週言コーナー 週に一度拓矢先生の生の声が聞ける
9月
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9月25日
                   70年代の飲み屋
                  (大学五年間の思い出)

 スナック――

 スナックバー、あるいはスナック喫茶とも言った。身仕舞いの派手なママがカウンターにいて、〈女の子〉と呼ばれる十代から三十代のミニスカート姿が(集団就職か家出で東京に出てきたという中卒の女が多かった)カウンターとボックスに散っていた。その数は多くて三、四人。ときに、ママの隣に厨房兼務のマスターが立っていることもあり、あるいはマスター一人だけでやっている店もあった。マスターはたいてい一家言を持っていて小うるさかった。店内は薄明るく、健全な女の声と男の声が高く低く入り混じり、カラオケの設備はなかった。だいたい備品のプレーヤーでレコードをかけるか、有線を流すか、ジュークボックスを鳴らすかしていた。客層は、まれに女の子目当ての男もいたが、ママやマスターとの世間話、あるいは客同志の〈高踏な〉会話を目指してくる者が主流だった。気のいいママやホステスが多いせいで、値段は学生でも十分賄えたし、学生証などでツケも効いた。馴染みになれば学生証は不要だった。つまみはほとんど食わないので、飲んだあとは飲み仲間と近所の焼肉屋かおでん屋で腹を満たした。五年間で数えきれないほどの店で飲んだ。卒業したあともこの種の店にはよくいったが、八十年代初頭を境に急にボリ値になったので、ぷっつりと足が遠ざかった。馬場早稲田通り『ロビン』、阿佐ヶ谷天沼『ヒロコ』、駅前『みみずく』、西荻窪『マコ』、久が原『元』、高円寺『我楽多』、荻窪『酔族館』等。

 パブ――

 コンパとも言った。中空きの大円卓が一つから数個、広い店内にしつらえられていて、中に数名の男女のバーテンが客に向き合う格好でシェーカーを振っていた。一人客は珍しく、大概、デートの二次コースか、学生がワリカンで大挙して押しかける場所と決まっていた。とにかく賑やかだった。値段は安くて、酒の種類も豊富だったが、如何せんつまみが不味かった。五年間で数回いった。阿佐ヶ谷駅前『ラビエン』、新宿『上海倶楽部』、『学生貴族』等。

 サロン――

 健全なサロンとピンクサロンがあった。前者はめっぽう値が張り、懐の暖かい飲み仲間(大概は中年の一過性の友人)に連れられていくしか機会はなく、着飾った女たちが客にぴったり寄り添い、興味のない会話を繰り返していた。かならずピアノが据えられていて、時間ぎめで正装した女が軽い曲を弾いていた。ギターの弾き語りがいることもあり、いずれも申し出れば伴奏つきで歌わせてくれた。チークダンスを踊る時間帯というのがあって、そのときだけ店内の灯が落とされた。うごめく影が間抜けたちの集まりに見えた。歌のアルバイトで相当期間、この種の店に勤めた。自前で飲んだことはない。三鷹『楽園』、阿佐ヶ谷『ボーナス』、新宿『ジロー』『グリーンハウス』等。
 後者は迷いこんだら地獄の一丁目で、店内は闇、タッチから本番までやり放題を売り物に、頼みもしない酒やつまみが次々と出てきて、しまいにべらぼうな値段を要求され、金が足りないときは身ぐるみ剥がれた。ホステスは若い学生風が圧倒的に多く、彼女たちはこの業界に染まると、たいてい中退して男と同棲した。飲み逃げを追いかける用心棒としてほんの一時期勤めたことがある。女たちの生態を観察するために働くのだと固く心に決めていたが、生態以前にそのあくどい商法に呆れるばかりで、観察に足る資料は収集できなかった。三鷹『P&P』、吉祥寺『ベトナム』、新宿『ブルームーン』等。

 キャバレー――

 ドンチャンドンチャンとうるさいばかりで、酒を飲んだ気にならなかった。店内放送に促され、パンツを何枚も重ね着した不気味に操の堅い女たちが、ダウンタイムとやらの一瞬静寂になる暗闇の中で、ボックスの客にまたがり胸など捺しつけてわざとらしく痴態を繰りひろげ、最後の一線を越えさせないという按配で、金に困った主婦のアルバイト場所の趣があった。一人ひとりの女に家庭の臭いがぷんぷんした。日の丸鉢巻をした学生アルバイトどもが間断なくタンバリンを打ち鳴らし、正体の知れない掛け声をおめき上げていた。値段には上限があり、その点では安心だったが、店を出たとき、女たちの金歯や目じりのしわを思い出しながら、自分は何をしにきたのだろうと人生の意義を疑わせる空しさがあった。一度、酒の弱い加藤雄司という友人を連れていったら、彼は堂々とカルピスを注文して、中年の女たちの度肝を抜き、奇特な人物として妙に可愛がられたことを覚えている。五年間で二、三回いった。高円寺『ハワイ』、池袋『ロンドン』等。

 小料理屋――

 分不相応と知りつつ、つい遊び人の友人(早稲田はその手の素封家の息子がかなりいた。御池、松尾、中尾、堤、後藤といった名を思い出すことができる)の懐を当てにして入る場所ときまっていた。だから普通の学生では考えられないほど頻繁にこの種の店の暖簾をくぐった。料亭上がりとおぼしき女将が一人、あるいは大将が一人で経営している店がほとんどで、叩き上げの腕を利かせた出し物はさすがに美味だった。奥の座敷に上げてもらえるようになれば一人前と言えた。飯も出してもらえたが、酒とつまみだけで腹いっぱいになるので、頼んだことは一度もなかった。五年間で三十回ほどいったろうか。中井『マルタ』、中野『両関』、川崎『田丸』等。

 バー――

 たたずまいこそスナックに似ているが、スナックとはちがう淫靡な雰囲気を醸していた。音楽はかけないのが普通だった。ママがいる図は珍しく、カウンターでバーテンが一人シェーカーを振り、ボックスではどうにも親しみの薄い女たちがひそひそと客と会話しているという具合。笑い声は滅多に上がらない。しかし、淫らな行為には及んでいないようだ。男に誘われて〈食事〉に出て行く女もいる。女にあぶれ、チーズや柿の種などを齧りながら、カウンターのバーテンと話しこんでいる客もいて、哀れだ。退屈して家路が恋しくなり、レジに向かうと、ビール一本四、五千円だったりする。それでも新宿などの暴力バーに比べればましなほうだ。暴力バーは恐ろしい。バーテンとして転々と何軒かの健全な店に都合数ヶ月勤めた。高円寺『巧』、武蔵境『群』、三鷹『UFО』、新宿『ジョン・ダワー』、銀座『ルパン』等。
 
 寿司屋――

 金のない割には、おごりでも自前でもよくいった。二十歳を過ぎて寿司の味を知り、世の中にこれほどうまいものがあるのかと驚いた。しかも生ものをツマミにして食いながら清酒を飲むのが生来の趣味に合っていて、ますます気に入った。店に入るとかならずカウンターに坐り、冷酒を飲みながら、ホタテを除いた貝類、シャコ、マグロの赤身をつまんだ。トロ、イクラ、ウニ、巻物は頼まなかった。ウニやホタテは青森で食い飽きていたし、イクラは飯のおかずに一本で食う筋子の美味には敵わなかったからだ。店を出るときにはかならず熱いアナゴの握りで〆た。甘しょっぱいツメを塗った大振りの一カンである。
 上板橋の小さな寿司屋に入ったのを出発点に、五年間で数十軒の暖簾をくぐったが、とりわけ高円寺の『寿司孝』には四十過ぎまで通った。子だくさんの境涯になって鬱々とした表情を浮かべていた一時期を除いて、マスターのネタの管理の慎重さとネタそのもののうまさが一向に衰えなかったからである。残念なことに、私が多忙にまぎれて一年間足を向けないうちに『寿司孝』はつぶれてしまった。残念。うまい寿司をただのような値段で食わせてくれた童顔のチャンコ型のマスターは、いったいどこへいってしまったのだろう。
 彼はあるとき、ほかの客がいないのを見計らって、
「トロはむかしはゲテモノだったんだよ。捨てるのがもったいないんで、店の者が味噌汁の具にして食ってたんだ。川田さんの言うとおり、マグロは赤身だァな」
 と言って、莞爾と笑ったことがある。私は彼がふだんから私の好みを温かい目で看ていたと知ってうれしかった。いつだったか、正月の粗品に二つもらった湯呑茶碗は、いまも水屋の奥に大事にしまってある。

9月18日

 私には〈友情乞食〉じみた性癖があって、年来、男の友人を中心に人生が回転してきたきらいがある。大乗経典の一つである維摩経に「友情こそよけれ」の一節があることを知ったのは後年のことだが、幼いころから無意識の確信のもとにそれを実践してきたわけだ。おそらく相手はさほどの深い思いはなかっただろう。それは私一人の飢餓であり、大切な幻である。

  寺田康男――
 名古屋熱田宮中学校の番長である。その風趣は書いて描き足りなく、また私の筆力では書きようもない。小学生のころ転校を機に知り合い、宮中学校の校庭で抱き合って訣れを告げて以来、四十年が経った。死ぬまでにぜひ一度会いたいが、おそらくそのすべがない。生きていれば、たぶん、日本のどこかの暴力団の上級幹部になっているだろう。彼に呼びかけるつもりで『牛巻坂』を書いた。返りはない。

  堤孝教と後藤守男――
 私にとっては二人合体して一人の人物であり、早稲田大学を具象する存在である。風が裏通りに吹き寄せるようにして知り合い、不気味に信頼し合い、五年間を三日にあげず、たがいの生活圏に乱入して暮らした。よく語り、よく飲んだ。彼らとの生活の合間に、ひそかな詩作の日々があったが、彼らはたちまち察知しその精力が絶えないよう常に励ましつづけた。私を天才というこれまで耳にしたことのない無責任な呼称で愛したのは、彼らが最初である。その無責任が私を今日まで引きずってきたことを、彼らは永遠に気づかないだろう。経済的困窮につけ、人事の悩みにつけ、恋愛につけ、彼らは私の恥多い暦日のほとんどすべてを目撃した。しかし、私は彼らのそれを一部しか目撃していない。彼らの生活圏に近づきはしても、深入りはしなかったからである。そうさせないたたずまいを彼らは持っていた。
 現在後藤は辰巳司法研究所の社長として経営業務に多忙のかたわら、司法受験制度や教育制度に種々の改革を唱える急先鋒の立場で活躍している。今年還暦を迎える堤は、兄の経営する熊本の商社で副社長として二十数年献身し、昨々年その会社員生活を退いたあとは恋女房とともに悠々自適の生活を送っている。彼らのことは『光輝あまねき』に堤と山中として書いた。まったく実像ではないが、彼らの醸す雰囲気は描き切った。かなりむかしに私たちは互いに葬儀委員たることを約した。彼ら二人にはその貫禄があるが、私にその大任はとうてい無理である。

  横山義範――
 青森の野辺地中学校の同級生である。自分は親の知れない貰われっ子であると、私に告白して以来、何の因果か私を恋人のように慕い、中学卒業後から私のいく先々に影のごとくついて回り、十五歳から二十五歳まで私の生活のそばで後見者の任に甘んじた。青森高校から早稲田大学卒業にいたる期間である。早稲田時代には、バーテンをしながら随時私の金銭的危機を救い、女難を解決し、詩作を励ました。彼は私の詩をすべて暗誦できた。堤や後藤にその技を披瀝してよく驚嘆されていた。私に対する彼の不可思議な愛の深さは皆から尊重され、まるで私の父親を眺めるような目で彼を眺めていた。私は彼の愛の深井を突き止めることができず、ひたすら利用した。便利な同伴者だと思った。
 早稲田を卒業後、私は女の実家(四国松山)に退いたが、泣いてまで引き止めた彼は追ってこなかった。追わずに私の詩の原稿を持って駆けずり回り、ついに出版に漕ぎつけた。彼は私の詩を愛していたことがわかり、長年の疑問が氷解した。利用者の人格が愛されるはずがなかった。その後彼は行方不明になり、いまに至るまで消息が知れない。彼のことは『風と喧噪』にヨシノリとして克明に描写した。

  島田尚博と森敦彦――
 三十四歳で再進学を決意したときの予備校の学び友達である。島田はぼんやりした情の人、森は鋭い理の人であった。勉学を核にして、互いに一回り以上の年齢差を気に留めずに深く親交した。一年間、週末ごとにわが家に集って合同勉強をつづけた成果が実って、島田は法政の哲学に、森は明治の政経に受かった。合同勉強といっても、ステレオを聴いたり、映画を観たり、マージャンをしたり、ときには酒を飲んだりしての、かなり奔放な合同振りだったので、合格を果たしたときは互いに受験の真髄を会得したような気になり、
「受験は、こんなふうに余裕を持ってやってこそ、はじめて成功するということを、後輩たちに教えなくちゃいかんな」
 などと言い合いながら溜飲を下げたものだ。
大学生当時の私の日記帳を見返すと、三日にあげず彼らはわが家にきている。車で外遊びした思い出が深く、一週間の東北旅行をはじめ、夜明けまで歓談して眠れず、そのまま名古屋へ不眠のドライブに出かけたこともある。隔年で都合三度、熊本の堤を訪ねたときに運転手役を買って出たのは島田である。現在島田は中小運送会社の運行主任、森は群馬銀行で中堅幹部として活躍している。後藤は一度島田をアルバイトで使ったことがあるばかりだが、堤は島田の人となりを痛く気に入っている。

  小川克也・岡田尊司・合田佳浩――
 東大時代の友人である。三十代の無聊を慰めてくれたという意味で忘れられない。合田は岡田の親友で、早稲田を目指す浪人生だった。彼らに費消した時間と金銭は多大である。彼らは数ヶ月から数年、わが家に逗留あるいは同居した。無為の時間とは言わないが、わけのわからない時間だった。後年、北海道の医師になった小川は、臨機、私の経済的危機を救った。恩義を感じている。哲学を棄てた岡田は京大の医学部に移ってやはり医師になったが、それを機にすっかり疎遠になった。数年前彼は横溝正史賞を取り、学術的作風の推理作家になったと仄聞している。最後に対面したとき彼は「あなたの本は京大医学部の学生たちが興味深く読んでいる。本の内容を総括した結論として、あなたは典型的な分裂症の天才だということになりましたが、ぼくが思うに、天才は開拓すべき文芸分野に目を向けるべきで、そんな身辺小説を書いていては大成しません」と切り捨てるように断言した。受験をあきらめた合田は、ドイツのフランクフルトで理髪店店主になり、すみやかに永住を決意した。岡田との交流はつづいているようだ。小川は厚岸の町立医院の院長をしており、音楽と勉強のために定刻出勤・退社を繰り返す趣味的生活を送っており、やはり三つ巴の交流はつづいているらしい。前記の森は小川と親しいが、肝胆相照らす部分があるものと思われる。


9月11日
 
 いま食べたものを記憶できない。ご飯か、パンか、それすら記憶できない。飲んだものもダメ。英語は記憶できる。日本語も大丈夫。なぞなぞもOK。飲食物だけが鬼門である。味覚と嗅覚をなくしてから、ものを食べたいと思わなくなった。腹は減るのだが、食べたいと思わない。つまり、食欲に基づいた腹の減り方ではない。だから、一日じゅう食べないでいても、少しも苦痛ではない。
 おそらく、すべての欲望とはこういうものだろう。器官が正常に働くから、欲求する。つまり器官が要求するということだ。
 そこで気づいたことがある。私は小さいころから金に興味がなかった。金に対する器官がなかったということだ。生活する以上の金が欲しくない。興味がない。購買欲も二、三のものにかぎられている。音に関するもの、文房具、本。予備校の給料は私にとってどんな役割を果たしているのだろう。まず、給料袋を開けたことがないので、自分がいくらもらっているか知らない。交通費を含めて毎月5万円、財布に入れてもらう。足りる月も足りない月もある。足りない場合は要求してまた入れてもらう。
 地方競馬貯金というものを持っていて、一日三万から五万の百円馬券を電話投票で買い、得失、マイナス五万からプラス二十万のあいだを行き来する。年間に三百本近い万馬券を当て、かなりいろいろなことに流用し(今年は大きいところではコンピューターと歯に使った)、一年が終わってみると、だいたい二、三十万程度の金が残っている。これを翌年の投票に使う。この数年運よく不足が出ないので、ギャンブルで苦しい思いをしていない。思い切って多点買いするようになったことが幸運を呼んでいるのかもしれないが、よくわからない。
 いま、私に似たような心の動きのもとに金に興味を持たない男のことを書いている。資料的なことを除けば、ひどく書きやすい。ただ、まったく欲望のない人間は魅力がないので、芸術に対する名誉欲に悩む男として設定した。この欲なら、私にも多少あるかもしれない。いや、あるだろう。  
欲望は社会に対する唯一の接点である。それがなければ自己以外のものと接することができない。
 私が社会というものにあまり興味がないのは、端的に言って、それに適応した器官が不足しているせいであるにちがいない。


 
9月4日

 
 文字ふたたび――

 個人の奇蹟を越えた時代そのものを共有しようとする者にだけ、文字が意味を持って立ち上がってくる。個のまま終わろうとする者に、文字は実質的な必要性を持たない。いぬ・ねこ、しかり。
 しかし、個人を越えた時代そのものに奇蹟などあろうはずがなく、奇蹟は個の中に終焉するしかないのである。文字はそのような個から個へ架け渡される、個の奇蹟を知らしめる美しい虹の架け橋である。渉るのに実体はなく、幻に等しい危険なしろものだが、眺めるのに楽しい、この上なく重宝な夢である。