五十二

 二時五十分。予定どおりの到着だ。橋を渡り切って左折し、いちばん手前の棟の正面玄関に回る。右手に広い駐車場を発見。クラウンを入れる。着物をすっきり着こなした女性従業員二人に玄関から導かれてフロントへ。
「ようこそいらっしゃいませ」
 洋装の男女のフロント係が深々と辞儀をする。菅野が、
「こちらの棟は山水閣ですか?」
「さようでございます。あちらは臨川閣です」
「ドラゴンズの神無月ですが、ぼくもこちらの棟ですか?」
「さようでございます。いらっしゃいませ、神無月さま」
「予約した菅野茂文です」
「いらっしゃいませ、菅野さま」
 私は二十名泊まれる三十二畳の大部屋(そんな部屋があるとは知らなかった)、菅野は和室八畳の一般客室だと教えられる。私も彼も五階だった。
「山水閣にも臨川閣にも三階に大浴場、一階に露天風呂がございます。どちらのお風呂もご利用もできます。臨川閣は午前五時から深夜零時まで、こちらの山水閣は二十四時間ご利用できます。お食事は、朝食夕食ともにお部屋食なので、ごゆっくり気兼ねなくお楽しみいただけます。どちらもご指定の時間にお持ちいたします。きょうのご夕食は六時になっております」
「ドラゴンズのメンバーは着いてますか」
「昨夜遅くご到着いたしました。今朝は五名さまのほかは、お食事のあと下呂カントリークラブへお出かけになりました」
 菅野が、
「夕食は、大部屋の一人に加えといてください。値段は八畳部屋と同じでけっこうです」
「承知いたしました」
 菅野は鍵を受け取る。エレベーターで五階に昇り、菅野の部屋を確かめたあと、大部屋へいってみる。目を瞠るほど豪華な整った部屋だ。広大な裏庭の立木が窓から覗いている。襖で仕切られた十二畳で、何人かゴロゴロ寝転んでテレビを見ていた。江藤と菱川と太田、それから星野秀孝、水谷則博だった。部屋の隅に雀卓が二卓用意されている。
「こんちわあ!」
「おお、金太郎さん! 菅野さんも!」
「菅野さんの車に乗せてきてもらいました。あしたの午前早く帰ります。午後に東京移動ですので」
「ワシもあさっての夜に駆けつけるけんな。二十三日には飛島の人たちに会うけん」
「はい」
 ほかの男たちが立ってきて飛びつくように握手する。星野は私に抱きついた。
「みんなでドラフトを見てたんですか」
 菱川が、
「地元の番組ですよ。テレビもラジオも中継はしないんです。夕方のニュースで観るしかありません」
「そうなんですか。初めて知りました。そういえば、北村のお父さんが、納会はドラフトの〈ニュース〉が肴になるって言ってたな」
 太田が、
「そのニュースも、各チーム一位しか流さないんですよ。あとは、騒がれた選手がどのチームの何位だったかくらいです」
「戸板さえ獲れればよかよ」
 菅野が、
「ほかのみなさん、ゴルフですか」
「ほうや。土屋は連れていかれた。下呂カントリークラブ。そんなもんがどこにあるか知らん。帰ってきたら、飲み会の前にひとしきりゴルフ話になるやろう。聞かんとこう。それより金太郎さん、来年の三月、サンフランシスコ・ジャイアンツがきて、日本とオープン戦を九試合やるっちゃん」
「はい、知ってます。マッコビーがきます」
「三月二十一日から、月金休みで、四月の一日まで九試合」
「開幕は何日からですか」
「四月十二日の日曜日からや」
 菅野が、
「九試合はどういう日程になってるんですか」
「初戦は東京球場で巨人戦、翌日の第二戦はやっぱり東京球場でロッテ戦。第二試合まではロッテの招待試合やけんな。二十四日の第三戦は中日球場でドラゴンズ戦、そこから阪神、南海、阪急、近鉄、西鉄といって、最終日は後楽園で巨人戦だ」
「ドラゴンズはまだ二流扱いということですね」
「ああ、この国はどうやっても巨人を越えられん」
「権威は簡単には崩れませんよ。とにかくその一戦を大差で勝ちましょう。練習不足で寒い土地にきたら、サンフランシスコ・ジャイアンツも僅差負けをすることが多くなると思います。観光気分も混じってますからね。大差で勝たなければだめです。日本人とちがってアメリカ人は権威よりも実力を見きわめる国民ですから、どのチームが一流かすぐわかるでしょう」
 ゴルフ組がドヤドヤ帰ってきた。
「よう、金太郎さん、きたか!」
 木俣が大声を上げる。中、小川、高木、一枝、江島、伊藤竜彦、千原、土屋、足木マネージャーも鏑木も池藤もいる。足木が、
「菅野さんもきてくれたのか。金太郎さんの送迎だね」
「はい。優勝は?」
「モリミチ」
「キワメてるからね」
 高木が真っ白い歯を出して笑う。木俣が、
「ドラコンは江島にもってかれた」
 江島がニヤリと笑う。
「ドラコン?」
 菅野が、
「ドライバーコンテスト。いちばん飛んだということです」
 私は土屋に、
「土屋さんは?」
「洗礼を受けました。パー4の一番ミドルホールで12叩きました。トータルで146。しっかりドベでした」
「初体験なら、ご愛嬌ですよ」
 小川が、
「二位は達ちゃんだ。三位は利ちゃん。俺は十三位。背番号と同じ。ミラクルだ」
 と言って豪快に笑う。
「中さんは飛ばすんですねえ。一直線のホームラン」
「寒くてね。膝に毛糸のサポーターを巻いてやったよ」
 江藤が言ったようなゴルフ談義が長々とつづく。フック、スライス、オーピー、ロストボール、ボギー、ハーフ、カート、キャディー、ウッド、ショートカット、などという単語が連発される。
「来月もゴルフがつづくぞう!」
 一枝がはしゃぐ。私は、
「せっかくの休みに、なんでそんなにゴルフをするんですか」
「オフになったら、それしかするスポーツがないからね」
 高木が、
「いきたいときに、サラッと仲間を誘って少人数でできる」
 小川が、
「スキーみたいにケガの怖いスポーツじゃないしな」
 中が、
「野球選手というのは、いろいろな人たちの支えがあって仕事をつづけることができるよね。球団、スポーツメーカー、スポンサー、テレビ業界の人。その人たちと交流を深めることもゴルフをする理由なんだよ。チャリティゴルフなんかもあるしね」
「かてぇー! 俺なんか、ただのストレス発散だぜ」
 また一枝がはしゃぐ。菱川が、
「一枝さんにストレスなんかあるんですか」
「いちおうな。実家のことで頭が痛い」
 江藤が、
「結局、オフシーズンのトレーニングの一環ちゅうことやろ」
 談義が一段落すると、ゴルフ組一同で大風呂へいった。菅野もいっしょにいった。足木マネージャーと鏑木と池藤は残った。池藤が、
「球団主催ですから、景品が半端でなく豪華です。優勝はアメリカ製のゴルフクラブとゴルフウェアーのセットですよ。二位が東芝の最新型カラーテレビ、三位は電動マッサージ椅子。参加賞でも、ブリジストンタイヤ四本購入券」
「小野さんはこなかったんですか」
 鏑木が、
「はい。ピッチャー陣はほとんどきませんでした。葛城さんと徳武さんも」
 足木マネージャーが、
「新宅さん、高木時夫さんもこなかったですね」
「ぼくも来年、ゴルフに参加してみようかな」
 江藤が、
「やめとけ。無理せんこったい。こいつらが参加するけん」
 太田たちが手を振った。鏑木が、
「飲み中心の親睦会ですから、ゴルフはゴルフ組にまかせておけばいいんですよ。神無月さんがこうやってきてくれるだけで、みんな明るくなります」
「二軍はいまどうなってます?」
「大幸で自主トレです。私の弟子たちが面倒見てます。ここにこなかったピッチャー陣は全員参加してます。門岡さんなんか正念場ですからね。松本忍は退団を決意して申請したら、来期いっぱいバッティングピッチャーでやってくれということになりました」
 江藤が、
「去る人、くる人たい。プロやけん」
 またドヤドヤと浴衣姿の高木たちが戻ってきた。雀卓に向かう。天才たちがシンから羽を伸ばしている。中、木俣、伊藤竜彦、江島で一卓、高木、一枝、千原、小川で一卓。菅野と私と土屋が見(けん)につき、江藤たちはテレビの前に肘枕を突いた。入れ替わりに足木たち三人が風呂へいった。
 襷掛けした仲居たちが入ってきて、長卓を付け合せて宴会の下準備をする。やがて、海のもの、山のもの、刺身、天ぷら、煮物、焼物、どっさり運びこまれた。中で彼らの喜んだものは、飛騨牛のサーロインステーキだった。私は筍と蕗の炊きこみめし、アサリの赤出汁をうまいと感じた。
 カラオケセットも用意されが、カラオケは菅野と星野と江島のほかは、だれも唄わなかった。江島は菅野と競って渋い喉を聞かせた。形ばかりでない拍手が湧いて宴会が盛り上がる中、待ちに待った夕方のニュースの時間になった。中京テレビニュース特番。モノクロだ。 
「本日十一月二十日、午前十一時より、日比谷日生会館において、第五回プロ野球新人選択会議が行なわれました」
「お、水原さん、うれしそうにしとる」
 たしかに川上監督や村山監督らは浮かない顔をしている。どしょっぱなに中日の一位指名になったからだ。一巡目の先頭を引き当てたということだ。
「中日ドラゴンズ、戸板光(ひかる)、二十二歳、投手、日本軽金属」
 水原監督がグイと拳を突き上げる。私たちも拍手する。
「やった! 戸板だ。彼を一位指名するのはドラゴンズだけでしょう。これで来年も楽しく野球ができる」
 順に各チームが一位指名をしていく。広島も戸板を一位指名した。日本軽金属の寮にカメラが切り替わった。戸板は仲間に囲まれて会社の食堂のテレビを観ていた。マイクを向けられ、
「高校で神無月くんと対戦したときに、将来はいっしょにやろうと約束したので、中日にいきます」
 と言った。私たちの拍手が炸裂した。二位指名になった。これも中日がどしょっぱなだった。
「中日ドラゴンズ、谷沢健一、二十二歳、外野手、早稲田大学」
 順ぐりの二位指名が始まる。谷沢を一位で指名したのは、阪神だけだった。コメント映像で谷沢は口辺に皺を寄せて笑っていた。
「中日にいきます。強力打線の中で出番は少ないと思いますが、だからこそやり甲斐があるし、勉強もさせてもらえます」
 江島が、
「谷沢は外野か……」
 江藤が、
「おまえの心配は当たっとる。来年、利ちゃんの〈埋め〉でおまえと谷沢が使われて、再来年はどちらかが定位置を取るということになるやろうもん。成績が悪いほうは当分出てこれんばい。これまでの葛城さんや徳さんの立場になる」
 千原が、
「俺はますますヤバくなるな」
「根性ばこめて練習せい! 弱音吐かんと」
「はい」
「ワシも四、五年して衰えたら、おまえがファーストに入るやろ。それまでがんばらんば」
「はい」


         五十三

 足木マネージャーが、
「法元スカウトの言ってた松本って、何位でしょうね」
 小川が、
「デュプロ印刷の松本だろ。榊さんから、四位ってチラッと聞いたよ」
 私は、
「二人になるんですね、松本が」
 池藤が、
「いままでの松本くんは、バッティングピッチャー専門に回りましたから、スコアボードも松本でだいじょうぶでしょう」
 巨人、一位小坂敏彦、二位阿野鉱二、三位小笠原照芳。同時併行で自宅あるいは学校の部室の映像が映し出される。本人と周囲の笑顔が〈ほしい絵〉のようだ。煩わしい。つくづく電撃でよかったと思った。小川が、
「一位二位は早稲田の四年生ピッチャーとキャッチャーか。相変わらず巨人は小物を獲ったな。巨人の哲学なんだろう。三位の小笠原って、早稲田を中退して自宅浪人してた男だよな。自信と根性があるんだよ。たしか金太郎さんの青森高校の同期だろ? 押美さんの話だと、キレのいいストレートを持ってるらしいな。モノになるのはこいつだけだろ」
「ありがとうございます!」
 私は思わず叫んだ。阪神は、一位上田、二位林、入団拒否、三位但田だった。中が、
「上田は東海大のサイドスローだね。あとは聞いたこともないな」
 大洋は、一位荒川尭(たかし)、入団拒否。巨人の荒川博コーチの養子である尭は自宅で、巨人とヤクルト以外は入団を拒否すると言明した。
「ヤクルトって何ですか」
 中が、
「アトムズが来年からヤクルトアトムズになるんだ。六大学野球の神宮球場をフランチャイズにする球団だから、こだわりがあったんだろうね」
 ヤクルトアトムズ、一位柳沢一夫、二位八重樫幸雄、三位西井哲夫。高木が、
「あれ、柳沢ってヤクルトにテスト入団してたんじゃないの?」
 小川が、
「柳沢は一級品だ。あらためてドラフト一位指名でチームの期待の大きさを打ち出したんだろう。テスト入団と発表したのは実験期間の意味で、正式入団ではなかったってことでさ。二位三位はパッとしないなあ。八重樫って、仙台商業のキャッチャーだろ。西井ってだれ?」
 だれもウンともスンとも言わない。足木マネージャーが、
「宮崎商業のピッチャーです。剛球じゃないですが、コントロールがいいです」
 広島、一位千葉、二位渋谷。みんな黙ってしまった。
 近鉄バファローズの一位指名は青森県立三沢高校の太田幸司だった。三原監督がニヤリと片手を挙げる映像。菅野が、
「近鉄の一位か」
 木俣が、
「何だろなあ、ドラフトって。金太郎さんが言ったとおり、カスばっかだ。うちの二人と小笠原と柳沢だけだよ、抜けてるのは。水原さんがニコニコしてるはずだ」 
 小川が、
「予備抽選で一位指名、二位指名、二つともに一番籤を引き当てた。おまけに本人たちが他球団を蹴って中日入団を確約したのは、水原監督の運の強さと言う以外ないな。星野と戸板を二十勝させれば、二連覇は堅い。投げすぎにならんように、俺たちがバックアップしてやらなくちゃな」
 菅野が、
「荒川は来年のドラフトまで浪人ですよね。うまく巨人やヤクルトが指名してくれますかね。黙って大洋に入ってたら、川崎球場でバンバンホームランを打ちまくれたのに」
 高木が、
「それは甘いかもね。親父仕込みで王と同じ一本足だろ。王みたいに鍛錬を積んだわけじゃないし、プロのスピードと変化にうまくタイミングを合わせられないんじゃないかな」
 テレビを消して、ふたたびみんなで飲み食いに戻った。今度は菱川や高木や小川がカラオケで盛り上がり、ほかの者たちは肩や顔を寄せて酌をし合った。彼らの酒の強さにはとてもついていけないので、私は星野や土屋や菅野たちとのんびりビールをすする。歌声が響きわたる大部屋で、みんな声高にしゃべる。仲居たちが時おり料理を運んできたり、酌をしたりする。
「来年、セリーグの新監督になるのは、十七日に就任した阪神の村山だけだな」
「パリーグは南海の野村、西鉄の稲尾」
「みんな球界のトップエリートだね。勝っても負けても、ファンは恨みっこなしになる」
「その三チーム、優勝はないな」
「なんで?」
「統計。四十歳以下の新監督が一年目で優勝したのは、昭和二十一年のグレートリングの鶴岡さんと、昭和三十五年の大毎の西本さんだけ。四十歳代もあんまりいなくて、昭和三十五年の大洋の三原さん四十九歳と、三十六年の巨人の川上さん四十一歳だけ。今年のドラゴンズの水原監督六十歳は、球界最高齢だ。とにかく新監督初年度の優勝は、まれが上にもまれだ」
 しゃべっているのは一枝だ。彼らの記憶力のよさには舌を巻く。
「ところで、きょうの球団納会のゴルフコンペは、だれの優勝?」
 足木マネージャーが、
「森下コーチと聞いてます。準優勝は水原監督」
「こんなに不参加のゴロゴロ組がいたんじゃ、来年以降は選手とフロントの合同コンペになるんじゃない?」
「そりゃ遠慮するわ。いろんな企業のおえらがたがくるのは気詰まりだ。愉しんでる気がしない。いいじゃないの、ゴロゴロしてるやつがいたって。メインは飲み会なんだから」
 しゃべっているのは木俣だ。江藤が、
「金太郎さん、来年もきてくれるとね?」
「はい、きます」
「金太郎さんはおるだけで、よか置物になるばい。ホッとする」
 菅野が江藤にビールをつぎ、菱川が菅野にビールをつぐ。
「菅野さんが参加したらどうね」
「いや、ゴルフは一向に不案内で。神無月さんの送迎役に徹しますよ。ゴロゴロ組五人のみなさんは来年からどうするんです?」
「ワシャ、ゴルフはへたくそすぎて人に迷惑かけるけん、やらん。三十五年からもう十年もゴロゴロしとる」
 太田が、
「俺はこのオフ、則博といっしょに、少し高木さんに教えてもらいます。江藤さんや神無月さんの不参加は、ポリシーというより自然体でしょう。俺の自然体は、仲間のすることはなるべく覚えて、仲良くすることですから。ただ、それをいつも神無月さんが笑って見守ってくれてないと、やる気がなくなりますけどね。菱さんは?」
「俺は飲み会参加のみ。ゴルフなんて考えただけで、からだがこそばゆくなる」
 星野が手を挙げた。
「ぼくは、来年か再来年から参加します。もう少し自分に形ができないと、よそごとを考えてられません」
「俺もです」
 土屋も手を挙げた。カラオケマイクから三人がぞろぞろ戻ってきて、話に加わる。小川が、
「選手納会は優勝した年だけにするって?」
 菱川が、
「そんな話、してませんよ。どういう耳してるんですか。納会ゴルフに無理に出なくてもいいって話です」
 高木が、
「だな。利さんみたいに腕や脚に故障のある人はなおさらだ。ただ、ゴルフ参加は避けてもいいけど、飲み会だけは出てくれないと納会にならない」
 中が、
「とにかく、一年の締めくくりに、なるべく大勢で集まるということだよ。プロ野球選手の忘年会だからさ」
 仲居たちがお替わりのめし櫃を運んできておさんどんをする。新しく刺身の盛り合わせや山菜の煮物も持ってきたので、それで二膳目のめしを食った。
 めしのあと、菅野はしばらく選手たちと世間話をしていた。ほとんど野球知識の開陳のし合いだったが、タクシー運転手時代の話は彼の独壇場になり、全員の笑いを誘った。
「難癖をつけて料金を払おうとしない人の言い草は、遠回りした、指示どおりに走らなかった、時間オーバーだ、の三つです。これは身分証を預かります、そのうえで上層部と相談します、と答えればたいてい解決しますが、財布をなくした、あるいはとりにいってくる、ドアを開けてすぐ逃げる、刃物で脅して逃走する、なんてのは警察に届けるしかありません」
「損害はどうなるの」
「被害届を出さなければ自腹で払うことになります。被害届を出していれば会社が運賃を保証してくれます。結局お金は戻ってこないんですけどね」
「酔っ払い客はたいへんでしょう」
「へべれけの客は乗せません。道路運送法第十三条、正当な理由があるときは乗車拒否ができる」
「見下してくる客もいるでしょう」
「はい、タクシー運転手イコール底辺の仕事という偏見を持っている客ですね。言わせっぱなしにして目的地まで送り届けます」
「稼げる客と稼げない客の見分けはつくの?」
「つきます。稼げるのはグループ客で、それぞれの家に乗せていく必要があるので、上客です」
「客と会話に困るなんてことも多いんじゃないの」
 野球選手は頭がいい。質問が応変だ。
「悩みますね。話しかけたほうがいいのか、静かにしてたほうがいいのか、話しかけても沈黙されて気まずいな、なんてときも悩みます。そういう事態にならないように、最初に挨拶したときの反応で判断したり、会話の中で見極めたりする力をつける必要があります。あまり話さないのが主流です」
「思い切りおもしろい話ってある」
「休日に家族で栄にいったときだったんですけどね、信号が替わるのを待ってたら、前に立ってた人が真横を向いて手を挙げたんですよ。ハイタッチしたいのかなって思ってペチンとやったら、タクシーに手を挙げてただけだったんです」
 爆笑になった。菅野も気をよくして、
「さっきの、会話に困るって話のつづきですけど、苦肉の策を編み出した同僚がいましてね。私、たくさん話題を持ってるんで、この中から選んでくださいって、メニューを渡すんです。免疫力アップとか、税金のない国、戦争の原因、人口削減、地球温暖化、末期癌でも治る、一万円札の原価、ホタテ、なんてものも並んでるんですよ。ホタテって何ですかね」
 大爆笑。もっともっとになる。
「客としておじいちゃんドライバーの車に乗ったことがあったんですけど、最近運転荒い人が多いけどおたくはおじょうずだから寝ちゃいそうですって言ったら、航空自衛隊で飛行機に乗ってましたから車の運転は簡単です、空とちがって道も標識もありますからって応えました」
 寝転がって笑うものまで出てきた。私は心の底からほのぼのとした。
 菅野がお休みなさいを言って自室に戻るころには、就寝組と麻雀組と酒組に分かれていた。私は江藤たちと就寝組に雑じった。充実した気分だった。菱川や星野の寝息を聴いているうちに、涙が一筋流れた。
         †
 朝六時に菅野と一階の露天風呂に入った。背中を流し合った。大部屋に戻っても、寝床を離れない徹マン組の寝惚け顔に声だけかけた。七時半に館内のレストランで、菅野と江藤たち六人と(江藤、太田、菱川、星野、則博、土屋)朝めしを食い、玄関で別れを告げた。
「じゃ、東京で星野をよろしくな。二十二日の夜に合流するけん」
「はい、一足先にいってます。じゃみなさん、春のキャンプで」
「オイース!」
 帰りの県道で朝市に寄って、トマト、竹の子、わさび漬け、椎茸、たくあん、朝めしのときにうまかった朴葉(ほおば)みそを買った。
「朴葉味噌は塩気が薄い甘口で、風味がいいの。酒や味醂や砂糖なんかを加えて好みの味にしてね。ごはんに載せて食べるとおいしいですよ。味噌汁に入れるなら、ダシを効かせてほんの少し入れるといいわね」
 売り子のおばさんの説明がよかった。
 ハンドルを快適そうに操りながら菅野が、
「いやあ、いい納会でした。寝るとき、思わず胸が熱くなりましたよ」
「ぼくもです。来年もいきましょう」
「はい、ごいっしょします」


         五十四 

 昼過ぎに北村席に帰り着いた。土産物を主人夫婦に預け、昼めしの最中だった連中に納会の話をした。あのほのぼのとした雰囲気はうまく伝えられなかった。主人がドラフトの話を仕掛けてきたので、青高時代の戸板との対戦の話をした。主人は、有卦に入ったのは神無月さんではなく、中日ドラゴンズだと言った。
 ソテツと幣原が私と菅野に天ぷらうどんとライスを出した。ぬか味噌で漬けたお新香がついた。うまかった。
「うまい」
 幣原が、
「ぬか味噌は塩加減なんですよ。こういうものをおいしいと言うのは、チョイとした食べものにも神無月さんは筋が通ってるということです」
「弱ったな。漬物食いにまで筋が通ってるんじゃ。そう言われるのも悪くはないけど、少しは欠点を言ってもらったほうがずっとうれしいな」
「無理です。神無月さんのことでは、私は素のろけしかできませんから」
 菅野とトモヨさんが直人を迎えにいっているあいだに、イネの手伝いでボストンバッグにワイシャツと下着類を詰め、正装した。戻ってきた直人にキスをし、一家の見送りを断って名古屋駅に向かう。まんいちに備えて蛯名と時田がついてきた。三時過ぎの新幹線に乗った。二人は新幹線にも乗りこみ、座席を離れて品川駅まで付き添った。三人で高輪口に出る。初めて降りる古風で大きな駅だ。
「もうここでじゅうぶんですよ」
 ハ、と頭を下げるが、戻ろうとしない。結局、時田と蛯名はプリンスホテルの玄関まで尾行の形でついてきた。玄関前に待機していた四、五人の組員に受け継ぎ、ようやく姿を消した。五時五分前。
 フロントカウンターにいく。二人の女子従業員と一人の男子従業員が律儀な礼をする。チェックイン。男子従業員が、
「神無月さま、いらっしゃいませ。授賞関係者のみなさまは十二階のクラブフロア五室のうち、一号室と二号室を待機場所として使っていただくことになっております。もちろん自室で待機なさってもけっこうです。神無月さまのお部屋はご予約のとおり五階の八号室でございます。当ホテルにはシングルルームはございませんので、ツインベッドになっております。あすの年間表彰式は、午後四時半より地下一階飛天の間で、二時間ほどの予定で行ないます。授賞関係者百七十二名、一般観覧・父兄同伴の小中学生観覧が四百名ほど入ります。メディア関係者以外の観覧者の写真撮影は禁止しております」
 隣の女子従業員の一人が、
「お食事は、球団名とお名前をサインをしていただければ、どのお店でなさってもけっこうです。これがお店のリストです」
 リストを手渡す。もう一人の女子従業員が、
「ご朝食は、各店とも午前の九時半からでございますが、ビュッフェでは七時半からご準備しております」
「人を部屋に呼んでもいいですか」
 江藤や山口や他の知人のことを考えた。まんいちの場合は部屋に呼びたい。男子従業員が、
「ご家族同伴を想定しておりますので、ご自由にどうぞ」
 部屋の鍵を渡す。
「お荷物お運びしましょうか」
「いいです」
 五階の清潔で殺風景な部屋にボストンバッグを置き、ロビーに降りる。二人の男が私を見失わないように、ラウンジの遠く離れた柱の陰に控えている。ソファに座り、コーヒーを注文して飲んでいると、肩を叩かれた。水野だった。
「水野!」
「よう! 顔を見にきた。年末に北村席を訪ねようと思ってたけど、これでいいや。一目会いたかっただけだから」
 内気そうな女を連れていた。
「こいつが、野球世界一、知能世界トップクラスの神無月郷」
 女は緊張してうなずく。
「気安く肩を叩いて悪かった。気が引けたんだが、なつかしくてさ。三冠王おめでとう」
「ありがとう。ちょっと座れよ」
「いや、いい。紀尾井とキャンパスで遇ったよ。あの野郎が早稲田にきてたとは知らなかった。地質学に幻滅したから、中退して、寺院建築の研究の旅に出るとか言ってた。おまえによろしくと言ってたから伝えとく。雨の多度山のことは一生の思い出だ。……カズちゃんさんによろしく。じゃ」
「卒業して進路が決まったら、また遊びにきてよ」
「このまま一生サヨナラってのは避けたいよ。いつも見守ってるからな。俺だけじゃない視線を背中に感じてがんばってくれよ」
「ありがとう。彼女と幸せにね」
 女の紹介はしないで去っていった。男二人が赤い顔で身近まで迫っていた。
「心配かけて申しわけない。牧原さんにはいつも感謝しているとお伝えください」
 男たちは直角にからだを折った。ふたたびロビーの隅に隠れる。
 腹が鳴った。時分どきなので、ロビーにだれか知った顔を探す。奥のソファに星野を発見した。後ろのソファを振り返りながらだれかとしゃべっている。近づいていくと、後ろにいたのは王だった。
「王さん!」
「やあ、神無月さん! 授賞式の様子を見物にきました。ぼくは今年の受賞はないのでね。一人ひとりの言葉を聞きたくて。いま星野くんからあなたの魅力についてたっぷり聞かされていたところです」
 星野は立ち上がり、
「昨夜は楽しかったです。ありがとうございました」
 と言って、私と握手した。王が、
「来月の二十五日、正午に北村席をお訪ねすることになりました。菅野さんから一泊することを勧められましたが、それは図々しいと思い、名古屋観光ホテルに予約を入れました」
「お気遣いすみません」
「訪ねたいと申し入れたのは私ですから、あたりまえです」
 大きなからだの張本が永淵洋三といっしょにやってきた。王と挨拶し、私と挨拶する。
「うん、見るからにあんたは異形(いぎょう)の者じゃのう。まぶしいわ」
 健康な左手を差し出して握手する。永淵も遠慮がちに握手した。王が、
「じゃ、私らはこれで」
 約束があったらしく、どこへともなく三人で去っていった。ラウンジに人はいるが、まったく寄ってこない。くつろぐ。星野が、
「王さんの顔を見ていたら、中華が食いたくなりました」
「ふうん。じゃいきましょう。ところで、王さんは台湾国籍のお父さんと日本人のお母さんとのあいだに生まれた、れっきとした日本人ですよ」
「そうなんですか」
 別館の古稀殿という和風建築物の中にある古稀殿という名の中国料理店に入る。配置のよい角テーブルが間隔を置いて並んでいる。安心して注文する。海の幸サラダ、五目チャーハン、五目焼きそば、それとミネラルウォーター。中国料理など知らないので和風の名前を見つけて注文する。
「台湾の人と富山県の人がどうやって知り合ったのかわかりませんが、親の馴れ初めというのはどの家庭も謎にしておくんでしょう。ぼくも直人に秘密にしておくつもりです」
「……秘密にしないのは、偉大な野球人ということだけですね」
 すきっ腹もあるのか、じつに美味。屋台の焼きそばとはちがう。最後に二人で生ビールをグラス一杯。満足する。しめて五千九百円なり。それに値するだけの味。球団名と名前をサインして出る。
 ホテル周辺案内パンフレットを手に、ロビー玄関から散策に出る。
「いつでもどこでも、神無月さんは散歩が好きなんですね」
「じっとしてられないタチみたいです」
 さらに警戒の度を増して男が三人ついてくる。夜空。古木が両側に密に茂る緩やかな坂道を下る。さくら坂の標示。
「人間に秘密なんかあるはずがないんで、都合が悪いとか、体面が悪いとか、子供が感じるにちがいないって思うことを、口にしないだけの話なんでしょう。子供が生まれるほどの現場では、人はみっともないことをたくさんしてるはずですから」
「そう言えばぼくも、親の馴れ初めなんか訊いたことがないですね。訊く気にもならないし」
「そんなもんですよ」
 長く曲がりくねった坂のふもとに出ると、緑が取り払われたビル街になる。と言っても高層ビルではない。
「落ち着いた都会ですね」
「名古屋の駅裏と似てます」
 歩道橋を渡って品川駅前へ。コンコースを通り反対側へ出る。何もない閑散としたビル街。品川村。中村村。落ち着く。
「でもちょっとちがうな、駅裏とは……」
「え、何がですか」
「妖しさがないんです。環境の大切な要素。飯場、蜘蛛の巣通り、松葉会……」
 階段を下りて、真っ直ぐ路地へ入りこむ。星野はわけのわからない顔でいっしょに歩き回る。三人の組員たちもついて回る。
「健康すぎるものは、つまらない。そんなものに囲まれてても、生きてる気がしない」
 飲食店、クリニック、カラオケ店、スナック、洋品店、無秩序な石畳の道。それでも健康のにおいがする。パンフレットを見ると、載っているのはほとんど食い物屋だった。健康の象徴。
 一筋越えて、猫の額ほどの緑地が目に入ったので、アスファルトの遊歩道を歩いてみる。なんだというほど呆気なく周回を終える。組員たちが出口に立っている。三十分は歩いている。男たちも星野も奇異な感じを抱いているにちがいない。
 ホテルのほうへ戻っていく。電信柱に港区とある。港、品川か。海は見えない。ホテルの前まで戻り、さくら坂の脇道を高輪公園の標示板のほうへ降りていく。樹木に囲まれたブランコと鉄棒があるきりのただの公園だった。園灯の下のベンチに腰を下ろす。タコ焼き屋でもあったら星野や組員たちに買ってやりたいと思ったが、そんなものはない。遠くの男たちに辞儀をする。直角に返す。
「さ、帰りますか。一軒の本屋もなかったですね。テレビでも観て寝よう」
「神無月さんの部屋は?」
「五階の八号室です」
「ぼくは六階の十号室」
「あしたいっしょに会場にいきましょう」
「はい」
「ぼくはもう少しラウンジでのんびりしていきますから」
「はい。……神無月さん」
「はい?」
「神無月さんが大好きです。どこまでもついていきます」
「ありがとう」
 辞儀をして去った。
 レストランにコーヒーを注文する。園燈の灯された庭園を見やりながら〈ふつう〉のコーヒーを飲む。部屋に戻り、ベッドに横たわる。テレビを点けると、ドラフトの後日報をやっていた。各チームの詳しい情報だ。甲子園のアイドル太田幸司、東京六大学の実力派谷沢健一、そして荒川尭がビッグ3と呼ばれ、戸板と小笠原は注目されていなかった。私は地団太踏む思いだった。
 中日ドラゴンズ十一人指名、入団拒否四人。四位指名の松本は、幸行(ゆきつら)という変わった名前であることを知った。読売ジャイアンツ十四人指名、六人拒否。阪神タイガース七人指名、三人拒否。大洋ホエールズ六人指名、一人拒否。アトムズ十四人指名、五人拒否。広島カープ十一人指名、四人拒否。パリーグは入団者の数だけ数えた。
 セリーグに四十人、パリーグに三十五人の新しいプロ野球選手が誕生した。この中からモノになる選手が何人か出る。しかしモノになるのは十人もいない。指名を拒否することは〈悪いこと〉のような風潮があるけれども、私はそう思わない。よかれ悪しかれ、彼らが背負いたかった運命だからだ。ただ、彼らは悪いことをしたわけではないにしても、野球そのものを深く愛していない行動をとったことだけは事実だ。愛のない人間にとやかく言っても仕方がない。指名を拒否した彼らの大半は、永遠にプロ野球界にたどり着けないだろう。例外は、おととし西鉄を蹴って去年阪急に入団した山田久志と、四年前に中日を蹴って翌年大洋に入団した平松政次だけだ。運命的なチャンスは一度しかないと私は信じている。押美スカウトの髪の毛をつかみ損ねた日に、私の命運は決まっていた。―背中に冷えた汗が噴き出した。私がいまプロ野球選手として存在するのは奇跡だ。



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