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 炎天の下、いま少しの坂道 ― 川田拓矢 ―

8月26日

第十二作目『鯉人』がようやく完成に近づいた。順調にいけば、千ページの推敲も含めてあと半年と踏んでいる。出来上がったら出版社との交渉が待っている。気が重い。たとえ出版が決まっても、何せ売れない作家なので、発行部数も限られる。二千部以内だろう。売れないので版を重ねることはまずない。『牛巻坂』『誘惑』『五百野』『全き詩集』『高く青く孤独なところ』『あれあ寂たえ』の六作は新聞雑誌にとり上げられたせいもあって、奇跡的に三版まで重版したが、『解放区マリノ』『夜を渉る』『風と喧噪』『ブルー・スノウ』『光輝あまねき』の五作は初版かぎりである。

売れる売れないは二の次の贅言(ぜいげん)で、書物の形で作品を残すということが一義である。残しておけば、それがよいものならば必ず文学史の数直線上で採り上げられる。だから芸術家は脳漿を絞って、よいものを書き残さなければならない。

よいものかどうかは、決して意識してはならない。書きたいものかどうかだけを心に留めておけばよい。その作家が書きたかった作品には、時代に媚びた匂いがなく、自然だ。芸術作品は年代記でもなければ風土記でもない。書割として以外に、時代や風俗を映し出す必要はない。描写すべきは人間の魂であり、人間の魂に時代性はない。


8月19日

【ある熱血漢の胸のうち】

私は、男女愛と友情以外の世間的な事象をつまらなく感じている。私がそれ以外の事象をつまらなく感じるのは、それらの事象に接したとき自分の希望が満足に充たされないからではなく、むしろ積極的な意志というものをこのそれらに対して抱き得ないためである。もっと突きつめて言うと、それらには何ひとつほんとうのものはない、真に欲しいと思う値打ちのあるものはない、みな虚無であり、高の知れたものであると考えているからだ。

この気持ちは幼いころから徐々に、いかんともしがたい重苦しい持病のようになって、私の精神と肉体とに食いこんできた。私はそれを心で感じるばかりでなく、からだで感じてきた。たしかに私にしても、うまいものを食べればうまいと思い、美しいものを見れば美しいと思い、世に恵まれた権威や財を身につけた人を瞥見すれば、大したものだと思う。しかし、そう思った端から、「だから、どうした」と思い返すのである。労力を払ってまでうまいものを食べたり、美しいものに接したり、権力を求めたりすることが馬鹿げているような、大儀のような気になってくる。何か世間的に大層なことがあって人が褒めそやすと、私もそれを見てなるほど素敵なことだと思うけれども、やがて、「だから、どうした」と思い返して、感銘するのが大儀になる。

男女愛と友情以外のものに、たとえこんなふうな私の応対があったとしても、人びとの許容範囲に繰りこまれるかもしれない。しかし、これが男女愛と友情以外の精神的のものにまで至ったらどうなるか? この世には男女愛と友情以外にもさまざまな入り組んだ感情がある。それに一向に反応しないとなったらどうなるか? 

私が一見温和で柔順な人間に見えるのは、じつは私の選択的な感激の結果である。限定された意志しかない私は、男女愛と友情以外の局面では、ただ社会的な義務の命じるままに動く。そのとき、私にとって人生は単調で無意味なものとなる。もし私のこの気持ちが安易な厭世観からきているなら、哲学や宗教に訴える手もあるだろう。困ったことにこの選択的な虚無感は私の体質に食いついているので、むしろ厭世観以前の段階の原始的なものなのである。たとえ厭世観が私の身に降ってきたとしても、それはその原始的なものから生じた結果にすぎない。このことについては、『風と喧噪』に詳しく書いた。

だれにしても、理屈のうえから、この世の中にほんとうのものがあるかどうかを断言することはできないし(それは男女愛と友情に関しても同じである)、だれでも、笑ったところで泣いたところで、世の中のことは高が知れていると、冷静に考えればそう思うだろう。しかし人間というものは、理屈ではそう思いながら、おかしいことがあれば笑うし、悲しいことがあれば泣くようにできている。それが人間の常である。とすると、私には人間として欠けているところがある、人間の持つべき汎感情というものがごく限定的に賦与されている可能性がある。つまり、自分には深遠な意志ばかりでなく、豊饒な感情もないのではないか。私にあるのは魯鈍な本能ばかりだ。その本能に従えば、たしかに世の中の基準から見て真に良いものも悪いものも見分けがつかなくなる。

だが、個の生命を快適に維持する本能に基づいて、行なって悪いこともなければ、行なわなくて悪いものもないはずだ。本能が快を命じるなら、どんなことをしてもかまわないし、どんなことをしなくても差し支えないはずだ。

こう居直ったふうに考えると、私は人間としてひどく情けない、不幸な気分になってくる。しかし、これよりほかに考えようがないのだ。神とか、善行とか、道徳とか、社会とか、家庭とか、権威とか、男女愛と友情以外のものを信じることができる人には、その規則の中で正しく生きることが同時に幸福に生きることであり、安心して生きることにもなるだろうが、私の場合そうはならない。私には人間らしい汎感情がないとわかってみても、私もやはり人間なので、その限定的な人生が恐ろしいような、薄気味悪いような気になる。しかし、結局私はこういう人間に生まれついた、こうでなくてもよかったのだけれども、こう生まれついたのだから仕方がない、こう生まれつかなければよかったということは何もないのだ、こんな私にも幸福が巡ってくるとするなら、それはまったくの偶然から男女愛か友情が与えられたときであり、私はそれで十分だし、そうあるべきだ、と思うしかないのである。


8月5日

昨今の若者の服装の無作法で薄汚いことは、驚くばかりである。粋がっているようなのだが、少しも粋に見えない。ひたすら根本に抱えている醜さの隠蔽のように感じられる。あの服装の下には、ぶくぶくとたるんだ垢まみれの醜い肉体がある。あの魔法使いのように馬鹿でかい踵の折れた靴の中には、水虫に侵された寸詰まりの臭い足がある。
 私は近年の若者風俗をとんと知らないけれども、たとえばかつての中・高生はいかに一律の制服を着せられていても、またふらりと遊び着に着替えて町を歩くにも、やはりどこか垢抜けしているところがあったように思われる。昨今の若者の服装は、ほとんど農村の野良着と選ぶところはない。彼らが洋服を着るのは、カウボーイがジーンズを着るのと同じく、ただもう便利と実用の一点張りで、まったく身だしなみということを度外視しているように見える。実用なぞ必要悪であって、ぜったい美ではない。
 無論あまりに若いうちからおしゃれをするのは考えものだけれど、もう少し着こなしと手入れに注意して、颯爽と美しい『型』を崩さないように努め、ズボンがだらしなく垂れ下がったり、ワイシャツが腰周りからはみ出したりしたら、しつこいほど気をつけて直すようにしたらどうだろう。少なくともズボンプレスや、シャツのたくし込みや、革靴を磨きあげる作法ぐらいは、彼らのために周囲の人間が教えてやる必要がありそうに思う。若い時分にあんなふうでいては、年がいってから急に粋な服装をしようとしても、どう頑張ったところで馬子の衣装にさえならないだろう。