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4月14日

五十七歳の一年が終わろうとしている。還暦が近づくころから、シミや白髪といった外見については神経が過敏になってくるが、なんとなく年齢そのものに対する意識はあやふやになる。実年齢のことを考えるのを生理的に避けるからかもしれない。いつまでも若人気取りでいたいがために、瞬時に年齢の意識を飛ばすというのも、セコいといえばたしかにそのとおりなのだが、肉体の活性を保つという意味では、かなり有効なものだと思う。

いまのように長生きしなかった江戸・明治のころは、年齢の告知は十二支ですんだ。

「年は?」

「丑(うし)だ」

「へえ、俺は虎だ。ひとつちがいか」

 いくつになっても、俺は丑だ、で通し、それで生涯を生き、じゅうぶん用が足りるのでいちいち年齢を気にしないですんだ。それでじゅうぶん使命感を保持しながら、年齢とは関係なく若々しく生きられたのである。

還暦ともなると、往時は驚嘆の念を持って長寿の祝を施されたものだが、平均寿命が七十、八十を越える昨今では、そんなもの長寿でも何でもなく、もちろん長寿の祝などしてもらえるはずもなく、ただ無理やり老人の仲間入りを告げられるための呼称と化した。

「あなたはもう老人ですよ」

 と、お節介の言辞を弄されるのは、若い気でいる人間にはうれしいことではないし、やる気を削がれることでもある。あと三年か、とふと思うことはあるが、いずれにせよその手の行事的な世渡りが苦手な私は、いざその日を迎えてもにこやかに笑って黙殺することにしている。


4月8日

世界の先進国、具体的にはOECD加盟国のうち、山野に猿が棲んでいるのは日本だけである。北アメリカにもヨーロッパにも、オーストラリアにもニュージーランドにも猿はいない。魏志倭人伝ではなぜか日本の姿が著しく南方的に描かれているが、それは猿が棲むことからの連想によるものと思われる。笑うべき誤解だ。

ところが、ハリネズミはイギリスからユーラシア大陸全域、朝鮮半島にまで分布しているのに、日本にだけは棲んでいない。かつてある総理大臣が日本の専守防衛をハリネズミに譬えたことがあるが、たぶん他国の人びとに根本的な誤解を生んだことだろう。日本人の大多数はハリネズミなど実際に見たことはなく、テレビか何かで、敵に襲われると栗のイガイガのようにからだを丸め、鎧の棘で身を守るハリネズミの姿を目にして、専守防衛の代表みたいに思ったのにちがいない。じつは、ハリネズミは攻撃的な肉食獣である。専守防衛どころか、夜な夜な積極的に出歩いてほかの生き物を襲い、自分の倍の大きさもある固い鱗をまとったトカゲでさえ殺戮して食する。これでは日本は、いつでもどんな強敵でも取って喰う怖い国だということになる。根拠のない知識のひけらかしから生まれる誤解は、程度の差はあっても、要らざる摩擦につながる。

年を取るにつれ、うかつにウロ覚えの知識を口に出せなくなった。政治や経済はもとより私の守備範囲でないので口に出したことはないが、映画や音楽や文学といった自分では相当の領域をカバーしていると信じている分野のことに対しても、年々寡黙になってきた。その分野の他人のホラや嘘にはすぐに気づいても、これまたやはり口を閉ざす。こちらからあえて摩擦を引き起こすこともない。

しかし、一般論はそこまでにして、心の隅に忸怩たるものが残る。人間というのは、言いっぱなしの楽しい生き物でよいのではないか。無知に生まれついているからこそ、言いっぱなしで恥もかき、深く反省して勉学に励む。そこに喜ばしい本質的な向上がある。人間は機械ではないので、万事に精確は期せない。そこに思い至れば、おのずと寛大の心が湧き、自分にも他人にも神経を尖らせずにすむ。誤解に固執して他人を揶揄するのは、幼い精神作用なのだ―

わかってはいるが、年ごとに臆病の度合いは増してゆく。



     



07年4月