週言コーナー 週に一度拓矢先生の生の声が聞ける
6月
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6月29日

 西武新宿線の中井にマルタという小料理屋があった。いまはない。わかってはいたが、先日、店の前まで歩いて、空しくそのことを確かめてきた。看板だけが残っていた。
 三十四年前、マルタへ私を初めて連れていったのは、中井に住んでいた御池理史(さとふみ)という熊本出身の学友だった。彼の友人の松尾や、中尾、田中といった九州グループが同道した。十人程度が坐れるカウンターと、奥に十畳ほどの座敷があった。生もの、煮物、焼き物、鍋、何でも出した。ただし焼き鳥と肉は出さなかった。どれもこれも満点の美味さだった。とりわけハマチの分厚い切り身、車海老の丸焼き、ハマグリ、青々とした大茄子焼きは圧巻だった。酒の銘柄に凝っている様子はなかったが、ただ食べ物の一つ一つに値が張った。学生に手の出る値段ではなかった。支払いは御池がした。
 四十格好のマスターは変わり者だった。小熊のような丸顔に愛らしく窪んでいるクリクリ眼を厳しく光らせて、客の飲み食いする様子を密かにうかがっていた。アラ煮や焼き魚をつまみながらグズグズ飲んでいるサラリーマン体が嫌いで、よく追加注文を断ってお引き取り願っていた。豪快に飲み食いする客を可愛がった。が、そんな連中にも一人ひとり目配りして、
「食い方がなってない。食いの細いやつは出世しないぞ」
と難癖をつけては、カウンターから手を伸ばして車海老の殻を剥いたり、おろし大根にポン酢をかけたりした。
「ポン酢は、ちょっと……」
酢の類が苦手な私は辟易した。もっと自由に食わせろ、と思った。柱の陰から割烹着姿の奥さんが、申し訳なさそうに微笑していた。
 御池に同道しなかった数少ない場合も含めて、数十回はいった。一人でいったこともある。卒業してからもいろいろな人間を連れていった。マスターは相変わらず口うるさかったが、食べ物の美味がそれを相殺して余りあった。いつだったか、箸の休んだ合間に、席にいない二三の学友の名を上げて消息を聞いた。名があやまたないので、驚いた。記憶力のよさは特筆ものとしても、いったい何時のまに記憶したのだろうと訝しんだ。
 年を経、私は四十を過ぎてようやく『牛巻坂』を上梓するチャンスに恵まれた。出版記念と称して若い仲間をマルタへ連れていった。人数が多かったので、特別に座敷をあてがわれた。マスターに本のことを報告したら、彼は一瞬相好を崩して、すぐに買うよ、と約束した。
「四十で本を出したか。むかしから川ちゃんには、御池ちゃんが入れこんでたもんな。川ちゃんもがんばってるんだ。俺も、まだまだがんばらなくっちゃ」
 川ちゃんと初めて呼ばれた。うれしかった。彼は相変わらず厳しい顔で若者たちの海老の殻を剥いて回っていた。
翌月店を訪れると、早速、彼は包装カバーで大切に覆ったままの『牛巻坂』を差し出し、私にサインを求めた。私は照れながら、表紙の裏に知ったようなせりふを記した。マルタさんへ、と書いて、マスターの名は聞かなかった。彼は私の本をカウンターの客に見せびらかし、さかんに私のほうを指差していた。
それからも決まった面子で二ヶ月に一度は顔を出した。そのつど彼は私にハッパをかけた。
「一冊で終わりかい、川ちゃん。一冊くらいなら、俺だって書けるぞ。どんどん書かなくちゃ。食の細いやつと、努力しないやつは出世しない。人生、あっという間だよ」
十年ほど前の寒い一日、うまいものを食わせてやるから、と元予備校生たちをマルタへ連れていった。また座敷に通され、さんざんご馳走を振舞ってもらったあと、〆にアンコウ鍋が用意された。
「東京新聞に宣伝が載ってたから、注文して買ったよ。書いてるね。大したもんだ。もっともっと書きな。全部、買うから」
私はマスターの差し出した三冊目の著書にサインをし、住所まで書いた。
「マスター、ちょっと痩せたんじゃない」
愛想を使ったのではない。マスターが黒く痩せているのが気にかかった。彼は手を激しく振って否定し、活きのいい早口で、
「なに言ってんの。心配してくれんのはありがたいけど、どこもなんともないよ。人が嫌がるほど長生きさせてもらうわ。俺がいなくなったら、東京でうまいものを食わせる店がなくなっちまうからな。俺の還暦のときは、大盤振舞いをしてやっから」
 そう言って、私が仲間のほうを振り返った隙に、私のもみじおろしの小鉢にポン酢を差して去った。還暦という言葉で、私は、学生時代にマスターに出会ったとき、まだ彼は三十代半ばだったことを知った。
 それから半年ほど足が遠のいたある日、見知らぬ名で訃報が届いた。亡くなったのは高山なにがしという名の男で、病名は肝臓癌。差出人を見るとマルタ・高山××子とある。割烹着の奥さんだった。
〈あとを継ぐものがなく、長年愛していただいたマルタを閉じることにいたします。来年に迫っていた主人の還暦のお祝いの約束は、残念なことに果たせませんでした。申し訳なく思っています。皆様によろしくお伝えください。―どうかご健勝にお暮らしくださいませ〉
という自筆の添え書きが悲しかった。私はマスターの名前を初めて知った。突然、彼の丸顔にときおり浮かんだひょうきんな笑いが思い出され、私は長いこと悲しい気分に沈んだ。病床に見舞いにいく隙すら与えずに、マスターは逝ってしまった。
「ずるずる死にぎわを見せるようじゃ、人間、まだまだだよ。いっしょけんめいやって、あるときストンといなくなるようじゃなきゃ」
 そんなふうに彼が言うのが聞こえるような気がした。 
還暦の大盤振舞いなど待つ必要はなかった。たとえ単身でも、もっともっと通っておけばよかった―。
奥さんが住所を知っているのは私だけだったはずだ。私は学生時代にマルタの常連だった友全員に、高山マスターの死を報せた。
以来私は、焼き魚や鍋物のつけ汁にポン酢を差すことが多くなった。いまでもマルタの噂話が私たちのあいだで持ち上がると、かならずだれかが、マスターの海老を剥く格好や、ポン酢を差す姿を真似てみせる。そして、
「もう一度、あのうまいハマチや海老を食いたいな。マスターのおせっかい付きでさ」
 と呟くのである。
 

6月22日

 
 この数年、とんと喫茶店を見かけなくなった。「コーヒーでも飲むか」「おう」という掛け合いも耳から遠のき、《喫茶店》は、筆職人や取り上げ婆ほどの死にざまではないが、日傭取、靴磨き、新聞少年などと同じ水準で衰亡してゆく言葉になりつつある。
かつて若かった私たちは、茶を喫する効能など考えなかったし、喫茶店そのものの効能も考えたことがなかった。極論すると、喫茶店は茶を喫する場所ではなかった。一日の余白を愉しむための緑陰だった。人生にたっぷり先行きが残っていることに甘えながら、友と語り、女と語って時間を徒費するフォーラムだった。だから喫茶店に入れば、かならず真剣な議論があり、交誼があり、ときには悲しい訣別があった。授業の締めくくりも、オールナイトの締めくくりも、酒や徹マンの締めくくりも、そして同棲生活の締めくくりでさえ、すべて喫茶店がなければ格好がつかなかった。
 センチメンタル・ジャーニーを目論んでなつかしい場所をたずねていくと、むかしのいきつけの喫茶店はかならず廃墟になっている。むろんそこが現代ふうに意匠を凝らして改装されていても、心に荒涼とした風が吹くという意味で、ルーインの姿を曝していることになる。私は余白にフタをされた廃墟にたたずみ、昔をなつかしむ。思い出は余白のなかにある。その余分な時間の中で、どんなに人間に希望し、どんなに人間を無情に放下してきたか―それはことごとく人生の潤いの記憶として残っている。
 文化の二大巨頭である書店と喫茶店。書店はクズ本を庶民に提供するマンモス倉庫と化して生き残った。喫茶店は店舗を拡大もせず手狭にすることもなく、客に余白の時間を許さずただ追い立てるだけのチェーン店にその地位を譲った。人びとは慌しさを愛するようになった。余白の制限や切り捨てが潤いを滅ぼしてしまった。また若人の心に戻り、喫茶店にたむろして議論をしたい、友情を確かめたい、女を引き止めたい、明日を想わず無限の時間の幻に浸りたいと願うことは、見果てぬ夢と化した。もう《喫・時間》店はないのだ。


6月15日


 
今回の出版をめぐって奔走してくれている一人に、古山善猛という友人がいる。青森高校時代、ふと交わした文学的な会話から、なぜかおたがいの「ものごとに慣れない精神」に惹かれ合い、深い親交を育み合った男である。二人とも胸に涙を蔵した読書家であるというところが、堅い絆の根底にあった。ただ名門校の一員であるという選良性に甘えて怠惰になっている私とちがって、彼は勤勉な秀才であり、年齢に似合わない社会的な広い視野を持っていた。そのくせ私の少年性には寛大な度量を示した。多分彼は私のことを、ウマが合うやつだと感じたのだろう。

私の転校がきっかけで高二の春に別れ、断続的に文通を交わしたのち、大学時代に神田の『田園』で再会した。彼は思想上の充実を顔面にみなぎらせ、日和見の私とはすでに氷炭相容れない匂いをからだから発散させていた。シガレットボックスの豪快な開け方が目に焼きついた。以来、ぷっつり消息を見失ったまま、二十数年を経た。

その彼が、偶々行きつけの図書館で『牛巻坂』を発見し、東京の出版社に本人確認をしてきたのである。まちがいなく著者が私であると知り、社から聞き出した私の住所に便りをよこした。彼は青森市の役人になっていたが、プロと見まがう流麗で論理的な文面から、二十数年前のいっとき臭った〈権力〉にまとわりつく俗の臭気を感じ取ることはできなかった。その瞬間、私たちのあいだに新たな親交がすみやかに回復した。

私たちは東京のホテルで再会し、酌み交わしながら語り合った。なつかしかった。おそらく曲折した人生経験のせいだろう、多少角の削れた表情はしていても、その言い回しや笑い方はまぎれもなくあのころの彼のものだった。机で鍛え上げた思想の充実は、役人としての実践のそれへと拡大されているようだった。加えて、静かな語り口調の中に隠しきれない情熱があった。おたがいが属している仕事の種類はちがっても、私たちの胸底に秘めた情熱は、邪心のない高校時代とまったく変わっていないのだと確信した。どうしてそう直観できたかは、解釈も説明もつかない。

別れぎわ、彼の嘆息した「雪を書きたいと思ったことはないか。……雪を書けたらなあ」という言葉がきっかけで、私は『ブルー・スノウ』に着手した。『風と喧噪』を書き上げた翌年だった。書いている間じゅう、彼の嘆息が頭にあった。

苦労の甲斐あって、『ブルー・スノウ』は素朴で普遍的な作品に仕上がった。彼の肝煎りでその本は新聞に紹介され、さらに彼や彼の配下の手で書店展開が企られて、東北地区に販売網を広げることができた。それを契機に彼は私を青森に呼び、功なった学友たちを招いて、遅れた同窓会を催してくれた。彼らは私を、異数の出世をした作家のように扱った。私は彼らの前で酔いつぶれ、せっかくの歓待に十全に応えられなかった。

それからも古山は、私の再販書籍の新聞書評の取り付けを積極的に推し進め、また次作『光輝あまねき』を完成に導くべく、二年間にわたってたえず励ましの手紙を送ってよこした。繁忙の中、無名の人間を励ましつづけることは並大抵の心づくしではない。私はなにか勝手のちがう気分を抱きながらも、気持ちを強く持って、創作の日々に精励した。


 あめつちに われひとりゐて たつごとき

  このさびしさを きみは ほほえむ   (会津八一



ついに『光輝あまねき』は完成した。人の好意と期待に応えようと、私は二度つづけて文章を書いた。私のこれまでのパターンにない文章の書き方だった。そうして、完成の時期を気にせず自発的に筆を滞らせながら書くサイクルでも、人から表現の完成を心待ちにされながら書く緊急のサイクルでも、書くべきテーマと情熱さえ失わなければ、きちんと作品をものすことができるという深い自信を得た。ひたすら彼の心づくしおかげである。

現在、古山は青森市役所の教育課の筆頭の地位にいる。先回は彼の音頭取りで、青森市の主要二書店に私の全著作が並べられたが、青森市民図書館には〈川田コーナー〉まで設けられるというし、いずれ青森高校の図書館にも配架を図るつもりであるらしい。感謝のしようのない快挙である。

孤独に生きてきた私にとって、こういった状況は、なぜか自分が陸に上がった老魚であるという感を抱かせるが、あらためて他力の凄さを思い知っている。いや、これら一連の出来事に他力などという概括は効かないだろう。これは確実に、古山個人の実践力なのにちがいない。彼の周囲を動かす影響力の強さには、つくづく神秘的なものさえ感じるし、だれもが彼のようなことを実現できるとも思わない。どういう仕組みなのかはわからないが、いずれにせよ、私の友情と才能を信じる彼の底知れない情熱が、彼を囲む人びとを動かしていることだけは確かだろう。彼の役人としての腕のしたたかさも折に触れて伝わってくるし、彼の実行力と面倒見のよさに関係者から寄せられる信頼も厚い、と仄聞もした。晩年に至って、私はこの偶然に得た僥倖、すなわち、古山善猛という男の手で岸辺から漕ぎ舟に投げ込まれた力強い友情の櫂を借りて、創作という困難な荒波を乗り切ることになった。



6月8日

 異能というものの実在を知り、私の中から自我への執着が消え、魂が澄みわたるような謙虚な心持ちを獲得できたのは、高校時代に習い覚えた麻雀がきっかけだった。私はそのゲームによって自分がいかに愚かに生まれついたかを思い知り、この世の片隅に逼塞する人間の頭脳の偉大さに驚嘆した。

 横地美樹名古屋西高の鈍才で、目の大きいさわやかな美男子だった。高三の夏、家出先から母の手で腑甲斐なく連れ戻されたころ、誘われて彼の部屋で生まれて初めて麻雀を打った。彼に命じられた基本的な教本を徹夜で暗記して勇んで出かけた午後だった。いざ実戦に入ると、いっさい頭が回らず、主立った役のほかは、符も得点計算も思い浮かばなかった。他の三人はそれを難なくこなした。それだけでも驚きだったが、特に横地は自分の手役が完成したときばかりでなく、他人が上がったときも、覗きこむだけで本人よりも早く一瞬のうちに役と得点を申告した。よけいなおせっかいとは思わなかった。目と頭が自然に反応してしまうのだろう。結局私は一度チートイツを上がったきりだった。あれから三十八年が経ち、私は、若くして自殺した彼の三倍あまりの人生を永らえた。おそらく彼の数百倍の回数の麻雀を打ちながら、いまなお私は彼の得意だった〈一瞬〉という技を体得できないままでいる。

 キチハマ大学一年の秋に出会った、十八歳の料理人見習いである。高円寺の『葵荘』という雀荘にはびこっていた。浜野という名で、刈り上げの迫力のない顔をしていた。1970年当時、点5の麻雀で月に二十万円も稼ぎ、みんなからキチハマと渾名されていた。椅子に行儀悪く立膝をしながら摸打牌して仲間の顰蹙を買い、おまけに十局のうち七、八局は下品なチー、ポン麻雀だった。喰うとかならずと言っていいほど北の裸単騎になった。だれも北を切らなかった。しかし彼はそれをほぼ百パーセントの確率で引き上がった! 私はようやく綽名の本来の由来を理解した。大学二年の春、彼の親方が雀荘にすごい形相で現れ、彼を無理やり卓から引き剥がして連れ帰った。それきり彼の姿を見かけることはなかった。ふるさとの新潟に帰って、流しの雀士になったらしいという噂だった。

 ショウちゃん四国松山の団地に暮らしていたパチンコ店員だった。歯の汚い細面の男だった。四国麻雀大会で優勝したと人づてに聞いたが、本人の口からは聞いたことがなかった。あるとき彼は私に、

「チンイツ牌を十三枚並べてテンパイ形にし、それをでたらめに並べ直して俺に見せろ」

 と言った。私は複雑な多面張になるように作って彼に示した。彼は間髪をおかず〈待ち〉を答えた。私は信じられず、リー牌して調べてみた。当たっていた。手品か何かのたぐいかもしれないと疑い、私は変則の待ちを作っては、これではどうだと、繰り返し彼に示した。何度やっても結果は同じだった。四組の面子と一つのアタマに目を走らせる時間を考えても、彼のそれは神技としか言いようがなかった。

 南海さん三十五歳のときに出会った、きわめつけの人である。赤羽の『大三元』という雀荘にいた。高知中村高校でピッチャーをしていたが、肩をこわして絶望し、東京に流れてきたと聞いた。やはり本人の口からは聞いたことがない。ただトルコ嬢二人のヒモをしていると自ら語ったことがある。ある夜彼の華麗な手さばきを後ろで見学していたとき、

「やばいなァ。トイメンの当たり牌をもってきちゃったよ」

 と囁き、手首を裏向けてこっそり二筒を私に示した。まだ六巡目だったし、トイメンの男はリーチもかけていなかった。おまけにその男の六枚の捨て牌のうち五枚が筒子で、五筒も八筒も切り出されていた。単なる打ちミスに見えた。私は半信半疑のまま、便所に立つふりをして男の手牌を覗き見た。カン二筒のホンイツ一通でテンパっていた! 私は出ない小便を搾り出しながら、人間に生まれてよかったと思った。

 その後、私の麻雀も相応に熟し、認識眼も増して、これらの人びとと同程度と判断できる打ち手に何人か出会った。そのつど、新たな感動に襲われた。福島の阿部、群馬の森っちょ、東大の西村、早予の上野さんが連れてきた守衛さん、がんちゃんなど。

 ……どの世界にもこういう天才たちはいるだろう。彼らは凡人を快く傷つけ、打ちのめす。そうして、あらためて人間の底知れない深井に感動させ、魂の再生の役割を担ってくれる。彼らがいなければ、私たちの人生はなんと無味乾燥なものになるだろう。




6月1日

宗教や、イデオロギーといったものに対して、年をとるにつれてますます無関心の度を加えてきた。ああいったものは一種の産業みたいなもので、そこに意義があるとわかってきたからだ。