七十三

「だめよ、おとうちゃん寝てるんだから。起こしちゃだめ」
 トモヨさんの声で目覚めた。アヤメの中番と遅番が交代で出入りする足音が廊下にしている。
「おとうちゃん!」
 直人が飛びついてくる。頭を撫ぜ、抱き上げて鼻の頭にキスをする。
「いい子にしてたか」
「うん、くって、ねて、おおきくなった」
 トモヨさんがニコニコ頭を撫ぜながら、
「おとうちゃんみたいにね」
「うん、おとこはおおきくならないとだめだって、じーじがいった」
「そうだぞ。何でもかんでも大きくなれ」
「おとうちゃん、オチンチン」
「お」
 裸だったことに気づいた。
「いま何時?」
「そろそろ五時です」
 トモヨさんに直人をまかせ、パンツを穿き、浴衣の前を直して居間に出ていく。直人がチョコチョコついてくる。雨が上がっている。ときおり、廊下越しに薄暗い庭を稲妻が照らすのが見える。濡れた草木の緑が光る。アヤメの中番から帰ったばかりのキッコが、弁当をカバンに詰めて高校に出かけるところだった。口にアンパンを挟んでいる。ソテツが式台で見送っている。茶をすすっていた女将が、
「東京はたいへんやったねェ。腹立ったやろう」
「いいえ。ただ肩が凝りました。みんなオーバーですから」
「オーバーなもんかいね。心配するのあたりまえだがや。それにしても、ファンてほんとにしつこいなあ」
 主人たちは扇風機に吹かれて長卓に向かい、ビールをやりながら夕方のテレビを観ていた。エアコンは冷えすぎるようで消していた。トモヨさんが直人を腿に凭れさせ、カンナに乳を含ませる。西洋の絵画のようだ。
「山口さんから電話があって、優勝をスタンドから観るのは不義理をするけど、テレビでしっかり観ると言ってました。この二十日にイタリアに出発だそうです」
「いよいよか。おたがい武者ぶるいだな」
 ―あと九勝。
 主人が、
「神無月さんの言ったとおり、だいぶ騒ぎは鎮まりましたわ。どの局も、もうほとんどクタバレを放送してません」
「殺人事件や、飛行機事故じゃないですからね。騒がれるべきなのは、十五年ぶりの中日の優勝ですよ」
「それこそ、もう騒がんでも目と鼻の先にきとります。あと九勝でしょう。停まることになっとる駅みたいなもんですわ。神無月さんの神経に障ると思って、だれもしゃべらんとがまんしてたんですよ。しかし、よう寝とりましたな。疲れとったんですなあ。これだけ気疲れすれば、スーパーマンも寝ないとからだがもたん」
「一発やったおかげで、すぐ寝られました」
「そう言ってもらえりゃ、女冥利に尽きますな。三連戦、一家で繰り出しますよ。アイリスとアヤメは休みです」
 おんなミョーリ、と直人がわけもわからず言い、座の笑いを誘った。
 カズちゃんたちがアイリスから帰ってきたのとほとんど同時に、睦子と千佳子も帰ってきた。二人は私を見て大きく笑い、ピタリと寄り添った。睦子が、
「お帰りなさい。ご無事でした?」
「見てのとおり。鶴舞公園にいったんだって?」
「はい。百日紅(さるすべり)の白と赤の花、夏水仙、色づきはじめたコムラサキの実がきれいでした。蓮は群落で咲くのでごたついてるし、どぎつい感じが好きじゃありません」
「ハス、まだ咲いてたの」
「はい、ぎりぎり。今年は暑かったので九月の初めまで咲くそうです。午前に開く花らしくて、一時くらいに公園に着いたらもう閉じかけてました」
 千佳子が、
「ススキにそっくりなんだけど、輝くみたいに真っ白な草は何ていうのかしら」
「さあ、何だろう」
 カズちゃんが素子といっしょにやってきて、
「キョウちゃんも知らない花があるのね。バンバスグラスよ。通称西洋ススキ。明治時代に南米から渡来した草。ススキよりも一回り大きくて六、七メートルにもなるわ」
 そう言って、みんなと風呂へいった。ソテツが千佳子に、
「アイスクリーム食べましたか」
「おやつは食べてる暇がなかったわ。普選壇とか、噴水塔とか、奏楽堂、それから胡蝶ヶ池に、鈴菜橋に、酒匂(さこう)の滝、八幡山古墳、公会堂。あれこれ見て歩くのに忙しくて。鶴舞駅前のトンカツ屋に入って遅いお昼をしっかり食べました」
 睦子が、
「公園までの道が広かった! 白と緑のツートンカラーのワンマン市電がきれいでした。いっしょに走りながら車から眺める風景もきれいで、見惚れました」
 その道をかつて私もユニフォームを着て、デブシたちと歩いた。公園の中の道も通っていった。はっきりと遠征先の中学校の名前を思い出した。北山中学校だった。
 柱時計が五時半を指している。そろそろ夕食の支度がたけなわになる。菅野が手帳を開いて、
「一応、これからのイベントの日程が出揃いました。公式戦全試合日程終了が、十月二十一日、日本シリーズは十月二十六日の日曜日から、移動日を挟んで十一月三日の月曜日まで。十一月半ばから、中日球場でファン感謝祭、名古屋観光ホテルでドラゴンズ納会、名古屋市民栄誉賞授与、名古屋観光ホテルで最長不倒記念楯の授与とつづきます。飛島建設ファンクラブ宴会、東大ファンクラブサイン会、この二つは東京なので、高輪プリンスに三泊の日程を組みます。ええとそれから、マツダ自動車コマーシャル撮影、これは阿蘇山に臨む県道で行われます。熊本県ですね。それから、東奥日報さんの取材と目白押しです」
「知らないあいだに続々と決まってたんだね」
「口コミで、事務所のことが知れわたったみたいです。マツダの件は中介というかたから連絡がありました」
「どれもこれも、プロになった以上は覚悟しなくちゃいけないことなんだろうね。東奥日報の取材は、わざわざ名古屋でやらないで、帰省のときにやってもらうことにするよ」
「それがいいですね。帰省はいつごろ?」
「さあ、どうしようかな。公式戦関係の授賞式は?」
「十一月末です。十二月下旬にスポーツ三紙の三冠王授賞式」
「じゃ、十二月上旬だね。青森高校の講演を忘れないようにしなくちゃ」
「帰省後に中商の講演を段取りしましょう。十二月中旬には球団事務所で契約更改、下旬にCBCテレビでトークショー、そして餅つき大会。あ、これはナシと」
「トークショーって、ぼく約束しちゃったの?」
「そうじゃないです。正式な依頼です。水原監督やレギュラーたちといっしょにということで」
「餅つきはどこ?」
「豊橋の商店街です。毎年、新人か二軍選手がいくのが恒例になので、レギュラー選手はまずいきません。このあいだ球団本部からきた話ですけど、断ってくれてもいいと言ってました。重い杵なんか持って、肩や肘にまんいちのことがあったらたいへんですからね。じゃ、トークショーまでということで。十二月二十日の土曜日午後二時からの特別番組で、広小路のCBC会館第一スタジオです」
 目まいがしてきた。予定の一つでもサボりたい気がしたが、そうはいかないだろうと感じた。結局、プロ野球の選手に暇などないのだ。
「飛島の大沼所長から連絡があって、九月の十五日から八王子駅前開発にかかるので、十三日までに岩塚の寮は閉じて、東京の中野駅近辺に移転するそうです。お母さんもその寮に移られるので、安心してくれと。十一月に神無月さんの激励会を催したいらしく、東京の神楽坂でということでした。江藤さんと山口さん同伴で」
「そうだったね。山口は無理じゃないかな。ま、新幹線ですぐだから、いってくるよ。山口には、日程が決まったら一応連絡をとる。江藤さんにも同じようにする。東大のサイン会はどこでやるんだろう」
「さあ、まだ聞いてませんが、名古屋にくるようお願いしてみましょうか」
「そうなればラクだけど……でも授賞式の翌日に決めれば、東京でもできるね」
「ですね。授賞式は高輪のプリンスホテルですから。そうだ、白川さんというかたから電話があったんだった。写真集の第二集が完売して、二十万部の増刷になったらしく、これまでの印税でクラブ資金が潤沢になった、メンバーたちの全国球場めぐりのための交通費や宿泊代は、ほぼ心配なくなったとのことでした。サイン会の予約はいまのところ二百人ほど集まってるそうです。最終的には三百人ほどですかね」
「その人数じゃやっぱりこっちには呼べないな。出かけていきます。会場は、本郷の教室を借り切るんだろうなあ」
 気が重くなる。
「おとうちゃん、ごほんよんで」
 直人が、大型の本を持ってきて膝に乗る。テントウムシが木の枝に止まって羽を広げようとしている瞬間の写真が表紙になっている。本の名は『テントウムシ』。
「モモがかってきてくれたの」
 科学アルバム58となっているので、シリーズ本の一冊のようだ。女将が、
「庭で手のひらに載せてめずらしそうに見とったんで、百江さんが探してきたんよ」
「そうですか。百江も神経こまやかなことをするね。この枝は何かな」
 表紙説明を見ると、アカメガシワの新芽から飛び立つナミテントウとなっている。
 おさんどんが始まると、みんなきちんと食卓についた。私は直人を抱いて、まだ明るい縁側にいった。
「さ、読んであげよう」
 直人は一ページ目の写真を見つめながら緊張する。

  はるかぜにさそわれるように、くさむらやおちばのかげから、テントウムシがとびたちます。どんなくらしがはじまるのでしょう。
  しがつ、はるがきたかぜをおしのけ、くさもきもめをのばしはじめました。ふゆのあいだ、くさのねもとやいわのわれめにかくれていたテントウムシが、おもいおもいにはいだしてきて、とびたちはじめます。
  
「このももいろのおはなは、なに?」
「カタクリだね。春に真っ先に花を咲かせる草だ。テントウムシは冬眠するんだよ。葉っぱの下に隠れているんだ」
「どうしておきてくるの?」
「じゃ、読むよ。そのことが書いてあるからね」
 
 いったいテントウムシは、はるのおとずれをなにによってしるのでしょう。それは、いちにちのひるのながさや、あたたかいひのつづきぐあいによってだといわれています。きっと、テントウムシのからだのどこかに、とけいやおんどけいのやくめをするしくみがあるのでしょう。

「よし、きょうはここまで」
「もうおわり?」
「そう、知らない字を長く見てるのは頭によくない。ここまでおとうちゃんが読んだ中身を思い返すんだ。あしたにつながる」
「あしたもよんでくれるの?」
「あしたとはかぎらないけど、夕ごはんの前に、おとうちゃんがいるときはかならず読んであげよう」
 イネが抱き取って、にぎやかな食卓につける。千佳子が、
「テントウムシはどうやって増えるんですか?」
「ふつうの交尾だよ。草木の枝にだいだい色の卵を産みつける。アブラムシが主食だから、それがたくさんいる枝で食欲と性欲を満たす」
「性欲はないでしょう」
 おかしそうに笑う。
「だね。ギリマンだ。立派な性欲は立派な青春だ。動植物に青春はない。痕跡みたいな性欲にすがってセックスをする世間の夫婦もね」
「老人は?」
「青春を終えた人たち」
「ひどい言い方。セックスができないと青春卒業みたい」
「〈人間〉を卒業したわけじゃない。それがいちばん大事だ」
「神無月くんの言う青春て、あくまでも性欲を基準にしてのものでしょう」
「精神と言いたいけどね。……青春の定義を考えはじめたらキリがない」
 カズちゃんたちが風呂から戻ってきて、ひとしきり賑やかになる。素子が優子たちに、
「おとといアイリスに東海テレビがきて、緊張したわ。コーヒー入れるところをしっかり撮られた。隠れた名店ゆう五分番組あるやろ、毎日五時五十五分から」
「あるある」
「来週放送やて」


         七十四

 私は好物の小アジの南蛮漬けに箸をつけた。トシさんの家でいつか食べたような天津が大皿に盛られている。ほかに五つも六つも豪華な皿。ソテツお得意のテクダンスープがご馳走だ。千鶴がおさんどんをしながら、姉の素子に、
「駅裏の評判の店ということやろ」
「というより、キョウちゃんのよくくる店というのが狙いみたいやったわ。あんたきょうから正式に厨房なん?」
「そう。料理、おもしろいわあ」
 幣原が、
「千鶴さん、意外と器用なんですよ」
「とにかく、しっかりがんばりや。うちらは親がおらん二人っきりの姉妹やと思わんといかんのよ」
「うん。あんな家の月賦なんか払ってやらんわ」
 主人が、
「あさってから胸突き八丁の広島戦ですな。簡単に勝たせてはもらえんでしょう。巨人が負けんかぎり九勝せんとあかんのですからな。中日球場の優勝はないかもな。ま、それも仕方ないでしょう」
「かならず優勝します」
 女将が、
「ほら、私らにはわからん野球の話が始まったで。こうなったらしばらくつづくがね。ちょっと、イネ、テレビ大きくして」
 主人はビールグラスを傾けながら、
「むかし、藤田省三といういわゆる球界の顔役(ドン)がおりましてな。日大三中、法大の監督から、昭和二十五年には近鉄パールズの初代監督に就任して、二十七年までの任期のあいだに、法大から関根潤三を、日大から根本陸夫をバッテリーで獲ったんです。二人は日大三中時代の仲良しバッテリーやったからね。根本は、バッティングは三流やったが、記憶力が抜群で、ピッチャーにも首脳陣にも重宝されてな。藤田は二十八年からは中日ドラゴンズのヘッドコーチをやって、監督の野口明を支えました。そこからドラゴンズは、天知、杉下、濃人、杉浦、西沢、杉下ときて、現在の水原さんです」
「その関根さんはいまどこにいるんですか」
「ニッポン放送で解説をやってます。来年広島に一軍打撃コーチでいくという話が新聞に載っとりました」
「なるほど。広島の根本監督と彼は、藤田省三という人の弟子だからですね」
「そうです。その根本やが、日大時代は田宮コーチともバッテリーを組んどります。日大から藤田に引っ張られて法大へ入り直し、三中時代の関根とバッテリーを組みました。関根にバッター転向を勧めたのも根本です。学生時代は硬派の暴れん坊で、いまも安藤組の安藤昇と懇意やという話です。三十二年に現役を引退したあとは、関根が近鉄にいるあいだ彼の片腕として、スカウト、マネージャー、二軍コーチをやりました。スカウトとしては土井正博を獲った。別当監督と協力して十八歳の四番打者を育てたのは根本です。関根が巨人に移籍したあと退団して、藤田を核にいろいろな財界人と親交を結んだのが大きかった。彼らの後押しで広島の参謀コーチになったんやからね」
 交流図が複雑でよくわからなかった。菅野が、
「根本が広島のコーチになったのはおととしです。広島は最下位でした。そのときの監督は、ドラゴンズの長谷川コーチです。翌年、根本は監督になりました」
「全敗でもかまわないからチームの基礎作りをしてくれ、とオーナーに頼まれたというやつですね。広島は去年三位でしたね」
「はい、ついに広島カープ創設以来初のAクラス達成です。阪神から山内を獲って、その年に近鉄を引退した小森光生をコーチに抜擢したおかげです。小森は、大毎時代に葛城さんのせいで定位置を奪われた中堅選手です。彼が衣笠を鍛えました。いまは山本浩司を鍛えてます。しかし、いまの調子だと今年は百パーセント最下位でしょうね。来年は、関根と、サンスポの評論家の広岡をコーチに入れるらしいです。強くなるんじゃないですか」
 まるきりイメージが湧かなくなった。主人が、
「そんなこんなで、とにかく根本は、五千人とも言われるほど人脈が広いし、引退後の選手の面倒見がいいので、各界に人望が篤いんですわ。プロ引退後、解説者やコーチになれる選手は一握りで、ほとんどが再就職できません。それを彼の顔の広さでいろいろな企業に引き取ってもらうわけです。親分肌で、人の心をつかむのもうまいその根本が、この三連戦を前に、神無月は神ではない、本人も言っているとおり、飯場の息子だ、おまえたちと寸分たがわぬ人間だ、まちがいなく上等な人間だが、神ではないから対処できる、対処できないと思いこむ前に、じっくり観察だけはしろ、縮み上がるな、と檄を飛ばしたそうです。彼の言葉は効き目が大きい。広島は必死できますよ」
「ここで三敗しちゃうと、九日からの中日球場での優勝が危なくなる。なんとかして二勝はしないと―。中日球場での優勝は、ファンもぼくたちもフロントも望んでることですから」
「名古屋じゅうが望んどります」
 満腹になった直人がトモヨさんに連れられてイネといっしょに風呂にいった。賄いたちが食卓を片づけはじめた。千佳子と睦子が厨房に手伝いにいく。座敷の隅で麻雀や花札を始める女たちと、テレビの前に陣取る女たちに分かれた。カズちゃんが、
「八時か。早いけど帰りましょ。キョウちゃんが疲れてるでしょうから」
 引き揚げることにした。居間や帳場や雀卓の面々に挨拶をし、千佳子と睦子とソテツたちに式台まで見送られる。カズちゃん、素子、メイ子、百江と連れ立って夜道を帰る。カズちゃんが、
「あしたは一日ゆっくりね」
「うん、ランニングのあとで本でも読むよ。リバイバル館があったら古い映画を観にいくのもいいな。どうも体質が現代ものに向いてない」
 百江が、
「現代そのものに向いてないんですよ」
 素子が、
「うちらもやよ。いまどきの街に遊びにいきたいと思わんし」
 メイ子が、
「別に遊び歩かなくても、神無月さんといると楽しいですから」
「キョウちゃんのおもしろがることをいっしょに楽しむことも大切よ。そうねえ、邦画の二番館、三番館の名画座なら、いくつかあるわ。牧野公園の向こうのマキノ映劇、成人映画を一本挟んだ三本立て、百五十円。ランニングのとき気づかなかった? 三百人ぐらい入るけっこう大きな映画館よ。太閤通には、ほかにオーモン劇場、中村映劇、SK東映があるわ。SKは東映だけじゃなく、日活や大映の映画もやってる」
「中村映劇はランニングのときよく見かける」
「駅前のアロハとかセントラル、ニュース館なんかは、新作ばかりだから気に入らないと思う。ここらあたりだけでも、リバイバル館は、那古野に円頓寺劇場と豊富館の二つ、押切に押切劇場、浄心に弁天劇場、栄生に栄生劇場、栄生グランド劇場」
「すごい数だな」
「名古屋市には百五十も映画館があるのよ。自転車にでも乗って、何年かかけてハシゴしてれば退屈しないはず」
「ぜんぜん気づかなかった。どこを見てランニングしてたんだろうな」
「空か地面でしょう。キョウちゃんらしいわ。一直線」
「じゃ、あしたは手始めにマキノ映劇にいってみよう」
 私はふと振り返った。
「どうしたの?」
「望遠で撮られてるんじゃないかなと思って」
「かもね。気にしないことよ」
 アイリスの前で素子とキスをして別れた。百江はコメダ珈琲の前まで送ってきた。彼女ともキスをして別れた。帰っていく若々しい背中に、下駄を履いて前のめりで歩くばっちゃの老いた背中が重なった。
「どんな短い別れでも、キョウちゃんは悲しそうな顔をするのね。ぜったい別れないから安心してね」
「うん」
         †
 朝冷えする季節になったので、肩を庇うために長袖の下着で寝たが、それでも起き方に肌寒さを覚えた。九月に入りさすがに本格的な暑さは遠のいた。
 ジムでの一連の鍛錬とシャワーを終え、もう一度新しいジャージに着替える。
 八時半。菅野とのランニング。広小路をテレビ塔まで。雨こそこないが、朝からしきりに稲光が曇り空に走る。風が冷えている。この二週間、ちょうど盆踊りが終わったころから少しずつ秋風が吹くようになった。野辺地なら、この風からオーバーの肩口に積もる雪まで一気だ。青年像と噴水を左に見て、名鉄前の電停の信号を渡る。市電と市バスが並んで走っている。いつも胸に沁みる名古屋の風景。桜通を走る。
「名古屋でやり残してるのは、食べ歩きだね。食べることに興味があるんじゃなくて、食べ歩くことが楽しい。めぼしいところを征服しておかなくちゃ。どんな店があるか言ってみて」
「そうですねェ、まず、名鉄ビルの四階のロゴスキー」
「うん、名前からしてロシア料理ね。ボルシチ、ピロシキ、つぼ焼きキノコ、ロシアンティ。一度いったかも。いや、いってないな。それは新宿区役所通りの記憶だ」
「はあ……それから、リビエール。テレビ塔の西にあります。イタリア料理です。ステーキがうまい。ビルの十階にあって、久屋大通の森が見下ろせます。次に、カリーナ」
「それもイタリア料理?」
「はい、ピザが主ですけど。チキンバスケットもうまい。東区なので遠いです。次に八事(やごと)のトニオ。カレーライス、ピラフ、ハンバーグステーキ、ビーフシチュー、コーンポタージュ。よく立ち寄りました」
 堀川を渡る。
「それから、フルール。メキシコ料理。青柳ういろうが経営する店で、夜の十一時半までやってます。これも八事です。メキシコ料理は何と言っても、タコスですね」
「どんなもの?」
「トウモロコシの皮をトルティーヤと言うんですが、お好み焼きの皮みたいなもので、それにいろんな具を包んで食べるんです。刻み玉ねぎ、肉、キノコ、チーズ、マヨネーズ」
「それは遠慮する」
「うまいのになあ」
 久屋大通到着。テレビ塔を眺めながら、公園の芝で三種の神器を百回ずつ。菅野も七十回ずつやった。
 帰り道、名鉄のロゴスキーに一番客で入り、つぼ焼きを食って帰る。新宿のチャイカよりはるかに狭い店だった。つぼ焼きも一回り小さかった。
 十一時。睦子たちが大学へ出たのを潮に、眼鏡をかけて、マキノ映劇に出向く。笹島に出る前に、少し椿町のあたりを散策することにした。いつか女将が問わず語りにした話では、駅西界隈は東京の山谷や大阪の釜ヶ崎と並んで日本の三大ドヤ街だったそうだ。駅裏の飲食店で出している肉は犬や猫のものだと言われたし、ラーメンの汁は蛇の肉でダシをとったものだと言われた。駅裏で飲み、酔って寝ていたら身ぐるみ剥がれてパンツ一丁になっていた。
 河合塾の近辺を歩く。この一帯は戦後闇市だった歴史があるため、その名残の商店街と風俗店と韓国食材店、焼肉屋などが混然と建ち並んだカオスになっている。バラックがひしめいている区域もある。菅野が言うには、
「新幹線開通前ぐらいまでは、駅西は戦後の闇市のまま無法地帯に近い状態でした。戦勝国を自称する朝鮮人の不法占拠のためです。道路も舗装されてなくて、晴れつづきだと土ぼこりが舞ってました。あと駅裏と言えばヤクザです。松葉会さんがいなければ、ここいらはどうなっていたかわかりません」
 笹島へ出る。交差点から太閤通沿いに入ったところに、見映えのいい二階建ての建物があった。この映画館に気づかなかったのは、北村席から太閤通へ走り出るとき、笹島方向を振り向かなかったからだ。それほど古い映画はやっておらず、『クレージーメキシコ大作戦』、『フレッシュマン若大将』の二本に、若松孝二のピンク映画一本を同時上映していた。『壁の中の秘事』。題名がピンとこなかったので、ランニングコースの方角へ歩きはじめる。
 賑町のオーモン劇場。『ローマの休日』、『007は殺しの番号』。とんでもない二本立てだ。トルコ街の名楽町に入りこみ、中村映劇。住宅街のど真ん中にとつぜん現れるストリップ小屋のような映画館だ。大映映画をやっている。『人斬り』。仲代達矢と勝新太郎の看板。封切り映画だ。五社英雄『御用金』につづく第二作目となっている。石原裕次郎や三島由紀夫まで出ている。惹句は《斬る! 斬る! 斬る! 問答無用でぶった斬る! 勝が斬る! 仲代が斬る! 三島が斬る! 裕次郎が斬る! 問答無用でぶった斬る!》
 くどい。御用金のような映画をを二度観たくはない。併映は『女賭博師丁半旅』。やめる。太閤通に戻りSK東映へ。この映画館を見逃したのは、カズちゃんの仰せのとおり、空と地面しか見ていなかったからだろう。和洋二本立て。昭和三十二年の松竹映画『淑女夜河を渉る』という映画をやっていた。大木実、高千穂ひづる。二人とも好きな俳優だ。高千穂ひづるの父親はパリーグの二出川審判だということは、幼いころからボンヤリ知っていた。何かのテレビ番組で彼女がゲスト出演したとき、二出川の顔も見た。するどい目の好男子だった。いまは引退しているが、十年前の大毎―西鉄戦で、同時セーフか同時アウトかの判定をめぐって三原監督の抗議に屈せず、俺がルールブックだ、のひとことで退けたことは有名な話だ。


         七十五

 百三十円の切符を買って入る。ガリ版刷りの手製のパンフレットを五十円で買う。同時上映の『昼下がりの情事』が終わるのを待ちながらロビーのベンチで読む。

 東海道新幹線が開通するまでの、昭和三十年代の名古屋駅の西と東はどんな様子だったか。

 パンフレットの文句に心が躍る。私は昭和三十四年に名古屋にやってきて、時代の流行から離れて熱田の堀川端に暮らした。それでも名古屋駅近辺には人に連れられてしばしば出た。でもほとんど憶えていない。駅裏と駅前。島流しを喰らうまで五年も暮らして、私は名古屋駅の様子を詳しく知らないのだ。野球部の遠征のときと、浅野の炭屋からの登下校のときに、駅裏のわずかな道のりを歩いた。蜘蛛の巣通りという土の路には踏みこまなかった。細かく知ったのは、いまから三年前、西高に転校してきたときからだ。繁華な駅前に比べ、駅裏の閑散として淫靡な様子が鮮やかに目に残った。ハードボイルドな雰囲気さえ漂っていた。そしてこのたった三年のあいだに、駅西の景色はごたごたと濃密で軽薄なものになった。
 監督内川清一郎。知らない。すがおグループ企画。知らない。書いてある。

 五社協定に縛られないで俳優たちが自由に企画制作したグループ。メンバーは大木実、高千穂ひづる、山本富士子。資本金二百万円。この種のグループでは岸恵子、有馬稲子、久我美子らで構成されるにんじんくらぶが有名である。

 読みつづける。
 
 昭和三十五年以降、駅前に名鉄百貨店、封切りの映画館や銀行がぎっしり詰まった毎日ビル、そして豊田ビル、大名古屋ビルヂング、ナショナル広告塔のある東洋ビルなどが建てられ、均整のとれたスカイラインを形成した。ロータリーに青年像が立ち、市電道を挟んで噴水が上がる。駅の右手には、一階が名鉄バスターミナルになっている日本交通公社、その背後にそびえる中央郵便局。時計を額に貼った六階建ての名古屋駅は電波塔を戴(いただ)いている―。

 薄っすらと記憶がある。三十五年以前は駅前が廃れていたわけだ。パンフレットにあるとおりのスカイラインが取り除かれると、疎らなビルがさびしい平地に建っている様がイメージできる。
 パンフレットの説明にかぶせるように現在の駅前を思い浮かべる。
 ―バスターミナルからは、馬寄(うまよせ)、東一宮、起(おこし)、黒笹(くろざさ)、足助(あすけ)などに向かうバスが出ている。聞き慣れないそれらの土地が愛知県のどこにあるのかぜんぜん知らない。山内一弘が起工業高校出身だということだけは知っている。
 中央郵便局の角から那古野のほうへ市電の線路がカーブしている。ラッシュ時には連接車を見かける。いまの名鉄百貨店の壁には、EXPO70のカウントダウンの時計が貼りつけられている。コロナのタクシーといすゞのトラックが並んで走る。美しい市電は、あと一、二年で廃止になる。
 駅前が十年足らずで一変したように、駅裏もこの数年で景観が一変した。どれほど変貌しても、私は忘れない。名古屋にくる前はどんな風景だったのだろう。駅裏のさびしさはどうだったか。早く映画を観たい。
 闇が降りてきて映画が始まった。この瞬間いつも、闇の中に座って裕次郎を見つめていた孤独な時間が甦る。
 名古屋駅が俯瞰で映し出される。それから地上へ。行き交う雑踏。開発前のなつかしい風景がそこにあった。予想外にビルの数は多かった。

 昭和三十二年、日本第三の都市、名古屋―
  きょうもまた大都会の渦に巻きこまれた犠牲者がひとり


 テロップが出る。セミドキュメンタリーのような手法の撮影。
 漁師の次男坊大木実が、形見分けの二十万円を元手に一旗上げようと、知多半島の半田から名古屋にやってきた。同じく田舎娘の高千穂ひづるも都会にあこがれて瀬戸から出てきた。二人の降り立った駅西は当時に実写されたもので、戦後の闇市がそのまま残るバラック小屋の群れだった。しっかり記憶に留める。
 駅周辺を仕切る須藤一家。インチキ投資相談所を営んでいる。大木はその組員の置き引きに遭い、虎の子を奪われる。組員を追いつめた大木は、一家に言いくるめられて彼らの仲間に引き入れられた。相談所の親切な女子事務員の家で女中をしていた高千穂も、結局一家に強制されて笹島のガード下の売春婦として働かされる。
 まったく現実の状況がわかっていない物語作りだ。暴力団というのはそんなチンケなシノギをしないし、売春婦の大半は置屋に所属しているか、個人営業だ。しかも、笹島では商売をしない。
 ともかく二人は結ばれ、離れられない仲になる。二人に同情した女事務員とその兄は二人を〈駅の東〉へ逃がす。しつこく追ってくる一家と決着をつけようと、兄と大木は須藤一家に殴りこみをかけ、大立ち回りをした挙げ句、警察に捕まる。これだけの内容だ。
 売春婦とヤクザの組員。ご法度を破って企てる二人の逃亡劇。その書割に、昭和三十年代初期の名古屋駅がある。駅の東と西はむかしから異文化圏と捉えられていたようだ。〈中村区と名古屋をつなぐ〉明治橋が架けられたくらいだ。中村区とはとりもなおさず中村太閤遊郭のことだろう。
 二人の逃亡中に、彼らを助けようとするある男が言う。
「俺だって駅の東に逃げようと思ったさ。でも笹島が精いっぱいだった。そこで捕まってしまった」
 笑った。私は駅の西へ逃げこんだ男だからだ。駅の東と西が隔絶した文化圏であったことや、新幹線の登場を境にそれが融和しはじめたことを知り、融和以前の風景を垣間見ることができただけでも、拾い物の映画だった。駅裏にビルが続々と建設されていく現在の状況を考えると、あと十年もすれば東と西の融合は完了するだろう。
 観終わって表に出る。ヘップバーンの昼下がりの情事は観なかった。そろそろ一時になる。雲の厚い空。涼しい。名楽町の通りへ戻ってぶらぶら歩いていると、入口を唐破風で構えた〈くるわ湯〉という立派な銭湯にぶつかる。積み石の塀、木立に囲まれた玄関、二階のガラス欄間や手すりの様子を見ても、もと遊郭だったことがわかる。くるわ湯の脇に併設されているコインランドリーが浮いている。店前に自販機が置いてある。くるわ湯の暖簾をくぐって入る。三十五円也。タオルだけ借りる。脱衣場は清潔。湯殿に老人客が二人。陰部を形ばかりに洗って、深々と湯船に浸かる。壁画は裸女のモザイクタイルだ。微笑む。
 カラスで上がって、なつかしいピンク色のフルーツ牛乳を飲む。体重計に乗ると、八十三キロだった。からだに実が詰まりきった感じがした。眼鏡をかけ、よく絞ったタオルを番台に返して表へ出る。風呂屋の玄関から左右の建物を見る。木造住宅が集まる一帯に、ところどころマンションが建ちはじめている。大きな煙突を仰ぎ見た。この風呂屋が滅ぶ日は近いだろう。
 民家を観察しながら歩く。花園町の葛西家と同様、玄関のある家の前面を応接間や納戸にしている造りだ。家族の寝室や台所や風呂場は、家の裏側になっている。庭は小さな長方形で、生垣は、夏に咲く白い花の美しいエゴノキやイボタノキが多い。スーパーも日赤病院もあるごくふつうの通りに風俗店が混在しているため、地元の人たちは風俗街とも思っていない。
 太閤通に出、笹島まで歩く。途中の書店でたまたま『名古屋広小路物語』という小冊子を手に入れた。地図コーナーにまぎれていた。読みながら歩く。

 ……笹島の交差点を西へ、新幹線の高架沿いに歩いていくと、右手に新幹線の線路をくぐるガードがあり、くぐらずに左折すれば、牧野公園からかつての遊郭街へ通じる道がある。……逆に交差点を右折して東へ進み、一本目の暗くて狭いガード下を通りぬけると広小路へ通じる道となり、後ろへ戻れば稲葉地方面への道となる。このガード下の道を歩く人はほとんどいない。広小路から稲葉地へ抜ける幹線道路の渋滞を嫌う車が通り抜けていくだけだ。この長いガード下を抜け、二本目の道を左に曲がると、二銭亭と書かれた看板が見える。串カツだけを売っている店だ。味噌味はなく、きわめて美味である。夕暮どきともなると、路地にただよう串カツを揚げるにおいに誘われて、勤め帰りの人びとが集まってくる。

 よくわからないので、笹島の交差点を右折して実際に歩いてみる。菅野から戦後以来の韓国人の集落と聞いたことのある家並(菅野がそれを教えるときの表情にはいささかの差別意識もなかった)を右に見て、何本もの高架橋をくぐる。たぶん名鉄線や近鉄線や関西線だ。この先に明治橋がある。くぐって二本目を左折しても二銭亭という看板は見えない。読みながら戻る。

 二銭亭という名前は、創業時に串カツ一本を二銭で売ったことからつけられた。戦争直後には十八円だった。そのころの駅裏には、露店や闇市が軒を連ねていた。りんご一個五円、するめ一枚四円、ねぎ七本十円、大根一本七円、ワイシャツ二百円、足袋四十円、ビフテキ十四円、牡蠣フライ十円、五目そば五円、コーヒー五円というのが相場だったころに、串カツ十八円はかなり高い。

 ガード口から同じ距離だけ進み、二本目の道を左折してみる。あった。広小路から稲葉地に向けてくぐった二本目だったのだ。著者の記憶ちがいとわかった。ふつうの食堂の店構えだ。昼めしどきで混んでいる。テーブルにつき、串カツを適当に五本と、トンカツ定食を頼む。キャベツに載せられた串カツはふつうの醤油味だったが、脂身の少ないトンカツがうまい。現在の串カツは、一本五十円均一だった。それでもやはり高い。客たちはニッカボッカ姿の労務者が目立ち、昼間からビールをうまそうに飲んでいる。近所の主婦が皿持参で串カツを買いにくる。
 醤油をかけた串カツを齧りながら、小冊子を開き、さっきの映画に類似する記述を見つけた。

 客の一人に明治橋の話を伺った。
「田舎から名古屋に初めてきたとき、明治橋の上から名古屋の街を眺めました。自分の田舎とは別世界で、たいそう驚いたことをいまも憶えています。荷車や大八車が土ぼこりを上げて通り抜ける。中村遊郭に向かう粋客たち。夢の世界でした」
 郡部から名古屋に野菜を売りにくる農夫の牽く荷車、肥桶を載せた大八車、そぞろ歩きの遊客たち、東海道線、中央線、関西線の吹き流す塵煙にまみれながらそれらが通っていったのだ。
「明治橋はいまのガードの向こうから二銭亭の前のあたりまで架かっていました」
 大正十二年、大洲(大須)の旭(あさひ)遊郭が中村に移ったことによって、明治橋は四六時中人通りが絶えないありさまとなった。昭和十二年、汎太平洋博覧会開幕を前に、名古屋駅は笹島から現在地に移った。それに伴い鉄道線路は高架式になって、明治橋は撤去された。現在笹島交差点の北東に〈めいちはし〉と書かれた石柱が立っている。放置自転車に埋もれたこの柱に目を留める人はほとんどいない。


 トンカツ定食を平らげる。肉が新鮮なのか、串カツもトンカツもうまかった。稲妻がしきりに光るので家路を急ぐ。北村夫妻はたしか大正二年生まれと明治四十二年生れの、五十六歳と六十歳。大正十二年には十歳と十四歳。おさなごころに明治橋の繁栄と衰退を憶えているはずだ。西の花街の象徴的な家の子として暮らしながら、東をどう思っていたのか。折があったら一度訊いてみよう。それから、須藤一家のようなヤクザ組織が実際にあったのかどうかも。


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