週言コーナー 週に一度拓矢先生の生の声が聞ける
7月
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7月29日
 
―第二話―


 ミー助の死後数ヶ月して、彼を看取った動物病院の玄関先で、紙袋に入れて捨てられていた子猫を拾った。その夜、まだ目の開かないそやつを女が抱いて寝て敷き殺してしまった。翌朝、私は息のない骸を動物病院へ持ちこみ、拾ったときの事情を話した。院長は、うちの前に捨ててあった以上は私にも責任の一端がある、と言って遺骸を引き取った。数日して病院から、子猫を二匹もらってくれないかという連絡があった。さっそく女と駆けつけると、じつに愛らしいオスの茶トラだった。育てることにした。アミ、タミと名づけた。二歳の夏、タミは遠征の旅に出て、栄養失調になって戻った。目も半ば失明していた。彼は二日ほどで死んだ。
 アミが残った。体重七キロの大きな図体がうすのろに見えた。彼は、片割れを失った寂しさゆえかいやに人間に慕い寄り、いろいろな芸を小出しにして見せるようになった。こぶしを突き出すと、それに突進してきてぶつかり、死んだふりをする、呼びかけると百発百中で鳴く(表にいて姿が見えないときも遠くから返事をした)、目の前でチャンネルを捻るように手首を回すと、ゴロゴロと畳を転げ回る……。以来私は、いとしいものの筆頭に彼を置くようになった。三十も半ば、再受験を決意して予備校に通いだしたころ、彼に遅いサカリがついて振舞いが乱暴になった。勉強中の膝に跳び乗って深く爪を立てたり、私の顔を鋭く注視して何度もイヤなドラ声を上げたりした。私は腹を立て、五百メートルほど離れたある寺の境内に彼を捨てにいった。彼が私の腕から逃れて寺の生垣の陰に走りこんだとき、瞬間的な後悔の念に襲われ、連れ戻すつもりで名を呼んだ。三十分ばかりもそうしていたが、彼は戻ってこなかった。
 八ヶ月が経ち、予備校主催の合格祝賀会が例の境内のそばの寿司屋で行われた。有志だけで二次会の飲み屋へ回った。夜中に解散し、蹌踉と帰宅した。寝床の支度をしていたら、玄関で猫の鳴き声がした。まさかと耳を立て、次の声を待ち構える。鳴き声はますます高く、連続的になった。まちがいないと確信して玄関へ急いだ。女もつづく。戸を開けると目の前にアミが行儀よく腰を下ろし、入ってよいでしょうか、と問いかけるようにこちらを見上げていた。
「アミ、戻ってきたの!」
 女が思わず涙を流しながら彼を抱き上げた。毛づやもよく、以前より一回り大きく太っている。
「どこかで俺の声を聞きつけたんだな。この様子じゃ、だれかに飼われていたようだ」
 私がうま酒を酌み合っていた五、六時間のあいだ、彼は辛抱強く、一度も声をかけずに待っていたのだ。そうして私を確認し終え、なつかしさにふるえながら跡をつけてきたのだ。私は女からアミを受け取り、脇を持って高く差し上げた。
 八歳の冬、彼は次の引越し先で、鼻から黄色い水をたらして何日か寝こんだ。そして私の留守のあいだに姿をくらました。


7月22日

                              《私のアルバイト史》

 小学五年のとき、高橋弓子という女の子を好きになった。顔の角張った筋肉質の子だった。けぶるような目に独特の雰囲気があった。暴力的な担任の教師もエコひいきしていた。野球部の校外ランニングの道すがら、だれかの指呼で彼女の家を知った。仏閣に似た二階建ての豪壮な邸宅だった。この家に新聞でも配れば、彼女に偶然出会えないこともないと思った。翌日、彼女の町内の新聞集配店に、新聞を配りたいと頼みこんだ。店主は喜び、あすの朝五時に出てくるようにと言った。驚いた。そんな時間に彼女に会えるはずがない。しかしこちらから頼んでおいて断るのも恥ずかしく、わかりましたと答えた。幸い初日に数軒の欠配を出して、馘になった。彼女の家のポストにはまちがえずにきちんと入れた。朝まだき、霧にかすんだ門構えと、見上げるほど高くにある灰色の切妻壁もしっかり記憶した。 ――ただ働き。
 高校三年の夏、母と口喧嘩のはてに、名古屋から東京へ出奔した。駅のベンチで拾った新聞で店員募集の広告を見て、神田小川町へいった。明治大学裏『喫茶アミ』。高卒だと嘘を言った。住み込みで二十日ほど勤めたころ、母に宛てて、東京で暮らす決意を認めた手紙を住所を隠さず書いて出した。数日して母が飯場の土工といっしょに迎えにきた。店のツケで仕立てた背広がまだ届いていなかったので惜しい気がした。――ただ働き。
 高校三年の師走、同棲していた吉永先生にいいところを見せようとして、枇杷島青果市場の青物仲買店に勤めた。一週間、朝七時から九時まで働いた。トラックの助手席に乗って名鉄百貨店までいき、最上階の食堂に野菜類を届けた。エレベーターで地階と最上階を数往復した。契約期限の大晦日までしっかり働き切った。最終日はまる一日働いて、その百貨店の高級天麩羅屋でご馳走になった。高校を卒業したら、うちの養子になってくれと社長から言われたが、あいまいに笑ってごまかした。――時給千円。
 大学一年の春、門前仲町の四国屋商店という電器屋兼菓子店に家庭教師として勤めた。小学四年生のノータリン坊やだった。勉強に飽きるとかならず「ちんぽ!」と叫んでズボンを引き下ろした。半年ほど経ったころ、坊やは私に向かって「おまえ、パパにカネもらってんだろ。好きにさせろよ」と罵った。ただちにその顔面に平手を叩きこんだら、鼻血が噴き出た。その日に辞め、あとを友人のGに譲った。――月給二万円。
 大学一年の冬、大和市の建設現場に勤めた。鉄材を担いでビルを上り下りする重労働で、極端な疲労から昼日中に吐いた。飯場頭に帰れと言われて即刻従った。――ただ働き。
 大学一年の冬、ステレオの月賦が払えなくなって、蒲田の型紙打抜き工場に勤めた。一週間、チョコレート包装紙を打ち抜いた。労働組合を作るという話に乗せられ、やりましょう、とこぶしを振り上げたが、裏切った仲間に私が首謀者であるとの密告をされ、嫌気が差して辞めた。月賦は一回分だけ友人のGに肩代わりしてもらった。――ただ働き。
 大学二年の春、三鷹『バー群(むれ)』にバーテン手伝いとして勤めた。女と別れるため、住み込みを願い出た。蝶ネクタイを締めて五日間やった。二日目にシェーカーの振り方を習得した。三日目に店を任され、二十万円の売り上げ記録を作った。五日目に別れた女がヨリを戻しに訪ねてきた。あてつけなのかと責められ、辞めた。――ただ働き。
 大学二年の初夏、高円寺『キャバレーパンチ』。カウンターチーフという嘘の触れ込みで勤めた。あてずっぽうに作った唐揚げが美味で客にバカ受けした。盛りつけには苦労しなかった。給料日に、一ヶ月待ってくれと店長に言われ、家賃を払わなければならないので待てないと言い返したら、スリッパで殴られた。殴り返して彼の前歯を折ってしまった。強持てのする部長に外へ連れ出され(彼はいい人だった)、胸ポケットに八千円を入れられた。「これで涙を呑んでくれ」と言われた。翌日、商店街でマスクをして歩いている店長を見かけた。――日給五千円。実質、ただ働き。
 大学二年の夏、三鷹のピンクキャバレー『P&P』。喧嘩が強いのかと問われ、『パンチ』で出来上がっていた自信から、強いという嘘の触れ込みで勤めた。実際に飲み逃げの学生を追いかける破目になった。空手の真似をして必死で時計と学生証を奪った。危険度が間尺にあわないと判断し、剥き出しの手提げ金庫から日々数千円の余剰収入をいただいた。同時期友人Gの弟を教えることになり、辞めた。――時給五百円。
 大学二年の夏から翌年の春にかけて、Gの弟を教えた。非常にできのいい生徒だったが、早稲田の文学部を落ちた。試験の数日前、息抜きに映画を観ることを約束し新宿で待ち合わせたが、いきちがった。そのせいで彼は風邪をひいたと聞いた。その後彼は父親の命令でドイツに鍼灸留学をし、専門学校経営者として立派に跡を継いだ。――月給二万円。
 大学三年の夏、名古屋の今池で一月半パチンコ店員として勤めた。ほとんど毎日、ソーメンライスの昼飯に辟易した。先輩の店員にさまざまな打ち方を教わった。収穫は左盤面流し打ち。卒業までの長年月、そのワザが小遣い稼ぎに役立った。――時給百三十円。
 二十六歳春、松山で私塾を開いた。野菜や果物といった現物で授業料を支払うことを許容したため、困窮する。半年でやめた。――実質ただ働き。
二十八歳春、埼玉県の西川口『ふらふら』で、キャバレーの呼び込みとして勤める。日に七組を入れ、驚嘆される。半月ほどやったが、正当な歩合手当てをくれないので、嫌気が差した。友人に嘘の自殺未遂の電話をかけさせ、店からあわてて飛び出して、そのままトンズラする。店長が見舞金と言って、私が店を駆け出そうとする間際に手渡した五千円が唯一の給料になった。――ほぼ、ただ働き。
 二十八歳夏、南浦和のパチンコ店『オアシス』に勤める。数年のうちに水商売は高学歴が煙たがられると学んだので、中卒の履歴書を出す。ホール回りから始める。年寄りが玉を釘に引っ掛けるたびに、思い切り多量のサービス玉をチューリップに流し込んだ。客あしらいが素早いせいでトントン拍子に出世して、二ヵ月後にコンピューター係りに配属される。新装開店の準備日、無料奉仕に不満を鳴らして日給を請求したら、馘になった。――月給九万円。
 二十九歳春、南浦和のいきつけのスナック『パル』のママさんに気に入られ、彼女の娘を教える。小学五年生の女子。日数を経ずしてその子の性格が明るくなり、痛く喜ばれる。父親からスイス製の高級時計をもらったが、使いみちがなく、引き出しの藻屑になった。――月給五万円。
 二十九歳夏、同ママさんから十五畳ほどの貸し店舗を無料で提供され、小中専門の私塾『川田学習舎』を始める。娘を無料で教えることが条件だった。英数国理社すべて単身で奮闘した。半年ほどで塾生が三十名を越し、収入も四十万近くになった。半分を飲み代、半分を書物に使い果たした。その間、漫画から哲学書まで膨大な量の書物を無差別に読んだ。詩から散文に志を移したのはこの時期である。――収入不定。
 三十四歳春、大学に再入学して、アルバイトの私史を閉じた。
 三十五歳より、予備校に正式に勤め、今日に至っている。神田予備校、河合塾、早稲田予備校と青山を捜し歩き、ついに骨の埋めどころにめぐり合った。


7月15日
 
 私は小さなころから猫を飼ってきたが、どの猫とも彼らが死ぬまで付き合ったせいで、めぐり合いの数とすればたいしたことはない。ただ、一猫、一猫の思い出がかなり濃厚なものなので、羅列して書き放しにするには忍びないものがある。そこで、今回を第一話とし、折に触れ、一猫、一エピソードとして独立させて記していきたい。思い入れの強い内輪話なので、多少退屈なものになるかもしれないが、作成者の要望が『あれあ』ほど堅くないものにしてほしいということであるから、しばらくこのテンションでやっていこうと思う。
 野辺地の祖父母の家にいたミー助が猫を飼った最初であるが、これは一話を形成しない。詳しくは『五百野』に書いてしまった。あらましはこうである。幼稚園からの帰り道、彼はふらりとどこからか現れ、上手に私の肩に飛び乗る。そのまま家まで揺られていく。私はサーカスの動物使いみたいな気がして得意だった。大して長く付き合いもしないうちに、彼は目玉をくり抜かれてスグリの垣に吊るされたのだったが、おかげで私は胸をえぐるような喪失感を一瞬のうちに水に流す感情処理の方法を体得し、その術がのちのさまざまな辛い経験に利した、という程度のものである。

― 第一話 ―

 大学二年の冬、高円寺に引っ越したばかりのころ、風呂屋の帰りがけに、トラックの下にうずくまっていたオスの子猫を拾った。女と相談して育てることにした。ミーと名づけた。腹に親指大の柔らかい吸いだこがあった。彼のそれまでの孤独な時間が感じられ、胸が痛んだ。育ててみると、ひとり遊びの上手な、手間のかからない利口なやつで、台所のガラス戸を力いっぱい開けて帰ってくる仕草が可愛いらしかった。私は酒や麻雀で遊び回ってあまりアパートの部屋に帰らなかったので、彼は自然、女と孤独を共有する時間が多くなった。それでもたまに私の姿を目にすると、無沙汰を許してじゃれつき、夜は私の蒲団にもぐりこんで寝た。
 彼はよく訪問客になついた。客人が部屋にいるときには、かならず外から戻ってきていた。飲み屋で知り合って連れてきた外人の膝に抱かれ、
「ミーちゃん、カワイネェ」
 と幾度も呼びかけられていたのをなつかしく思い出す。確かに彼は、歴代の猫の中でいちばん整った顔をしていた。
 高円寺で四年暮らしたあと、ミーは私と女について愛媛県の松山までいった。団地の二階に暮らした。美男子のうえに適応力のある猫で、幾度か女房を取り替えた。妻子を連れて、飯を食わせに部屋に帰還したことも一再ではない。一度行方不明になったが、二ヵ月後にさっぱりとした偉丈夫になって帰ってきた。以後、女気を感じさせない清潔なたたずまいを通した。
 五年後、南浦和のアパートで、ソーメンを喉に詰まらせて死ぬまで、まる九年を生きた。その日私は、パチンコ屋のホールで働いていて、ミーが危ないという連絡を女から受けた。「買い物から戻ったらミーが目を白黒させていた、背中を叩いても蘇生しない、病院に運んだけどダメのようだ」と泣く。仕事を終えて帰ると、すでにミーは固くなってバスタオルにくるまれていた。薄く口を開けている。タオルをめくって全身をさすってやった。腹でくりくり動くものがある。年季の入った吸いだこだった。彼が食ったというソーメンはまだ皿に残っていて、いつもよりも多目のカツ節が混ぜてあった。
 彼の遺骸は、翌日私が仕事に出ているあいだに、女が保健所に引き取らせた。



7月8日
 
 私の記憶の中に、予想外な合格を果たした伝説の予備校生としてしまわれている人たちのことを書いてみたい。

○神田予備校越谷校のSくん……一年中、偏差値45を越えることのなかったきわめつけの鈍才。毛皮職人の息子で、動物医になることが夢だった。道端に動物を見かけると寄っていって抱き上げ、べろべろ舐めまわしていた。冬も押し詰まり、どこを受けるのかと尋くと、胸を張って麻布獣医大と答える。私は主義として無理だと言わないことにしているが、ひょっとしてとも思えなかった。30も偏差値が高いのだ。滑り止めに東海大を受けるというが、それにもはるかに届かなかった。
「落ちたら、オーストラリアで、二年ほど動物を見てきます。オヤジがそうしろと言うんで」
 オーストラリア行きはまちがいないと思った。
 講師休暇の二月末、私宅の玄関にオートバイのエンジン音がして、ブザーを押す間もなく、息を切らしてSくんが飛びこんできた。合格票を私に示し泣きだした。
「先生、やりました! 補欠です。試験はぜんぜんできませんでしたが、面接のとき、動物が具合の悪いときどんな兆候が出て、どういう行動をとるかってことを、たくさんしゃべったんです。越谷校トップのUさんも受かりました。いっしょに勉強できるなんて、光栄です」
 私は深い感嘆の息を漏らした。残念ながら、彼の後日談は耳に入っていない。

○早稲田予備校本校のHくん……映画キチガイだった。授業中、たまたま映画の話になると眼を輝かせたが、本題の英語に戻ると急速に熱が冷めるようだった。早稲田の文学部と日芸映画学科が志望だと言う口調の端に、自分の成績に照らしたあきらめが覗いた。結果は吉。日芸合格。
「小論は字数制限の半分も書けませんでしたが、黒澤の『生きる』について、目いっぱい好きなことを書きました。面接で、湾岸戦争についてどう思いますか、と訊かれて、それ何ですか、って答えたら、大笑いされました」
「それが勝因だな。目下の社会的事件も知らないくらい、映画に入れ込んでると受け取られたんだ。私だって合格にするよ」
 彼は頭を掻いて、幸福そうに笑った。
 以来現在に至るまで、彼は毎年父親の名を経由して、ワインセットを送ってよこす。伝え聞くところによると、本人言「TVのシナリオを書きながら、〈売文業〉に身をやつしている」という。彼一流のテレだろう。

○早稲田予備校仙台校のIさん……東北学院大英文科に受かったが、早稲田文学部への夢を捨て切れず、再受験に踏み切った。明るく熱心な生徒だったが、授業中に質問してもトンチンカンな答えしか返ってこず、模擬試験は常に『再考を要す』で、どう見ても早稲田には遠かった。受験期には東京の友人宅から通い、発表を何人かの友人とともに我が家で待った。
「国学院、落ちました……」
「うーん、でも、何かこれはいけるって感触がないほうが、結果は意外といいものが……」
「だといいんですが。ところで、世阿弥の父ってだれですか」
「観阿弥だろ」
だれかが言った。
「え! 私、阿弥陀って書いてしまいました」
「クジじゃねえぞう」
大爆笑になった。
受かった。文字どおり、クジに当たった。彼女は合格掲示板の前で、マグレだマグレだ、と叫びながらしゃがみこみ、通り過ぎる人に、
「私の番号、確かにありますよね、ありますよね」
 と、すがるように確認していたという。親切な在校生が、
「確かにそうですよ。おめでとう」
 と慰め、マグレじゃありません、実力ですよ、と言って去っていったという。

○ 神田予備校浦和校のたけちゃんマン……これは特例として付け加えたい。彼は私の教えた学生ではなく、私が三十過ぎて大学へ再入学するための勉強をしていたときに、小さな予備校で席を同じくした受験仲間である。彼はほとんど授業には出ずに、自習室で『デル単』を暗記していた。ひょうきんなくせに人付き合いを極端に怖がる男で、仲間をことごとく〈社長〉と呼んで機嫌をとっていた。あるとき、何かの大きな模擬試験の結果が出て、成績表が返された。彼は狂ったように廊下に飛び出し、
「見てくれよう、これ見てくれよう」
 と叫びながら成績表をだれかれとなく誇示して回った。マグレでいい成績をとったのだろうと私たちは思った。彼が差し出した表を見て唖然とした。英語も社会も40そこそこの偏差値だったが、国語が28となっていた。全国最下位! 彼はそれを自慢したかったのだ。
「すごいだろ。こういう偏差値もあるんだ。ちょっとやそっとじゃ取れないぜ」
 彼はそれからも自習室で単語の暗記に精を出しつづけた。情熱はすべての不利をねじ伏せる。たけちゃんマンは第一志望の明治大学商学部に受かった。年間を通じてトップクラスだったMくんも同じ大学の政経学部に受かり、
「たけちゃんマンといっしょかよ。アッタマくるなあ」
と嘆いた。

 醒めず、馴れずおこなえば、ものごとはきっと成就できるということを、私はこんなふうに毎年思い知らされている。



7月1日

 
 
一昨年の秋口、『ブルー・スノウ』をたまたま読んだという岡山の見知らぬ女性から、手紙が届いた。「『五百野』に書かれている内容について一度お話がしたい。ほかにもお話したいことがたくさんある」という文面で、なんと、私の亡父の妹という身分を明かしていた。驚いた。しかし、『全き詩集』を上梓したときにも、父の類縁の女性から父の死を報せる手紙が舞いこんだことを思い出し、本を書いていればこういうこともときには起こるのだろうと認識を新たにした。そして、たぶんこの女性は小説の事実関係の訂正をしたいのにちがいないと踏み、「あれはフィクションなので至らぬところはご寛恕ください。いずれ必ずお話を伺いに参ります」と返事を書いた。さらに、父の日記が残っていないかどうか、以前、父の死を報せてくれた方から日記の存在を教えられ、母に気をさして受け取りを拒否してしまったことを後悔している、もしそれが廻りまわってあなたの手元に残っていたら譲ってほしい、と書き加えた。    
 後日、「残念ですが私の許に日記はございません。その代わり、あなたのお父さんが他界なさる直前に友人に送った手紙が手に入りましたので」と、便箋二枚のコピーが送られてきた。私の乳飲み子のころの写真と、父が友人たちと酒席で手を拍ちながら歌っているスナップが添付されていた。
 その手紙は、父がソウル工業高専の同窓会への出席を体調不良(膠原病)を理由に断った際に、ある友人に現在の心境を明るく書き送ったものだった。達筆だった。青春の回顧から始まり、高らかな理想が未だ崩れていないと謳い上げ、「我らが友情は永遠であります」と筆を留めていた。切々としたさびしさもなく、死の間際にある人間の文章と思えなかった。胸を突かれた。語調といい、訴えかけるリズムといい、私にそっくりだった。わけても、彼の大切にしている愛の想念が酷似していた。どの一行にも人間愛があふれていた。のっぴきならない血を感じた。
 私は、十代の初めから、愛と友情というテーマを書きつづけてきた。得体の知れない情動に衝き動かされそうしてきたのだが、近ごろでは〈本能〉ではないかとさえ思うようになっていた。しかし、父の手紙に触発され、「ついに私は正体を突きとめた」と、たやすく叫んでいいのだろうか。まぎれもなく父の血が私に書かせていたのだと―。父は、妻と子を捨てるという冷酷さも具有していた。八歳の冬、あの横浜の下宿の階段で私に五十円玉を握らせたとき、彼は私という血の形見をふたたび捨てたのだった。それでも、私は違和感を覚えなかった。なぜだろう、しっくりくるものさえ感じ、心の中で快哉を叫んだことを憶えている。この男は自分と似ていると感じたのだ。その冷酷さから昇華される愛とは、友情とは何だろう。これほどまでに愛と友情にこだわる体質が、もし元来の情愛の欠如に対する恐怖と反動からきているとしたら、私は恐ろしさに顫える。もしそうだとしたら、私の生の根底は傷つく。
 いまなお私は岡山の女性に会いにいっていない。別段、父に対する芸術的感興を突き詰めようとは思わなくなったのである。日記を手に入れたいという気持ちも失せてしまった。きっと彼の日記には冷静に、しかも大仰な言葉で、愛と、友情と、理想と、自己韜晦と、人生の失意がしたためられていることだろう。それはおそらく私に反面的な深い反省を強いるにちがいないが、私の信じる芸術的な感興を裏打ちするものではありえないだろう。芸術作品であるためには、人間に殉じ、人間から殉じられる価値を持った理想が描かれていなければならない。耳に心地よい大上段も必要かもしれないが、そのかたわらに、真率な愚痴や、無念や、後悔や、命取りの秘密がさびしく吐露されていなければならない。
 ……やはり、私は父の日記を見ないほうがいいだろう。私をこのように歩ませた彼の血に殉じただけで十分としよう。私は遠いとき、彼とは別の道に踏み出し、別の思索を重ね、別の愛の体系を築き上げてきた。すでに彼とは別の人格として屹立している。いまさら父に何らかの類似点を見出したところで、私の確立した表現方法に影響が与えられるわけではない。私はただ、自分は〈愛他〉の人間でないのではないか、という恐怖に戦きながら、自らの信じる友愛や恋を懸命に探りつづければよい。
 その後の手紙で、父がソウル高専の校歌の作詞をした当人であることと、彼の死後、先の友人の率先で、ソウルに父の記念墓碑が建てられたことを知った。父の誇負した友愛の姿の実現だ。自愛の疑惧に苛まれつづける私には、永遠に果たせない愛のエールだ。