の快楽にはかぎりがない。存分と見るのは男の目で、女からすれば存分というのは男が終わったときの区切りで、男がつづけるなら何回でも達することができる。しかし一度でも達していれば少しの不満も残さない。
 やがてよろよろと二人はやってきて、全裸になり、蒲団の上に横たわる。私は彼女たちが味わったばかりのアクメに大波を加える。優子の収縮しつづける膣を往復することで射精を引き寄せ、百江の脈動する膣に百パーセント吐き出す。その過程で、二人はほとんど意識を失う。数分して二人は気を戻す。優子が風呂を入れ、百江はシーツを洗濯機に放りこみ、ノブをひねる。三人で湯船に浸かり、三人でシャボンを使い、最後に優子が浴槽を洗った。百江がホットケーキを作り、優子がコーヒーをいれる。女二人で二枚のシーツを二階のベランダに干し、三時ごろ二人で帰った。女がいなくなると、一連のできごとがジオラマのように目に浮かぶ。やはり特殊な世界かもしれない。
 三十分ほどジム部屋に籠もったあと、六時過ぎまで読書した。こうした行動と時間の流れに、からだが滑らかに順応している。健児荘以来、行動と時間が途切れるのは女しだいだと思っているので、順応することに達成感はあっても忸怩たる思いはない。
 いつものように北村席の座敷で夜をすごし、イネの部屋でキッコと三人で十一時に寝て、明けて八月十二日火曜日、朝六時に目覚めた。イネはいない。丸裸で二階の便所で排尿して戻り、ベランダから夏の終わりの庭を眺める。勃起したままだ。背後の蒲団からキッコが声をかける。私に並びかけ、私のものを認めると、ベランダの手すりを握り、自然体を装って誘うように尻を向ける。私はその尻をさすり、
「起きたばかりで、入る?」
「わからん。入れてみて」
 挿入しようとする。入らない。
「オマメちゃん、いじって」
 言われたようにすると、濡れてくる前に達してしまった。仕方なく唾をつけて挿し入れる。
「うう、ええ気持ち、動かさんといて、がまんするで」
 数回往復させる。
「動かしたらあかんて……あ、はあ、イク!」
 ギュウッと腹を絞ってブルンと尻をふるわす。貪欲に尻を突き出してみずから往復を始める。みずから抜き去り、窓敷居にペタンと腰を下ろして痙攣を繰り返す。
「あかん、うん、またイク! が、がまんせんと、しっかりがまんせんと楽しみがすぐ終わってまう」
 やがて落ち着き、手すりを握り、片脚を窓敷居に載せて大きく広げる。挿入する。唇を求める。キスをしながら腰を突き上げる。
「あ、イク、好き好き、大好き、神無月さん、うーん、イク!」
 私の繁みに愛液を飛ばした。また自分から陰阜を引いて離れ、同じように敷居に腰を下ろすと、手すりを握り締めながら悶える。
「今度は出して!」
 私を抱き締め、蒲団に倒れこむ。大きく開いた股に挿し入れる。ついに射精し、こそぎ取られる。激しい口づけ。
「好き好き好き、愛してる!」
 私が律動するたびに腰を持ち上げて痙攣する。抜き取ると、ふるえの治まらない上半身を起こして追いかけ、ヌラヌラ光るものを咥えたり舐め回したりする。
 ようやく落ち着いたからだをさすってやりながら、しばらく寝物語をする。中村高校のこと、いろいろな勉強科目の難易のこと、実家のこと、不良だった時代のヤケッパチな気持ちのこと、長くさびしかったこと、この半年の信じられないほどの幸せのこと。最後にいくつか大阪弁を教えてくれた。
 おおきに―ありがとう。連語で使われることが多い。おおきに、ご苦労さん。おおきに、ごちそうさん。おおきに、すんまへん。おおきに、考えときます。これは柔らかく断る言葉だそうだ。
 なんぼ―おいくら。
 しゃあない―しかたがない、しょうがない、どうにもならん、あきらめよう、そういうもんだよ、なるようになるさ、ケセラセラ。
 ぼちぼち―まあまあ、そろそろ。ぼちぼちいこか。テイク・イット・イージー。
 まいど―常連に対する挨拶言葉。こんにちは。
「ぜったいわからん言葉もあるで」
 フレッシュ―コーヒーに入れるミルク。
 モータープール―駐車場。
「英語では何て言うん?」
「パーキング・ロット」
 たいたん―煮たの。
 応用問題として茶目っ気のある表情で、
「これいきしにこうてきてん、それなんなん、めっちゃかわいいさらやねん、へえほんまやな、さらなん、さらやで。わからんやろ? これいったついでに買ってきた、何? とてもかわいい皿、へえほんとだね、新品なの? 新品だよ」
「サラがポイントだね」
 抱き合って笑った。一階に降り、いっしょにシャワーを浴び、新しい下着に替える。
「イネちゃんの部屋片づけてから朝ごはんにいくわ。先いっとって」
 一家の者たちが集まっている座敷の食卓につく。アヤメの早番連中が箸を置いて出かけるところだった。主人が、
「きのうは二百二十組きたそうですよ。たしかにアヤメはうまい。五十円引きのせいやないようやな」
「アイリスにせよアヤメにせよ、もとはと言えば、ぼくの将来を危ぶんで始めた商売です。ぼくの進退は常に危ないですからね。繁盛してくれるのはうれしい」
「神無月さんは、抱えとる爆弾の危険度がすさまじいからね。いつ爆発してくれてもええんですよ」
「ありがとうございます」



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