五十五

 十一月二十二日土曜日。八時起床。寝すぎるくらい寝た。曇。七・五度。うがい。やや柔らかめの排便。シャワー。歯磨き。爪も髪もOK。きちんと背広を着る。日本庭園内の桂という店で鉄板ステーキを食う。廊下で組員たちに遇ったので、一人に寄っていき、
「授賞式が終わったら、個人的な予定で動き回ることになりますので、もうだいじょうぶですよ」
「は、授賞式が終わるまでは目を離すなと言われとります。その後はすみやかに引き揚げます」
「ご足労おかけして、ほんとうにすみません」
 男たちは直角に辞儀をする。廊下の外れから手を挙げながら、ワイシャツ姿の小川がやってきた。男たちが去った。
「小川さんにしては早いですね。四時半からですよ」
「ああ。水原さんやコーチ陣や中さんたちも見にきてるぞ」
「ほんとですか!」
「うん、ほとんどのチームのスタッフはきてる。だいじょうぶ、食事会なんて野暮な誘いはないから。じゃ、俺は一階のフィットネスにいって、酒の汗を搾り出してくる。それから腹ごしらえだ」
 ラウンジの奥へ歩いていった。私も自室に戻る。
 仮眠をとるつもりが、三時過ぎまで熟睡する。いくらでも寝られる感じだ。起きて歯を磨き、館内のケーブルテレビのチャンネルに合わせると、十二時半から始まっていたファーム表彰式の様子をやっていた。ホテル専用の館内放送のようだ。
 最多勝利投手も、最多盗塁賞も、MVPも中日の選手ではなかった。それを観ながらゆっくり背広を着る。臙脂のワンタッチネクタイをつける。地下一階のプリンスルームの控え室に入る。監督、コーチ、現役選手、オールドボーイ、百人ほどコーヒーを飲みながら歓談している。小山オーナーも村迫代表も白井中日新聞社社長もいた。水原監督が手を挙げる。彼に寄っていくと、部屋じゅうから拍手が上がった。
「わざわざ見にきてくださってありがとうございます」
「なに、私は東京在住だから。川上さんもね」
 川上と王がにこやかに手を挙げた。たしかに各チームの監督連中がいた。その他見知らぬ顔も大勢いた。正直、居心地が悪かった。ホステスに出されたコーヒーをうつむいて飲んだ。
「納会ゴルフはいったの?」
「江藤さんたちと部屋でゴロゴロしてました。飲み会は楽しかったです。ぼくは飲めない口ですが、飲める人のお酒を見てるのは楽しいです」
 川上が、
「やあ、私も弱いんだ。この王くんは酒豪だよ」
「はい、耳にしてます。江藤さんと双璧だと。江藤さんはこのごろ少し控えてるようです」
 話が途絶える。王の横に妙にヒゲの濃い柴田勲が座っている。離れたテーブルにいた阪神の村山監督が、
「谷沢くんを水原さんに持ってかれちゃったよ。神無月くんがおるんやさけ、何もそこまで欲を張らんでもええようなもんやけど」
 水原監督が頭を撫でつけながら、
「戦時中の食い物じゃないけど、食えるうちに食っておかないとね。プロ球界は常に戦時下ですから」
 話が途絶える。背広をバリッと着た星野が控室に入ってきて私の隣に座った。かなり緊張している。江夏が寄ってきて、
「神無月さんは人見知りするから、俺がみなさんのお相手しましょう」
 と言って水原監督の脇に座った。小川がバリッとした背広姿で入ってきた。すぐにこちらの席にくる。
「おお、江夏くん、最多勝もらっちゃってごめんね。しかし、防御率一・八一なんて、俺には永久に雲の上だよ。奪三振二百六十二もすごい。俺、百二十個だもの。沢村賞を獲った年だって百七十八。去年のあんたの四百一個なんざ世界記録じゃないの」
 江夏の横に座る。
「いえ、世界には四百以上の人が七、八人います。五百以上が一人。コーファックスの三百八十二は更新しました。ここにいる星野くんは勝率拾割、防御率○・九九だし、そこにいる鈴木啓示は今年二百八十六奪三振ですよ」
 鈴木が顔の前で手を振って、
「俺、防御率二点台切ったことないすから。被本塁打も多いし」
「俺と同じやないか」
 ようやく場が和んできた。私はテーブルの向かいにいた長池に、
「昭和四十年の阪急のドラ一でしたね。あこがれのチームだったんですか」
「一位指名してくれればどこへでもと思ってました。いまのように、あそこがいやだ、ここが好きだと言う時代じゃありませんでしたから。その日はちょうど、昼間京都でツタンカーメン展を見て、その帰りに買った夕刊でドラフトの結果を知ってね。えっ、と驚きました。できれば、南海へいきたかったんですが」
 隣の西本監督が苦笑いする。私は、
「肩にあごを載せると、顔はより正面を向きますね。内角への反応が速くなります」
「そのとおりです。ぼくは内角が弱かったんです」
 江夏がホウと感嘆の声を上げた。
 女性係員がやってきて、どうぞ会場にお入りくださいと声をかけた。いっせいに全員立ち上がる。私と小川と星野は水原監督のそばを離れず歩いた。
「お三人さん、あらためてありがとう。優勝をさせてくれたほかに、こんな名誉の受賞までしてくれて、私は幸せいっぱいですよ」
 小川の目が潤んだ。
「みんな心の底で、監督のためにがんばろうと思ってます。その結果がこれです」
「ありがとう、ほんとに」
 プリンスルームに入ると、四人がけの丸テーブルが、十卓五列、合計五十卓二百人分用意されていた。カメラマンが百人近く部屋の周囲に控えている。前のほうに蒲原と浅井の顔もある。濃い茶色のカーテンを引かれた大きなステージの前に、テレビカメラが二台据えられていた。
 受賞者がステージに近い一列目の四卓に導かれ、表彰関係者の主だった人たちがその後方の二列十卓に導かれた。その後方の二列十卓にはおそらく関係スポンサーの代表者たち、少しあいだを置いてさらにその後方の二十六卓に報道関係者たち、折り畳み椅子数十脚に一般の観覧者がすでに腰を下ろして控えていた。
 私たちが入場してテーブルにつくまでのあいだ、大きな拍手が鳴りつづけた。
 日本野球機構役員や両リーグ会長や企業関係の重鎮たちの長い前説と祝辞のあと、ステージ下に控えた司会者によって次々と各賞授賞者の名前が呼ばれていった。
「公式記録表彰からまいります。投手部門。セリーグ、最優秀防御率投手、○・九九、中日ドラゴンズ、星野秀孝!」
 拍手。間断のないフラッシュ。音楽は流れないが荘重な雰囲気だ。
「同パリーグ、一・七二、ロッテオリオンズ、木樽正明!」
「セリーグ、勝率第一位投手、十四勝零敗、中日ドラゴンズ、星野秀孝!」
「同パリーグ、十八勝七敗、近鉄バファローズ、清俊彦!」
「セリーグ、最多勝利投手、二十六勝二敗、中日ドラゴンズ、小川健太郎!」
「同パリーグ、二十四勝十三敗、近鉄バファローズ、鈴木啓示!」
 色とりどりのライトが点滅するなか、名前を呼ばれた者はステージに登り、両リーグ会長から楯と賞状を受け取った。楯と賞状はすぐさま係員の手でしかるべき場所へ運ばれていった。
 最多三振奪取投手、江夏豊、同鈴木啓示、とつづき、
「打者部門。セリーグ、首位打者、六割五分四厘、中日ドラゴンズ、神無月郷!」
「同パリーグ、二名同率、三割三分三厘、近鉄バファローズ、永淵洋三! 東映フライヤーズ、張本勲!」
「セリーグ、最多打点、三百八十三、中日ドラゴンズ、神無月郷!」
「同パリーグ、百一、阪急ブレーブス、長池徳二!」
「セリーグ、最多安打者、二百九十九本、中日ドラゴンズ、神無月郷!」
「同パリーグ、百六十二本、近鉄バファローズ、永淵洋三!」
「セリーグ、最多出塁数、四百、中日ドラゴンズ、神無月郷!」
「同パリーグ、最高出塁率、四割二分一厘、東映フライヤーズ、張本勲!」
「セリーグ、最多盗塁者、四十五個、中日ドラゴンズ、神無月郷!」
「同パリーグ、四十七個、阪急ブレーブス、阪本敏三!」
「セリーグ、最多本塁打、百六十八本、中日ドラゴンズ、神無月郷!」
 拍手と歓呼が爆発した。会場全体が轟然となる。
「同パリーグ、四十一本、阪急ブレーブス、長池徳二!」
 爆発して止まない拍手の中へ、長池に送られる拍手が吸収される。
「つづきまして、記者投票表彰にまいります。今年度最優秀新人の発表でございます。セリーグ、中日ドラゴンズ、神無月郷!」
 また爆発。
「同パリーグ、ロッテオリオンズ、有藤通世!」
 長池と同じ運命になる。
「いよいよ本年度、最優秀選手の発表でございます。記者投票百九十三票満票! セリーグ、中日ドラゴンズ、神無月郷!」
 爆発が噴火になった。シャーという耳鳴りが激しい。耳ではなく、脳が鳴っている。
「同パリーグ、阪急ブレーブス、長池徳二!」
 数分もして拍手がようやく止み、カメラがステージ下にズラリと並ぶ。長池にマイクが渡される。
「初めての受賞なのでほんとうにうれしく思っています。優勝しないとやっぱりMVPは獲れないと思いました。西本監督はじめ、シーズン中いっしょに一生懸命戦ってきたチームメイト、裏方さん、そしてファンのかたがた、すべてのみなさんに感謝したいと思います。去年今年とつづく大杉くんとのデッドヒートの中で、奇しくも四十本と四十一本、たった一本の僅差をよく戦い抜き、勝利を収めることができました。ホームランバッターとしてまだまだ体力的にも伸びる部分もあるし、一つひとつのプレーももっとよくなると思っているので、そういう自分に期待しています。チームを支えられるバッターにもっともっとなっていきたいし、連覇を目指してがんばっていきたいと思います」
 私にマイクが渡される。フラッシュがまぶしすぎるのでうつむいた。光は下からくるので、もう一度顔を挙げ、会場の遠く上方を見つめた。
「こういう場では何をしゃべっても悪謙虚な言葉と受け取られるでしょうが、偽らざる気持ちを申し上げます。何よりも、このようなさまざまな賞をいただけて光栄です。関心のある好きなことをして賞をいただけたということに戸惑いを覚えます。バッテリーのような苦労の多い複雑なことをしているのでなく、私はただ、バッターボックスの中でバットを振り回して遠くへ飛ばすのが好きなバッティング野郎にすぎません。野球をまだ知らない幼いころは何をするともなく、人恋しい気持ちの中でぼんやりすごしていただけの少年でしたが、野球に目覚め、野球に恋をし、自分に打撃の才能のあることを知って夢中になり、心ならずも、曲折した野球人生を経験するなかで、やがて私のその無我夢中な姿を愛してくださる人びとに次々と巡り合い、その幸運に喜び、彼らに感謝の気持ちををお返ししようと日々鍛錬しているうちに、水原監督はじめ中日ドラゴンズフロントに拾っていただき、チームの人たちからエコヒイキと呼べるほどの愛情を注がれ、いまやどうしたことかすぐれたバッターとして賞賛の渦中にいます。信じられません。信じられないほどの賞賛と愛の中で暮らせるようになった以上、その喝采と愛がつづくかぎり、この生活をつづけていこうと思います。喝采の鼓舞と愛情を与えてくださった一人ひとりのみなさまに心から感謝いたします。この身のつづくかぎり、みなさまに応えるために鍛錬を惜しみません。ありがとうございました」
 フラッシュがきらめき燃え上がるなか、轟々と拍手が鳴り響く。受賞者たちも激しく拍手していた。頭の上のほうでアブラ蝉のような耳鳴りがしていた。
         †
 やはり食事会になった。なだ万高輪。だれもビールや酒を飲まない。食事をしたらすぐ切り上げるという暗黙の了解だ。酒に弱い私のからだを配慮しているのだ。
 水原監督、小山オーナー、白井社主、村迫代表、宇野ヘッドコーチ、太田コーチ、本多コーチ、足木マネージャー、小川、星野秀孝、水谷則博、私の八人、日本庭園を望む大きな窓に面した豪華なカウンターに座った。
 本多コーチが、
「則博が、ウェスタンリーグで、最高勝率のタイトルを獲得しました」
 拍手。水原監督が、
「来年一軍での活躍、期待してるよ」
「はい、がんばります」
「小山オーナー、ブランコと砂場、ありがとうございました」
「その顔は、気に入ってくれたようだね。水原くんの進言です」
 白井社主が、
「感動的なスピーチだった。拾ってもらったなどと……身についた自然な謙虚さなんだろうが、素朴な本心として受け取るしかないだろう。きみの〈曲折した野球人生〉をわれわれのだれもが知悉(ちしつ)しているからね。リスペクトのひとことだよ。中日ドラゴンズは人間国宝を抱えているようなものだね」
 水原監督が、
「西本さんが、金太郎さんに感激して、ナニモンじゃ、を連発してたよ。村山くんと王くんはボロボロ泣いていた。ステージではこの小川くんも江夏くんも手放しで泣いていたな。私も涙を絞った」
 小川が、
「監督の赤誠を体現したような人物ですからね、金太郎さんは」
 太田コーチが、
「金太郎さんをじっと見ていると、ホームランやら打率やら、すべて忘れてしまう。そうして、とんでもなく大きなものに引きずりこまれる」


         五十六

 すし懐石で小腹を満たし、つづいて、すき焼きコースが用意される。一人前ずつのすき焼き鍋。小山オーナーが、
「足木くん、トロフィーと楯、賞状はうまく回収できたかね」
「はい、各自の自宅へ配送の手続をとりました」
 白井社主が、
「賞金はどうなってるの?」
「すべて小切手ですので、これも換金して各自の口座へ振り込む手続をとります」
「内わけは?」
「少し長くなりますが、お伝えします。神無月くんにも慣れてほしいので。耳で慣れるだけでいいですよ。大正製薬、三井、住友、カルビー、TBS、日本テレビ、テレビ朝日、テレビ東京、フジテレビ、などといったところで賞金協賛がなされてるんですが、最優秀選手賞は三百万円、各個人タイトル百万円、したがって金太郎さんは八百万円、星野くんは二百万円、小川さんは百万円ということになります。ちなみに小川さんは沢村賞の三百万円をフイにしております」
 笑いが弾ける。その小川が、
「ベストナインの五十万はいただきました。オールスターのMVPと、日本シリーズのMVPってどのくらい?」
「三百万円と六百万円です」
「ウヘー! それと車か」
 私は、
「そんなにあったんですか! 困ってしまいますね」
 宇野ヘッドコーチが、
「スター選手は〈金の箔〉みたいなもので雰囲気ができ上がっていくけど、金太郎さんにはまったくそれがない。プロ野球も客商売とは言え、ドラゴンズの連中は清潔な気持ちで野球ができるよ」
 小山オーナーが、
「どれほど清潔な気持ちでいても、この強さがつづくかぎり、私はどんどんチームメンバーたちに金を出しますよ。協賛会社の献金パイプが太いんでね。金で汚れていくやつはそれだけの器だということだ。そういう堕落はドラゴンズ以外のチームにまかせておこう」
 小川が、
「それだけ他球団の選手が金にシワくなるというのは、球団のピンハネが関係してるからでしょう」
 小山オーナーが、
「そうだと思う。たとえば、コマーシャル出演の契約金は、球団八割、選手二割ということになってる。スポーツ企業との契約金は、フィフティフィフティ。うちと巨人と阪神はむかしからいっさいピンハネしない」
「きょうの賞金なんかもそうでしょう。ま、賞金をもらったことのある選手は、これまでの経験でわかってますけどね」
「そうだね。選手の才能と努力の結晶をピンハネなんかしない。そんなことするのは悪魔だよ」
 そういう仕組みだとは知らなかった。白井社主が、
「水原くん、よく戸板を獲ってくれた。彼はどうかね」
「十五勝は堅いでしょう。星野くんが二十五、小川くんが十五、小野くんが十、これで六十五勝。水谷則博くん、土屋紘くん、伊藤久敏くん、水谷寿伸くんが四、五勝してくれれば、八十勝いきます。二連覇の可能性があります。再来年、小野くんの十勝が消えたときのために、戸板くんと、四、五勝クラスの連中がもう少しがんばってくれれば、三連覇も見えてきます」
 小川が、
「俺、三十五歳ですよ。おととしの二十九勝が最大のピーク、今年の二十六勝が第二のピーク。第三のピークはもうないですね。来年はおっしゃるとおり、よくて十五勝だと思います。三十七歳の再来年が十勝、その翌年あたりに五勝して引退、という青写真を描いてるんですよ」
 水原監督が、
「そう思ってくれてるだけで心強いね。そのころには、二十勝以上のピッチャーが三人ぐらい出てくるかもしれない。中くん、江藤くんあたりの衰えを、菱川くん、太田くん、江島くん、谷沢くんが補ってくれるものと期待してる」
 小山オーナーが、
「谷沢くんはいけそうなんだね」
「球界を代表するシュアなバッターになると思います。ホームランは大して期待できませんが」
 小川が私の分のすき焼き鍋も作ってくれる。本多コーチが、
「めでたい席でこんな話題を出すのもなんですが、永易将之が永久追放処分になるらしいです」
 白井社長が、
「ああ、そのようだ。今月の二十八日に、きょう賞状の渡し役だったセリーグ会長鈴木竜二とパリーグ会長岡野祐が東京銀座コミッショナー事務局で、コミッショナー委員たちと頭突き合わせて決定委員会を開くようだね。芋づるで、向こう一年以内に、何人か永久追放になるだろう」
 小山オーナーが、
「小野くんと小川くんは、事実を主張するだけでお咎めもなく不問に付すことができたが、葛城くんは無理のようだね。田中勉から金を受け取っちゃってる。移籍先の阪神でクビを切られるんじゃないかな」
 私は、
「葛城さん、そのあとどうなってしまうんですか」
「……田宮くんが引き取るようだ。彼の経営する自動車修理工場に勤めさせると言っていた」
「情熱的な人なのに、残念ですね。葛城さんのことは、ときどき榎本喜八さんとの関係で思い浮かべたことがありました。昭和三十年ごろから葛城さんの打撃成績がグングン上昇していったことが、榎本喜八さんを鬱屈させて、変人にしてしまった原因ではないかと考えたんです。思いつきにすぎませんけど……。同期入団の仲間に水をあけられるのはつらいものだと思うんです。もちろん榎本さんは、三十五年から三割を打ちつづけ、首位打者も二回獲り、安打製造機とまで言われるようになりましたが、自分が不調だったころに打点王二回、最多安打二回も獲った葛城さんの影にいつも脅かされていたと思います。葛城さんは、三十五年以降は衰えましたが―」
 本多コーチが、
「そのころ、うちにきたんだよね。三十九年だった。打率も二割七分前後でけっこうよくて、ときどきホームランを打つ意外性のあるバッターとして活躍してくれたんだけど、なんせ守備がね……。榎本の守備率は九割九分二厘で、いまなおパリーグ一塁手の記録保持者だ。長嶋でさえ九割六分台だからね。それを神無月くんが十割に塗り替えた」
「ドラゴンズみんなは、そんなにエラーしてますか?」
「いや、していない。しかしゼロじゃない。江藤くんは昭和三十四年に、一塁手として九割九分三厘、三十七年に捕手として九割九分五厘、去年まで外野手として九割九分二厘を二回記録してる。高木くんは難しい守備位置の関係上、九割七、八分だが、それでも大したものだ。一枝くんは、今年はよかったけど、例年は九割五、六分、中くんでさえ、今年の九割九分三厘が最高だ。葛城くんは外野では九割八分だけど、内野では九割四分だ。神無月くんの十割は驚異的な記録だよ」
 中の失策を思い出せなかった。
「今年の中さん、ミスしてますか?」
「二回ね。二塁への返球ミス一回、バックハンドの土手でポロリ一回」
 肉が煮え、仲居の手でめしが盛られる。もりもり食う。煮上がったシラタキとネギがうまい。
「たしかに、百回の守備機会で六回ミスすると目立ちますね。しかしそんなものは、得点に結びついたときに取り沙汰されるくらいで、ピッチャーのフォアボールと大差ありません。問題になるのは、無気力なエラーだけです。今年のドラゴンズにはそんなものは一つもなかった。だからノーエラーの印象があるんですね。ぼくも一つ、ライナーをポロリとやった記憶があります。本多コーチ、十割じゃないと思いますよ」
 小川が、
「そうだ、真正面のライナーをポロリとやって、あわてて拾って矢のような送球で二塁に刺した」
「それでエラーでない印象になったんです。たしか、藤田平じゃなかったですか?」
 本多コーチが、
「神無月くん、無理に思い出させて悪かったね。たとえ十割じゃなかったとしても、きみには華麗な守備者の印象がある。葛城くんにはない。そのちがいは大きい。ぶざまにエラーしたという印象だけで、野球選手は去ることを惜しまれないんだ。ファンの信頼感に響いてくるからだよ。きびしいね」
「はい。記録よりも印象だということは、王さんと長嶋さんを見て感じていました。心します」
 水原監督が、
「魅せなくちゃいけない仕事はたいへんだ。味方チームまで魅了できる選手はほんものだ。味方というのはファンの一種だからね。葛城くんはいい選手だが、アピールポイントに欠けていたね。則博くん」
「はい」
「小川くんから魅力を学びなさい。雰囲気というやつだ。飄々とした力投タイプ。稲尾くんや米田くん、小山正明くんもそうだな。金田くんや村山くんと似ているのは、江夏くんと平松くんと星野くん。完全な力投タイプ。杉浦忠くんや梶本くんは余り力をこめず地肩で投げるタイプ。堀内くんや小野くんもそうだね。とにかくみんな一定の雰囲気を持っている。雰囲気を持っている選手の特徴は、表情が柔らかいことだ。負けん気の強そうな顔や、苦虫を噛み潰したような顔は、味方にもファンにも不快だよ。無表情というのも感心しないね。ポーカーフェイスは勝負の真っただ中でこそ重要だが、怒りたい節目や笑いたい節目には思い切り感情を出したほうがいい」
「ガッツポーズはどうですか」
「思わず出てしまうなら、とても自然だ。私もよく跳びはねる。作為的でないものはすべて自然だ。ピッチャーは三振を取ったとき、バッターはホームランを打ったとき、そういうときに浜野百三くんのように吠えるのはみっともない。あまりにも勝負を重視しすぎてる。そこまでプロ野球選手は勝ち負けに拘っていないものだよ。個人的に感情が心地よく解放された表情になるのが自然だ。つまり、無表情でない機嫌のいい顔だ。無表情も、吠えるのも、作為がありすぎる」
「はい、よくわかりました」


         五十七

 小山オーナーが、
「さ、いよいよ二月からは明石だ。宇野くん、太田くん、何か考えているプランはあるかね」
 宇野ヘッドコーチが、
「とにかく走ります。ダッシュ主体ではなく、ジョギング主体です。持久走。二月の末に地元民のために紅白戦を四試合ぐらいやろうかと」
「ふんふん」
「交流戦は取りやめにしようと思います。交流する意味がありませんし、そんな時期の情報などアテになりませんから」
 太田コーチが、
「紅白戦は、投打ともに力を抜いて、肩慣らし、バット慣らし程度にします。ホームランがたくさん出るので、地元民もそのほうが喜びます。オープン戦はまじめにいきます。健太郎や米田の投げ方で、力あるボールを投げられるようになるのが理想です。バッティングはまったく心配しておりません」
 小山オーナーが、
「アメリカ帰りの足木くん、いろいろなことを勉強して戻ったろうが、へたなグローバリズムを図らずに、日本に合った広報技術を取り入れてください。期待してますよ」
「はい。一つご提案があります」
「何だね」
「月に一度、父兄同伴の小中学生一家に入場料半額の日を設けていただきたいのですが」
「おもしろいね。さっそく立案にかかってください。開幕時期からそうしましょう」
「それから追々、父兄以外のご婦人半額も」
「それも日を替えた優待で、月に一度やってください」
 水原監督が、
「足木くん、ある種のチャリティですね。おもしろい案だ。わざわざ恵まれない子供たちを探し出して招待するなどと、肩肘張る必要がなくなる。全国の球場にまねされそうだ」
「そうなるとますます野球人口が増えます。閑古鳥が鳴く球場なんて、ほとんどなくなるでしょう」
 白井社長が、
「よし、きょうはこのへんにしよう。小川くん、金太郎さん、星野くん、水谷くん、おめでとう。末永くわが中日ドラゴンズの誇りでいてくれたまえ。とりわけ金太郎さん、きみは日本国の誇りだ。水原監督はじめコーチ陣も、私どもフロントも、きみを国からお預かりしていると思っている。自由に羽ばたいてくれたまえ。そして、その自由な姿をもって同胞たちによき影響を与えてくれたまえ」
「ありがとうございます」
 水原監督が、
「小山オーナー、白井社長、きょうはかくも贅沢な席を設けていただき、ありがとうございました。今後とも有能な人材にはよろしく目をかけてやってください。選手の育成には万全の注意と責任を持って取り組みますので、ご安心ください」
 白井社主が、
「いつまでも三塁コーチャーズボックスで元気な姿を見せていてくださいよ。少なくとも十年は倒れたらだめです」
「はあ、摂生に努めてがんばります。金太郎さんの言う、愛と感謝があればがんばれるでしょう」
 水原監督や二人の重役、コーチ連、足木マネージャーと廊下で別れてから、小川と秀孝と則博と四人、しばらくラウンジの喫茶店でコーヒーを飲んだ。則博が、
「正直なところ、自信がなくなりました。一軍の年間授賞式を見ていて、みんなそびえ立ってる人ばかりで」
 小川が、
「何言ってるんだ。そびえ立ってるのは金太郎さんだけだろう。あとはぜんぶ地べたのドングリだよ。俺たちの仲間たちだ。おまえはな、土屋よりもストレートに切れがある。スタミナもある。伊藤久敏と競る。せっかく金太郎さんが引き上げてやった土屋だが、いくらストレートが重くても、ベースのそばでお辞儀をする。伸びないんだ。おまけに気が弱い。あと一、二年だ。よくもって三年」
「そうなんですか」
「ああ、登板機会はほとんどないだろうな。小野親分はあと一年、俺もあと二、三年。星野秀孝と戸板とおまえ、しばらくその三人でドラゴンズを背負っていくしかないんだ。明るくやれ。水原さんが言ったみたいに」
 私は、
「土屋さんは、内角に沈んでくるボールに力があると思ったけど、あの日だけだったのかな」
「そうかもな。コースがよかったんだろう。天馬相手に緊張した成果だな。それでも金太郎さん、ほとんどスタンドに放りこんだんだろ?」
「はい」
「見た目よりボールが軽いんだな。……俺たちのゴルフなんかについてきて、へらへらお世辞使って、こりゃいかんと思ったぜ」
 悪口屋でない小川が悪口を言っている。よほど見こみがないということだ。どのピッチャーも私一人と戦っているのではない。私一人の感覚でそのピッチャーの価値が決まるはずもない。彼を苦手とするバッターもあれば、得意とするバッターもある。百分率で彼の価値は決まるのだ。私一人に打ちにくそうに見えても、ほとんどのバッターに打たれたのでは、彼の存在価値は低くなる。
 これからは大物ぶってくだらない感想を漏らすのは控えよう。ひょっとしたら、私のお節介のせいで土屋の引退を早めてしまったかもしれない。軽率なことをした。
「土屋さんにすまないことをしました。まだまだ二軍で鍛えて成長するチャンスがあったのに、無理に一軍に引っ張り出して、彼の選手生命を縮めてしまったみたいですね」
「いや、あのままだったら一軍に出てこれなかった。無理でも、誤解でも、とにかく一軍生活を経験できていい思い出になったろう。金太郎さんの声がかからなければ、あのまま二軍でおさらばだったな。このラッキーを活かして、あと三、四勝でもできれば、自分なりに満足してプロを辞めていくさ。じつのところ、伊藤久敏も、水谷寿伸も、余命は俺と同じくらいだ。たぶん五年ももたないだろう。則博、おまえ肩壊したことないか?」
「はい、ありません」
「スリークォーターのせいもあるかもしれないが、肩が丈夫なのも才能のうちだ。大事にして、投げこみすぎないようにしろ」
「はい」
「じゃ、俺は寝る。あした早く名古屋に帰って、自主トレに入る。中日球場の秋季キャンプにも顔を出して、新人のガッツを見てみよう。なんなら、投げて見せてもいいけど、冬場は用心しないとな。結局見るだけになるかもしれん」
 どんな季節も野球を忘れない小川の心意気に感服した。則博が、
「俺も秋季キャンプに出ます。まだからだができ上がってないし、合同でできる練習はどんな練習にも参加するって決めたんで」
 三人とエレベーターで別れる。もうどこにも松葉会の男たちの影はなかった。さりげなく姿を消した。あらためて彼らの真剣な眼差しと態度を思い出した。
 ぼんやりシャワーを浴びる。
 ―国宝?
 来年四、五十本のホームランを打ち、三割、百二十打点程度の成績を残せば、ただの人になれる。ほんのわずかな狂いでそうなるだろう。耳鳴りがシャワーの音に紛れる。どんなこととも共存できそうだ。
         †
 十一月二十三日日曜日。七時起床。快晴。十・一度。うがいから始まるルーティーン。ドアの下に差し入れられた新聞の見出しだけ見る。

  
セリーグ初三冠王 神無月打撃賞総なめ
 
 小川と星野と水谷が挨拶にくる。部屋に招き入れて、しばらく話す。私は緑茶を入れながら星野と則博に、
「秋季キャンプ、張り切りすぎないようにね」
 秀孝が、
「長谷川コーチが言ってました。きびしい練習は一定の効果を生み出すけど、その効果は長つづきしない、それはただ単に命令に従うだけで、自分のスタイルを作り上げられないからだ、どれほど熱心に指導されても受動的な態度しかとれない選手は、一流のレベルへいけない、たいていの野球人はそのことに気づいてない、野球関係者は野球を教育というレベルから解き放ち、もっと野球そのものを楽しむ方向へ進むべきだ、って」
 則博が、
「神無月さんそのものですね。長谷川コーチはこんなことも言ってましたよ。ジャイアンツ人気には根強いものがあって、地元球場にジャイアンツが乗りこんできても、半数以上のファンが地元チームの敗戦を祈ってジャイアンツに声援を送るというのが現実だ」
 ニヤニヤ聞いていた小川が、
「もっとショッキングな調査があるぞ。ジャイアンツファン六十パーセント、阪神ファン二十五パーセント、その残りの十五パーセントが十チームのファンてやつだ。ジャイアンツは異常なほどあらゆるマスコミと関係を友好的に保とうとする。最大の人気のもとはそこだ。ジャイアンツが若手選手に対していかに練習させすぎているか、まったく問題視されない。長谷川さんはそこのところも言いたかったんだろう。しかしそんなことどうでもいいじゃないか、好きな野球を思い切りやれるんだから」
「はい!」
 秀孝が、
「王さんて、感じのいい人でしたね」
「ああ、芯のある男だ。彼はそういう巨人を認めてるというんじゃなく、別の意味で巨人一筋の頑固者だ。むかし彼が、ベーブ・ルースとルー・ゲーリックのサインボールを差し出されて、どちらかを選べと言われたとき、躊躇なくゲーリックを選んだ。理由を訊かれて、ゲーリックはヤンキース以外のユニフォームを着なかったからと答えた」
「ヤクザ気質ですね」
「そんなところだな。王は毎日球場にやってくると、イヤな顔ひとつせず、次々に差し出される色紙にサインし、笑顔を絶やさず、ファンの一人ひとりにやさしく声をかける」
「笑顔まではなんとかできますが、自発的に話しかける言葉は思いつかない」
「俺にも無理だ。彼は黄金の心を持った男と言われてるけど、いきすぎだと思う。たしかに利己的な人間ではないと認めるが、それじゃ彼独特の感情がないことになる。人間として殺風景だ」
「適当な風景はほしいですね」
 星野と則博が愉快そうな目で小川と私を見つめている。
「風景があれば気持ちが和む。金太郎さん、今度は十二月半ばの契約更改で遇うかも知れんな」
「そうですね。そのときまでお元気で」
「おう。遇えなかったから、キャンプだ。せいぜい骨休めしろよ」
「はい」
 彼らを玄関まで送って握手し、手を振り、そのまま散歩に出る。報道陣は引き揚げている。外周に樹木があるきりの高輪公園。樹木の種類は多いようだと気づき、見て回る。ケヤキ、桜、シラカシ、ハナミズキ、アオギリ、ニレ。潅木はツバキ、枯れたツツジ、枯れたアジサイ……。
 



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