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冷笑よりも信念を。

12月8日

一年間のレギュラー授業が終了した。あとは冬期講習を残すのみである。

今年の生徒は、総じて、インテリぶらない、勉強の効率に無頓着な、たゆまず努力する素朴な人間が多かった。小規模な予備校の面目躍如たるものがあった。彼らは雑談に真剣に耳を傾けてくれた。そして、懸命に自分の頭で考えようとした。したがって成績の伸びには著しいものがあった。成績というのはその程度の精神の集中具合で伸びるものだ。逆に言うと、何事につけても、素朴な人間しか急激な発展を示さない。

あさはかな学徒は博覧多識を好む。しかし、いわゆる目標のない《物識り》は役に立たない。勉強というのは、何のためにするのかを心にはっきり定めて、たゆまず実行する―そうしてはじめて有効性を発揮する。孔子は「道に志すこと篤くなければ学は成就しない」と言った(『論語』子張篇)。道に志すとは、目的を定めるということである。

博学と篤志はこのように勉強の関門であり、分かれ道である。しかし、精進の途上には迷いも停滞もあるだろう。疑問があるときはそれを捨てておかずに、教師や友人に詳しく問いただし、了解したらそれを利用して次の目先の勉強に応用する。そのくらいの疑問が氷解したからといって、その知識を目的への一般法則にまで高めてはいけない。目標は遠い。知り、行うことは、一歩一歩着実でなければならない。その先に目標がある。森を見通そうとしてはならない。樹を一本一本見ているうちに、森は通り抜けられる。


12月15日

ナポレオンが最終的に軍を見捨ててロシアから逃走したことが、もろもろの歴史家たちによってなにか偉大な天才的なことであるかのように書かれている。人間にとって恥ずべき卑怯な逃亡行為も、歴史家たちの言葉にかかると正当化される。

歴史的な考察が、人びとが善とか正義と称しているものに明らかに撞着するようになると、偉大さという観念が顔を覗かせる。偉大さというあいまいな言葉で善悪の尺度を取り除こうとする。偉大な人間には悪がないと言いたい、どんな悪逆非道も、偉大な人間の罪に帰することはできないと言いたいのである。

「彼は偉大である」

 と歴史家が言う。するともはや善も悪もなく、偉大なものと偉大でないものという弁別があるだけだ。歴史家の観念によれば、偉大さとは、英雄と呼ばれる異質な存在の特性である。

その弁別に甘んじていたので、ナポレオンは暖かい外套や毛布にくるまり、破滅に瀕している同朋たちばかりか、自分がロシアへ連れてきた使用人や捕虜たちもほったらかして我が家へ逃げ帰りながら、それを偉大なことだと感じて平然としていた。彼は自分の中になにか崇高なものがあると思いこんでいたのである。

そして全世界の人びとも、百年間そう信じてきた。これからも信じつづけるだろう。善悪の尺度で量ることのできない偉大さなぞ、無価値であり、かぎりなく卑小であるということを、世の人びと(とりわけ権威主義者たち)は認めることができない。善悪の尺度によって測れないものは、何もない。正直と、善と、真実のないところに、偉大さなど存在しないのである。


12月29日

初代ロイは私の腕の中で、私に向かって末期の声を上げながら、その口を開いたまま死んだ。私とシマは、柿の木の根方に穴を掘り、タオルに包んでプラスチックの籠に収めたロイを埋めた。彼の死を、強いて私の生に明るく転化しようと願いながら。

人は死に瀕している動物を見ると、恐怖とはちがった、酷薄な、底なしの悲哀に捉えられる。自分自身であるもの、自分の本質でもあるもの、生き物の本質であるものが目の前で消えようとしているからだ。

死に瀕しているのが人間で、しかもそれが愛する人間である場合、生命が消えることに対して覚える荒涼たる悲哀のほかに、永遠の別離に対する癒しがたい深手が感じられる。この傷は、肉体の致命傷と同様に、その人を殺す。その人はもはや明るい生へ転化はならず、再生不能である。