七十六

 門脇のガレージに朝日新聞社の社旗を立てた黒塗りの車が停まっていた。菅野が何か引き受けたのかなと思った。
「ただいまァ」
 式台を上がると、座敷のテーブルに主人と女将と菅野が座り、三十前後の男が二人彼らと向かい合って端座していた。三人目の男が少し離れたところでカメラを構えている。私を認めると男たちが平伏し、
「朝日新聞社、朝日ジャーナル契約記者の鯖井(さばい)です」
「同じく朝日グラフの龍でございます」
「カメラマンの赤松です」
 三人で名刺を差し出す。私はそれを一瞥するとジャージの尻ポケットにしまった。鯖井が、
「先日こちらの菅野さんから望遠撮影のお許しいただきましたが、望遠写真では神無月さんの人となりに関して伝えられることもかぎられておりますし、他社の覗き写真と同じ皮相な成果しか上げられないと編集会議で決定し、本日あらためて北村さまに、ぜひ直撃インタビューと接写をさせてほしいと電話で申し入れいたしました。北村さまがおっしゃるには、インタビュー取材は本人の意思しだいであり、了承したとしても、優勝前にからだが空くのはきょうの午後のみということで、図々しいとは思いましたが了承をいただく前にこうして伺わせていただきました」
 私は鯖井に、
「わざわざ東京から?」
「いえ、名古屋支社からでございます」
「そうですか、ご苦労さまでした。アイリスという店にいきましょう。一時間ということでお願いします」
「ありがとうございます!」
「菅野さん、場所教えてあげて。カズちゃんに二階の素子の部屋を貸してくれと電話してください。店のコーナーが空いてるなら、そこでいいと。そろそろ直人を迎えにいく時間でしょう。ぼくはブレザーに着替えていきます」
「了解です」
         †
 アイリスの隅の大テーブルで取材することになった。従業員たちが、クラス会などで使う衝立を立てて私たちを一般客と隔てた。小型のテープレコーダーが置かれ、盛んに写真が撮られた。赤松は、ベストポジション、と呟いて三脚を立てると、自分もテーブルに腰を下ろした。素子がやってきて注文をとる。
「サントス、バタートースト、四人前」
「承知しました」
 三人はオシボリで顔と手を拭い、緊張したふうに背筋を正した。鯖井は大学ノートを出し、一礼するとボールペンを握った。
「神無月さんに関する来し方は、あらましつかまえております。熊本県に生まれ、出生後間もなくご両親が離婚なされ、青森県の母方の親戚に預けられた。五歳のときに母親に引き取られ、三沢、横浜、名古屋と転々とした」
「そのとおりです。ありきたりです」
 鯖井は困ったふうに微笑し、
「名古屋の小学校に転校なさる以前で、もっともおつらかったことは?」
「つらいと言うよりも、悲しかったことなら……。青森の幼稚園のころ、かわいがっていた猫を殺されたこと。目を刳り抜かれてスグリの垣に吊るされてました。横浜にいたころ四年間、学校帰りにいじめられたこと。八歳のとき父を訪ねていって、数秒で追い返されたこと、ですね」
「それは神無月さんの人格形成に影響を与えましたか」
「人格というほどのものではないですが……悲しがりになったと思います。ぼくはものごとをつらいと思うことはまずなくて、ちょっとしたことでも、悲しいなと思ってしまう癖(へき)があるんですが、父のことと、さっき言ったことがその大もとにはなっているんじゃないかな」
「中学時代の強制転校なども?」
「はい、つらいというより、悲しかったですね。つらさがないので、復讐心が湧きません」
「お母さんにスカウトを追い返されたことも、悲しみに転化されたわけですね」
「はい、悲しんで、あきらめる……」
 窓の外が急に暗くなった。
「そういうふうに、曲折した人生を強いられて、なぜ怒りの形で爆発しないのか、私どもには大きな謎です。また、天才は厄介だが怒らない、という話もよく耳にしますが、結局は、ある種、アウフヘーベンという形で、野球生活や勉学生活を取り戻していますね。やはり、失いたくないものへのこだわりのせいで怒らない、ということでしょうか。怒ってもとの木阿弥になりたくないというか」
「失いたくないというほどのこだわりがあれば、取り戻すことは達成という名で呼ばれるでしょう。生来獲得欲がないので、つらくもなく怒りもなく、すぐにあきらめます。あきらめているところへとつぜん取り戻せる幸運が降ってくるので、達成と言うよりも棚からぼた餅と呼ぶしかありません。だから達成感はありません。棚ボタ、ラッキー、マグレです。でも、それをありがたくいただいて、新しい努力目標にする、そういうことを繰り返してきました」
「ラッキー、マグレというのは、神無月さんの常套文句ですね」
「野球を取り戻せたのは、たまたま校内の登校路から青森高校野球部の練習風景を眺めたラッキーのせいですし、スムーズな勉学生活を送れたのは、ときどきマグレで好成績を挙げたラッキーのせいです。ラッキーとマグレがなければ、いまごろパートタイムの労働者になっていたと思います。切れる頭を持っていないので、必然的にそうなります。野球は大好きでしたが、奪われて悲しかったですが、腹立たしいと感じたことはありませんでしたし、好成績が挙げられないときは悲しいと思いましたが、口惜しいと思ったこともありませんでした。ただラッキーに乗じ、マグレに乗じただけです」
「中学時代から好成績だったと聞いておりますが」
「あなたに語った人がオーバーに伝えたんでしょう。並です。勉強の怪物たちの中で目立たない存在でした。並のやつがたまたま挙げる好成績など、マグレ以外の何ものでもありません。野球はちがいます。バットとグローブを持たせてくれれば、常に群を抜ける自信がありました。その意味で大好きでした。だから、野球を取り戻させてもらえたのはラッキーでした。何にせよ、ラッキーやマグレは、平坦な生活の中へとつぜん刺激としてやってくるだけに、大きな幸福のもとになります。人生で〈飽きない〉のは、生きるバネになる刺激的な幸福だけです。愛のある人間関係はその最たるもので、最高のラッキーだし、マグレです」
「現在の生活のことですね」
「そうです。愛のある人たちに囲まれています。現在の状況に関しては、応援してくれる人たちに囲まれているということだけに留めて、詳しく詮索しないでください。野球をつづけるためのエネルギーを注いでくれる環境を壊したくないので」
「わかりました。水原監督も、神無月さんの周囲すべてが中日ドラゴンズなのだから、和を乱さないようにとおっしゃっておりました」
 シャッターが連続で切られる。鯖井は細かくうなずき、
「ところで、刺激的な幸福は(飽きない)とすると、不幸なことは〈飽き〉ますか?」
「飽きます。生きるバネにならないので、悲しんだり、あきらめたりを繰り返して、飽きがきてそれきりです」
 素子がサントスとバタートーストを四人前持ってきた。回っているテープレコーダーをめずらしそうに見つめ、静かに辞儀をして衝立の外に出ていった。男三人も辞儀を返した。私はトーストを齧りながら、サントスをすすった。
「うまいですよ。サントスという豆です」
 龍がコーヒーカップを持ち上げ、ゆっくりすする。
「おお、これはうまい!」
 ほかの二人も倣い、すすり、大きくうなずく。龍がつづけて、
「不幸と言えば、神無月さんは中学一年のとき、肘の手術の失敗で一度野球をあきらめてますよね」
「はい。たしかに不幸でしたが、それを悲しんでばかりいたら、いずれ飽きていたでしょう。ひどく悲しみ、いっとき深くあきらめましたが、大好きな野球だけに、自棄的な気持ちにならずに、坦々と努力して生きようと決意しました。そこで、細々とでも野球をつづける方法を考えました。その結果、利き腕を替える訓練を始めたんです。野球をすることにこだわっていたからじゃなく、野球そのものを愛していたからです。右腕が棚からぼた餅で落ちてきたんです。そしたらその訓練がマグレでうまくいって、しかも替えた肩が鉄砲肩だったというラッキーにぶち当たりました。鉄砲肩そのものはマグレではありませんが、右投げに替えたせいでもたらされたラッキーでした。何ごとにもこだわらずに野球をつづけようと考えたことが、マグレとラッキーを生んでくれたんです」
「そういうラッキーとマグレのすべてを才能の賜物だと考えたことはありませんか」
「才能とひとことで言い表すのは単純すぎます。才能があってラッキーが生まれるんじゃありません。その逆です。どんな一つの才能も、大勢の人びとの情熱的な協力がないと引き出されません。それはよくわかっているんですが、ぼくはぼんやりと彼らの情熱に感謝することしかできない。それが後ろめたくて懸命に努力します。ホームランや、肩のよさという才能を示して恩返しをするためです。恩返しを褒められたんではかなわない。野球で恩返しできなくなったら、またほかの方法を考えます。野球と同様、坦々と好きなことに努力を注ぎながらね。……トーストを一枚でも食べてください。ぼくも食べます」
 ひとしきり男四人でトーストを食うことに精を出した。鯖井が、
「野球に初めて触れたのはいつごろですか」
「小学校低学年のとき、近所の子供たちと小学校の校庭でやったソフトボールです。バットの握り方も知らなかったので九番を打たされました。左打席に立ち、第一打席でホームランを打ちました。それきり誘われなくなりました。大好きだったわけでもなく、ボールが飛んでいくのを楽しいなと思っただけのものなので、ホームランをマグレともラッキーとも思いませんでした。一瞬のうちに過ぎ去る喜びだと感じました」
「ふーむ。野球をやりつづけようと決意したのは?」
「小四の秋です。伊勢湾台風の直後、横浜から名古屋に転校して、建設会社の飯場に入りました」
「神無月さんの代名詞の飯場ですね」
「はい。正確には社員寮です。母と二人だけの孤独な生活が一変しました。星のようにきらきら輝く人たちとの交流が始まりました。会社には草野球部があって、バットが倉庫に置いてあります。そのバットで毎日素振りするようになりました。それを見た彼らがぼくの才能を褒め、将来的な野球人生を勧めてくれたんです。大人用のバットを持って、小学校の軟式野球部に志願しました。五年生からしか入部できないと断られましたが、一球だけ打たせてくれと頼みこみ、エースピッチャーの初球を三階建て校舎の窓ガラスに当てました。二球目をその校舎の屋根に当てました。その瞬間、野球選手になろうと決意しました」
 龍が、
「小学、中学とホームラン王でしたね」
「名古屋市内のね。野球道具は何もかも社員たちが揃えてくれました。小中は社員たちが、高校は北村席の娘さんの和子さんが、大学は東大野球部が、プロになってからは中日ドラゴンズがというふうに、今日に至るまで、自分はもちろん母親のふところを痛めたことは一度もありません」
 鯖井が、
「お母さんは、神無月さんの才能に関心を向けることはなかったんですか」
「スポーツはバカのやることと思ってますから。しかも、才能なんてものは幻だという固定観念を持っています」
「そんな馬鹿な!」
 カメラの赤松が叫んだ。
「才能とか天才という言葉には、母のような人びとが思わず言い澱んでしまう響きがあります。最大の賛辞を与えるべきなのに、それを表現する単語がシンプルすぎるという疑心です。足が速い、ボールが遠くに飛ぶ、数学的思考が鮮やかだ、美的な造詣に長けているなどと正確に表現できるのに、天才という最高レベルの一単語にするのが疑わしいし、腹立たしくもある。彼らは、表現が複雑になるもの、たとえば、世間はきびしいとか、親子の情は水よりも濃いとか、結局世の中は金だ、身分階級の壁は越えられない、そういう言葉こそ人生の価値だと信じています。それ以上に複雑で大きな価値を持ったものでも、たとえば愛や友情といった深遠なものでも、それをシンプルな言葉で〈愛〉とか〈友情〉と表現することに違和感を覚えて斥けます。そういう七面倒くさい彼らの意に沿って生きることは、ぼくにはできません。だから徹底して遠ざかりました。これまで彼らが喜んだのは、ぼくが名門の学校に入ったことだけです。ほかはまったく認めていません」
「……北村席さんを含めて、中日ドラゴンズがほんとうの親族ということなんですね」
「ぼくを幸福にしてくれる人びとです。それから、二人の親友と、西松建設と飛島建設の社員のかたがたです」
「じつは、神無月さんのそのような斬新な考えが、社会の代表を自認するマスコミの頑迷な精神の扉を開きました。いまでは斯界のほとんどの人間が神無月さんの異常性に好感を抱いています」
 龍が大きくうなずきながら、
「異常なほどの正常性と言い換えてもいいでしょう。ところで、中学校三年の秋から高校一年の晩春にかけて、神無月さんは余儀なく野球を中断なさってます。失意の中での中断と思われますが、その間、すばらしい学業成績を挙げていらっしゃる。俗な質問をさせていただきますが、そのころ、高学歴を活かす職業に就こうと思ったことはありませんか」
「一度も。ただ、本をたくさん読んでいく途上で、芸術家になりたいとは思いました。でも、芸術家というのは〈なる〉ものではなく、すでに〈ある〉ものなので、偉大な先人たちに寄り添っていこうと、頭(こうべ)を垂れる気持ちになりました。その点ではこれからも敬虔な気持ちで文章を書いていこうと思っています」
 鯖井は、
「医者、弁護士、政治家、どれもこれも、多少うさんくさい仕事ですからね。たとえば医者にしても、地方の町立病院などには、その地の名士になり、交際だけ広げて、医者としての修練を怠っている輩が多い」


         七十七

 赤松が立ち上がって三脚に屈みこみ、フラッシュを連続で光らせた。鯖井が、
「さて、いよいよ、プロ野球人としての神無月さんの口から具体的なお話を伺わせていただきます。まず、ホームランを打つ技術とは、神無月さんのお考えではどういうものでしょう」
「バットの届く範囲で芯を食わせることです。芯を食わせるというのは、ボールのほんの少し下を叩くということです。飛行に有効なスピンをかけるためです。そのためには、コースに合わせた筋力鍛錬が必要になります。コースはだいたい九つです。内、外、真ん中の三種類、掛ける、高、中、低の三種類です。そのうち、バットが自然に出る中(ちゅう)の真ん中を除いた八つのコースを想定して素振りをし、しっかり筋力をつけて安定したスイングができるようにします。幸運にも持って生まれた才能に頼らずに、極力幸運を排除するように努力するんです」
 龍が、
「コース鍛練以前に、芯を食わせることは簡単じゃありませんよね?」
「はい。才能だけでは対処できません。そうできる確率の大きさは、ひとえにたゆまぬ鍛練に関与していると思います。そこだけは持って生まれたラッキーではどうにもならないんです。失敗の連続になります。失敗の回数を減らすのに有効な方法は、コースに精確に合わせた素振りの鍛錬のみです」
「神無月さんにとってチームバッティングとは」
「大きく負けている場合、得点差に追いつかないソロホームランを狙わずヒットを打とうとすること、あるいはフォアボールで出塁しようとすること。勝っている場合か、少ない点差で負けている場合、なるべくホームランを狙うこと、犠牲フライを厭(いと)わないこと。あとは臨機応変に」
 鯖井が、
「監督、コーチ、チームメイトとの心情的な関係は」
「チームの存続と関係なく、生きているあいだ、喜びも苦しみも一蓮托生の覚悟でいます。深く信頼し合っています」
「すばらしい……。プロというのは、なかなかそうはいかないものです」
 龍が、
「今回の脅迫の手紙をはじめ、春から一連の迫害を受けてきましたが、じつに冷静に対処なされてます。そのわけは?」
「迫害というより、ぼくに対する勘ちがいの懲罰でしょう。ぼくがまちがったことをしているので懲らしめたいというわけです。見るアングルによって、その懲らしめは社会的な状況にふさわしいことかもしれないので、積極的に反発できません。反発することができないなら無視するしかない。いきすぎた直接行動に出てきたら、公の手で対処できるでしょう。不正バットの件は、勘ちがいではなく悪意だったので抵抗しました」
 鯖井は、最後に、と言って、
「メジャーリーグについてはどうお考えでしょうか」
「ぼくは、〈世界〉という概念が嫌いなんです。皮膚を接した〈お隣〉で生きていきたい人間ですから。幼いころからぼくの居場所は、親しい人びとの隣でした。その範囲がぼくの宇宙です。そこから出ていきたくありません。お隣を広げたくないんです」
「大リーグにいっても、あらゆるチームで四番を打てると思いますが。ベーブ・ルースのように活躍する気持ちはありませんか」
「どこにいっても活躍場所はお隣です。お隣で野球をできるのが最大幸福です。ぼくの所属場所は永遠に中日ドラゴンズです。ただのお隣でなく愛しているお隣ですから。言葉の不案内な外国だと、何より、ホームランを打ったあと、くつろぎを求めて帰っていける塒(ねぐら)がありません。喜びは日本語で表わしたい。外国語に気を使って暮らすなどまっぴらです。大リーグの選手たちとは、日米野球でいくらでも親睦が可能でしょう。―今年はあるんですか?」
「ありません。来年の春、サンフランシスコ・ジャイアンツとの対戦が予定されています」
「マッコビーに会えるんですね!」
「そうです。彼は去年につづいて今年もホームラン王確実と言われています。神無月さんが目撃した昭和三十五年のマッコビーは、二年目の新人で、ホームランは十三本でした」
「それなのに、四打席四ホームランだったんですね!」
「その彼でも、いや、ベーブ・ルースでさえも、百五、六十メートルのホームランしか打っていないはずです。神無月さんが甲子園の場外に飛ばした百八十メートル以上となると、ミッキー・マントル一人です。神無月さんは大リーグでもナンバーワンになれる人です。もちろん大リーグ球団は神無月さんを金儲けに利用するでしょうけどね。それはたしかに残念だけど、世界一が日本にいるということを見せつけてやりたいですよ」
「いまのレギュラーメンバーの引退を見守りながら、野球をやりつづけたほうが精神衛生にいいです。彼らと野球ができるのは、あと十年もないと思います。水原監督が引退するまで保たない人もいるでしょう」
 龍が、
「これからは国際化の時代で、あらゆる分野で世界的交流がどんどんなされていきます。野球も例外ではありません。その魁(さきがけ)になってほしいと思っている人は大勢います」
「ぼくがならなくても、近いうちに猫も杓子も世界を目指しはじめますよ。物質的、功利的な、ますます皮膚感覚の薄い社会になるでしょうからね」
 鯖井は、
「正直なところ、いまのお話を聞いて、神無月郷という国宝の海外流出の危険はないとわかりました。この記事を読んで、大勢の人がホッとするでしょう」
 私は、
「じゃ、そろそろ、引き揚げます。北村席のガレージまで歩きましょう」
「はい。きょうはほんとうにありがとうございました」
 赤松が三脚を畳んだ。鯖井が大学ノートをカバンにしまい、小型テープレコーダーのリールを裏に返し、スイッチを入れ直して手に提げた。竜が立ち上がり、メモ帳を胸にしまった。鯖井が、
「きょうはすばらしいお話を聞くことができました。ありがとうございました。心から感謝いたします。神無月選手の今後のご活躍を一同祈っております」
 そう言って、深々と頭を下げた。龍が、
「取材に対する社からの謝礼は、あす、北村さま指定の神無月さんの口座に振りこまれることになっております。薄謝ですが五十万円を予定しております。雑誌の売れゆきによって、逐次それ相応の歩合を支払わせていただきます」
 応えるのが面倒なので、ただ、ハイ、とだけ言った。
 カズちゃんが笑顔で断ったにも拘らず、鯖井はレジで律儀に料金を払った。赤松が携帯カメラで何枚か店内の写真を撮ってから、四人で表に出た。アイリスのドアまでカズちゃんたちが見送りに出た。
 赤松は前を歩きながら、ときおり、担いでいた脚立を道の肩に置き、高級そうなカメラで私の写真を撮った。私は、
「ぼくを支援してくれている北村席は、いまアイリスの玄関でぼくたちを見送った和子さんの実家です」
 黒みを増しはじめた雲の下を北村席へ急ぐ。龍が、
「美人揃いの中でも、とりわけ美しかった人ですね」
「はい。和子さんは十年前、西松建設の飯場で炊事の下働きをしてました。椙山の栄養学科を出て、物好きに建設会社の飯場を実践の場に選んだんです」
「相当な変り種ですね」
「特権意識のない、進取の精神の持ち主です。彼女がぼくを幼いころからかわいがってくれました。私の母子関係をじっくり観察し、常々タイミングよく親切な言葉をかけてくれたりして、濃やかな心遣いで接してくれました。そればかりでなく、野球の才能をだれよりも高く認めてくれて、陰に陽に、社員たちとともに野球生活を支援してくれました。ぼくが青森に送られたあとも、すぐに会社を辞めて野辺地に引っ越してきて、つかず離れず、名古屋の高校に転校を果たすまでのあいだ、心の支えとなってくれました。彼女のご両親もぼくのことをこよなく気に入ってくれて、わが子のように扱ってくれます。家まで建ててもらいました。そういうわけで、北村席がぼくの終の棲家となったんです。あの夫婦をぼくは実の父母と思っています」
 鯖井が、
「われわれのあいだではそれは有名な話です。神無月さんの最大の支持者だと聞いております。名古屋市の風俗業のキングのようなかただとか」
「そのようですね。なりわいは、もと置屋、いまはトルコです。偏見のない目で見ていただければ、北村席のトルコ嬢や賄いの面々が観音さまのようにやさしい人たちばかりだとわかります。ゆえあることだと思います。日本の看護婦の嚆矢(こうし)が、吉原の妓娼たちであったことから考えればね。あまり知られていない事実ですが」
「初耳です」
「ぼくも知ったばかりです。和子さんの友人に日赤の看護婦さんが二人おりますが、彼女たちから聞きました。北村にはいろいろな職業の人たちが出入りしますので」
 罪のない細かい隠蔽だ。
「彼女たちが言うには、明治の文明開化とともに日本にも西洋医学が定着し、看護婦制度というものを新設して一般の子女から採用しようということになったんだそうです。でもボランティアという考え方が普及していなかったので、どの医療機関も応募者はゼロでした。そこで仕方なく、吉原の女たちを口説いて看護を頼むことにしたんです。彼女たちは血を見ても恐れず、快く働きました。それ以来、看護婦教育も充実するようになったということです。この種の商売をしている女の人たちがやさしいのもムベなるかなです」
「ふーむ。小山オーナーがおっしゃるには、北村席には大学生からトルコ嬢まで寄宿していて、種類のちがう豊かな会話が何気なく交わされているので聞き逃せないと」
「球団フロントとも親しいんですか」
「マスコミというのは、コネが行き届いてますから」
 ガレージまでやってきて、鯖井はようやくテープレコーダーを止めた。
「しっかり録音させていただきました。神無月さんの言葉はひとことも聞き逃したくなかったので」
 赤松が三脚を縮めてトランクにしまった。赤松が、
「確実に雨がくるな」
 三人の〈社会人代表〉は北村夫婦に別れの挨拶をするために、もう一度門を入り玄関まで歩いていった。赤松はしきりに庭の様子をカメラに収めていた。私は、保育所から戻っているはずの直人に気づかれないように、ガレージの傍らで彼らを待った。直人が私に向かっておとうちゃんと呼びかけながら走ってきでもしたら、一瞬のうちに彼らの〈期待する人間像〉が裏切られ、秘匿ではなく暴露が基本のマスコミの本性を剥き出しにせざるを得なくなる。たとえ、疑惑の段階で彼らがその本性を抑えることができたとしても、何らかの質問がなされるだろうから、話が入り組んで長くなる。
 やがて主人と菅野に付き添われてきた男たち三人は、門前で私に深々と礼をして、黒塗りの車で去った。私は主人たちと庭を引き返した。
「赤松さんは東名高速で帰ると言っとりました。カメラマンとして東京から呼ばれたそうです」
「そうだったんですか」
「有楽町の本社まで、五時間ほどで帰れるらしいですよ」
「それでもかなりの時間ですね。雨でも降ったらもっとかかる。しかしこんな遠くまでわざわざ……」
 菅野が、
「直撃ですから、すごい売れゆきになるでしょう。どれほど労力をかけたって損はない」
 玄関で飛びついてきた直人を抱き上げる。座敷にみんな集まって夕食前のひとときをすごしている。睦子たちが帰っている。キッコは登校してしまったようだ。
「みんなのことを恋人と言えなかった。もちろん子供がいることも、松葉会のことも言えなかった。……たいへんなことになると思ったから」
 直人を膝に抱きながら言う。トモヨさんは、
「キョウちゃんが巷では〈正義の人〉になってるから? たいへんなことになんかなるはずないでしょう。キョウちゃんは世間の代表者じゃないのよ。心配ないわ。でも、頭の固い人たちにぜんぶ暴露して居直る必要もないですね。せっかくキョウちゃんが私たちを庇ってくれたんだから、私たちは庇われ通します。それよりキョウちゃんを庇うのが先決よ。私たちは三十年でも、五十年でも、口を固くして生きますから安心してください。マスコミにはいまの態度を通してくださいね。私たちはもちろん、水原さんや江藤さんや小山オーナーさんたち、それから松葉会の人たちの努力をむだにしないでね」
 主人が、
「あくまでも北村席はスポンサー。それ以下でもそれ以上でもあれせん。神無月さんは人間としてほんものの正義を行なっとる。みんなわかっとります。世間の嫌うことは墓まで持っていきますわ」
 女将が、
「直人は座敷で店の女の子と遊んどったから、朝日の人たちとは顔を合わせとらんよ。ほんとにだいじょうぶやからね」


         七十八

 私はブレザーを浴衣に着替えた。四時半。アヤメの中番が帰ってきた。主人に明治橋のことを訊こうと思っていたが、その気がなくなっている。主人が、
「広島の根本監督が、今回の神無月さんの騒動についてインタビューに応えとる。読みますよ。―何ごとも表と裏がある、表ばかり見ていたら裏はわからない、前から刺してくるやつだとばかり考えたらだめだ、前から刺してくるやつはわかりやすい、堂々とこちらに向かってくるから、目をつぶっていてもわかるんだ、逆に後ろからくるやつがいる、後ろに回られて、ブスッとやられたらそこでオシマイだぞ、実際そういうやつがいるんだから、注意しないことにはやられちまう」
 直人が退屈して私の膝から飛び出していった。夕食の皿鉢が並びはじめる。ビール瓶の栓が抜かれる。直人にオムライスが用意された。
「わかりにくいですね。前から刺してくるというのは、姿を見せて苦情を言う川上監督みたいな人のことですか? 後ろから刺してくるというのは匿名の手紙のヌシ?」
「さあ、だとすれば、注意しててもやられますな。しかし、やられてもオシマイということはない。彼のしゃべることは、長嶋と同じで、意味不明なことで有名なんですよ。選手作りはうまいんですがね」
「去年、四年目の衣笠がとつぜん出てきたことですね」
「特筆ものです。甲子園春夏連続出場の大型新人捕手だった衣笠が、三年間、一軍に三十試合ぐらいしか出させてもらえずファーム暮らし。おととしコーチに就任した根本が合宿所を訪ねて、球団がお前を来年は出場させんと言っている、私生活が乱れているので車の免許証も取り上げる、と申し渡したんですわ」
 直人が、
「オムライス! ケチャップ!」
 と大声を上げ、スプーンの背でケチャップを黄色い衣の表面に塗りつける。菅野がコップを傾けながら、
「王はじめ、スター選手はほとんどアメ車に乗ってます。衣笠もプロ野球選手になったら当然そうするものと思って、中古のフォード・ギャラクシーを手に入れて乗り回し、何度か事故を起こした。私生活が乱れとるというわけです。根本は彼に、一軍選手はセールスポイントが必要だ、〈衣笠〉という選手を作れ、と命令しました。これもわかりにくい言葉ですよね。根本の口癖は、どんな人生を作るのか、長いスパンで人生を見ろ、という抽象的なものだそうです。とにかく衣笠はわけがわからなかったけれども、一年間本格的に二軍で努力した。去年根本が監督になった。根本は、バッターのお手本として二千本安打の山内を獲り、当たれば飛ぶということで評判の衣笠を、藤井や興津を差し置いて、五番ファーストのレギュラーに抜擢した。衣笠は、〈衣笠を作る〉とは二十本のホームランを打つことにちがいないと見当をつけ、そしてほぼ全試合に出場して、二十一本のホームランを打った。それまで三年間で三本しか打ってなかったんですよ。菱川さんそっくりでしょう」
 トモヨさんがカンナに乳を含ませる。カズちゃんたちが帰ってきて、みんなでカンナの頬を突っつくと、どやどや風呂にいった。
「衣笠だけじゃないんです。やっぱり三年間鳴かず飛ばずだった外木場を、去年から一軍のエース扱いにして使ったのは根本です。きのうきょうと彼を褒めるようなことばかり言いましたが、じつは彼の最大欠点は、巨人軍以上の猛特訓です。泡を吹いて再起不能になった選手もいるそうです」
「選手を故障させて心が動かないのは、選手時代に極端に小兵だった証拠です」
 主人が首を深く縦に振り、
「小兵にサボリ屋はおらんからな。度が過ぎてまう。今年の広島は最下位に沈みそうなのもそのせいやろ。山本浩司、水沼四郎、三村敏之、水谷実雄ら有力な新人は出てきとるんやがなあ。練習方法を何とかせんとあかんやろう。来年はコーチに理屈屋の広岡と関根をせっかく入れるんやからな」
「やっぱり広島は強くなるまでに時間がかかりますね。理屈は危ないです。理論というのは、結局基本の反復練習に帰りますから、ついつい猛特訓になります」
 菅野が、
「基本て、どういうものですか」
「バッティングなら真ん中のストレートを芯で捉える、守備なら真正面の打球を正確に捕球する、その反復です。そこからしか応用はきかないと信じこんでる。鍛錬に基本も応用もありません。真ん中の素振りも、屁っぴり腰の素振りも同時併行で鍛錬しなければいけない」
 女将が、
「さあさ、野球の話はそのくらいにして、ごはんにしてちょうよ」
 食事中にとうとう雷雨がきた。激しい音を立てて降り、ドシン、ドシンと遠方で地響きがする。五分ほどで止んだ。もとの暗い空に戻る。座敷に夜が紛れこんだ。ビールのコップを置き、ようやく主人や菅野が箸をとった。女将がホッとした顔をした。
 狭い世界を話題にするのは楽しい。だだっ広い天下国家の話はつまらない。テレビはつまらない話ばかりしている。つまらないことこそ、全世界の共通認識ということなのだろう。大学管理臨時措置法案強行採決、英軍が北アイルランドの宗教紛争に介入、カウンターカルチャーの象徴であるウッドストックフェスティバル開催―何一つ意味がわからない。ここまで世界が理解できないなら生きていてもしょうがない、と思う瞬間だ。大学崩壊を論じるコメンテイターが、いずれ大学出などだれも見向きもしなくなると言っている。たわごとだ。〈いずれ〉が〈千年先〉でもあり得ない。大学出は大学出を見向かないかもしれないが、高校にも大学にも触れることができなかった庶民が永遠に評価しつづける。ひろゆきちゃんを思い出す。
「うちのおじいちゃんは東大で、おとうさんは早稲田なんだ」
 小学一年生。学歴は庶民の卵である子供のあこがれでさえある。私はその正常な感覚を幼いころになぜか嫌悪し、その気持ちのまま有名高校、有名大学を受験した。そして根底から権威に無関心になった。これは健全な精神ではない。子供のうちは権威にあこがれるべきだ。もし直人やカンナにその心が芽生えたら祝福してやりたい。そしていつかそれを手中にし、首筋に冷たい風が吹いたら、微笑してそのあこがれの空しかったことを教えてやりたい。
 直人のコックリが始まった。トモヨさんが手を引いて風呂へ連れていった。千佳子と睦子が同行する。イネがカンナを離れへ抱いていく。母屋の風呂は大きくて、湯浴みが大雑把になるので、離れの風呂で細かく指でさすりながら汗を取ってやるのだと女将が言う。
「カンナのうんこやオシッコは?」
 女将が、
「ちゃんと気ィついた者が離れで取っとるよ。直人はようよう自分でできるようになったわ。お尻は幣原さんに拭いてもらっとるけど」
 この狭い世界で生きよう。しかし、時間をかけて少しずつ、青春時代から遠ざかるように生きていこう。からだを傾けてカズちゃんに耳打ちする。
「書いたり、読んだり、走ったり。とにかくしばらく突っ走る」
「そうね。でも疲れたら休むのよ」
「うん」
 菅野に、
「外に新聞記者は?」
「ちらほらいます」
「優勝が決まるまで、インタビューも、追っかけの撮影も受けつけないと言ってきてくれませんか。精神を集中したいからって」
「了解です」
 菅野が出ていった。主人が、
「言い忘れとったが、神無月さんにお礼の手紙もたくさんきとるそうですよ。球場に招待された子供たちや、似島の子供たちから」
「そうですか、うれしいですね。人に礼を言う心は得がたいものです。色紙やサインボールを送ってあげなくちゃ」
「使用済みのバットもね。使わなくなった野球用品も菅ちゃんに預けてくれれば、その種の慈善団体に送って、競売にかけてもらいます。集まった金は病気や貧乏で苦しんでいる人たちに配られます」
「さっそくやってください。バット、スパイク、アンダーシャツなんかをね。サインボールは足木さんから席に送ってもらって、暇なときに書きます。それをまた球団事務所に送り返せばいいでしょう」
「いずれにしても、シーズンオフですな」
 菅野が戻ってきて、
「新聞記者たちに納得してもらいました。望遠で撮るよう心がけてくれるそうです」
 風呂組が戻ってきた。カズちゃんが、
「ミズノの保田さんが年内に再契約したいと言ってきてなかった?」
 主人が、
「そうやった。都合のいい日を十二月の中ごろまでに知らせてくれ言うとったな」
「半年早いんじゃないんですか」
「臨時変更で、契約金の額を三千万ほど増やすそうや。来年からは年度末に定期契約したいて。球場で履いてるスパイクの写真を新聞に載せたら、売れゆきが三十パーセント上がった言うとったわ。ジャージのほうは四十パーセントやと。松坂屋の〈天馬8〉の染め出しタオルは、ロングセラーにするそうですわ。今年度売り上げの純利の十五パーセントを年末に振り込む言うてました」
 カズちゃんが、
「雁字搦めと思わないことよ。ぼんやりしてればいいんだから。勝手にやらせておけばいいの」
 ポッとした顔で千佳子と睦子が風呂から戻ってきた。睦子が、
「直人ちゃんを手のひらで洗ってあげました。トモヨさんはカンナちゃんの様子見にいきました。お乳をあげるんですって」
「名大には車でいってきたの?」
「はい、広小路通を真っすぐ本山まで二十五分。右折して五分。片道三十分。千佳ちゃんの運転がじょうずだからとても快適です。西の丸にもしょっちゅう送ってもらってます」
 千佳子が、
「万葉歌碑巡りも計画してるんです」
この二人は、凡人への〈けじめ〉として大学へいっているのではない。こころから楽しみ、充実した心で学問をしている。こういう学問なら捨てたものではない。性的な要素を取り払って、周囲の人びと、わけてもカズちゃんをはじめとする女たちのことを思いめぐらす。自分の実際の経験や、風聞や、読んだ書物に照らしてみても、女というものは現実的で、驚くほど打算的なのがふつうだけれども、私を囲む女たちはそういう側面をまったく持っていない。もちろん、一人ひとり、私に寄り添って生活する態度や、世間のしきたりに対応する態度はわずかにちがう。でも総じて、苦しくなるほど情の厚い善良な人間だ。ときどき胸を撫で下ろすような安心感を覚えるのは、女特有の、軽やかなミーハー性をにおわせる瞬間だ。水原監督やドラゴンズのメンバーが竜宮城と言うのは、そういったすべてを心地よいものと捉えるからだろう。
 ―女は結婚を喜び、子供のいる家庭を喜び、一穴主義を喜ぶ。化粧や装飾品や財物を喜び、伴侶の身分や肩書を喜ぶ。家柄や育ちを喜び、安定した生活を送るための小狡(ずる)い世故を喜ぶ。
 それが、私が恋人以外の女一般に対して二十年のあいだに積み重ねてきた認識だった。彼女たちはまったくちがっている。もちろん、波風を防ぐために、そういう一般的な嗜好にうなずいてみせるときもあるが、みずから積極的にそれを求める気ぶりなどおくびにも出さない。
 私は日ごろ、世間でこうだと定義されるような女に悩まされることを恐れながら、努力目標として待ち構えているフシがあった。原型は野辺地のようこちゃんや高島台の京子ちゃんだった。母に対してそうしたように苦労してやろうという覚悟があった。しかし、男が進んで結婚したり、一穴を通したり、財物や肩書を求めたり、狡く安全を図るようなことをしないかぎり、そういう女は身の周りに現れないということを学んだ。実際この先、そういう女が現れたら、母にしたように、排斥するか、遁走しようと決意を固めた。
 夕食が終わった。主人と菅野が見回りに出、直人とカンナを寝かしつけて戻ったトモヨさんとイネが厨房に入り、女将が帳場に入る。ステージ部屋では麻雀が始まった。ソテツとイネがコーヒーをいれて持ってきた。茶菓子に好物の胡桃ユベシがついた。私はカズちゃんに、
「会計士や税理士を雇ってるなら、お母さん、仕事らしい仕事はないんじゃない?」
「家計簿や、台所の帳簿つけや、大門のお店の給料計算やら、こまごまとした仕事はあるのよ」
「ふうん。そんなことは人にやらせて、北村席のお母さんとして〈そこにいる〉というのがいちばん大事な仕事だだと思うけどね」
 イネが、
「台所の食材の出納簿は、ソテツちゃんと幣原さんがしっかりやってるす。ワもときどきやるたて、けっこう面倒くせんだ。出入りの業者の支払いと、店の女の人やオラんどへの給料計算はぜんぶ女将さんがやる」
 ソテツが、
「椿商店街に優勝のノボリが出はじめましたよ。ドラゴンズ優勝まぢか、われらも負けずにひと踏ん張り。名鉄にも垂れ幕が下がってます。中日ドラゴンズ優勝へ秒読み突入」



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