バナー
本文へジャンプ  

 

週に一度拓矢先生の生の声が聞ける   10月

10月29日

 クラッシックについて書いてほしいという注文が作成者から出た。
 この領域はある種のサンクチュアリであり、ものを言えばかならず、正統な学習をした感性の持ち主から攻撃を仕掛けられることになっている。
 ハチャトリアンや、ブルックナーや、ウェーベルンを神と崇める輩がかならずいるからである。
  たとえばベートーベンに関して言えば、弦楽四重奏以外は聴かない、という一言で、私の好みはわかってもらえるだろう。モーツァルトとショパンとラフマニノフを天才だと思っている。グルック(グリークではない)やチャイコフスキーやラベルの一瞬のアダージョには、神がかりのものがあると判断できる。シューベルトは『幻想曲ヘ短調D940』一曲にとどめを刺す。その他の作曲家は適当にバックグラウンドとして聴いている。数十年をかけて、この世に知られている作曲家のほとんどすべて、その仕事の代表的な部分を聴いた。声はマリア・カラス、ピアノはアシュケナージ、ヴァイオリンはムター。なお、楽器弾きと芸術家の境界を截然と意識している。

10月22日

 この半年、元禄時代に関する本をかなり読んだ。少しずつ綱吉政治のことが頭に入りはじめている。まだまだ足りない。庶民文化、芸能、美術のことをもっと調べなければいけない。この十数年知識を蓄える機会は通勤の車中とかぎられているので、余儀なく遅々とした作業になっている。そのうえプラネタリウム式に知識を点在させる我流の滲みこませ方だ。茫洋たるゴールを思って挫けそうになる。しかし、私はそうやって頭の中でパズルのような推敲を繰り返しながら、生来ありもしない知恵を絞って、一冊、一冊、本を書いてきたのだった。今度もかならず成功すると願おう。けっして挫けてはならない。
 それにしても、本を読み、文章を書く人生に、無能な自分が嵌りこむとは夢にも思わなかった。この似合わない営為は、私にとって本来的な挫折だ。いつからこんなふうになってしまったのだろうか。寸暇に努力して知識を蓄え、思索する人生は私に向いていない。そんな生活を私は好まない。生まれつき頑健な体質ではないけれども、筋肉の強い私は肉体をいじめる仕事に向いている。からだの成果を誇りとする仕事に向いている。
 本を読まない陽射しの下にいたころがなつかしい。あのころ私は野球選手になることを夢見ていた。山内一弘と長嶋茂雄を神として憧れていた。小学四年から四番を打った。中学のときには九十一メートルの遠投をし、十二秒四で百メートルを走り(そのたびにかならず吐いた)、名古屋市のホームラン記録を作った。寄り眼の中京商業のスカウトがたびたび訪れた。空しい記憶だ。それらすべてを、母のディスカリッジと、恋人の誓いと、補償作用である勉強がさらっていった。野球しか好きでなかったのに。私は野球を失った反動から、芝居じみた無理をした。野球以外にも余剰の輝きがあるという虚構の人生を、身に備わった真理のごとく振舞った。
 ああ! 奇蹟が起こって、小学校のグラウンドへ戻れないものだろうか。そしたら、今度こそ、自分には野球の才能しかないのだと、わが胸にいちずに言い聞かせ、勉強などにかまけず、恋愛にも友情にもかまけずに、もっと真剣にからだを鍛え、刻苦して技を磨き、昼日なか白球を追う暑苦しい生活からプロ野球の涼しいカクテル光線のもとへ、だれの干渉や妨害も寄せつけずに進むことだろう。戦々恐々とした臨機応変の生き方を捨て、野球こそ私の人生であるという単純な主張にもっと強腰を入れるだろう……。
 それでもやはり苦しい人生が待っていたにはちがいないけれども、単一の趣味に生きたという悔いのない命を終えることができたにちがいない。愛や苦悩や芸術は私には重荷にすぎた。しかし、もう遅い。どうすることもできなかった来し方を反省し、涙を流している時間はない。死が迫っている。これから先、まっとうに天寿を生きたとしても、せいぜい生まれたばかりの赤ん坊が成人するまでの時間くらいしか残されていない。本来的に挫折した私は、その挫折を慰撫してくれた文学という腐れ縁に、その挫折を隠蔽してくれた愛情や友情というしがらみに、しっかりと殉じなければならない。それはたとえ不本意でも〈着手〉してしまった者の責任なのだ。乗りかかった船に払う感謝の賃料なのだ。生まれてきた無目的を思えば、挫折の岸に希望の船が巡ってきたことを幸いとしなければならない。
 私は野球に見捨てられてから、勉強をし、恋愛をし、労働をして自分に見合わない人生に花を咲かせようとした。そうして、ことごとく無様な途絶をした。何一つ、ものにならなかった。ものにしようとも思わなかった。無為の人であることを正当化し、怠惰の淵に落ち、人の愛情にすがり、そこに安住の地を見出した。権威や教養に瞋恚(しんい)と無意義を感じて、真剣な人びとを非難した。努力に匹敵する人生に満足できる人びとこそ、真剣な人間である。それを思うと私は消え入りたくなる。
 真の奇蹟とは何だろう? おそらく小学校のグラウンドに戻ることではない。自愛の人生に花を咲かせることではない。どんなに無様な虚構の境涯にあっても、それに共感し、哀れみ、慰め、さては感激までして手を差し伸べる愛他の人びとのあるということだ。彼らはメシアである。私はメシアの衷情を忖度してはならない。ひたすら感謝して殉じればよい。殉じる手段をきわめれば、いまの私は、命を削って作品を書く以外にないことに思い至る。私は本気で彼らのために貧しい知恵を絞り、疲労し、死のうと思っている。

10月15日

 九月十七日土曜日、入学時の初コンパ以来三十四年ぶりの同窓会の日、私は授業を終えるなり一本早い特急で水戸から東京へ戻り、浮き立つ心で早稲田の金城庵へ駆けつけた。二十分ほど遅刻した。松尾が酒の追加注文のためにたまたま一階の店内に降りてきていて、「おっ」と互いに軽い挨拶を交わすと、私を二階の広間へ案内した。後姿が老けている。音頭取りの彼はきょうの主役だ。彼の発意がなければ、きょうの浮き立つ心もなかった。彼を喜ばせたい。
 堤くんと後藤の顔がすぐ目に入った。あいにく彼らの脇には席がなく、私の席も空いていなかったので、十六名がコの字型に着座した宴席につきまぜに加わり、だれがだれやらわからないまま、テーブルから外れた末座に坐った。
「おお、川田!」
 という内心期待していた声がかからない。少し落胆したが、容貌の変わった友に戸惑っているのかもしれない。あらためて周囲を眺め回す。面影がある。彼も、彼も、彼も……皆、往時いっしょにハシゴをし、マージャンをし、恋愛を打ち明けられ、打ち明け、申し合わせて落第もし、この世の矛盾に息巻きながら幾晩も語り合った同胞だ。なつかしい。だれに語りかけようか。
 鴨居に《早稲田大学法学部中国語23クラス同窓会》という横断幕が掛かっている。幕の下に早稲田の法科大学院の教授になった四宮が坐っている。そのヒゲを生やした童顔に周囲の人間がにこやかに語りかけている。埼玉県のどこかで市会議員をしていると噂に聞いていた男が、暑くもないのに扇子で顔をあおぎながら大笑いしている。てんぷらを黙々と食っている禿頭にも、あたりの顔色を窺っている小心そうな白髪にも見覚えがある。私は話に加わろうとするタイミングを失っているうちに、なぜか急に白けた気分になってきて、先の友人のそばの畳に戻った。彼らと笑みを交換する。松尾に話しかけたいが、彼は全座に目配りして、酒の量を測ったり、料理の出を気にかけたりして忙しそうだ。
 どうしたのだろう、いつまで待っても一人として語りかけてこない。挨拶してくれる者もない。私は手酌でちびちびと飲みはじめた。部屋の中に遠く近く会話が拡散する。何を言っているか聞き取れない。あちこちでわざとらしい笑いが響く。声の明るさにもかかわらず、『光輝あまねき』の仲間たちの光が部屋に遍満することはなく、不気味なほどくすんでいる。小説の中の彼らはもちろん、あのころの彼らはどこにも見つけられない。
 幹事松尾の誘導で自己紹介(?)が始まった。
「さ来年あたり、M市の市長選に打って出る。俺は勝つ。Mにきたら寄ってくれ。歓待する」
 特定の政治仲間に向かって言っているようだ。
「滋賀県で検事をしていましたが、弁護士に転じて、今では弁護士会会長をしています。子供も無事巣立ったので、いまは暇です。ぜひ遊びに来てください。いいところですよ」
 彼の正確な居所はどこなのだろう? いつ遊びにいくべきか。
「会長か! 出世やの」
 と松尾が感嘆する。この会を成立させたきみは、だれをほめる必要もない。悪い心臓をいたわりながら、黙って坐っていればいい。
「人材派遣の会社を経営してます。バブルでかなり打撃を受けたけど、いまは北朝鮮と中国にかなりの市場を拡げることができまして、その二国にはかなりの顔で通っています。コネも強力なものを持ってるので、何かのときは相談してください」
 中国に愛人を囲っているという噂じゃないか、とだれかが合いの手を入れた。その経営者はヤニさがって髪の薄い頭を掻いた。仲間同士よく連絡を取り合っているようだ。それから立ち上がる者、語り終わって腰を下ろす者、政治家と法律家と商人しかいない。いちいち松尾が嘆声を上げてみせる。早稲田を語らず、〈その後〉だけが語られる。期待していた三十年間の蓄積、つまり潤沢になっているはずの言葉は、すっかり風化してしまっている。風化した言葉に耳は立たない。胸に哀切な風が吹いた。番が巡ってきて、
「あなたがたにとって通過点に過ぎない早稲田は、私には総決算なのです。私は初めてこの大学で友情が魂を救済してくれることを知りました」
 と私は言った。そうして、「あのころを語り、語られるためにきました」とつづけて言いかけたとき、すでに座はざわついていた。しんみりさせる気か! と茶々が入った。私の言葉も彼らにとっては風化したものなのかもしれない。
 来年は和歌山の市長になるだろうと言われている県会議員が、明日の遊説のために中座することになった。皆立ち上がり、校歌斉唱で送る。だれのための校歌か? 肩まで組んで、僥倖とも言えるたまゆらの邂逅を捨てていく一人の政治家を送るために、青春の歌が濫費されている。去りぎわに私は、皆につられて彼としたくない握手までした。
 紺碧の空を一番だけ歌って、二次会へ。期待を捨てきれず、タクシーに分乗する仲間にまぎれてついていく。独酌の酒が胃袋に効いている。早稲田松竹前の路地。場を設けたのはあの派遣会社の社長だ。
 意地を張っているかのように学生時代の思い出話をしない会合に、荒涼とした風が吹く。スナック小料理屋のカウンターや狭い小上がりで、子供の話、病気の話、死んだ学友の話、選挙や票田の話が延々と繰り広げられる。やはりここでも、私は独酌をつづける。胃が危うい。堤くんともっぱら来年の彼の還暦祝いの話をする。松尾は小上がりの隅で相変わらず目配りしている。友に再会した感懐も、次回の再会への期待もいっさい知れないまま、やがて一人去り、二人去りしていく。学生時代をはるかに遡って原始帰りをした同胞たちが、少年ジェットや矢車剣之助の主題歌を歌いだすころ、私の寂しさは極点に達した。だれからともなく立ち上がり、会費が徴収され、これといった挨拶も交わさずに、散会となる。信号を渡り、タクシーに乗り、皆ちりぢりに散っていった。発起人松尾の姿もいつの間にか消えていた。彼はこの集会に満足してくれたろうか。家族連れでどこかのホテルに泊まっていると言っていたが……。折よく迎えにきた女房の車に堤くんを乗せ、私は埼玉の自宅へ戻った。彼だけは「自分にとって、早稲田はすべてです」と言った。
 二日かけて私たちはアルコールを抜いた。そして、彼に会いにきてくれた私の教え子たちとともに映画を観たり、音楽を聴いたりしながら、心ゆくまで早稲田の思い出に浸ってくれた。
 栄達に至った〈いま〉を大切にする同胞を相手に、懐旧の大らかな感傷に浸ることもできず、ついに吐くほど酒が飲めなかったことが残念でならない。しかし、どう思い返しても、私のあずかり知らない彼らの〈いま〉に感激の種はないのだ。
「まだポエムを書いてるの?」
 宴席のだれかが振り向いて、畳にぽつんといる私に向かって発した唯一の質問である。
「いや、何も書いていない。予備校で未来の早稲田生を育てている」
 と私は答えた。親しい二人の友人のほかに、私の本を読んでいる者のないことがおのずと知れた。肩書きなき者は正体なき者である。私は心してそういう人生を歩んできた。だから身から出た錆という忸怩たる思いもない。私は淋しさの裏に奇妙な充実感を覚えながら、影のように八時間を過ごしたのだった。

10月8日

 十五歳から二十代後半まで、私はよく人を殴り、ときには蹴った。男も女も等しく殴り、蹴った。怒鳴る前に手を出した。警官も、駅員も、チンピラも、友人の恋人も、母親も、教師も見境なかった。彼らのなかには、肋骨を折ったり、内臓を痛めたりした人もいた。もちろん私のほうが逆に殴り倒され、捕縛をされ、骨や内臓を痛めたこともあった。
私が人生に苛立ち、暴力の子になったのは、中学三年の夏、ある恋愛をきっかけに人間信頼の基盤を失ったからである(アンニュイと暴力の気質を奔出させた契機として、女の裏切りが関わっていたのはまちがいないということだ)。つまり、人間など〈知れた〉ものだと思い定めたのである。知れたものである人間の一員である自分も、苛立ちの射程圏内にあった。だから、知れたもののように振舞わない人々を男女の境なく殴り、蹴った。衒いと気取りと競争に根ざした向上欲が許せなかった。怒りを鎮めるための代償行為として、私は詩を書きはじめた。
 やがて〈知れない〉人々に巡り合うようになった。いや、そういう人が目に付くほど私自身が熟したと言ったほうがいいかもしれない。熟した目に初めて彼らは愛の対象と映じた。私は〈知れない〉人が一時のミスを犯したときは、怒鳴ってすませるようになった。〈知れた〉人には怒鳴りもしなくなった。しかし他人のミスを黙殺できない気質を改善できたわけではなく、愚痴や鬱屈を抱えた濁り水のような人生が始まった。水を澄ますために私は、散文を書きはじめた。そうして不満が水中で結晶化し、どうあがいても澄んだ水にならないうちに、生を終えることが予見できるようになった。
 創作の出発点が怒りであったことが、私の作品を明るく広大な芸術に昇華できない狭隘なものにしている。そのことに私は長く絶望を抱いてきた。あるとき、ふと私は、自分が視界の狭い人事のみを愛していたことを知り、自分の人生の当然の帰結に微笑んだ。わたしは大手を振って愚痴を言い、愛するものだけを彫琢する日々に、明るい意義を見出した。

月に4回投稿
  • サイトには著作権が含まれています。無断で複製、改変及び転記等に利用することは固く禁止いたします。