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1月28日
 

―この一文を私の友人に捧げる―


大学に属したことで私の得た二義的な利益は、まちがいなく、現在の職にありつけたということだろう。このマグレは、大学を通過しなければ手にできなかったものである。たとえ私がどれほど優秀な人材でも、高学歴がなければ、いまの経済的安定はなかった。どちらかと言えば不得意な分野で報酬を得ているのだ。
 その意味で大学は、詐欺師製造の最も効率のよいマシーンである。学問に向かない人間が本意なくある種の職に就くとき、それでも生きていけるためには、この腐敗した日本社会では肩書きが必要である。肩書きとは実力以上の勲章のことだ。

私は仕方なくそういう勲章人間を作り出す仕事をしている。不慮のマグレを生かしているという意識があるので、誇りといったものはない。誇りのない仕事をしている途上にも、余儀なく期待が生まれる。私が教えている中には、学歴取得だけでは収まらない、学問追究に優れた、前途有望の学生たちもちらほらいる。そういう輩は放っておいてもいい。彼らに僥倖などまったく必要でない。この時期私に生まれる期待というのは、そうではない多くの学生たちを、将来マグレが期待できるような大学へ送りこめるかもしれないというケアの精神に満ちたものである。

今年もその季節が迫ってきた。おのずと身が引き締まってくる。受験知識の上から見ても、一年にわたって、将来多くのマグレが期待できるような知識重視の授業を展開してきたからだ。かなりの学生が受かってくれるだろう。目に見える。

では、私が大学に属したことで得た一義的な利益とは何か? それは、明るく天に抜ける哲学的な価値観を所有しつづける幸福に気づいたということだ。そのせいで終生の絆を誓い合う友を得ることができた。この一義的幸福はだれもかれもが手にできるものではないし、大学にいかなくても獲得できるものにちがいない。私には遅れたチャンスがやってきたというだけのことだろう。そうした価値観を持っている人間には、実際のところ、学歴など要らないし求める必要もない。巷に天然に存在するだけで、常に人を呼び、人に囲まれ、才能を讃えられて命を全うできる。しかしそういう人間でさえ、ある時期世間の趨勢に靡いて、空しい権威に憧れることがある。その一瞬の浮気心を実現させてやりたいと私は張り切る。願望が叶えられることで彼らの余分な不安が雲散霧消し、より効果的に持ち前の才能が発揮できると思うからだ。

意外なことだが、この種の素質は後天的に植え込むことができる。じつは私はこの職に就いて以来、そのような他我融解の才に満ちた真の人間的エリートを作り出す授業をこそ、ひそかに、徹底して心がけてきた。そこに学歴の付録が結びつくなら一層いいと考えてきた。マグレをマグレと認識し、その恩恵をフルに活用し、他人にも分け与え、その他人に生かされるという人生の幸福を感じられる素質こそ、本意なく生きるためには欠かせないものだからだ。そういう学生たちの数はなぜか私の身の周りには多いし、これまでも多かった。しかも最終段階で私の教室に残るのは、そういう学生たちばかりである。彼らの人格の達成度から見れば、よけいな学歴など作る必要がないのに、あえてその取得競争に没頭している(こんなことを言っても彼らの慰めにはならない)。そして学歴を取得したのち、身に合った仕事で成功できる可能性はかぎりなく低い。それこそ私の身が引き締まる素なのである。本意ない人生への一歩として学歴ごときを求めるなら、なるべく得させてやりたいのだ。少しでも早く自分の価値観の正当性に目覚めるためにも。

 君たちよ、戦ってこい。「勝敗などどうでもいい」とは教師として口にはできないが、どのような結果が出ようとも、君たちの価値観が持っているレーゾンデートルは揺るがないとだけは言っておく。君たちはまだ自分を信頼できないので、まるで浮気のような、芯を外れた行為に夢中になっている。しかし、私がそんな言葉を語るのはおぞましい。昔日、私も君たちと同じ行為に夢中になり、不十分な知識のボヘミアンとして生きながらえ、その道のりでたまたま君たちという同類に出会ったというのにすぎないのだから。願わくば、まだたどりついていないのなら、大学という目覚めの場で、上に言った〈第一義〉にたどりついてほしい。また、自分はすでにたどりついていると確信できるなら、お祭りに参加するつもりで試験を楽しんでいらっしゃい。



1月18日

今井正和という歌人がいる。都内の高校で世界史か何かの教師をしているらしい。先日の同窓会の片席にいたようだが、目立たない振舞いの男だったせいで、その存在に気づかなかった。口を利いた覚えもないし、無論彼が歌人であると知る由もなかった。

同窓会から半月ほどたったある日のこと、『聖母の砦』(砂子屋書房)という立派な装丁の歌集が届いた。添え書きに、「会の席上、あなたの弁舌に文学的な「才」を感じ、惚れ惚れと聴き入りました」とある。あなたにとっては取るに足らない言葉の群れでしょうが、私なりの渾身の成果です。どうかご笑読のほどを―

私はあの日、文学について語ることはなく、あまり口を利かずに聞き役に回っていたので、この評言はまちがいだろう、きっと大人しい者が大人しい者にかけるお世辞のつもりなのかもしれない、それとも書店でたまたま私の作品を目にして便りをしてみる気になったか、と判断した。

読んで驚いた。叙情が貫徹している。才能がそれを裏打ちしていた。三百首ほどのうち十首ばかり、完成の域と思われる歌があった。



雲で富士は見えねど

 美しき芦ノ湖と

帰りて記す髪の匂いも



病む者の心の絃を震わせる

 歌さがす旅

  こころの海に



つば広の夏帽子おさえる少女らは

 すでに

  パラソルの君と等しい



吾を産み抱いたであろう

 部屋在りし棲家の跡の

  廃材朽ちて



四首ほど挙げただけで、この完成度。時代を画する〈詩人〉と思われた。私は早速、自分も文章を志す者である、一度会って話をしたいという内容の返信をしたためた。彼は高校教師をしているらしく、「毎週木曜日があいています。ぜひ会いましょう。私はカラオケが好きなので、それも楽しみにしています」と返事があった。時は三月と決まった。いつか君の本を読んでみたいという文面から、私の作品は一冊も読んでいないと知れた。私は手元にある限りの自著を小包にして送った。

しかし、カラオケ? 趣味としてそれはそれでよい。でもあえて手紙で書きよこすほどのものだろうか。歌集を読み返してみた。政治に悲憤慷慨する歌が七割方を占めていることが改めてわかった。視線は国の内外に満遍なく向いている。社会科の教師という職業柄なのかもしれない。拾い上げると、愛や失意を歌ったものはきわめて少ない。あったとしても、感傷の芯を探る心の仕組みが平凡で、情を叙す逼迫感がない。語彙が練れていないのだろうか。いや、語彙は訓練が行き届き、振幅の大きいものだ。つまりは、元来、情に溺れることの少ない人間であるか、情緒そのものに意義を認めない人間であると認められた。

さらに読み返す。歌そのものに教養が優先している。「政治的な見識のない人間は哀れだ」という歌まである。この男も知識の人か? また、借金をしにいったとき冷たく追い返した友人を逆恨みしてシニカルに貶すものもあった。自らの病気に苦しむ歌も多かった。病気の種類はわからないが、長く入院治療をしたようだ。しかし、そんな感懐を歌にしてよいものかどうか。「数打てば」の心理も仄見えてきた。一読のときには気づかなかった自己愛やプライドがくっきりと浮き上がる。私とは異質の人間のようだ。はたして会って何かの実りが期待できるものかどうか、私は恐ろしくなってきた。

しかし、初見の感動を信じることにした。才能と、そして芸文の器まで感じたのだから。



愚かにも

 幸福な若き日の過去を大事に抱いて

  生きてきたるよ



語彙ではなく、恐らく言葉使いが(幸福な若き日、過去を抱いて、といった一律の言葉乗せが)、歌の底を浅く見せているだけで、諧調と文体が乖離していないかぎり、彼は将来ある歌人だろう。会って、語っておこう。私は歴史に立ち会っているのかもしれない。