本文へジャンプ

 



12月25日


芸術的完成と総合的な教養は一致しない。芸術的天才が教養人の相貌を帯びることはない。天才的芸術家を船にたとえるならば、彼の天成の資質とは積載能力ではなく、波濤を切り進む船体の姿型と走行能力そのものであり、その船体の生来的な質実を見誤らず信じつづける意志の力である。彼は青春のある時期に、まさに難破の危機にある船が積荷を海へ放り出して船体を救うように、知的教養人たることを放棄して、芸術的完成をあがなう針路を定めたのである。空荷で走行する姿は、総合的知性の夭折による凛々しい徒手空拳のそれである。満艦飾でなく、満載もせず、走行の姿型と跡の白波だけに意義を認める彼に、いったい何時、だれがため息をつくのだろう。



12月18日

記憶は最大かつ不朽の個性である。記憶は無数の個性のなかで最も厳密に、私たちの人間性や行動の仕方を規定する。人生のすべては、経験された過去から未来への弾道であり、たえず消えつづける現在という瞬間に過去を振り返るときにのみ、つまり現在の意識的な過去に対する経験の瞬間にのみ、その軌道の全体が明るく照らし出される。



12月5日


 大宮のトイレで、大切な本をなくした。ニューシャトルと大宮駅改札の間のコンコースにあるトイレの小便器の棚に置き忘れ、気づいて数分後に戻ったときにはすでになかった。書き込みの激しい古書で、中の浄瑠璃の項目は今回の小説の参考にしなければならないと思っていた貴重なものだった。他人に役立つ本ではない。

その日から私は、駅の遺失物関係の部署や、構内警察、清掃係などに一週間つぶさに当たってみた。無駄だった。本にはアメリカ製の高級な牛革でカバーをしていた。川越校に勤めていたころ、駅前の『ロフト』の輸入品コーナーに立ち寄り、初見で気に入り購入したものだった。まちがいなくそのカバーが目当てで盗んだのだと思い当たり、しっかりと絶望した。盗んだ人間は恐らく駅から遠いどこかで中身を投げ捨てただろう。裸で持ち歩いていればよかった。大切なものにくだらない装飾は施すべきでなかった。

こと遺失物に関するかぎり、紛失したものが手許に戻ってきたことはない。松山から上京したときタクシーに落とした生活費と手縫いの財布、チェックの模様柄が気に入って買ったのに一度も開かず東北新幹線に置き忘れた大きな傘、小学生時代砂場に置いてきた学生服、ランドセル、予備校の生徒から合格の謝礼としてプレゼントされたシャボン玉石鹸20個、川崎競馬場に向かう車中で競馬新聞に夢中になって網棚に置き忘れたセカンドバッグ(安岡章太郎の『志賀直哉論』が入っていた)、駒場祭で友人たちに中華料理をおごったあと胸のポケットに見当たらなかった財布、センター試験の受験票、etc.……。それらはどんなに努力しても戻らなかった。爾来、忘れたり落としたりした瞬間に、すっかりあきらめることにしているが、今回の書き込みばかりはあきらめられず、私は一週間奮闘努力した。

私の絶望の種は、本の内容と、それに付け加えた書き込みを思い出せるだろうかというところにある。たとえあらましを思い出せるにしても、かなりの時間がかかる。数週間、ひょっとしたら数ヶ月におよぶ仕事になるかもしれない。かつて、ワープロで書き上げたばかりの『牛巻坂』の第何章だったか24枚、記憶ボタンをまちがえて消去ボタンを押し、すっかり消してしまい、一日半かけて(むろん徹夜して)概要を思い出したことがあった。一言一句が正確なはずはないので、復元したあとも痛く絶望したものだ。いま、あのとき以来の絶望感に襲われている。いや、今回は他人の文章に加えた書き込みを思い出す作業なので、絶望の度はさらに深い。しかしこんなことは、だれに語ったところで詮ない。きょうからまたこつこつ努力しよう、本をもってトイレに入るのはよそう、と自らに呼びかけるしかない。

 







バナー