六十一

 十時半を回ってやってきた菅野と日赤までランニングのあと、アヤメでオーソドックスな朝めし。塩鯖の開き、おろし納豆、筑前煮、味噌汁。初顔だった店員の顔も、二度目となるとかなり馴染む。引退まぎわのトルコ嬢や、一般の主婦から召集しただけあって、さすがに年齢層が高い。
 年かさの女たちがいる場所は落ち着く。いつでも微笑みかければ齢の差に包みこんで微笑み返してくれるという安心感があるし、実際にそうはならないにしても、その種の機会に出くわせば、経験の差に包みこんで心置きなく性欲を発散させてくれるという信頼感もあるからだ。奇異な感覚にはちがいないけれども、何よりその安心感と信頼感があるせいで、彼女たちの中で無理なく禁欲的でいられることがすがすがしく、自分を頼もしくも感じる。
「足木さんが昨夜電話してきました。神無月さんを車で送迎するときの乗り降りにはくれぐれも気をつけるようにって。口止めされましたが、神無月さんは気にしないでしょうから言っておきます。ファンレターに混じって、脅迫状みたいなものが最近よく球団事務所に届くそうです」
「また!」
 菅野はメンチとポテトサラダにウースターソースをたっぷりかける。うまそうなので、思わずポテトサラダに箸が出る。菅野はうれしそうにいっしょにつまむ。
「ふうん、しつこいなあ。不人気だけじゃ許してくれないんだ。どんな脅迫状?」
 菅野はあごを動かしながら天井を見上げ、
「おまえがプロ野球界をだめにした、責任をとってプロ野球界の発展のために死ね。いい子ぶるな。政治家。川上さん、王さん、長嶋さんに、もっと敬意を払え。ドラゴンズの腰巾着連中と遊んでいてそんなに楽しいか、ナルシストのガキ野郎。ほんとに神かどうか確かめてやる、背中に気をつけろよ―」
「脅迫状じゃなく、単なる愚痴のメモですよ。単刀直入なのでわかりやすいし、予想していたとおりだから驚かない」
「松葉会のほうへは社長が連絡しました。牧原さんが警戒を強めるとおっしゃったそうです。きょうから時田さんがセドリックに同乗します」
「オーバーだなあ」
「足木さんは警察にも連絡したそうです。マスコミには漏らしてません。ハヤリになってしまうからということで」
「ネガティブなことは流行にならないさ。陰口で終わるよ。ヒトラーのような政治的指導者がいて、憎しみが国民のイディオロギーにならないかぎり無理だ」
 手っ取り早くやってもらえば、この世から消える手間が要らなくなるし、余命を量る必要もなくなると、いつものアンニュイな気分を口に出しそうになる。やめる。何よりそういう輩に真剣に立ち向かうのは面倒だし、彼らにそんな勇気はないとわかってもいる。
 出発の準備を兼ねて北村席へ戻る。日曜でお休みの直人は座敷で女たちと積木をやっている。きょうはアイリスもアヤメも休日だ。居間で、素子と千佳子が、主人夫婦やトモヨさんや睦子と和んでいる。厨房の千鶴と三上ルリ子も混じっている。先日と同じ栗きんとんがテーブルに出ているのは、千佳子たちの土産だろう。睦子が、
「あ、郷さん、来月三日の広島戦ダブルヘッダーは、千佳ちゃんと観にいきます」
「ローバーでね」
 千佳子が自信ありげにうなずく。
「今週はテレビで観ます。千佳ちゃんのスクラップブックの整理を手伝いたいので」
 菅野が、
「九月三日は水曜日だ。水曜のダブルヘッダーというのは変則ですよね。ドラゴンズのバッティング練習は十一時からです。そろそろ優勝だから、どの試合も頭の先から足の先まで観たほうがいいですよ」
「そうします」
 素子が、
「うちはきょうの試合はお姉さんといっしょに観にいくよ。キョウちゃんのプレゼントのローバーで」
 菅野が、
「この三連戦はマジックを減らすだけの戦いだから、あまりワクワクしないでしょう。三日からの三連戦もその意味では同じだけど、優勝への秒読みの迫力がある」
 主人が、
「ワシはきょうから、中日球場の全試合を観る。優勝に見当つけて席を休みにする日を決めんとあかんからな」
「ほんとに休みますか? 五十人、百人を連れ歩くのはたいへんですよ」
「うーん、修学旅行みたいにはいかんか。じゃ、休みたいやつだけにするか」
「そうしましょう。でも、都合のつく人間はあんまりいないと思いますよ。優勝が決まるまで連日になりますし、そうなると仕事に響く人も出てきますからね。この商売は日銭ですから。とにかく、ぞろぞろ移動するのは苦労です。七、八人がいいところでしょう」
「たしかにそうやな。しかしワシは毎日いく。優勝を見逃すわけにいかんで」 
         †
 式台でグローブを磨いていると、居間から主人が、
「神無月さん、小笠原という名前をいつか言っとれせんかったですか」
「はい、早稲田の小笠原、青高の同級生です。野球部仲間。六大学ではあまり目立ってません」
「新聞に載っとりますよ。六月に早稲田の野球部を退部して、大学中退と同時にプロ届を出したそうです。とたんに、今年のドラフト候補です。速球百五十キロの本格派と書いてあります。在京球団が狙っとるようです」
「ふうん、やっぱり故障が完治したんだな。すごくうれしいけど、なんか怖いな。純朴なやつですから、巨人なんかいったら」
「中日がドラフト候補に挙げて、籤を引くかもしれないですよ」
「それ、理想ですね」
「受験浪人中だった柳沢は六月にアトムズにテスト生で入りましたし、あと目立ったところでは日本軽金属の戸板、こいつはドラフトの目玉になるでしょうね」
「戸板は水原監督が狙ってます。……早く柳沢と対戦したいな」
「一、二年は二軍暮らしでしょう」
 直人が背中に寄ってきて、
「おとうちゃん、やちゅう」
「お、そうだった」
 保育所がお休みの直人と、芝庭に出てゴムボールの野球をしてやる。菅野がキャッチャーとして付き添う。プラスチックのバットを握らせ、ボールをそっと下から放ってやる。長くて細いバットに慣れないのか、二、三度空振りしたが、すぐにまともに当てられるようになった。私の後ろに控えて守備をしているソテツのところへ連続で飛んでいく。子供らしく前のめりで振る姿が愛らしい。
「いいぞ、直人、その調子だ」
 バットにボールが当たるのが楽しくて仕方ないらしく、直人は網で虫を捕まえるように五十球も打った。二十球ほど前へ飛び、ソテツを越える大きな当たりも五、六本あった。
「素質ありい!」
 菅野が叫んで抱き締めた。
「よし直人、きょうはこれで終わり。あしたはキャッチボールをしような」
「うん!」
 胸にカンナを吸いつかせているトモヨさんに見守られながら、ホーム用の白地のユニフォームを着る。直人が、
「おとうちゃん、きれい」
「そうか? ありがとう」
「ぼくにもユニフォーム」
「ちゃんと仕立て屋さんで作ってやろう。お父さん、このユニフォームと同じミニチュアを作ってやってください」
「おう、どこで作ればええんかな」
 菅野が、
「東京の北千住のツバメヤスポーツに注文しましょう。昭和の初めからの老舗です。身長体重を測って、写真を送れば作ってくれますよ」
「ミズノでもいいんじゃない?」
「そうですね、そっちのほうが早いかな」
「ぼくのプレゼント用の品だと言って」
「わかりました。丁寧に作ってくれるでしょう」
「帽子と革ベルト、そのほか一式もね」
「オッケー。でき上がったユニフォームは、優勝パレード見物のときに着せればいいですね」
「そうしてやると喜ぶだろうな」
 ダッフルにカズちゃんのグローブと、富沢さんの新しいスパイクと、ソテツの弁当を入れ、数寄屋門前に出る。遠くから何台か撮影車が窺っている。ストロボは焚かれないけれども、フラッシュが光り、連続してシャッター音が立ち昇る。数人の配下を連れた時田が眼光するどく私たちをセドリックに導く。門の左右に姿勢よく立ち並んでいた男たちがドアを開け、前後左右から私を包みこむようにする。彼らの眼光もするどい。
「わざわざすみません、時田さん。でも、ちょっとオーバーじゃない?」
「また刃物男に襲われないともかぎりませんからね」
「ファンレターとして届いたんでしょ? セコい悪ふざけだと思いますよ」
「警戒するなら徹底的にやらないと。神無月さんを犬死させたら、一生悔やみます。ヤッさんは狂い死にしますよ。東京のほうは宇賀神さんが警戒を強めることになりました。西の遠征先にも手下(てか)を増やします」
「念には念をですか。ありがとうございます」
「警察付きの新聞記者連中には知れたようなので、きょうの夕刊あたりに載りますよ。そのほうがいい。警備しやすくなる」
 後ろに素子のローバーを随え、時田がセドリックの後部座席の私に並んで乗りこんだ。助手席に主人が座った。
 太閤通から名駅通へ出、広小路通を直進せずに笹島を右折して中日球場に向かう。いつものように窓の景色をぼんやり目に焼きつけようとする。プロ野球選手になるまでこの道の先の風景を知らなかった。
「菅野さん、笹島から中日球場までの目ぼしい町名と建物を教えてください。名古屋はぼくのいちばん好きな町なので、何度でも記憶したいんです」
「わかりました。タクシーの運ちゃんの気分でやってみましょう」
「ワシも聞こうわい。灯台もと暗しやからな」
 主人が助手席から窓外を見つめた。菅野は最初の信号の左手を指差した。歩道を渡り切ったところに、三本の石柱が立っていた。あっという間に過ぎた。
「明治橋跨線橋跡です。名古屋駅は明治十九年に笹島交差点あたりに開業しました。そのせいで、西の中村と東の広小路が鉄道で分断されました。それでは人の流れに支障ができて不便なので、明治三十四年に名古屋で初の鉄道用跨線橋が架けられたんです」
「明治十九年か。一八八六年。名古屋駅ができてまだ八十年ぐらいしか経っていないんですね。駅より年とった人はいくらでもいるわけだ」
「そうでしょうね。大正二年に明治橋から中村公園まで名古屋電気鉄道が開通しました。明治橋、笈瀬川、西米野(こめの)、本社前、楠橋、稲葉地、公園前」
 時田も聴き入っている。
「昭和十二年にいまの場所に駅を移転改築したとき、鉄道線路が高架になって、明治橋は撤去されました」
「いまの駅は三十二歳か!」
「はい、四十歳の私や三十五歳のお嬢さんよりも年下です。もちろん社長や、たぶん時田さんよりも。新しい駅ができてから名古屋の町も新しく変わりました」
「そんな新しい駅や町といっしょに、ぼくは野球をしながら成長したんだね。好きになるはずだ。まるで友だちだ」
 時田がとつぜん激し、
「神無月さんがこつこつ野球選手を目指してきた人生を潰すような連中は、許しておけんのです。どれほどの苦労をしてここまできたか、われわれは知っとります。むざむざ神無月さんの人生を反故にはさせん。と言って、どうすることもできん。こうやって護るしかありません」
 少し逸れた話のような気がしたが、ナイーブな憤りがうれしかった。
「反故になったらなったで、けっこう何とかなっていくものですよ」
「神無月さん!」
 私は笑いながら時田の手を握った。時田はボロリと涙を落とした。
「下広井町です。左前方へ進めば堀川へ出ます。このまま名駅通を真っすぐいきます。これといってお教えしたいような建造物はありません。あ、いま、右の高架を名鉄が走ってます。このあたりが六反です。ちょっと道を入ると、かなり広い六反公園があります。これは日置橋。中川運河を渡ります。左手に見えるのが松重閘(こう)門」
「いつか名鉄に乗ったとき、乗客から説明してもらったことがあったけど、忘れた」
「パナマ運河方式とかいうらしいです。水位を時間差で変えて船を通したということですが、私もよくわかりません。中日球場前駅です。むかしは山王駅と言いました」
「江藤さんと小野さんと歩いてきたような……いやこなかったかな」
 右折して高架を二つくぐる。左折。高架に沿って走りだす。
「このあたりが露橋です。中日球場のある町。落ち着いた町並です。名古屋のむかしを彷彿とさせます」
 空地とまばらな建物。密度が薄すぎる。
「露橋小学校、露橋公園」
 物干しの置石に鉄棒を立てたようなシンプルなバス停が、公園の緑の前景に立っている。
 右折。
「着きました。中日球場です」
 そびえ立つ中日球場の周辺の道が入場前の人びとでごった返している。巨人戦やオールスター戦ともなるとこんなものではすまない。芋を洗うような状態になる。あのころ私は小山田さんたちに連れられ、国鉄尾頭橋駅からこの背の高い野球場まで胸躍らせて歩いてきた。そして、そびえ立つ球場のどこが内外野の入場口ともわからず、吉冨さんたちに肩を抱かれながら人混みに押されて行進したのだった。


         六十二

 三時。駐車場に入る。関係者用の駐車場はないので、一般車に並べて三塁側の外野に近いスペースに停める。時田に肩を護られて車を降り、きびしい目つきの警備員と、先着の組員の誘導で関係者用ゲートに入る。ロッカールームまでの廊下にも点々と警備員が立っている。チームメイトやコーチが心配して出てくる。江藤が、
「マネージャーから聞いたばい。ほんなこつ、頭にくるのう」
 森下コーチが、
「客たちに不穏な様子はないよ」
 田宮コーチが、
「警察が探知機で爆弾の有無も調べた。この三日は深夜も球場内を警備するらしい。中日球場はだいじょうぶだな」
 太田コーチが、
「取り越し苦労かもしれないけど、金太郎さんは俺たちにとって大事な人なんだよ。ファンの中を歩くときはくれぐれも油断しないようにしてもらわないと」
「はい。注意します」
 屁でもありません、などと軽口を叩ける雰囲気ではなかった。水原監督が回廊で待っていて、
「金太郎さんはいやだろうけど、しばらくこのものものしさをがまんしてください。白井社主が電話くれてね、ガードの厳しさにファンが不信感を抱かないように、手紙の文面をきょうの夕刊に発表することにしたそうだ。流行を恐れるより、国民の良心を刺激して目の前の実害を避ける手段を採った。宮沢コミッショナーと鈴木セリーグ会長は、今季は日本シリーズも含めて、各球場、中日戦がある場合のみ、警官の員数を常時の二倍に増やすと決定した」
「すみません、ぼくに人気がないばっかりに」
 宇野ヘッドコーチが、
「割合の問題で言うなら、金太郎さんの人気はトップクラスなんだよ。反発を受ける割合が必然的にほかの選手より多くなると言うだけのことだ。これからはまちがいなく反発が激減して、断然一位の人気になる。淡々とプレイしてください」
「はい。申しわけありません」
 水原監督が伸び上がるように私の両肩に手を置き、
「金太郎さん、金輪際、人に謝っちゃいけないよ。私の見るかぎり、きみには人に謝る理由など一つもないんだ」
 中日対大洋二十回戦。五時、ロッカールームでソテツ弁当。六時、試合前の守備練習終了。両軍のブルペンに十九歳の星野秀孝と、三十歳の森中。明らかにボールの伸びがちがう。星野のボールの初々しい勢いを見てうれしくなる。メンバー表交換につづいてスターティングメンバーの発表。下通の柔らかい低音が流れる。
「ただいまより中日ドラゴンズ対大洋ホエールズ二十回戦を開始いたします。先攻の大洋ホエールズ、一番ファースト中塚……」
 ライト近藤和彦、センター江尻、サード松原、レフト長田、キャッチャー伊藤勲、セカンド関根、ショート米田、ピッチャー森中。
「つづきまして後攻中日ドラゴンズ……」
 中、高木、江藤、神無月、木俣、菱川、太田、一枝、星野秀孝。ベストメンバー。マウンドで投球練習をする星野の左腕が美しくしなる。この数カ月で、猛速球が剛速球になりつつある。コントロールがないというだけで、二軍にくすぶっていた一年半が惜しまれる。
 主審大谷(水原監督に眼鏡をむしられた人)、塁審一塁有津(高くするどい声でアウーとコールする。オールスターの第二戦で一塁塁審をしていて、私がファーストゴロエラーで出塁したときどういう気持ちからか、神無月くん、がんばってくださいと声をかけてくれた)、二塁佐藤清次(よく知らない)、三塁原田(江藤の熊商の先輩だと聞いたことがある)、線審レフト井筒(よく知らない)、ライト岡田(足が大きいことで有名)。バックネット下を覗くと、控えは富澤のようだ。あしたのライト線審だ。球審は有津か原田になる。  
 トンボが動き回る。まだ優勝はひと月も先のことなのに、スタンドからこぼれ落ちそうな超満員の観客だ。鳴りものはそれほどでもないが、旗の数が多い。いつものとおり平穏なスタンドだ。ベンチ気温二十五・四度。スコアボードの旗を見る。まったく動いていない。
 六時半、眼鏡の鼻あてとツルを固定し、守備に走る。プレイボールの声。踵を浮かせて守備姿勢をとった。
 一番中塚、二球つづけて真ん中ストレートを空振りをしたあと、三球目の内角胸もとのボール球に詰まってライト前へポテンヒット。星野は残念そうに帽子の裾を掻いた。セットポジションから一度牽制をしたあと、近藤和彦三振、江尻三振、松原三振。速球を中心にそれぞれ三球、四球、四球で仕留める。みごと。
 一回裏。中セカンドゴロ。高木ショートゴロ。森中のボールが上下左右にくねくね変化している。全盛期を過ぎたとは言え、杉浦や皆川とともに南海の黄金時代を築いた男だ。クセ球はまだまだ健在というところか。私はネクストバッターズサークルに入らずに一塁ベンチから森中の球筋に目を凝らす。江藤ツースリーからフォアボール。水原監督のパンパンパンが聞こえてくる。田宮コーチが言う。
「今年の慎ちゃんはフォアボールが多いなあ。金太郎さんに回そうとして必死だ」
 ベンチを出て歩きはじめると、いつもの大歓声が押し寄せる。この瞬間から一塁ベースを回るまで歓声が沸きっぱなしになる。雨のきそうな空に向かって、もう一度眼鏡をしっかり固定する。ヘルメットのズレを直し、バッターボックスに入る。
「よろしくお願いします」
 球審の大谷に頭を下げる。伊藤勲が私にしゃべりかけた。
「神無月くん、百本というホームランは、九度生まれ変わったって見られるものじゃない。それを生きているうちに、こんな間近で見られた。感謝します」
 私は辞儀をし、
「おたがい星の巡り合わせがよかったんでしょう」
「きょうも精いっぱい抵抗させてもらいます」
 切れるのではなく、大きく変化する森中の球は、ボックスの前にいざるだけで対処できる。初球、外角低目シュート。ボール。二球目、外から真ん中へ落ちてくるカーブを叩いて、ライト上段へライナーで打ちこむ。森下コーチがホッピングをするように跳び上がる。百二十号ツーラン。森下コーチとハイタッチ。からだを九十度に倒してお辞儀をする水原監督とロータッチ。下通の軽やかな声。
「神無月選手、百二十号のホームランでございます」
 ホームベースを踏むとき、伊藤勲が、まいりました、と呟いた。仲間のロータッチの手をひっぱたきながらベンチへ。半田コーチの差し出すバヤリースを一気に飲む。星野が、
「一塁ベースを回ったとたん、スタンドが怖いぐらい静かになるんですよ。スタンドだけじゃありません。敵チームの野手も動きがいっさいなくなくなるんです。その中を神無月さんがひたひたと走る。ふるえるなあ」
 葛城が、
「星野が言うように、みんなただただ感動してふるえてるんだ。あの打球はだれでもゾッとするからね」
 高木が、
「何号のホームランでございますと放送すると、ワーッとくるだろ。自分が感動してたことに気づくんだね」
 長谷川コーチが、
「感動のない賞賛はウソだからね。ウソは自分に利益がないかぎり飽きる。神無月くんのホームランは何百回見ても飽きない。みんな飽きずに感動して讃える」
 太田が、
「これだけ神無月さんのホームランを見てると、俺なんか、凡打にも感動しますよ」
 江藤が、
「凡打のときのフォームも完璧やけんな。あれを見ると、ホームランと凡打は紙一重やとようわかるばい」
 木俣左手一本でライト前ヒット、菱川大きなセンターフライ。チェンジ。ゼロ対二。守備位置へ走っていく。レフトスタンドの拍手と歓声に迎えられる。帽子を取って振る。
 灰色の空から細かい雨が落ちてきた。菱川、一枝、高木のゴロ練習を見つめる。星野がロジンバッグを握って足もとに落とす。何かの因果でいっしょに野球をやることになった仲間たち。中がこちらを見ていたので、グローブを上げた。
 二回表。ポパイ長田。初球、外角低目のストレート。ジャストミートした流し打ちの打球が地を這いながらレフトに転がってきた。二割打者、きょうはこれ一本だろう。腰を落として捕球し、二塁へ投げ返す。星野がまた帽子の縁を掻く。六番伊藤勲、七番関根、八番米田と三振に切って取る。みごと。
 二回裏。太田フォアボール。一枝セカンドベースぎわへ深いゴロ。関根飛びつき、グローブでベースをタッチ、ぎりぎりフォースアウト。星野強振、バットの先っぽでこする。ゆるいライナーがサード前に飛んだ。ワンバウンドしたあと、へんにボールが回転して跳ねた。ファールになると見て松原が見送った。ブレーキがかかったようにボールがフェアグランドで止まりかけたので、松原はあせって素手でつかみ、セカンドへ送球。太田、星野ともにセーフ。中、これまたショートへ深いゴロ。米田飛びつき、寝転がったまま関根にトス、フォースアウト。ツーアウト一、三塁。高木、ツースリーまで粘って、外角の低目をうまくライト線に流し打つ。ワンバウンド、ツーバウンド、近藤和彦スライディングして追いつき、高木一塁ストップ。一枝ホームイン、中は三塁へ。ゼロ対三。江藤強烈なレフト前ヒット。中生還。ゼロ対四。私、躊躇なく敬遠される。ツーアウト満塁。木俣サードファールフライ。
 三回表。森中三振。中塚センター前ヒット。江尻セカンドゴロゲッツー。
 三回裏。菱川、レフト線二塁打。太田一塁線二塁打。菱川生還してゼロ対五。一枝フォアボール。ノーアウト一、二塁。半田コーチの、
「ビッグイニング!」
 つるべ打ちが始まる気配。眼鏡を光らせて静観していた別当監督がベンチを飛び出て大谷球審に近づく。下通のアナウンスが流れる。
「森中に代わりましてピッチャー高垣、ピッチャー高垣、背番号58」
 中継ぎで一度だけ当たったことがある。敬遠された。本格派のストレートピッチャーだが、速いだけの棒球なので、勝負してくれればまちがいなく打てるだろう。
 星野速球に空振り三振。中、難なくストレートを叩いて右中間の二塁打。太田生還。一枝三塁へ。ゼロ対六。ワンアウト二、三塁。高木、右中間深いところへ三十一号スリーラン。ゼロ対九。江藤レフト中段へ五十一号ソロ。ゼロ対十。
 あわただしくピッチャー交代。サイドスローの木原。肩を冷やさないために星野がブルペンへ向かう。私、サードベースの上を抜く二塁打。木俣左中間二塁打。私生還してゼロ対十一。まだワンアウトだ。スタンドの子供たちが狂喜している。打者一巡。菱川深いライトフライ。タッチアップの木俣三塁へ滑りこむ。太田、低目の速球を掬い上げて左中間へ深々と打ちこむ二十二号ツーラン。ゼロ対十三。一枝ファーストフライ。つるべ打ち終了。
 四回表。松原サードライナー。長田セカンドゴロ。伊藤勲三振。
 四回裏。星野ファーストゴロ。一塁へ全力疾走する。アウト。野球がほんとうに好きなのだ。中ショートゴロ。高木レフトフライ。
 五回表。関根の代打に近藤昭仁。私の前へワンバウンドのヒット。米田の代打ジョンソンショートゴロゲッツー。木原の代打松岡ショートフライ。
 五回裏。ピッチャー池田に交代。これまでの対戦では、五打数五安打三ホームラン二フォアボールだ。大のお得意。江藤キャッチャーフライ。私セカンドフライ! 木俣ライトフライ。ハーフスピードの変化球にタイミングが合わない。池田のできがいいというわけではない。ナメすぎた。
 六回表。ピッチャー交代。おとといも小川を継投して四回投げている星野秀孝はこれでご苦労さんになる。同じ左腕の水谷則博登板。星野に比べて直球に伸びがないが、カーブがかなり切れる。あと四回ぐらいなら抑えてくれるだろう。
 中塚ライト前ヒット。三打数三安打。こいつ、どうなってるんだ? まるで藤田平だ。近藤和彦センター前へボテボテのヒット。交代はヤバかったかな? 江尻セカンドライナー。松原ライトフライ。松岡サードライナー。一安心。
 六回裏。菱川池田のスローカーブに耐え切れず、大振りしてピッチャーフライ。サードの松原がマウンド上で捕球する。小学校のバッティング練習を思い出す。小学校のころの私は異常にファーストのフェアフライやファールフライが多かった。ホームランと同じくらいの確率で打ち上げた。ドアスイングの引っ張りのせいで、ボールを最短距離で叩き切れなかったからだ。だからショートやサードへの内野フライはほとんどなかった。ボールの見切りがせっかちなせいで、バットを早く大きく出しすぎてボールのかなり下を叩くからだった。原因は、より遠くへ飛ばそうとする強欲だった。
 中学生になって、関やデブシのシュアなバッティングを参考にして、距離やボールの上昇を考えずに〈ただ素直にレベルにひっぱたく〉というコツを会得し、そのための技術を自分なりに磨いた。低目を投げてくるピッチャーが多かったので、自然、掬い上げることが多くなったが、適切な部位をただひっぱたきさえすれば、上から叩き切ろうと、真横から払おうと、下から叩き上げようと、どうでもいいことだった。インパクトの瞬間を意識して素振りの鍛錬をした。芯を食うか食わないかは、あなたまかせ。ただひっぱたく。結果、ファーストフライが激減した。
 太田セカンドゴロ。一枝センターライナー。池田を打てない。
 七回表。ジョンソンの代打重松、私への大きなフライ。池田ピッチャーライナー。中塚フォアボール。近藤和彦一、二塁間ヒット。江尻ショートゴロで中塚フォースアウト。
 七回裏。いつの間にか雨が上がっている。ベンチに坐って眼鏡を外し、わずかなしずくをユニフォームの胸で拭う。かえって雨滴が拡がった。タオルで拭い直す。
 水谷則博三振。中ファーストゴロ。


         六十三

 田宮コーチが、
「池田を打てんなあ」
 長谷川コーチが、
「きょうは別人だ。コースがいい。彼、三勝してるんだよね。勝つときはこういうピッチングをするんじゃないの」
 池田重喜。二年目、二十三歳、オーバーハンドから飄々と投げる。ストレートはほとんどなく、カーブ、シュート、スライダーがベースに近いところで野球盤のパチンコ球みたいにクイッと曲がる。高木ショートゴロ。
 八回表。松原ショートフライ。松岡セカンドフライ。伊藤勲、私の前へワンバウンドのヒット。近藤昭仁ライトフライ。
 八回裏、江藤からの打順だ。私はバッターボックスに向かおうとする彼の背中に、
「このままだと締まりがないですね。十三点が霞んでしまいます」
 江藤は振り向き、
「ばってん、あのクネクネ球がのう。コントロールもよかけん」
「かなり下を打っちゃうんですよね」
「ほうや」
 一枝が、
「中さんとモリミチが上から打ってもだめだったよ」
 菱川が、
「バントでいきますか」
「そんなセコいことはせん。金太郎さんは、たしか四月に、池田から二打席連続で放りこんどるやろ」
 太田が計算機のように目をパチパチさせ、
「五月にも一本。合計三ホームラン、ヒット二本ですね。二フォアボール」
 私の記憶どおりのことを言う。自分に関する記録ならわからない話でもないけれど、他人に関する記録となるとそうはいかない。しかもこと細かに憶えているのだから、もはや才能としか言いようがない。まるで碁打ちか将棋打ちのようだ。
「ぼくはいつもただひっぱたこうとしてるだけですよ。あのときの池田はきょうほどボールが変化しなかったので、ひっぱたきやすかった」
「ワシも、とにかくひっぱたいてくる」
 江藤、しゃにむに掬い上げて高いレフトフライ。ボールが微妙に曲がって、おまけにそれほど速くないので、どうしても当てて短打を狙うより、力で遠くへ飛ばそうとすることになる。私は中をまねて、三塁前にセーフティバントを敢行した。成功。哄笑混じりの歓声がワッと上がった。直後に木俣が、バックスクリーンにドンとぶつけた。いままでどおりの投球をつづければいいのに、小技で切り崩されるのを嫌って、高目にストレートを全力投球してきたからだ。
「木俣選手、三十四号ホームランでございます」
 池田攻略にベンチは大喜びだ。私と木俣はほとんど背中と腹を接しそうになりながら水原監督とハイタッチした。
「木俣くん、ナイスバッティング! 金太郎さん、ファインバントー!」
 江藤が小躍りして二人を迎えに出る。タッチ、タッチ、タッチ。木俣はベンチを駆け降り、半田コーチのバヤリースを受け取る。
「会心の当たりだった。あの程度の速球なら高目にくればソフトボールだな」
 きょうは引っ張りに徹している菱川は、低目のシュートをうまく叩いて、レフトの金網にダイレクトに当たる二塁打。太田センター前へ痛打。菱川生還。HOコンビ誕生か。ゼロ対十六。スタンドが沸きに沸く。ほうぼうで幟が振られる。一枝深いセンターフライ。太田三塁へ。水谷則博三球三振。打者のような振り方だ。星野の影響を受けている。全攻撃終了。
 九回表。大洋最後の攻撃。観客がぞろぞろ移動しはじめる。手を引かれる子供が混じっているのが気の毒だ。子供は最後まで試合を観たいのだ。小山田さんたちはけっして最後まで腰を上げなかった。
 重松、また私へのフライ。暗い空から白く光るボールが落ちてくる。池田のところで、左ピッチャー用の切り札と言われている日下(くさか)が代打で出る。評判はあてにならない。内角のカーブに詰まってあえなくピッチャーゴロ。当たっている中塚は必死にフォアボールを選んだ。二番近藤和彦の二球目、中塚まさかの盗塁。木俣は投げない。近藤はツーボールから独特のフォームで内角低目のカーブを掬い上げた。夜空に高く舞い上がる。太田がライトフェンスに貼りついて上空を見上げた。
「近藤和彦選手、第八号のホームランでございます」
 下通の声が明るく流れる。花道に三、四人しか迎えに出ない。出迎えに笑顔はない。焼け石に水という態度は感心しない。近藤和彦はベンチ前を面倒くさそうに横走りしながらチームメイトとタッチしていく。江尻、私の小学校時代を髣髴とさせるような一塁ベンチ前のファールフライでゲームセット。二対十六。江藤はウィニングボールを一塁側スタンドに投げこんだ。
 星野秀孝八勝目。スコアボードを見ると、すでに巨人がアトムズに一対五で負けていた。阪神は広島に三対二で敗北。主人と菅野と素子に手を振る。カズちゃんは一塁スタンド記者席の真上にいた。手を振らず、うなずき交わす。水原監督のインタビューの声が聞こえてくる。
「高橋一三で負けたんですね?」
「はい、高橋一三投手はハーラートップの十七勝一敗でしたが、二敗目を喫しました」
「柴田と黒江は?」
「二人で五安打を打ってます。長嶋と王がブレーキでした」
「ブレーキと言っても、一点を叩き出したのは長嶋か王でしょう」
「長嶋です」
「一、二番がしっかりして、長嶋か。一点が虎の子になることもあるからね。連勝気配だな。ドラゴンズの優勝はしばらく先だと思いますよ」
         † 
 千佳子の部屋に泊まって、睦子と三人、深夜まで二度交歓した。睦子は私に抱きついて何度も唇を貪った。その態度には、好きな男をほかの女には指一本触れさせまいという独占欲があふれていた。睦子にはめずらしいことだった。彼女は呼吸を整えながら、
「女は好きな人となら、毎日何度でもできます。一年じゅうしたってだいじょうぶ」
 千佳子が、
「それなのに、好きな人を思っているだけで、何年しなくても忘れていられるのよね」
「そうなの。女はすごい生きものだと思うわ」
「ほんとね。愛情だけ。動物の生殖本能なんてないんじゃないかしら」
         †
 八月二十七日水曜日。曇。七時半起床。二十三・二度。朝風呂のあと、ひさしぶりに北村席のみんなと食事。アヤメができたせいで、カズちゃん一行はあまり朝と昼を食べにこなくなった。少しでもアヤメに売り上げを落とそうとしているのだろう。
 庭に出て三種の神器と一升瓶。先日知ったばかりの六反へ菅野とランニング。六反公園で素振り百八十本。
「ぼくたちが走る往復ってせいぜい十キロぐらいでしょ。ぼくとちがってマラソンを目標にしてる菅野さんにはもの足りないだろうな。オフになったら、片道をもう二、三キロ伸ばしましょうか」
「日赤までの往復がちょうど十キロくらいなんですよ。名古屋西高校もそのくらいです。マラソンよりは多少速いペースで走ってますから、これでちょうどいいんです」
「そうですか。それならいままでどおりでいきましょう」
「はい」
 引き返す。並んで走りながら、
「ね、神無月さん、このごろあっちのほう、グッと減ったんじゃないですか?」
 忘れていた耳鳴りが始まる。
「ああ、そうですね。たまたまそばにいる女と示しをつけるという格好になってる。めったに朝勃ちもしなくなっちゃったし、確実に性欲は減退してます」
「私らとちがって、もともとそういうことから気持ちが遠い人ですからね。たまたま精力があるだけのことで、喜んではいないことはよくわかります。男としての義務と感じることが多いでしょう。ご苦労、お察しします」
「無意識に間隔を空けようとはしてるみたいだね」
「間隔が確実にわかるのは遠征先ぐらいでしょう。間隔が空くことにホッとするんじゃないですか。いや、港々に女ありとまではいかなくても、たぶん突発的なこともあると思いますから、ホッとはしないでしょうね。そのうえ地元にもたくさん女がいたんじゃ、気力が失せますし、性欲も減退しますよ」
「性欲がないときも好色な気分を掻き立てなくちゃいけないのが、つらいと言えばつらいかもしれない。つらさもなく、自然と心をこめられるのは、カズちゃんと睦子とトモヨさんだけです。それから素子もそうだな。あとの恋人たちは大好きなんだけど、好色な気持ちを奮い立てなくちゃいけないことが多い。カズちゃんたちはあまり求めないので、救いのあるアクセントになります」
「その四人だけならいい刺激になるでしょうね。彼女たちは貪欲でない感じですから、安心するでしょう。でも、なかなかそううまくはね……」
「……そううまくはね」
「でも、好色になれるのは愛情がある証拠ですから、それはそれで端で観ている者も安心ですけど。とにかく立てつづけになりすぎて、からだ壊さないようにしてくださいよ」
「だいじょうぶ。気遣ってくれてありがとう」
 世間にあるとも思えない会話だ。かぎられた世界の外には出ていかない言葉の群れ。
 帰り着いて、うがい、ふつうの軟便、シャワー、歯磨き、洗髪。遅い昼めし。直人と三メートルの距離でふんわりキャッチボール。これがうまい。捕球姿勢はぎごちないが、ほぼ百発百中でキャッチする。投げ返すのはまだ無理だ。あちこちへ飛んでいく。五、六歳までは無理に誘い出すのはやめて、気持ちの赴くところにまかせよう。やちゅう、と甘えかけてきたら相手をしてやる。小学生になったら本格的に始めてみるか。
 中日新聞の落合嬢から校正稿を受け取ったと電話連絡あり。事務的な声だったが、明るかった。
 主人を助手席にセドリックで出発。きょうは千佳子が睦子をローバーに乗せてついてくる。
「ローバーって、ハンドル重そうですね」
「はい、サスペンションも硬いし、エンジン音もうるさいです。車庫納れはかなりたいへんです。そういうのは国産車には敵いません」
「ま、練習用やわ。キビキビ走れるし、狭い道でも楽々すれちがえるからな」
「これから何台も神無月さんに国産車の景品が出るでしょうから、そのつど入れ替えてあげればいいでしょう」
 対大洋二十一回戦。十分ほどバッティング練習をした。中日の先発は小川健太郎、大洋は島田源太郎。
 三対五で勝利。中日七安打。江藤四打数三安打。五十二号ソロ、五十三号をスリーラン連発し、適時打一本で五点ぜんぶを叩き出した。私は四打席二敬遠二フォアボール、打数なし。ホームランの代わりに足を見せることに徹して、盗塁四。私が塁に出るときはすっかりランナーがいなくなっているので、伸びのび走ることができた。しかし、すべて残塁。高木二安打盗塁一、中と一枝が一安打。四人以外は四のゼロ。去年南海からきた堀込が初めてピンチヒッターで出た。三十歳、左バッター、ふんぞり返り、片手打ち。セカンドゴロ。
 大洋の三点は、九回ノーアウトから近藤和彦の九号ソロ、ヒットの江尻を置いてツーアウトから長田の一号ツーラン。大洋は中日を上回って八安打だった。
 小川完投十七勝目。ハーラーダービーのトップの高橋一三に並んだ。二度目の沢村賞が見えてきた。巨人はアトムズに三対八で勝利。貯金十五。二十五・五ゲーム差。もうこんな細かい星計算など忘れて、仲間たちが報告することを馬耳東風に聞きながら〈あしたが優勝〉という試合を心待ちにしよう。
 九時二十分試合終了。インタビューに向かう水原監督と江藤と小川と握手し、ロッカールームの仲間たちに挨拶をしてから、護衛陣に囲まれながら駐車場へ。
「打たせてもらえなかったですな」
「はい、こんな日もあります。消化試合まで待ちます」
「ぶつけられる心配がないから、よしとしましょう」
 菅野が、
「きょうは平穏でしたね」
「でしょ? 穏やかに、礼儀正しく、人を敬え。だが手をかけられたら、相手を墓場へ送れ。マルコムX」
「何ですか、それは」
「ハハハハ」



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