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2月25日



 入試の季節になり、その解答を出すことにシャカリキになっている。毎度のこと、あらゆる方面との音信が絶えた。私がそれに懸かりきりになっていると知人のだれもが知っているからだ。寂しい気がする。大切な時間を捨てて懸かりきりになるには、入試問題の底が浅すぎる。胸を揺する感銘がない。政治・社会・経済・科学……こんなことにかまけて友人たちとの連絡が途切れることに、忸怩たる思いがしきりにこみ上げてくる。

入試問題はなぜかくもつまらないのか。それは、一時間あまりの短い試験時間では、人間を慈しんだり穿ったりするような哲学的テーマを出題できないからである。ならば入試の課題を作文一題にして、彼や彼女の人間哲学や文章構成力を試せば、はるかに能ある鷹を象牙の塔に呼び込めると思うのだが、実施する大学も、しようとする大学もない。どんな有為の受験生も、その時間だけは、学者という一分野の好事家の狭い好奇心に蹂躙されなければならない。したがって掬い上げられるのは、八割がた、真正の才能を持たない、肩書き好きの《秀才》ばかりである。本質的な才人は幾度も捲土重来を強いられるか、無慈悲に巷に放り出されるかである。嘆かわしい。

この種の問題を解くことに快感を覚え、手際よく解答できると、鬼の首を取ったかのごとく胸を張る教師たちも多い。彼らの人生航路は資格と肩書きでギチギチに埋められている。こんなつまらない問題が解けたからといって、何の誇らしいことがあるものか。そういう同僚とあと何年かでも生活のために共生しなければならないと思うと、つくづく気が重くなる。たしかに問題は無意味に難しいし、分量も多い。試験の目的がわからないほどだ。そんな出鱈目な問題を解くためには手際が必要だろうし、学術的な知識や経験も必要だろう。しかし、それは人間として誇らしい知識や経験や手際ではない。解けたことで人間としての優秀性も証明できない。

いずれにせよ、教育に携る主(教師)客(学生)ともに、いびつで狭小な世界に暮らしている人間が大半を占める。その目的の先に、人間そのものではなく、人間を人間らしくしつらえるための装飾品が横たわっているからだろう。最晩年が近づいて、私の心に寒い風が吹く。かつて日本のくだらない教育体制に乗っかり、くだらない狭き門を嬉しがってくぐり、それに基づいたくだらない知識を仕事の礎としてきたことを、私はいま心底から悔やんでいる。私は常にその装飾品を捨ててきたのだと主張したところで、問われれば答えることのできる肩書きを卑しく飯のタネにしている以上、私のかくなる屁理屈も憤りも何の信憑性もないのだ。

こうなったらマグレでも何でもいいから、この一年私の関心を牽き、私の好んできた人間性豊かな学生が、一人でも多く受かってくれればいいと思う。この世知辛い入試に君たちが受かるには、冗談や極論ではなく、マグレしかない。おのずと私の身についてしまった軽蔑すべきレベルの低い知識を、これからも乞われれば進んで教えようとは思うけれども、この学問看板を行列させた入試には大して役立ちはしないだろう。少しでも役立つところがあるなら役立ててくれればいい。そしてそんなものでもせいぜい利用して、めでたく合格を手に入れ、一応気がすんだら、早いうちにその肩書きを捨てて、人間らしい真実の道へ踏み出して欲しい。空を見上げ、山や海を見晴るかし、大地にうつむき、ようやく地上にうごめく人間の奥深さにハタと気づいて、愛する人たちとの生活や、自分の趣味や、芸術に励んで欲しい。まちがっても凡人や凡人の装飾品に感銘してはいけない。人間本来の情操に長けた才人・奇人にこそ感銘すべきなのだ。装飾を求める人生はそのことを教えてくれない。教えてくれるのは、愛する者との生活がもたらす喜びや苦悩であり、目指した趣味の完遂であり、興味深い芸術への耽溺だ。ほかにない。

2月7日

堤孝教と後藤守男と私は、最も完全な高い意味における親友として、四半世紀以上の期間を語り合ってきた。つまり、私たちは互いに釈明したり、報告したり、弁明したりするために、互いの時間を奪い合ってきたのである。
 しかし、すべては言葉以前に釈明され、弁明されていた。結果はすでに到達されていた。私たちは三人とも、それを知って幸福を感じ、互いに顔を見合わせるだけでよく、釈明や弁明は装飾にすぎなかった。


あれあ寂たえ夜の神話
著者:川田拓矢
出版社:近代文芸社
税込価格:2,415円

07年2月