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1月27日

人間の中には、幼いころも、成人してからも、蛾が光に寄るように、社会の最高の地位にある人びとのほうへ引き寄せられ、彼らの態度や人生に対する見方を自分のものとし、それらの人びととの親しい関係を作り上げるという傾向のある人物がいるが、私が生涯にわたって忌み、敵と見なしてきたのはそういう人物である。逆に、忌み嫌われ、敵と見なされてきたのも、そういう人物からである。彼らが機知に富み、柔和であるのも、大いなる欺瞞として私の神経に刺さってやまないものである。

彼らは、幼少のころ熱中したことをすべて跡形残さず失い、肉欲にも虚栄にも屈し、イデオロギーに染まり、すべて彼らの感覚が指示した限界を超えようとしなかった。幼いころ嫌悪していた行為は、高い地位にある人びとによっても行われており、それらの人びとによって悪事と思われていないのを見ると、それを善行とは認めないまでも、すっかり忘却してしまい、たとえ思い出しても心を痛めなくなった。ひたすら身辺の細部まで《一流》を目指し、地位の用意するばら色の旅路へ心の領域から旅立っていったのである。

私が問題と考えているのは、彼らの中に芸術家が混じるようになったことである。芸術が汚されはじめた。由々しきことになった。どうにかして彼らを撤去しなければならない。それさえなければ、私に何の危惧も、不安も、苛立ちもないのだから。しかし、撤去の実現する日は訪れないだろう。

彼らの速歩と私との距離は開いた。私は路の遠くを見やることもなく、小さな心の里の道端で野の草を摘んでいるしかない。


1月20日

芸人という一団がいる。彼らは、どんな場合にも冷笑することが人生で最も優越なことであると思うことにしているらしい。人情として笑うことが不可能である場合にも、かならず意識してヘラヘラと笑う。何がそんなにおかしいのかと尋くと、

「何もかもおかしい。自分自身もおかしい」

 と答えて、また笑う。

もちろんほんとうは決しておかしいのではない。おかしがっていたいのである。そしておかしがりたいために、すべての人生一般の対象物をその冷嘲の的となりうる視界内の下賎な階級まで引きずりおろさずにはおかない。相手が苛立てば苛立つほど、彼はその犬儒主義(シニシズム cynicism)を享楽する満足を感じて、なぜ相手がそんなに苛立つのか合点がいかないような顔をし、冷静に構える。それが彼の勝利なのである。

しかし、彼の毒舌を聴く者は、表面は氷のごとく見える冷嘲の奥にいらいらしたトゲがあり、ひねくれ者の弱い炎があることを容易に見抜くことができる。その弱さは人を感銘させることはおろか、同情を引くこともないので、芸術の対象となることはない。