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11月30日

 監督といい、脚色者といい、俳優といい、これはと思えるような人物が、どうも日本の映画界には稀にしか現れない。日本の映画界では一流だと言われるような人たちでも、私の目から見るとまず普通と言える程度で、なんというか、一体にほかの方面の人たちに比べて、やはりレベルが高くないように思われて仕方がない。ほんとうに監督らしい監督、俳優らしい俳優が非常に少ないこと、そういうことがやはり、私に日本映画を見る気を起こさせないのである。―悲しいことに、昨今は外国映画も不作になった。


11月24日


 流謫頌歌(るたくしょうか)



T 野辺地(のへち)― 十四歳



 あれは つらあての

 ふり立つあこがれか

 澄んだ水が流れていた

 雪も舞い歌った

 烏帽子(えぼし)形した山は 青田の向こうに高く

 夢が編み干されていった

 早くに失敗した少年は

 その身を 島流しと決めていた 

 いつも ひとつの思い出と暮らしていた


 きらきらと光る眼して

 少年は冬の海辺をさまよった

 北のまちと人びとは

 苛立つほどに情愛が深く

 少年を背負い 滅ぶとみえたが―

 
 だれも救いとならなかった

 雪のなかに来(きた)って、触れ

 うごかされたとて

 だれも救いとならなかった

 灰色のとばりの陰で

 滞ることを知るばかりだった

 
 おお なんと無知で

 希望をもたなかったことだろう

 あの 風景を

 いつかは 美しく

 描けるときが来るだろうか

 ギヤマンの書き割りの向こうに

 葉は木漏れ日をいだいてゆれ

 老婆の指のような枝が

 せつなげに 右往左往する

 ぼくは 机にいて

 未来のために

 遠い時間を もてあそんでいる




 U 野辺地反歌 ― 五十三歳



 わたしは野辺地の歌を知っている
 風に漂白された帆立貝や 網をつくろう茶色の顔
 雨の刈田に浮かぶ霧烏帽子

 野辺地はわたしの歌を?
 あの日の少年の肌の色を 雪に映し
 その名を遠い希望に掲げるか
 それとも 夏の淡い陽は
 わたしの似姿に影を落とし
 スグリ垣に吊るされたミー助は いまも
 わたしを捜しているか

 降り立つ駅舎の向こうに
 わたしの歌はあふれ
 鉄路のこなた
 墓に歌碑を刻む悲しみが 時を平(な)らす

 

11月18日

今日は、象牙の塔である大学の瓦解の時代である。就職率の惨めなことは、名門の国立も私立も変わりはなく、また法学士たると医学士たると文学士たるとを問わない。生活の安寧を望んで、ようやく登竜門を潜った人間にとって、それは人生的な挫折以外の何ものでもない。大学にいきさえすれば身分を保証されるという神話は、帰らぬ夢となった。

しかし、この状況でこそ、学生は社会的立身と関係なく、教養を積む作業に専念できる。目の前にニンジンのぶら下がっていない、欲得抜きの真の研鑽ができる。せいぜい学生時代はアルバイトでもして苦学し、めでたく学者の地位を得たら、日々慎ましく暮らせる程度の実入りに甘んじながら、誇りを持って学究生活を送ればよい。何ぴととも競争する必要はない。国家や企業は、利益を手に入れるために戦う。販路や、領土や、港を手に入れるために戦う。まるで人間活動の法則として、競争以外何もないといったように。

この分では、本物の学者がこれからの半世紀に陸続と輩出されるのではないかと、私は本気で期待している。よき学者の台頭は、よき芸術の支援を確約する。生きてその日をこの目に収めたいと思うが、おそらく無理だろう。


11月10日

 不意に、名古屋西高等学校の校歌を思い出した。たまたま早予に同窓の講師を見出したせいでもあろうか。のんびりした校風。メイセイ―かつては旭丘、明和に次ぐ名門で、窓ガラスに前身の『県二女』という白文字が銘打たれていた。自著『誘惑』の舞台でもある。三年生のときに退学勧告の危機を凌いだ思い出もあって、どちらかと言えば、苦い思い出の方が多い。

  
  あこがれの美よ 永遠よ

  虹かかる木曾の流れに

  伊吹の峰 青春の意気を呼ぶ

  剛健ゆかむ

  ああ 名古屋西 われらの学園

 
 不思議な校歌である。伊吹山は遥か滋賀県の彼方だし、木曽川も愛知県を囲繞して三重県に河口を開いている。たまたま滋賀県と岐阜県の両自然を俯瞰できる場所で育った作詞家に依頼したか、当人が献呈先をまちがって手渡したものかもしれない。

異才清水義範氏がここの出身である。かつての一流校メイセイ(ちなみに名古屋大学のことはメイダイと言う)も、いまは三流に落ち(たそうだ)、定時制の児玉高校なるものが併設されたと、その同僚講師に聞いた。契機があってふと思い出すことに大した重みはない。心を苛み、常に思い出されることにこそ、重要な意味がある。