週言コーナー 週に一度拓矢先生の生の声が聞ける 7月 |
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―第二話― ミー助の死後数ヶ月して、彼を看取った動物病院の玄関先で、紙袋に入れて捨てられていた子猫を拾った。その夜、まだ目の開かないそやつを女が抱いて寝て敷き殺してしまった。翌朝、私は息のない骸を動物病院へ持ちこみ、拾ったときの事情を話した。院長は、うちの前に捨ててあった以上は私にも責任の一端がある、と言って遺骸を引き取った。数日して病院から、子猫を二匹もらってくれないかという連絡があった。さっそく女と駆けつけると、じつに愛らしいオスの茶トラだった。育てることにした。アミ、タミと名づけた。二歳の夏、タミは遠征の旅に出て、栄養失調になって戻った。目も半ば失明していた。彼は二日ほどで死んだ。 アミが残った。体重七キロの大きな図体がうすのろに見えた。彼は、片割れを失った寂しさゆえかいやに人間に慕い寄り、いろいろな芸を小出しにして見せるようになった。こぶしを突き出すと、それに突進してきてぶつかり、死んだふりをする、呼びかけると百発百中で鳴く(表にいて姿が見えないときも遠くから返事をした)、目の前でチャンネルを捻るように手首を回すと、ゴロゴロと畳を転げ回る……。以来私は、いとしいものの筆頭に彼を置くようになった。三十も半ば、再受験を決意して予備校に通いだしたころ、彼に遅いサカリがついて振舞いが乱暴になった。勉強中の膝に跳び乗って深く爪を立てたり、私の顔を鋭く注視して何度もイヤなドラ声を上げたりした。私は腹を立て、五百メートルほど離れたある寺の境内に彼を捨てにいった。彼が私の腕から逃れて寺の生垣の陰に走りこんだとき、瞬間的な後悔の念に襲われ、連れ戻すつもりで名を呼んだ。三十分ばかりもそうしていたが、彼は戻ってこなかった。 八ヶ月が経ち、予備校主催の合格祝賀会が例の境内のそばの寿司屋で行われた。有志だけで二次会の飲み屋へ回った。夜中に解散し、蹌踉と帰宅した。寝床の支度をしていたら、玄関で猫の鳴き声がした。まさかと耳を立て、次の声を待ち構える。鳴き声はますます高く、連続的になった。まちがいないと確信して玄関へ急いだ。女もつづく。戸を開けると目の前にアミが行儀よく腰を下ろし、入ってよいでしょうか、と問いかけるようにこちらを見上げていた。 「アミ、戻ってきたの!」 女が思わず涙を流しながら彼を抱き上げた。毛づやもよく、以前より一回り大きく太っている。 「どこかで俺の声を聞きつけたんだな。この様子じゃ、だれかに飼われていたようだ」 私がうま酒を酌み合っていた五、六時間のあいだ、彼は辛抱強く、一度も声をかけずに待っていたのだ。そうして私を確認し終え、なつかしさにふるえながら跡をつけてきたのだ。私は女からアミを受け取り、脇を持って高く差し上げた。 八歳の冬、彼は次の引越し先で、鼻から黄色い水をたらして何日か寝こんだ。そして私の留守のあいだに姿をくらました。
《私のアルバイト史》 小学五年のとき、高橋弓子という女の子を好きになった。顔の角張った筋肉質の子だった。けぶるような目に独特の雰囲気があった。暴力的な担任の教師もエコひいきしていた。野球部の校外ランニングの道すがら、だれかの指呼で彼女の家を知った。仏閣に似た二階建ての豪壮な邸宅だった。この家に新聞でも配れば、彼女に偶然出会えないこともないと思った。翌日、彼女の町内の新聞集配店に、新聞を配りたいと頼みこんだ。店主は喜び、あすの朝五時に出てくるようにと言った。驚いた。そんな時間に彼女に会えるはずがない。しかしこちらから頼んでおいて断るのも恥ずかしく、わかりましたと答えた。幸い初日に数軒の欠配を出して、馘になった。彼女の家のポストにはまちがえずにきちんと入れた。朝まだき、霧にかすんだ門構えと、見上げるほど高くにある灰色の切妻壁もしっかり記憶した。 ――ただ働き。 高校三年の夏、母と口喧嘩のはてに、名古屋から東京へ出奔した。駅のベンチで拾った新聞で店員募集の広告を見て、神田小川町へいった。明治大学裏『喫茶アミ』。高卒だと嘘を言った。住み込みで二十日ほど勤めたころ、母に宛てて、東京で暮らす決意を認めた手紙を住所を隠さず書いて出した。数日して母が飯場の土工といっしょに迎えにきた。店のツケで仕立てた背広がまだ届いていなかったので惜しい気がした。――ただ働き。 高校三年の師走、同棲していた吉永先生にいいところを見せようとして、枇杷島青果市場の青物仲買店に勤めた。一週間、朝七時から九時まで働いた。トラックの助手席に乗って名鉄百貨店までいき、最上階の食堂に野菜類を届けた。エレベーターで地階と最上階を数往復した。契約期限の大晦日までしっかり働き切った。最終日はまる一日働いて、その百貨店の高級天麩羅屋でご馳走になった。高校を卒業したら、うちの養子になってくれと社長から言われたが、あいまいに笑ってごまかした。――時給千円。 大学一年の春、門前仲町の四国屋商店という電器屋兼菓子店に家庭教師として勤めた。小学四年生のノータリン坊やだった。勉強に飽きるとかならず「ちんぽ!」と叫んでズボンを引き下ろした。半年ほど経ったころ、坊やは私に向かって「おまえ、パパにカネもらってんだろ。好きにさせろよ」と罵った。ただちにその顔面に平手を叩きこんだら、鼻血が噴き出た。その日に辞め、あとを友人のGに譲った。――月給二万円。 大学一年の冬、大和市の建設現場に勤めた。鉄材を担いでビルを上り下りする重労働で、極端な疲労から昼日中に吐いた。飯場頭に帰れと言われて即刻従った。――ただ働き。 大学一年の冬、ステレオの月賦が払えなくなって、蒲田の型紙打抜き工場に勤めた。一週間、チョコレート包装紙を打ち抜いた。労働組合を作るという話に乗せられ、やりましょう、とこぶしを振り上げたが、裏切った仲間に私が首謀者であるとの密告をされ、嫌気が差して辞めた。月賦は一回分だけ友人のGに肩代わりしてもらった。――ただ働き。 大学二年の春、三鷹『バー群(むれ)』にバーテン手伝いとして勤めた。女と別れるため、住み込みを願い出た。蝶ネクタイを締めて五日間やった。二日目にシェーカーの振り方を習得した。三日目に店を任され、二十万円の売り上げ記録を作った。五日目に別れた女がヨリを戻しに訪ねてきた。あてつけなのかと責められ、辞めた。――ただ働き。 大学二年の初夏、高円寺『キャバレーパンチ』。カウンターチーフという嘘の触れ込みで勤めた。あてずっぽうに作った唐揚げが美味で客にバカ受けした。盛りつけには苦労しなかった。給料日に、一ヶ月待ってくれと店長に言われ、家賃を払わなければならないので待てないと言い返したら、スリッパで殴られた。殴り返して彼の前歯を折ってしまった。強持てのする部長に外へ連れ出され(彼はいい人だった)、胸ポケットに八千円を入れられた。「これで涙を呑んでくれ」と言われた。翌日、商店街でマスクをして歩いている店長を見かけた。――日給五千円。実質、ただ働き。 大学二年の夏、三鷹のピンクキャバレー『P&P』。喧嘩が強いのかと問われ、『パンチ』で出来上がっていた自信から、強いという嘘の触れ込みで勤めた。実際に飲み逃げの学生を追いかける破目になった。空手の真似をして必死で時計と学生証を奪った。危険度が間尺にあわないと判断し、剥き出しの手提げ金庫から日々数千円の余剰収入をいただいた。同時期友人Gの弟を教えることになり、辞めた。――時給五百円。 大学二年の夏から翌年の春にかけて、Gの弟を教えた。非常にできのいい生徒だったが、早稲田の文学部を落ちた。試験の数日前、息抜きに映画を観ることを約束し新宿で待ち合わせたが、いきちがった。そのせいで彼は風邪をひいたと聞いた。その後彼は父親の命令でドイツに鍼灸留学をし、専門学校経営者として立派に跡を継いだ。――月給二万円。 大学三年の夏、名古屋の今池で一月半パチンコ店員として勤めた。ほとんど毎日、ソーメンライスの昼飯に辟易した。先輩の店員にさまざまな打ち方を教わった。収穫は左盤面流し打ち。卒業までの長年月、そのワザが小遣い稼ぎに役立った。――時給百三十円。 二十六歳春、松山で私塾を開いた。野菜や果物といった現物で授業料を支払うことを許容したため、困窮する。半年でやめた。――実質ただ働き。 二十八歳春、埼玉県の西川口『ふらふら』で、キャバレーの呼び込みとして勤める。日に七組を入れ、驚嘆される。半月ほどやったが、正当な歩合手当てをくれないので、嫌気が差した。友人に嘘の自殺未遂の電話をかけさせ、店からあわてて飛び出して、そのままトンズラする。店長が見舞金と言って、私が店を駆け出そうとする間際に手渡した五千円が唯一の給料になった。――ほぼ、ただ働き。 二十八歳夏、南浦和のパチンコ店『オアシス』に勤める。数年のうちに水商売は高学歴が煙たがられると学んだので、中卒の履歴書を出す。ホール回りから始める。年寄りが玉を釘に引っ掛けるたびに、思い切り多量のサービス玉をチューリップに流し込んだ。客あしらいが素早いせいでトントン拍子に出世して、二ヵ月後にコンピューター係りに配属される。新装開店の準備日、無料奉仕に不満を鳴らして日給を請求したら、馘になった。――月給九万円。 二十九歳春、南浦和のいきつけのスナック『パル』のママさんに気に入られ、彼女の娘を教える。小学五年生の女子。日数を経ずしてその子の性格が明るくなり、痛く喜ばれる。父親からスイス製の高級時計をもらったが、使いみちがなく、引き出しの藻屑になった。――月給五万円。 二十九歳夏、同ママさんから十五畳ほどの貸し店舗を無料で提供され、小中専門の私塾『川田学習舎』を始める。娘を無料で教えることが条件だった。英数国理社すべて単身で奮闘した。半年ほどで塾生が三十名を越し、収入も四十万近くになった。半分を飲み代、半分を書物に使い果たした。その間、漫画から哲学書まで膨大な量の書物を無差別に読んだ。詩から散文に志を移したのはこの時期である。――収入不定。 三十四歳春、大学に再入学して、アルバイトの私史を閉じた。 三十五歳より、予備校に正式に勤め、今日に至っている。神田予備校、河合塾、早稲田予備校と青山を捜し歩き、ついに骨の埋めどころにめぐり合った。
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