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10月27日

トルストイの大作『戦争と平和』を読み終えた。これで二度目である。一度目は高校生活も押し詰まってからだった。ようやく自分なりに、この名著の大意をつかんだ思いである。すなわち、
 ―歴史的事件の解明を一個人の意志に求めようとするのは正しくないかもしれない。なぜなら、そういう考え方には、時間の一定の条件の中で幾多の生命を動かすのは一個人の意志ではなく雑多な恣意の無数の衝突だということが忘れられているからだし、過去のすべてを成就された事実に対する準備と見る因果法則のほかに、すべてを連関させようとする固定観念が働いているからだ。

 言うのもおこがましいが、似たようなことを、思想的にも表現的にも卑小ではあったけれども、自著『夜を渉る』の中で書いたような気がする。深く思うとき、人は同じような結論に至るものだと、なんとも晴れ晴れとした気分である。

 しかし―名著は大意(テーマ)を求めて読んではならない。一行一行に、著者の奇跡的な脳の襞を感じて読み進まなければいけない。大意は、読み手の成熟とともに、自然と感得されるものだ。おそらく書き手は、テーマなど意識せずに、ひたすら神経を凝らした局部の累積によって全体を構築したのにちがいない。有能な作家に対するタブーの質問は、

「テーマは何ですか?」

 である。主題は彼の言葉の集積そのものであり、そこから抽象されるものは、あまりにも瑣末な断片である。