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6月30日

わかりにくい映画ばかりを推奨する、Hというカリスマ的フランス語教授が東大にいた。彼の取り巻きは、彼と同じように口髭を生やして、ふさぎの虫にとりつかれたような顔をしてわけのわからないことを言い合い、ぞろぞろと彼の背中に随って歩いていた。少しばかり興味を持ってそういう学生に話しかけてみても、「宿便に利く薬がある」とか、「進振りのときAが幾つないと教養学科に進学できない」とか、「祖父がもと国鉄総裁だ」とか、くだらない会話に巻き込まれるのが関の山だった。

私は最初の二、三回だけHの授業に出てみたが、いつも、鏡面のように撥ね返して、心の中へ浸透することを許さない冷やかなその目と、白い柔らかそうな手につい視線がいった。それらはなぜか私を苛立たせた。さらに、これも彼の表情と口調から気づいたのだが、彼の学生たちに対する深い蔑視や、自分の意見の正しさを立証する根拠のあまりに曖昧なことも(たとえば東大出身者以外の学者は信用できないというごとき)、私に不快な驚きを与えた。東大でなければ海外だと言うのか? 彼は実践家の立場で無想家を非難するかと見れば、たちまち風刺家の立場から教養なき者を皮肉に嘲笑し、また厳しく論理的になるかと思えば、次の瞬間には形而上の世界へ高踏するという具合だった。

彼は文学部の教授だったが、文人ではなかった。だれでも真面目に文学をやりだすと、自然と自己の問題に行き当たる。いまさらのように自分の心を取り出してみて、それをできるだけ深く掘り下げ、細かに解剖し、自己というものの本質を突き止めずにはいられなくなる。だから、私をいつも脅かしている、考えていることをことごとく言い表すわけにはいかないという悩みは、絶対彼の頭に巣食うことはあり得なかったし、自分の考えていることや信じていることはすべて無意味なことではないだろうかという疑惑が、一度も彼の心を襲ったことがないのは明らかだった。

6月24日

【立場】

私は茫漠とした変わり者で、大物(それが私への社交辞令である)らしくおっとりとしていて、だれのじゃまにもならないし、予備校の緊張した印象全体を損なわないばかりか、かえって新進講師連の活気と機転に対する好対照として、彼らを引き立てる役を務めている。この二十年のあいだ、私は一途に創作に没頭し、そのほかのほとんどのものを無視してきたために、自分の興味を惹かない外界では、無関心と放任と寛容の調子がおのずと身についてしまったが、これが技巧的に身につけたものでないだけに、かえって学生やほかの講師たちの胸にぼんやりと尊敬の気持ちを起こさせるようだ。

私はまるで劇場へでも入るように講師室や教室へ入っていくし、みんなが顔見知りだから、だれにでも同じように笑いかけ、そしてだれにでも同じように無関心である。同僚たちの中で私は興味ある話題にぶつかると、ときには話に加わることもあるけれども、そうなるとその場の空気にはまったくふさわしくないようなことを、ぼそぼそと言い出すのである。しかし、予備校界でも名うての変わり者という定説がすっかり固まってしまっているので、だれも私の突飛な言動をまともに受け取る者はいない。

6月9日

ペンクラブの会合に、私は一度きりで出なくなった。推薦者の遠藤周作氏が亡くなって、参会する意味がなくなったということもあったけれども、会合の質があまりにも粗悪で同席に耐えないというのがその原因だった。

立食宴のホールにたむろしている人びとを見ると、まだデビューしたばかりの者の顔には羞恥と恭順の気持ちが書かれていたし、比較的高名な者の顔には、一様に、いかにも磊落ぶった仮面の下に隠された、この世界での辣腕ぶりと、自分の立場を待ち遠しげにしている後進をあざける気持ちが現れていた。

もの思わしげに歩き回っているノンフィクション作家もいたし、こそこそ話し合いながらニヤけている歴史評論家もいたし、また、自嘲気味のひとり笑いを浮かべながら、ホールの隅でカレーライスをかき込んでいるテレビの脚本家もいた。出版社の人間となぜか熱烈な握手を交わし、ぺこぺこしている新進作家もいた。私は彼らのいじけ切った様子に、驚きの目を瞠らずにはいられなかった。たしかに彼らは私に欠けている実務上の粘り強さをあり余るほど持ち合わせていた。しかし身を立てるための実務という知的活動は、人の心を恐怖にまみれた潤いのないもにしてしまう。

 私は臆病な彼らが嫌いである。彼らの恐怖と権力欲が嫌いである。好き嫌いというやつは、自分でもどうにもならない。私は冷やかな突き放すような目で彼らを見納めると、急いでホールを出た。もう二度とこの種の場所に近づくまいと決意して。




07年6月