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5月27日

流行というのはおかしなものだ。ことに西洋から来る流行は、たいていの場合、日本をなおさら醜くし、その弱点をいっそう露骨に曝し出すようなものばかりである。


5月14日

ヴィクトリアマイルで228万馬券を取った。苦手な中央G1での初の大勝利である。3月10日の平レース53万馬券につづくゴロリとした大勝利だが、いままで征服できなかったG1で大万馬券を獲ったということがうれしい。これで、クラッシュ事故で失った車の残余金を払い、ローンをはじめもろもろの借金や税金の一部を返済し、来年の冬熊本の親友を訪ねる資金もできた。計算ではあと八百万ほど当てなければ、すっかり身が軽くなったとは言えないが、それでもいっときの幸せな気分には浸ることができる。幸運をもたらしたコイウタ(松岡)―アサヒライジング(柴田)―デアリングハート(藤田)の名前を私は一生忘れないだろう。買い方はいつもの通り、《人気薄の差し―逃げ―人気薄の差し》だった。フォーメーションで100円を30点買った。

四年前の正月に五万円で始めた電話投票が、いまなお元金を保ってラッキーがつづいている。これほどつづくと何もかもうまくいきそうな気がしてくるが、うまくいっているのは競馬のみである。その余は、万事、青息吐息だ。2、3、4月と家賃にも苦しんだ果てのボーナスは感謝のきわみで、たしかに喜びも一入なのだが、私には幸運に頼れない仕事も成し遂げなければならないという重い使命がある。書こうと思い定めた作品を書きつづけるのは、文字どおり塗炭の苦しみである。将来出版されるかどうかわからない文章を死ぬ思いで書きつづけている人間が、この世にどれほどいるだろう。きっと天の神が私を見守っていて、命より大事な作品以外のことに僥倖を降らせつづけているのにちがいない。だから私は、大切な作品の完成目ざして疲労困憊の日々を送りつづけなければならないという按配なのだ。

じつによくできた話だが、実際私が本質的に痩せるほど苦しんでいるのは、意に染まない人間関係への円満な適応であり、現実の生活費を稼ぐ現場での精神的不具合であって、作品の制作に付随するストレスではない。制作の場では疲労の吐息が青ばんでいるだけのことで、表現の定着には絶えず僥倖が降り注ぐので、心は十全に救済されている。生活の現場にこそ魂(たましい)救済の僥倖が降ってきてほしいのに、そこでは私は煙たがられ、ある種の心的な排斥を受けている。やはり神は、他との融解を必要とする生活の場には自力更生を強い、芸術や、恋愛や、賭け事といった、一六勝負にだけ僥倖を降らせるのかもしれない。


5月3日


 らしさというものは、じつに理不尽に、年齢という枷をはめてしまう。それのない人間は、まず若い。ほかに要素を探るなら、成し遂げたとか、完成したとか、頂点に立ったという思いを抱きにくい性格、常に未完の感覚を持つ人は若さを保ちつづける。彼らはまだほんの青年のような顔をしている。話すことも、やることも若い。まだまだ身を持ち崩す危険さえ秘めている。為すことある者は、年齢のイメージに拘泥して自分自身を老人と思うわけにはいかない。新しいサンプルを作る責がある。しかし、若く見えたからといって素敵なわけではない。この人は何歳だろうと気にならない人間が魅力的なのだ。




07年5月
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