週言コーナー 週に一度拓矢先生の生の声が聞ける
8月
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8月31日
―― ねこ物語 第四話(最終回) ――

 ロイの死を聞きつけた福島の阿部が、同種のゴールデンチンチラというやつを車に乗せて持ってきた。知り合いのペット商が、売れ残るだろうと予測をつけて安く売ってくれたのだと言う。目が開いたばかりのオスの子猫だった。挙措がよたよたしていて、ミルクを飲みながら眠りこけたりした。ロイを忘れないために同じ名をつけた。この二代目ロイがやってきたとき、たまたま大勢の客がいたせいで、彼はみんなに見守られて成長することになった。
 固太りの大きな猫に成長していったが、あきれるほどの小心者で、一歩も表に出ようとしなかった。その分よく留守番をする家猫になった。
 家中に小便を引っかけて回るマーキングとやらに、二年ほど往生させられた。猛烈なアンモニア臭に耐えられず、知人の勧めで南浦和の『フェリス』という猫専門の病院で去勢することにした。マーキングを治す典型的な去勢手術ということで、執刀をする院長がテレビ局に連絡し、一般放映されることになった。テレビ局の人がビデオテープと煎餅の折をくれた。五分ほどのテープを観ると、ロイは孤軍奮闘、執刀者に逆らったあと、麻酔にやられ、だらしなく舌を出して眠りこける場面が映っていた。テロップに〈川田ロイ〉と出ていて、いとしくなった。
 目立った出来事といえばそれくらいのもので、彼は穏やかな波と風の中に暮らし、寝ては食べ、食べては寝しながら、今年九歳になった。人間の年齢でいえば還暦を越えた。
毎年、定期的な身体検査を先の病院でする。異常なし。平たい顔は高円寺のミーに負けないくらいかわいいし(ソーメンも大好き)、からだはアミと同じくらい大きくて、呼びかければ百発百中で鳴き、突き出したこぶしを目がけてのろのろやってくる。初代ロイと同じようにもの書きをする机に跳び乗り、音楽を好み、玄関に迎えることもする。ただ、飽きっぽくていつのまにか姿を消してしまう。それで、行動の規模が多少小さく見える。つまり動きや表情全体に精彩がなく、
「ホオッ! かわいいね」
 と感嘆される印象を残さない。先輩たちとちがう点といえば、外出しないこと、したがって蚤がいないこと、ビニールを見つけて食べること、いつまでも臆病な雰囲気が抜けないこと、人間の寝ている蒲団にけっして乗ってこないこと、しかし蒲団に横たわるとそのそばで腹を撫ぜてくれとしつこく要求すること、顔や頭の愛撫を極端に好むこと、抱かれるのが嫌いなこと、海苔と煎餅が好物であること……書き出してみるとけっこうある。
 ロイは先代たちに比較されるので可哀想だ、と言った人がいる。胸を突かれた。その日から、
「かわいそうに。この猫もあと何年かで死ぬのだ」
 という目で彼を眺めはじめた。だから要求されたら一時間でも腹をさすってやることにした。なるべく抱き上げないことにした。寄ってくるたびに顔と頭を丁寧に撫でることにした。姿が見えないと呼んでみることにした。
「おまえは俺より年食ってるんだね」
 机の足元にいるロイに語りかけると、ニャーと見上げる。
「長生きしろよ。でも、俺より一年でも早く死ねよ」
 ニャーと答えた。




8月27日

 作成者から届けられるインタビューのコピーに、おやっと思うほど誤字や抜け字が目立つようになり、テープ起こしが大変なのだろうと痛々しく感じた瞬間を忘れない。以来、半年以上インタビューを中断している。
 ホームページを作ることなど、並大抵の情熱ではできっこない。ましてや他人のホームページなど! 作成者への感謝のしるしに、私はインタビューのテンションをこの週言で回復してあげたい気になった。思い出や日常のエピソードばかりでなく、歯に衣(きぬ)着せない真剣な思索を待っている人も多くいるだろうと思うからだ。ただ、その思索は、たぶん、一言半句になる。
 私は元来寡黙な人間なので、真に書きたいことしか書けないという厄介な悪癖がある。おべんちゃらが言えない。その真剣度に私の命の意義があり、その真剣さを待ち望む人も確実にいることを考えれば、やはり、たとえ間遠(まどお)になったとしても、思索の痕跡を吐露しておかなければいけないと決意を新たにした。
 消えてゆく言葉の投げ合いにも捨てがたいものがある。そこには言葉の瞬発力がみなぎっているからだ。しかしこれからは、作成者が労働から解放され、疲労が解消し、言葉の筋力に自信が回復したときにだけインタビューを受けることにしよう。半年に一度、一年に一度の甘露だ。

 ――最近思っていること――

 人間の存在そのものが奇蹟であり、人間およびそれを囲繞(いにょう)する諸相を表現する手段、とりわけ文字は奇蹟中の奇蹟であるということ。そう思ったきっかけは、電車の中で本を読んでいる人や、街頭で携帯をやっている人のおびただしい数に圧倒されたからだった(私も前者の一人だ)。
 なぜ彼らはかくも文字に没入するのか? 人間であることを奇蹟と信じて生きているのにそれに酬いるような華々しいイベントの起こらない日常に、人間の生み出した奇蹟(宗教的救済)である文字によってアクセントを与える、それによって生動しはじめた日常から人間であることの奇蹟を見直す、さらに奇蹟の一員である自分の取り柄を見直す。
 書物であれ、携帯電話の交信であれ、くすんだ生活の活性化酵素の役目を果たす文字に対面するとき、人は直覚的に生命諸相の奇蹟とその可能性を求めているということになるだろう。生きている意味と価値を文字によって確かめたい、できれば自己の存在の奇蹟とその可能性を確かめたい。
 ……そこには絶大な人間不信がある。確かめなければならないほど、生身の人間が包摂する奇蹟を信じられないのだ。だからこそ、出来合いの文字(奇跡的な教義文)に祈りかけながら、人間全般への信頼を、ひいては自己への信頼を回復したいと願っているのである。彼らは目の前に佇む〈生きている奇蹟〉を見つめることを怠り、目の下の〈奇蹟のアート〉に精力的な祈りをこめる。
 目を挙げると、文字以外の人生の諸相が何の感銘もないまま淡々と流れていくのが見える。競争の激しい座席を、きっちり列に並んで確保する程度の緊張に凹まされた無事の人生が。
「ああ! 私は生き返らなければならない、劇的に死ななければならない、激しく愛し愛されなければならない」
 生身の奇蹟を包摂する無機的な奇蹟中の奇蹟が彼を鼓舞する。もはや彼を狂喜乱舞させるものは文字しかないのである。



8月20日
 歯医者が好きだ。キーンと歯を削る音にたまらない清潔感がある。麻酔で舌や唇が痺れる感覚もじつにめでたい。
「痛かったら、手を挙げてください」
「ガィ……」
 口を開けたまま返事をする。決して手は挙げない。めでたさが消えてしまう。
私は痛みに強い。痛みの先に美が待っている。ここを越えれば美しい歯に出会えると思うと、大仰な振舞いで美の請負人を煩わしたくない。歯は思想の門。けっして自己満足の美ではない。いや、美に関係していない痛みの場合も、それに屈しないことに元来、武士道的な哲学を抱いている。
 生来歯質が弱いので、子供のころからいろいろな歯医者にかかってきたが、いたずらに予後不良が多く、いまひとつしっくりくる歯医者にめぐり会えなかった。二十九歳のとき、ついにめぐり会った。南浦和根岸の角田歯科クリニック。角田丈治歯学博士。東京歯科大学出身。私より一つ年下であった。爾来二十七年間、ことあるたびに、遠路、万難を排して彼のもとに通っている。とにかく腕がいい。角田さんは歯にしか興味がなく、症状の重い患者ほど嬉々として治療する。
「うわあ、汚れてますねえ! 膿んでますねえ! 根が腐ってますねえ!」
 歯の美容などの相談はすぐ撥ねつける。
「エナメルを塗ると、白くなりますか?」
「なりますよ。すぐ剥げますけど。高いだけで、あんなものやらないほうがいいなあ」
「歯と歯の隙間が気になるんですが」
「どこ? どう気になるの。ね、ね、きみ、気になる?(助手を手招く)」
 助手は、イイエ、と首を振る。同意する姿勢が板についている。
勉強熱心で、しょっちゅうウィークデイを丸一日、〈勉強会のため〉としてお休みにする。土・日は子息が診療している。
 あるとき感謝のしるしに拙著『牛巻坂』と『あれあ寂たえ』を進呈したところ、マスクを外して意外な美男子振りをさらしながら、私以上に丁寧なお辞儀を返してくれたが、やはり歯の勉強にならなかったとみえて、後日、その渾身の作品は待合室の本棚に下ろされ、以来もう十四年ものあいだ、女性雑誌や子供の絵本とともに並べてられてある。患者たちが無聊まかせに手に取るせいか、それなりに年季が入って黒ずんでいる。
 とにかく彼は病んだ歯にしか興味がなく、腕がしたたかにいい。彼の治療した歯が悪化したことは一度もない。いままでに差し歯を五、六本、虫歯治療を三、四本してもらった。すべて予後良好である。
 いつだったか奥歯が割れてこらえ切れない痛みを催したとき(夜の十時ごろだった)、私は不躾にも角田さんの自宅に電話した。
「すぐいらっしゃい」
 電話口で快諾してくれたので、桶川から一時間もかけて車を飛ばしていった。夜中に治療する歯医者など聞いたこともない。私は痛みと驚きで全身が痺れた。
 いま、磨きすぎと切歯で短くなった前歯(下二本)を治療してもらっている。手際よく神経消毒まできた。あと四回か五回で美しい歯が入る。それが終わったら、またしばらく心地よい研磨音から遠ざからなければならない。きょう、感謝のしるしに『光輝あまねき』を献呈した。
「どうも、どうも。また本棚に置いておきますね」
 彼は満面の笑顔でそう答えた。


8月13日
 ― ねこ物語 ―
                  ――第三話――

 女の弟がアミの死を伝え聞き、わざわざ松山から飛行機に乗って、一歳の白いペルシャ猫を持ってきた。ロイという名がついていた。外歩きの好きな猫だから、盗まれないようにと言われた。数日のあいだは、冷蔵庫や本棚の後ろにじっと隠れていたり、猫のくせに階段を踏み外してビッコをひいてみせたりして、私にはどこか一癖ありそうなやつに見えた。やがて、食事や排泄の所作から、几帳面で、ひどく人見知りをする臆病者だと知れた。
 私はその当時、仕事の合間に、発表するあてのない小説を書いていたが、ある日、外から帰ったロイが机に跳び乗ってきて、原稿の脇に横たわった。そのまま一時間も二時間も動かず、私が小便に立つといっしょについてくるし、机に戻るとまた机に跳び乗った。翌日も、翌々日も同じ行動を繰り返し、私が仕事から戻るとかならず玄関に迎えに出るようにもなった。
 外歩きで尻尾のつけ根に黒っぽい皮膚病をこしらえたので、毎月こまめに洗ってやるようにしたが、これは生涯治らなかった。また、十日あまり家出をして戻ってきたとき、頬の咬まれ傷が化膿していたので、近所の病院へ連れていった。麻酔なしで頬の皮膚を切り取る手術中、彼は医者の指を深く咬んで抵抗した。医者は指から血をしたたらせ、あわてて自分で血清を打った。私はロイを叱りつけ、平身低頭医者に謝罪をした。彼の家出以来あきらめていた机での共生生活が戻ってきた。私は彼に見守られながら、『牛巻坂』という処女作を書き上げた。
 ロイはこれといった芸はできなかったが、人間が大好きで、わが家を訪問するだれかれの膝に乗っては撫ぜられていた。音楽をかけると、何時間もスピーカーの前を去らなかった。寝ている首にマフラーのように巻きついてきた。痒かったが、冬は暖かかった。一度、首輪で庭につないでおいたら、それがからまって窒息しかかった。女が危うく発見し、叩いて蘇生させた。私は愛する者が延命することの喜びをしみじみと噛みしめた。
 彼がわが家にきて十二年のうちに、南浦和から桶川、伊奈と二度引越しをした。桶川で彼はこの種の猫特有の腎臓結石を患い、大手術で生殖器を全摘した。彼は不便な排泄を地道に克服し、それからも大儀がらずに執筆の付き添いの勤めを果たした。私は彼と共同作業をする気分で八冊の本を書いた。
 伊奈に移ったころから、ロイは机に乗るのがつらそうになり、玄関まで出迎える日数も減りはじめた。そしてとうとう、小便ができなくなって入院した。すでに手の施しようがなかった。ついに彼の腎臓の機能が停止する日がやってきた。一晩、私は彼に付き添い、荒く呼吸する腹をさすり、痙攣する脚を撫でたりした。朝方、彼は動かなくなった。私は彼を覗きこみ、「ロォイ……」と小さく呼びかけた。彼は「ハー」とかすれた声で答え、そのまま口を開けた顔で息を引き取った。私は彼を清潔なバスタオルでくるみ、寝床だった籠に入れて、柿の木の根方に葬った。
 そのときだれかが撮った写真がある。そこにいる私はこの世の人とは思えないほど青白い顔をしている。籠に入れたロイの写真は、いまも私の机に飾ってある。彼の死にぎわの反応は、『光輝あまねき』の由紀子の臨終の場面に生かされた。

8月6日

 仙台早稲田予備校に勤めていたころ、勧められて『アウシュビッツ写真展』に出かけたことがあった。うだるような真夏の昼下がり、館内にひんやりと空調が効いていた。いかにも恐ろしい展示物を予想しながら、快適な環境の中にいることに底冷えのするうしろめたさを感じる。
 指定された通路を人の背にしたがっていき、ふと、一枚の不思議な写真に突き当たった。私は列を外れて、その引き伸ばし写真の前に佇立した。ガス室に送られる寸前の人びとが一角に集められ、学校の記念撮影よろしく雛壇に並んでいる。かなりの数の子供たちの顔が混じっている。私は悲惨な思いでその顔をひとつひとつ確認していった。そうしてある少年の表情に目が留まり、慄然とした。何のこだわりもない晴れ上がった笑顔。カラ元気というのではない。愛らしい指を突きたて、ピースサインさえしている。生命の途絶を予感して悄然と立っている大人たちに混じって、その子の明るい笑顔がひときわ妖しく輝く。彼は、間近に理不尽な死の控えていることを、おそらく知らない。喜ばしい緊張のあとの解放を待って笑っている。
 涙は流れてこない。ひたすら肌に寒気(かんき)を覚える。その笑顔は、危うい人間の営みを象徴している。さまざまな計画や見果てぬ夢を抱え、不意の中断に直感的に怯えながら、思わず情緒の喜びに微笑する―その動かしがたい証しが、目の前にある。命の長短を問わず、思索の深浅を問わず、不意の途絶のときまで人は意のままに笑いつづける。
 十分だ。もう観るべきものはない。外に出て、冷やされたからだを自然の大気にあてた。不快だった暑気が、いまはあらためて新鮮に感じられる。あたりの緑が美しい。息を深く吸い、純白の雲をはらんだ高い空を見上げる。あの少年が雛壇を上る前に、無邪気に眺めたにちがいない空のつづきを眺める。






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