七十

 ポニーテールが自販から缶コーヒーを買ってきて、私たちに差し出す。
「私もちょっと雑知識。上島珈琲のこの缶コーヒーは世界初の缶コーヒーなんです。今年発売されたばかりで、置いてあるホテルは数少ないと聞いてます。私も飲むのはこれが初めてです」
 プルタブを開けて飲んだ。
「おいしい」
 私たちも釣られて飲む。
「うん、うまい」
 女二人も、
「おいしいわ」
 高橋弓子が、
「基礎的な身体能力検査をしてみませんか」
「いいですね。お願いします」
 簡便な検査室に連れていかれる。
「視力からいきましょう」
 視力表に向かって棒眼帯をあてる。右0・9、左0・8。思ったほど悪くない。トリ目や乱視は測れない。
「次に握力」
 右握力八十二キロ、左七十九キロ。肺活量測定器を前に台座に立たされ、ゴム管の吹き口をあてる。六千八百十ミリリットル。背筋、二百八十二キロ。身長と体重も測る。百八十二・九センチ、八十二・六キロだった。われながら立派な機能と造りをしているからだだと感じた。女たちが賞賛の瞳を向けた。丸顔が、
「握力は大リーグ選手並で、日本プロ野球では三本指に入ると思います。リンゴを潰せる握力です。肺活量はプロ野球選手としては普通の上です。背筋はトップクラス。ホームランバッターはふつう握力が四十キロ前後で、四十六、七ある一般成人男性の平均以下です。王選手も野村選手も四十そこそこです。弱い握力がバットコントロールとバットスピードを生み出すと言われてます。―どういう検査をしてみても、神無月さんのホームランは謎ですね」
 晴れやかな気分でトレーニングルームに戻る。高橋弓子が、
「プロ野球選手になって、知ったことや気づいたことはありますか」
 まるで面接試験だ。しゃべりまくったついでに、自分なりに細かいおさらいをするつもりでもう少し野球のことを話すことにした。板木のフロアにあぐらをかき、この一年で知ったことの復習をする。
「まず、プロ野球選手になる前から知っていたことからいきます。たぶん野球ファンならだれでも知っていることです。日本のプロ十二球団は、企業が宣伝のために所有している球団がほとんどで、大洋ホエールズは大洋漁業、アトムズはサンケイ新聞とヤクルト、阪急、南海、近鉄、西鉄、阪神は鉄道会社、ロッテオリオンズはロッテ、中日ドラゴンズは中日新聞、読売ジャイアンツは読売新聞と読売テレビ、広島カープは広島市民とマツダ自動車の共同所有、東映フライヤーズは東映。これだけは知ってました。あとは入団後の知識です。……スポーツ新聞ですが、これはアメリカにはないものです。日刊スポーツ、中日スポーツ、スポーツ報知、スポーツニッポン、サンケイスポーツの五大紙、もう一紙はデイリースポーツ。デイリーは阪神御用達のような新聞で、データ表の詳しいことで有名です。各試合のボックススコアに加えて、リーグ別打撃三十傑、リーグ別ハーラーダービー十傑。打者はそれまでの試合数、打席、打数、得点、安打、本塁打、打率、打点、四死球、盗塁、犠打、失策、三振。投手は、登板イニング数、対戦打者数、投球回数、被安打数、被本塁打数、奪三振数、与四死球数、失点、自責点、防御率。監督や選手のコメントも詳しい。余談ですが、中学一、二年生のころ、テレビのナイター中継にはよく腹を立てたものです。七時半から八時五十六分まで。バックに行進曲を流しながらアナウンサーの謝罪の声とともに番組が終わる。どんなチャンスの場面であろうと情け容赦ない。残りをラジオで聴くことになる。そんなところかな。野球少年レベルの知識です」
 丸顔がうっとりとした顔をする。私はつづける。
「プロ野球選手になって知ったことという質問だったけど、ユートピアの中日ドラゴンズに属しているせいで、もしチームメイトに教えてもらったり、自分で気づいたりしなければ知らなかったことのほうが多いかもしれない。たとえばチームプレイ、コーチの余計な手直し、一軍二軍の序列重視、新人軽視、過度の練習、マスコミ迎合、団体行動―総じて和と団結のスローガン。およそドラゴンズにはないものです。ドラゴンズの選手たちの自主練習の宣言や、マスコミに取り入らない態度は、まぎれもなく、主人の命令におとなしく従う他チームの方針に反するものでしょう。しかし、かつて野球武士道というのはそういうものだったんです。そのうえでしっかり和と団結を成し遂げていたんです。つまりぼくは過去の野球しか知らずにドラゴンズに入団し、幸運にも過去の野球の中で生かしてもらってるわけです。それがプロ野球選手になって知ったことです」
 上品顔が、
「過去の野球で憶えていることはありますか」
 同じことを訊いているだけだ。私を帰したくないだけのようだ。調子に乗ってしゃべりすぎた。
「限定的な過去だけです。しかも憶えていることではなくて、活字で読んで知った知識です。たとえば昭和三十三年、長嶋デビュー戦四打席連続三振。これはリアルタイムでチラッと映画館のニュースフィルムを観ましたが、内容はほとんどその後の活字で知りました。その年の日本シリーズ、西鉄三連敗のあとの四連勝、神さま仏さま稲尾さま。稲尾は三十六年に四十二勝を挙げます。アメリカでさえ、二十世紀初期にジャック・チェスボローがポツンと四十一勝を挙げているだけです。以来、それに近い記録すら出ていない。ほかに金田、杉浦、権藤というほんものの怪物たちも活字で詳しく知りました。現代で実体験を通して知ったのは江夏のみ。今年江夏は肘を痛めたと新聞雑誌で知りました。ぼくが打った江夏はホンモノではなかったんです。肘も治ったようなので、これから先、彼はますます活躍するでしょう。じゃ、ぼくは部屋に戻ります。睡眠を少しでもとっておきたいので」
 この場を去りたいだけのウソだった。
「おもしろいお話、ありがとうございました!」
 三人で頭を下げた。
 雨の一日は長い。アーケードフロアの書店にいった。手塚治虫の『ぼくはマンガ家』という文庫本を買ってくる。ザッと読みをする。
 少年のころに何をやっても評価されなかった男が、有名漫画家になると、今度はだれかれとなくマンガの神さまと呼んで褒めるので、どうも、とか、それほどでも、といったような愛想返事を繰り返すばかり。そして、もうたくさんだと心の中で呟く。そのくせ、俺の絵をどう思う? はっきり言ってくれ、俺の絵はもうおしまいなのか? 絶えず自問する。イガグリくんの福井英一ら同時代の漫画家たちへの強い対抗意識、激しい嫉妬と弱音と向上心。先駆者としての自意識が大きかったせいだろうと思う。
 告白とマンガ史が入り混じり、頭に入りにくい内容で、はっきり言って、へたくそな文章だった。子供のころから手塚治虫の絵が嫌いだったことも加担して、大御所の誇りに満ちた一冊に何とも言えない幻滅を覚えた。
 まだ午後三時前だったが、インストラクターたちに言ったとおり、仮眠につく。
         †
 七時に起きる。夜の会食はオミットして、フロントに電話する。
「はい神無月さま、何かご用でしょうか」
「ルームサービスお願いします。シェフのおすすめコース一人前」
「承知いたしました。メインディッシュは二種類から選んでいただくことになっております。本日のお魚料理、あるいは牛フィレステーキ百五十グラムでございます」
 魚をと答えた。
「かしこまりました。三十分ほどかかりますが」
「けっこうです。魚は何ですか」
「メバルとジャガイモのグリルでございます。トマトと新タマネギのソースでお召し上がりいただきます」
「うまそうだ」
「ありがとうございます」
 電話を切る。きちんと服をつける。
 やがて山高帽をかぶったボーイがワゴンに載せた料理を運んできた。丁寧に辞儀をし、皿をソファの前のテーブルに並べていく。私と目を合わせることはしない。前菜盛り合わせ、ビーフコンソメ、メバルの姿焼き、ライス、コーヒーの入ったポット。
「食後は器をそのままにしておいてくださいませ。あした神無月さまのご朝食のあいだに下げにまいります」
 ワゴンが去り、箸を使って食事が始まる。雅子から教えられた知識が甦る。
「メバルは、北海道から九州まで日本全国で獲れる近海魚です。大きな目が張り出してるからメバルと言うんです。早春の代表的な魚とされてますけど、旬は十月から翌年の四月までです。煮つけもおいしいですけど、グリルにしてもおいしいです」
 ニンニクがほんのり効いている。ローズマリーも香る。油はオリーブオイルだ。うまい。ライスもきちんと食う。食い終え、小型冷蔵庫から冷えた缶入りコーヒー牛乳を出して飲んだ。
 八時を回ってフロントにいくと、ラウンジで江藤たちがコーヒーを飲みながら、小川や高木とまじめな顔で話をしていた。星野と江島もいた。フロントの男が上機嫌な顔で私に頭を下げる。
「よう、金太郎さん」
 みんなジム入会の手続をすませたと言う。彼らのそばに腰を下ろす。女子従業員がコーヒーを持ってきた。高木が、
「中西太が監督を辞任するらしいよ。後任は稲尾さん。西鉄はどうなるんだろうな」
 小川が、
「暴力団絡みだ。しばらくすったもんだだろう」
 江藤が、
「さっき稲尾さんに電話して、勉ちゃんの消息ば訊いた。いまどこにおるかようわからんそうやが、勉ちゃんの背中で糸引いとった暴力団幹部が、田中が中日をクビになったけん西鉄で使えて稲尾さんに電話ばかけてきてな、ほかの選手にもサラリーマンじゃ返せん金ば貸しとる、田中だけでも使わんとみんな警察に引っ張らるっぞてすごんだそうや。稲尾さんは相手にせんと蹴ったくさ。ばってん―」
 私は、
「選手の借金を球団が払ったんですね」
「ほうや。楠根オーナーが永易を呼び出して問い質したら、八百長をしたのは六人で、ぜんぶ西鉄の選手やて告白したけん、口封じのつもりで永易に六人分て五百万出したげな。暴力団に渡ることを考えのことやろう」
 高木が、
「根の深い話みたいだな。金渡しちゃうとキリがなくなるぞ」
 小川が、
「だいじょうぶ。世間はしばらく騒ぐだろうけど、自然消滅しちゃうよ。金太郎さんのほうが詳しいと思うが、山口組系みたいな表のシノギで稼ぐ金持ちヤクザは、たしかに裏のシノギもするけど、そういうセコいことはしないんだよ。傍系の弱小暴力団がなりふりかまわずセコビジをする。金太郎さんが山口組系の松葉会のお気に入りだということは〈その世界〉じゃ知れわたってる事実だろうから、小物ヤクザは仕掛けてこない。金太郎さんを抱えてる中日ドラゴンズもまったく安全だ。金太郎さんが松葉会にお頼みすれば、そいつら潰されちゃうからね。勉ちゃんに悪いけど、ヤクザに食いこまれるような選手は、ふところピーピーの救いようのないやつでさ、どうなったってかまわないアホだよ。ま、危ういところで助かった俺としては、えらそうなことは言えないけどね。他球団もしばらく様子見だろ。そういうアホを多少は抱えてるだろうから」
 星野秀孝が私に、
「表のシノギってどういうものですか」
「ぼくも知らないなあ。ただ気に入られてるだけだから」
 小川が、
「金貸し、不動産屋、土建屋、芸能興行、労務者派遣、解体屋、産廃、会社整理、債権回収、縄張り内のトラブル処理、といったところかな。裏は、クスリ、売春、開帳賭博、ミカジメだな。開帳賭博やミカジメはいちばんまじめな裏だ。八百長なんてのは、裏とも言えない最低のシノギで、中規模のヤクザでさえやらない」
 菱川が、
「俺のオヤジもチンケなヤクザですが、そういう小汚いことはしませんね。小物なりに〈まっとうに〉生きてます」
 江藤が、
「ワシも中小ヤクザの紹介で町キンから金ば借りて、危うくクビになるところを助かった口ばい。とにかく、金中心に頭が回りだしたら、そういうやつらにつけこまれる。クラブとか、ギャンブル場とか、こういう高級ホテルにもウロウロしとるけんな。気ィつけんといけんぞ。プロ野球選手に金ッ気はタブーたい」
 小川が、
「反省! タコ、おまえよく遊び歩いてるから、要注意だぞ」
「俺、トルコぐらいです。酒場も居酒屋程度で、高級クラブなんかはいきません。ギャンブルはやらないし」
 江藤が、
「菱も星野も若いけん、へたな場所に出入りして、危ないやつに近づかれんようにせんといけん。さ、めしだ。ラーメンいくぞ」
 こぞって表玄関へ出ていった。彼らも会食をオミットしたようだった。


         七十一

 九時。フロントでビニールの簡易合羽を借り、夜の街へ独りランニングに出る。目的地を定めず、おとといの半蔵門とは逆の西方向のコースをたどる予定。
 スロープを駆け下りて直進、左折してソフィア通りに入りこむ。草の崖と堅牢な低層ビル群。何のビルだかまったくわからない。たぶん上智大学だ。逆コースと思いながら、北のコースをたどってしまったようだ。学生街は好かない。左折してもとの位置へ引き返そうとする。
 きょうも走っている。紀尾井坂へ入りこむ。明かりを灯した高層ビルの群れを左手に見ながら、迎賓館の塀に突き当たり、右折して紀之国坂のいただきへ。何もない。引き返して紀之国坂のふもとへ。外堀通りにぶつかる。二叉路の細い道へ入る。三、四百メートル走る。あれ、赤坂見附の交差点に出てしまった。この場所なら遠回りしなくても弁慶橋を渡ってすぐにこられた。仕方がない、ここからは行き当たりばったりでいこう。
 赤坂御所の塀沿いに国道246号線を走る。正体不明のビルの中、看板・文字板だけを読んでいく。豊川稲荷。とらや。赤坂警察署。高橋是清翁記念公園。絶え間なく雨を落とす灰色の空がさびしい。赤坂郵便局。青山一丁目交差点。青山二丁目。戻れるかどうか心配になってきた。ビルが高層に変わってきて、通りが繁華になる。渋谷まで三キロ、厚木まで四十九キロと標示板にある。渋谷? 詩織のマンションが近いのか。そんなふうな街並には見えない。
 ニューオータニに近づくために少し広めの道を右折する。都道414号線の標示。とんがり帽子形に伐り揃えた銀杏並木を走りつづける。ん? とつぜん球場の照明塔のシルエットが! 走り寄る。赤煉瓦色の神宮球場だった。照明灯が消えている。スコアボードを背面から見上げる。明治神宮野球場外野中央の文字。
 ―ここから帰るのは無理だな。だれかといっしょに走ればよかった。寒い。十度ぐらいしかないな。風邪をひいたらたいへんなことになる。あしたの試合に出られなくなる。タクシーで帰ろう。
 球場の周囲にタクシーの姿などなければ、人けすらない。青山二丁目の交差点へ駆け戻る。続々とタクシーが通る。合羽を脱いでまるめ、一台のタクシーに振る。ジャージ姿を危ぶんで二、三台通過したが、個人タクシーが一台停まった。
「すみませーん! ホテルニューオータニへ!」
「承知しました」
 まだ三十歳前の顔立ちだ。クマさんに似ている。
「いま何時ですか!」
「九時五十分です」
 乗りこむ。そんなに走っていたのか。
「いやあ、ランニングしてて遠くにきすぎちゃって、帰れなくなりました」
「あれえ?……やったァ! 神無月選手ですね」
「はい」
「停まってよかった! ラッキー!」
「怪しかったでしょう」
「ジャージですもんね。ふつう避けますね。それ、テレビで宣伝してるミズノのジャージですね」
「はい。シューズもミズノです。防寒服でないんで、寒い、寒い」
「百五十一号まできましたね。今シーズンは、王プラス百本ですか」
「できれば打ちたいです。それにしても東京は迷路だ。これからは仲間たちと走らないと」
「あとでサインいただけますか」
「もちろん。拾ってくれてありがとうございました」
「とんでもない、お礼を言うのはこちらです。七、八分で着きますよ」
「一万円札しかないんですが」
「まだメーター倒してません。流してただけですから。料金はけっこうです。ニューオータニから新客を拾って帰ります。神無月選手、優勝チームの一員というのは、どんな気分ですか」
「誇らしいです」
「江藤さん、ドラゴンズに留まることになって、よかったですね」
「え? どういうことですか。ドラゴンズを出るなんて話、聞いたことないですよ」
「去年の暮れまでは、今年いっぱいでトレードということになってたんですよ」
「ああ、自前で経営してた会社がうまくいかなくなって、球団に迷惑をかけたということですね。水原監督の尽力で解決しました」
「それは表向きの話で、水原監督はそんなことで選手を責める人じゃありません。それに江藤さんは球団に頼らず、自分で会社の借財は返済し切ったんですよ。福岡の実家を抵当に入れてね。私、福岡出身で、江藤さんの消息に詳しい親戚がいるんです。彼の父親の会社時代の同僚です。江藤選手は潔い人ですよ。近々、銀行の抵当権も取り返せるらしいです。水原監督との関係でトレード話が出たんじゃないんです。もちろん、神無月選手の背番号の件が理由でもありません。じつは去年の話なんですがね」
「はい、興味があります。聞かせてください」
「酒です。江藤さんは寮住まいで、かつ酒豪です。朝方まで飲むことでも有名な人でした。寮の門限に文句をつけて、わざと何度も門限破りをしたんです。門限に不満を感じてる寮仲間のことを考えたうえです。それからもう一つ、ハードな練習の改良も進言しました」
「ハードだったんですか!」
「はい、巨人、阪急ほどではないですが、ハードな項目や時間が細かく設けられてたんです。そこへ、もと巨人軍監督で、厳格なことで有名な水原さんがくるとなって、ますますきびしくなるだろうと早とちりした江藤さんが、来年中にトレードに出してくれと水原さんに願い出たんです。明石キャンプの直前ですよ。水原さんは、その二点ではきみとまったく同意見だという胸の内を明かしたうえで、トレードを了承しました。寮問題や練習スケジュールの問題に関して、江藤さんは水原さんの賛同をうわべだけだと考えて信用しない態度をとったからです。ところが江藤さんは、キャンプ中に、ドラゴンズに骨を埋めたいと前言を撤回して水原さんに謝罪したんです。……神無月選手と野球をやりたいと。水原さんにとっては願ったりの展開でした。そのうえで、チームの改革をあらためて江藤さんに約束したんです」
「……そうだったんですか」
 江藤はそこまで自分を悪者にして、水原監督から恩義を受けたという麗しい話を仕立て上げたのだった。私の水原監督への親愛にヒビを入れないために。そんな美化は必要なかったのに。水原監督の麗しい気質は私にはわかっていたのだから。改革者江藤は水原監督からも球団からも、金銭的援助は受けていなかった。小ヤクザが球団事務所に押しかけて、心ならずもいっときドラゴンズフロントに迷惑をかけた話は事実だろう。その一点の失態に胸を痛め、とことん自分を悪者にしたのだ。
 思わず涙が湧いた。バックミラーを覗いた運転手が、
「ああ、神無月選手はいい人だなあ! 江藤さんが惚れるはずだ」
 ニューオータニに着いた。運転手は古びたバッグから色紙を取り出した。
「いつ何どき、どんな人を乗せるか知れませんからね。常備してます」
 私は涙で潤む目で、丁寧にサインした。《魂の人江藤慎一の友》と書き添えた。運転手も潤む目で受け取った。
「またお会いできるときもあるでしょう。……日本シリーズ、かならず優勝してくださいよ」
「優勝します!」
 彼に名刺を要求してポケットにしまい、最敬礼して、雨のスロープを上がる。歩きながら名刺を確認。個人タクシー・笹岡隆。住所と電話番号も書いてある。合羽をフロントに返し、部屋に戻る。すぐに名刺を手帳に挟んだ。
         †
 十月九日木曜日。目覚めると八時。窓の外は垂れこめた空。気温十八点・八度。一雨きそうな空模様だ。昨夜のランニングのせいで腹具合が悪く、長い時間かけて下痢。痛みの核がポロリと落ちてから便所を出、歯を磨きながらシャワーを浴びる。耳垢取り、爪切り。
 昨夜の運転手の話は江藤の耳に入れまいと決意する。球団本部村迫代表に電話を入れる。秘書が出た。
「七日から西京極のほうへ出かけております。阪急戦の視察です」
 笹岡隆という人物に、来年度の後楽園ネット裏の年間優待席を一つ進呈するように伝言する。住所も告げた。
「恩義のある人なので、くれぐれもよろしくとお伝えください。費用は今月分のぼくの給料から天引きしておくようにと」
「明日中に戻る予定ですので、かならず申し伝えます。神無月選手、きょうあすの巨人戦がんばってください。球団一同こぞって応援しています」
「ありがとうございます。がんばります」
 種々の行動規範に縛られるということのなかった過去の選手について知りたい、と思いつき、中の部屋を訪ねた。
 まず、江藤について昨夜の話をすると、江藤が借金から自力更生し、私の存在が理由でチームに留まったことは周知のことで、事情を知らぬは新人選手ばかりなりと教えられた。
「そう言えばさっき慎ちゃんから、きょうもあしたも試合ありと電話が入ったよ。もう一泊することになったね」
 それから中は、造反ではなく反骨の人として何人かのエピソードを語った。金太郎さんには興味のないことだろうが、と前置きして、契約更改の際にカネに関して我を通さなかった選手と、通した選手のことを一人ずつ語った。一人は南海ホークスの野村克也で、二年連続ホームラン王と打点王に輝いた昭和三十九年、二割六分の打率を難詰され、年俸八パーセントダウンの書類にサインした。もう一人は東映フライヤーズの張本勲で、二年連続で首位打者を獲得した去年、十年目のボーナスとして三千万円を要求した。くれなければチームを辞めると脅した。結局二千五百万円で合意した。これまでのプロ野球界で初めてのことだ。
 さて、金とは関係のない反骨の男だが、筆頭はおととし入団した江夏だ。春のキャンプの練習がきつすぎる、これでは一年間投げる体力を消耗してしまう、そう主張して、仲間がランニングしているあいだ外野で寝転がったり、投げこみを早めに切り上げたりした。その才能と業績ゆえに彼の行動は黙認された。どこか金太郎さんに似ているが、カネはいらない、この条件が通らなければ入団しないという特上の反骨とは比較にならない。次はジャイアンツの堀内恒夫だ。先輩への挨拶無視、門限破り、練習のボイコット、『俺は天才だから練習しなくても勝てる』、『今シーズンは負ける気がしない』、『ヤクルトはアマチュアチームだ』等の問題発言。二軍に落とされて紅白戦登板拒否。いわゆる多摩川の乱。これも黙認された。
 ただ、どちらも不貞腐れのにおいがある。金太郎さんのような、和を尊重し、自己鍛錬に励み、自己卑下と言えるくらい尊大さを拒否するような筋の通った反骨とはまったくちがう。きのう雨の中をランニングに出たね。そして道に迷ってタクシーで帰ってきた。もう情報が回ってるよ。みんなで大笑いしたんだ。これは反骨を超えて奇行だねって。金太郎さんの反骨や奇行は私たちの快適な痺れ薬になるが、彼らの反骨は毒薬になる。顰蹙をもって応えるしかない。
 女の問題に関してはほとんどのプロ野球選手が例外なく反骨だ。秘密主義でしっかり遊んでいる。人前でキスをしたり抱き合ったりせず、しっかり秘密を通すかぎり、マスコミもフアンも非難しない。〈知らぬが仏〉の国だからね。アメリカは公然とやっても非難しない。これは国民性で仕方がない。金太郎さんが女性問題で突き上げを食らうことはまずないよ。だれよりも遊び方が上手だ。みんな陰で拍手を送ってる。
 わがチームのメンバーはがんらい金太郎さんに似た反骨者の集まりだ。柔弱な監督やフロントのもとでは結束しない。去年の最下位がその証拠だ。反骨武将水原茂と反骨快男児神無月郷がやってきて、固く結束した。
「金太郎さんは真のスターだけど、庶民の究極的な愛は得られない。二つの傷がある。母親を讃えない、結婚しない。母親礼賛と結婚の二つは、プロ野球選手の百人が百人大切に思ってることだ。しかし、私たちにとっては、金太郎さんのそういう規格外の行動が超人の清潔さを感じさせるところなんだ」
「結婚しないとわかりますか」
「わかる。プロの選手は庶民への顔として本妻を持ち、外に一人、二人の愛人を置くパターンがほとんどだ。大卒、堪能な外国語の知識、芸能人、資本家令嬢、政治家令嬢、そんな条件の一つでも満たす伴侶を得て、善良なる日本人のイメージ作りをする。姑息の範囲を免れない。金太郎さんのようにさまざまなバックボーンを持った何人もの女に心を配るためには、結婚などして家庭を築く余裕はない。計り知れないスケールだよ」
 そう言って中は私の膝を叩いた。
「じゃ、めしを食いにいこう」
 ロビーにいたみんなと合流し、朝めしを食いに円盤のレストランにいく。私だけ朝からステーキ。カロリーの高いサーロイン二百五十グラム。ライス一皿。これで後楽園の選手食堂までオーケー。
         †
 四時十五分、後楽園球場到着。メインゲート付近で警官数人が厳重に警戒にあたり、カメラを抱えたフアンの波を必死に堰き止めている。ドラゴンズ一行を一目見ようと首を長くして待っていた人びとだ。松葉会の背広姿がちらほら見える。バックスクリーン後部の駐車場に向かう。いつもは混雑していない場所なのに、きょうはファンも警備員も大勢いる。関係者入口から入る。ダッフルを肩に緑の壁の長廊下を静粛に進む。いつもながら身が引き締まる。
 ロッカールームでズックをスパイクに履き替え、ダッフルからグローブを取り出し、眼鏡をかけ、バットを二本提げてベンチに入る。くすぐったいような緊張が最高点になる。ここからは全身が解れていく。やがてしっかり落ち着く。
 ワイシャツ、Tシャツ、背広姿の報道陣や、川上監督、コーチ陣がケージの後ろに集まっておしゃべりしている。巨人軍選手の和んだ雰囲気。打球音の響く中でこの雰囲気にいつまでも慣れない。そしていつも新鮮だ。
 四時半、ドラゴンズのバッティング練習開始。無風。昼に二十二度まで上がった気温はもう十九度に落ちている。観衆三万七千人。きのうより千人少ないが壮観。少しバットを重く感じる。スイングに支障はない。江島、高木、江藤につづいて十本打つ。腰と遠心力で四本のスタンド入り。すべて中段より前。思い当たった。倒立腕立ての疲労だ。もっと疲れさせておこう。そうしなければ先に効果が出ない。きょうはぎりぎりのホームランを打てればいいだろう。外野へ走っていってファールグランドのフェンスに脚を立てかけて、ポニーテールに教えられたとおり倒立腕立て五回を三セット。肩のあたりに心地よい筋肉痛を感じる。ポール間直線距離百四十メートルをゆっくり往復。適当なところで七十メートルダッシュ。往路復路で一回ずつ。
 ケージが片づけられ、巨人軍の守備練習。末次さーん、高田さーんの嬌声。国松さーんは聞こえてこない。残念。外野中継プレイ。みんな肩がいい。内野ノック。それぞれの守備位置から一塁へ、一塁からキャッチャーへ、キャッチャーから三塁へ。長嶋の動きが美しい。ダブルプレー。やはり長嶋の動きが美しい。それぞれの守備位置からキャッチャーへ、一本で上がり。
 ドラゴンズ守備練習。田宮コーチの外野ノック。
「セイ、セイ、セーイ!」
「セヤ、セヤ、セヤー!」
 中継送球、セカンド送球、バックホーム、それぞれ一本ずつ。太田と私のバックホームに観客が沸く。外野引き揚げ。内野ノックに移る。菱川のダイナミックな守備。高木の美しいグローブさばき。目に鮮やかな一枝とのコンビネーション。江藤の愛嬌のある大股開きの捕球。大拍手。何もかも変わらない。


         七十二

 選手食堂で肉野菜炒め。ライス小盛り。控え選手たちは旺盛な食欲だ。
 メンバー表交換。グランド整備。ロッカールームで水原監督の檄を立ったままで聞く。
「練習でみんないい当たりを飛ばしてた。気持ちよかったよ。きょうも勝てそうだ。自分なりの課題をこしらえて真剣に遊んでください。ベストを尽くそう。球場じゅうが楽しくなる野球をしよう!」
「オース!」
 グランドに出る。消化試合なのにピーンと張りつめた空気がただよっている。務台嬢のスターティングメンバー発表のアナウンスが流れる。
「ただいまより読売ジャイアンツ対中日ドラゴンズ、二十三回戦を開始いたします。本日のジャイアンツの先発は高橋一三、ピッチャー高橋一三、背番号21。ドラゴンズの先発は小川健太郎、ピッチャー小川健太郎、背番号13」
 中日ドラゴンズ、一番センター江島、二番セカンド高木守道、三番ファースト江藤、四番レフト神無月、五番キャッチャー木俣、六番サード菱川、七番ライト太田、八番ショート一枝、九番ピッチャー小川。
 中はまる一試合お休みで、きょうも江島が一番バッター。
「吉沢さんはもう出ないんですか」
 長谷川コーチが、
「出ない。木俣が五十三本打ったら新宅と交互に出場させると水原さんは約束したけど、五十三本は無理だろう。代打に出ることも新宅と二人で辞退したそうだよ。ゲームを滞らせちゃいけないって」
 半田コーチが、
「吉沢さんたちは正しいオコナイしました。あと少しでチャンピオンシリーズよ。ホンバンで失敗しないためのリハーサル、同じメンバーでいかないとネ」
 ブルペンの小川。独特のサイドスローから投げるストレートのキレは相変わらず抜群だ。うなりを上げているとわかる。失ってはいけない球界の財産だ。遊び金でやるギャンブルごとき……。
 春先からずっと暗い顔をしていた田中勉。彼は遊び金ではなかった。身から出た錆。重荷を背負って滅ぶときは自分だけ滅べばいい。辻さんもその心意気で生きていた。ギャンブラーはギャンブル以外のすべてを擲(なげう)つ。別種の価値ある人間にも重荷を分担させて道連れにしようなどとは考えない。
 読売ジャイアンツ、一番センター高田繁、二番セカンド土井正三、三番ファースト王貞治、四番サード長嶋茂雄、五番ショート黒江透修(ゆきのぶ)、六番ライト国松彰、七番レフト末次民夫、八番キャッチャー森昌彦、九番ピッチャー高橋一三。高橋はこの四日の大洋戦で、小川に迫る二十一勝目を挙げている。高橋の投球練習を井上球審がホームとファーストの中間地点で見守る。
 井上のプレイボールのコールが夜空に上がり、江島が打席に入った。高橋一三はお辞儀をするように屈みこんで、行儀よく揃えた膝にグローブを置き、首だけ挙げてサインを覗きこむ。独特の格好だ。高く振りかぶり、弾むように右足を大きく踏み出し、あごを反り上げながら低く地面に倒れこむように投げ下ろす。内角低目カーブ、ストライク。江島は足もとを均す。二球目、再現フィルムを見るようにまったく同じフォームで内角低目カーブ。江島打ってショートゴロ。五日の広島戦で江島と伊藤竜彦は鳴りをひそめた。きょうは、伊藤竜彦は出場していない。江島も、もう一打席凡退すれば引っこめられる。一割打者や二割そこそこの打者にとって、一日だけのバカ当たりはホンモノの証拠にはならないのか? 中の後継者の江島には開眼してほしい。
 二番、早打ちの高木守道、初球の内角ストレートをレフト左へ低いライナー、末次スライディングキャッチ、ポロリ。高木二塁へ。記録はワンヒット、ワンエラーになった。
「ヨー!」
「ホレ!」
「はい、いきましょ!」
 広角打法の江藤が打席に入る。堀内と高橋一三は二人とも快速球でキレがあるが、球の質がちがう。堀内はズドーンと重そうにくるけれども、高橋一三はシュッと軽くくる。ミートするだけで飛んでいきそうだ。初球、内角高目のドローンとしたカーブを打ってサードライナー。なぜか大量得点の予感。
 大歓声の中をバッターボックスへ。ヘルメットを挙げて歓呼に応える。初球、外角低目カーブ、ボール。きょうはカーブ八、ストレート二の割合だな。二球目、同じコースにカーブ、ボール。敬遠かな? 森が、
「初回からやられちゃうと、気勢を削がれます。ここは素直に」 
 当然ストレートのフォアボールに切り替わる。内角顔の高さに二球。フォアボール。私が一塁へ走っているあいだに高木守が走る。森はハッと気づいて三塁へ送球、高木足から滑りこんでセーフ。フォアボールのランナーが一塁へ到達するまではインプレイ中なのだ。ボールデッドになるのは、死球のとき、ファールのとき、ボークのときぐらいだ。いつか中に教えてもらった。私はボンヤリとしか野球のルールを知らずにプロ野球界にやってきて、ヒヤヒヤ生き延びている。
 ツーアウト一、三塁。高橋一三に落ち着きがなくなる。木俣の初球、長いインターバルから外角高目に大きく外れるカーブ。二球目同じコースへストレート、三球目内角高目へストレート、ノースリー。神経質に警戒している。満塁策だな、と思ったところへ、力のない真ん中高目のカーブがちょうどいい高さに落ちてきた。高く外してフォアボールにするつもりだったようだ。失投というよりも、誤投。木俣スコーンと叩いて左中間深いところへ四十三号スリーラン。後楽園に幻滅のうなり声が上がる。早ばやと立ち上がって階段出口へ向かう人もいる。信じられない。
 菱川、外角低目のストレートを打ってライト前ヒット。太田三振。三対ゼロ。
 一回裏。おとといのライトから回ってきた松橋線審に帽子を取る。マッちゃんは知らんぷりでレフトスタンドを見上げる。横顔が微笑している。
 高田、外角真横に流れるスライダーで三振。土井、外角カーブをライト前ヒット。王内角高目のストレートで三振。小川は最近王に打たれなくなった。何か抑えるコツを会得したのかもしれない。長嶋、ツーツーから、内角シュートに詰まりながらレフトスタンドのヘラの縁ぎりぎりに二十九号ツーラン。塀に両手を突きながら白手袋を回すマッちゃんと顔を見合わせる。観客から見えないので、私は歯を見せて笑った。松橋はやはり微笑したきり。黒江セカンドゴロ。三対二。最初から接戦の様相だ。打撃戦になるだろう。
 二回表。一枝三振。小川三振。江島、ツーワンから外角シンカーをバックスクリーンへ豪快な九号ソロ。高木、内角シュートを払ってふたたびレフト線へ。今度はきっちり二塁打。江藤、外角シンカーにタイミングが合わず、ファーストフライ。四対二。
 二回裏。国松ライト前ヒット、末次ショートゴロゲッツー、森セカンドゴロ。
 三回表。私は左中間の二塁打で出るとすかさず三盗、木俣のライト犠牲フライで一点を追加した。つづく菱川、一塁線を抜く二塁打。太田の大きなセンターフライで三進。一枝フォアボール。小川三振。五対二。
 三回裏。高橋一三ショートゴロ、高田三振、土井三振。ここまで三振四つ。小川の三振デーか。
 四回表。江島センター前へライナーのヒット。好調子が戻った。ベンチに控えている中がうれしそうに拍手する。高木、ショートの頭を抜くヒット。三の三。江藤、セカンドゴロ、4―6―3のゲッツー。江島三塁へ。江藤が当たっていない。だいぶ疲れが溜まっているようだ。
「きょうはブレーキたい。金太郎さん、まかせた」
「引き受けました!」
 ツーアウト三塁。フェンスが遠く見える。それでも倒立腕立ては肩のダルさが消えるまでつづけよう。外角カーブをチョンと打って、サードの頭をハーフライナーで越える二塁打。三塁の江島を還す。六対三。木俣三振。
 四回裏。王三振、長嶋フォアボール、黒江レフト前ヒット、腰をおろしてしっかり捕球する。国松ファーストフライ、末次サードゴロ。
 五回表。菱川セカンドゴロ。太田三振。一枝三振。これでは高橋一三を引きずり降ろせない。
 五回裏。森ライト前ヒット、高橋一三サードフライ、高田レフト前ヒット、ワンバウンドのするどい打球。土井フォアボール、ワンアウト満塁。王センター犠牲フライ、森還って六対四。長嶋ライトフライ。
 六回表。小川サードフライ。江島、右中間を抜く三塁打。ホンモノに戻った。ここで高橋一三から八時半の男宮田に交代。まだ八時を回ったばかりだ。肩は温まっていないだろう。高木レフトへきっちり犠牲フライ。江藤、ファーストライナー。七対四。席を立つ客が目立ちはじめた。
 六回裏。黒江センター前ヒット、国松センターフライ、末次セカンドゴロゲッツー。
 七回表、私は手投げの宮田の真ん中カーブドロップを打って高いライトフライ。木俣フォアボール。菱川レフト前ヒット。ワンアウト一、二塁。太田、センターオーバーの二塁打、二者生還、九対四。一枝サードライナー。小川三振。
 七回裏から門岡登板。まずい。五点差を返されたら、小川の勝利投手がなくなる。
 森セカンドフライ。宮田、門岡のスパイクに当たる内野安打。一番高田、一塁線を抜く二塁打。ワンアウト二塁、三塁。歓声が爆発する。一塁ベンチ上で関屋さんの紙吹雪が舞う。土井ライト前ヒット、高田還って九対五。ワンアウト一、三塁。四点差はますます危うい。小川の勝利投手はないかもしれない。王フォアボール。ワンアウト満塁。長嶋が打席に入る。応援の歓声がピークになる。
 長嶋茂雄―彼がいなかったら、昭和三十年代の野球少年はだれもプロ野球選手を目指さなかっただろう。いつか長嶋のようになりたい……私はたまたまそんな危険な思いは抱かなかった。マッコビーと同様長嶋茂雄はあまりにも高くそびえている山で、一度も目標にならなかった。人間離れした長嶋を中空に眺め、いつかではなく、確実に、すぐさま山内一弘のようになりたいと願った。〈いつか〉は危険な言葉だ。〈永遠に実現しない〉と同義語だ。見果てぬ高みなど望まずに、いますぐものごとを実現させること。それが私のモットーだった。
 長嶋茂雄という名前が日本人にとって何を意味するか、それを正確に言い表すことは不可能だ。この国民的な大スターは、スポーツ界で最も愛され、最も話題になった人物としか言いようがない。長嶋への熱き思いには、遠いアメリカのかつてのベーブ・ルースのフアンも脱帽するだろう。長嶋のことを悪く言う者はどこにもいない。後世、長嶋は二十世紀最高の男と言われるにちがいない。しかし私はプロ野球選手になって初めて、人間としての彼の気質の浮薄さと、器の小ささと、ギョッとするほど定型的な権威主義を知った。
 ―いちばん尊敬する人物は?
 ―ナポレオンと川上監督です。小さいころから影響を受けました。
 ―若手にはどんなことを期待しますか。
 ―才能と性格を与えてくれたのは両親です。だから一生懸命努力して、親にその恩返しをするべきです。
 長嶋茂雄の実際の言葉だ。類型的な思考を捨てようとしないスーパースター。その事実が、彼の美しさとは無関係に、日本人を喜ばせるパフォーマンスに対する固執を生んでいる。きょうも一本打っている。ここも打つ。私も期待している。カウント、ワンワン。
 ガシッ!
 あの音だ。痛烈なライナーがレフトの上空へ伸びていく。私は一歩も動かない。ボールはあっという間に一本の白線になってレフトスタンド上段に飛びこんだ。マッちゃんが大きく腕を回す。三十号グランドスラム。三十三歳の英雄が両手の五本の指を開いてカモシカのように走る。九対九。同点。小川の勝利が消えた。黒江、私の前に地を這うヒット。トンネルをしないようにしっかり腰を下ろす。ジャイアンツの球団旗がたなびき、紙吹雪が舞う。国松ライト前へ痛烈なヒット。太田が打球を胸に当ててわずかに逸らすあいだに、黒江が三塁まで進む。ワンアウト一塁、三塁。森ショートゴロ、ゲッツー。ベンチにしょんぼり戻ってきた門岡が小川に、
「すみません、一勝をフイにしちゃって」
「いいんだよ。六回で降りるなんて怠け心を出したから、バチが当たったんだ」
 さばさばした顔で応えた。この男を球界から去らせてはならない。
 八回表。江島、レフトフライ。いざというときに弱い男だ。高木、センター前ヒット。よし! 江藤、レフト前ヒット。よし! 私は宮田の初球、膝もとのするどいカーブを掬い上げて、ライト場外へ百五十二号スリーランを叩き出した。十二対九。スイングを重く感じたけれども、上半身に力が貯まっていることは実感した。スタンドもベンチも沸き立ったが、喜んでいる場合ではない。水原監督と抱擁はせずに、片手ハイタッチのみ。
「金太郎さん、火が点いたよ!」
 水原監督が大声を上げた。右肩を氷嚢でふくらませた小川が、ベンチでニコニコ笑っている。打線大爆発になった。木俣レフト上段へ四十四号ソロ。菱川、ライト中段へ三十六号ソロ。太田、高いフライでレフトのヘラすれすれに二十七号ソロ。四者連続ホームラン。噴水が四回つづけて上がった。十五対九。グワン、グワンと歓声が響きわたる。穴の開いた一塁側スタンド、ライトスタンドもゾロゾロ出口へ動きはじめる。一枝の代打伊藤竜彦センター前ヒット。門岡の代打徳武フォアボール。代走に江藤省三が出る。彼には打撃のチャンスがない。それでも塁上の動きが溌溂としている。
 ようやく宮田交代。〈八時半に交代の男〉になった。サイドスロー渡辺秀武。メリーちゃんの自信あふれる外角ストレートを江島はライト前へ打ち返す。伊藤竜彦生還。江島はこれで五の四。中が盛んに拍手する。大差がついてから打っても遅い。チャンスを作るかチャンスに打てるようでなければいけない。十六対八。ワンアウト一、二塁。高木ライトフライ。省三タッチアップして三塁へ。ツーアウト一、三塁。江藤、外角スライダーを叩いて右中間へ弾丸ライナーの六十四号スリーラン。ようやく一発が出た。うれしい。水原監督とガッシリ抱擁。私ともガッシリ抱擁。十九対九。
「竜、雲を得るごとし。すばらしい一発でしたね」
「金太郎さんを先鋒にしてスマンかったのう」
「火付け役になれてよかったです」
 一塁スタンドの怒声。
「もうやめろ!」
「強いのはよくわかった! 勘弁してくれ!」
 私は上半身の力感を確かめながら、外角シュートをセンター深く打ち返した。高田背走してキャッチ。木俣レフトライナー。
 八回裏。ショートに伊藤竜彦が入る。渡辺秀にピンチヒッター滝。代わったばかりの伊藤竜彦へショートフライ。一人打ち取ったところで伊藤久敏がマウンドに上がる。高田三振。土井三振。快投。
 九回表。ブルペンにいなかった堀内が一塁側の薄暗いベンチから飛び出してきた。オーという歓声がどよめく。二十点取られたくないというためだけの登板だろう。堀内はすべて快速球で、菱川サードゴロ、太田サードゴロ、伊藤竜彦レフトフライに打ち取った。球数は六。さすが東のエースだ。



(次へ)