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3月1日


【前回補足】

文明=文化+社会。文明を考えるうえで、文化・社会の二つの要素は重要である。文化はシンボリックなもので、その典型は言語。文化は比較的変わりにくいもの。古代以来その統語法(シンタックス)は変わっていない。社会というのは人間の諸関係の総和。その典型は法律、企業、教育など。社会は比較的変わりやすいもの。たとえば『万葉集』という古典文学は変わらなくても、それを読む日本社会は千五百年にわたって変わりつづけている。近くは、第二次大戦を挟んで、軍部独裁から平和国家へと変わった。

経済成長と社会の根本的変化が1960年から明瞭化する。したがってその年からが《現代》と考えてよい。その指標(メルクマール)は1961年にケネディがアメリカの大統領になったこと。貧しい日本とか小国日本という概念はポエジーになった。つまり日本は、国民が食うに困らず、十分な教育を受けられる大国になった。敗戦時よりも60年代からの変わり方のほうが激しい。敗戦で変わったものは、意識と制度。しかし物的裏づけはなかった。1960年ごろから日本は経済大国(先進国)にのし上がり、国民生活が豊かになることによって、社会が根本的に、かつ急速に変化した(ソーシャル・チェンジ)。先進国の指標は工業化(脱農)の程度。工業化はコミュニケーションのあり方を変える。以上、おそらくは明るい一般論。

ここで日本において特殊なことは、国民の意識に常に後進国意識が残存しているということ。まだまだ他国に劣るのだという自信の持てない気持ちが残っていること。それは縄文時代以来、模倣によって文明を発展させてきたことに起因する。この意識が日本の古来の美的な精神や風景を放逐した。

第二の特殊点は、広告のえげつなさ。一国の美観をそこなうほど広告に精出しているのは日本とアメリカのみ。広告企業売り上げ世界一は日本の電通、二位から十位まではアメリカ。広告のある国とない国では、社会のありようがちがう。従って、フランスにもイギリスにもドイツにも学ぶことはできない。学べと言うのは、自己韜晦である。同じ広告国といっても、アメリカと大きくちがう点は、日本の広告費は国家予算に占める教育費と同じパーセンテイジであるということ。そんな国はアメリカはもちろん、世界に一つもない。広告企業が金融社会の頂点に立っているので、それにまとわりつく人々(つまり知名度を求める人びと)がヒエラルキーの頂点に立つことになる。マスメディアに跋扈する芸能人、あるいは芸能人化した有名人などである。机の前で大いなる創造を行なっている学者や芸術家や専門家ではない。

この意味で、日本はヨーロッパよりも遥かに後進国ということになる。そういうクオリティの低さに対して洞察に満ちた直観が働き、日本国民が後進意識を持っているとするなら、彼らには見所はある。しかし、日本は金儲けを最大価値とする大衆社会なので、それに気づくべくもないだろう。大衆社会ではクオリティの高いものではなく低いものこそ売れる(おそらくこの意識もない)、売れるものは独創性と才能に満ちている、従って才能とは売れることである―この円環から外に出られないかぎり、かくも爛熟した日本大衆社会という熟れ柿は粘り強く枝にしがみついて、落下することはない。

社会が大衆化しても、文化だけは変質せずにいるということは不可能である。クオリティの高いものは、伝統として受け継がれることはなく、たまに訪れたり紐解いたりする資料物あるいは観光物化する。たとえば、文章のうまい私小説(私小説とは自分のことばかりでなく、人間を描いたもののことであり、『ドン・キホーテ』や『旧約・新約聖書』『フランダースの犬』などは当然その範疇にある)こそ古来、洋の東西を問わず古典的傑作のほとんどを占めているのだが、日本国民一億二千万人のうち、多分、五万人も読んでいないだろう。元来人間の本質追究をうるさがる国民性に加えて、それらは専門家の手で“純文学”(気取っていて生活と関わりのない価値薄いもの)とやらの胡乱な化石的領域へ追いやられてしまったので、彼らが読むものといえば、人間を取り囲む現象面だけを重視して抽出する新聞と雑誌、ベストセラー風俗小説や、サイエンスフィクションじみた怪異・力業・神話、あるいは低知能の携帯小説のみである。くどいようだが、そんな国は世界に一つもない。

これほど孤立した文明を持っている不思議な国へ、国際化とやら世界ぐるみのお付き合いを導入しようとするのは、まるきり自己を知らない暴挙であり、事実上机上の空論である。しかるべく排外に徹して、日々、安全な歌垣で盆踊りをしているのがよい。あるいは、外国のことなどいっさい気にせず、日本人は日本人とだけ、仲良く、楽しく、働いたり酒を飲んだり、ときどき遊山をしたりして過ごしていればよい。


2月19日

大衆情報社会では、何か大きな仕事をしようとすれば、まず有名でなければ、広い意味で広告的なものに乗っていなければ成功しにくい。いくら質の高いことや正しいことでも、マスコミと切り離しては行われにくいということを知らなければ、現代文明はわからない。

現代は歴史上、広告が最も高度に発達した社会(マス・ソサエティ)である。この大衆社会は一応デモクラティックであって、議会を通さなければ何もできない。しかし、それは形式だけのことで、社会を実際に動かしているのは、テレビメディアとか、中央の大新聞などである。社会が工業化され、経済が豊かになり、文化が普及して、そして身分制を完全に廃止した民主主義でいけば、社会が大衆化されるのは必然の勢いである。

量は質を転化する。量は質を変える。

話をわが国の大衆社会に絞ると、美的訓練の蓄積を経た洗練された人間にしか味わえない芸術の伝統文化を、大衆社会においてどう護持するか。それは困難であるという悲観的な感想を言うのも虚しく、そのテーゼ自体が無意味であるほど文化の大衆化が進んでいる。社会の変化は文化のあり方に外から圧力を加える。一例を挙げると、華道は美しい芸術だ。しかし、それを幽玄の象徴と考えたりすることはもうできなくなっている。家元が巨額の脱税をする。その内実を正視すれば、巨額の脱税ができるということは、そこに一つの企業体があるということだ。

日本大衆社会のあり方がほかの国とひどくちがう点は、全体一致性というところにある。それは、人びとを放っておいても、彼らは人の振り見てわが振りを直し、おのずと全体が一致するということだ。NHKなどのテレビメディアがそれを促進したことは確かだが、もともと歴史的に長いあいだ同じ種族が狭い領土に封じこめられていたという理由もある。今日でさえ日本には(ごく少数の外国人は数に入れず)日本人しか住んでいないと言っていい。これは世界でも稀である。つまり、全体一致性を突き崩す危険な要素がないということだ。

現代日本は先進的近代国家であるけれども、同時に、全体一致の共同体として世界から孤立している不思議な文明圏である。しかも、これが一番変わっている点だが、領土内の人間の価値基準を領土内の同種族に学ばずに、外部から受け入れた価値観に全体がなびくというところである。この特徴を持った国は、世界でも唯一日本だけだろう。つまり、受信機能は完璧だが、発信機能が働かない文明圏なのである。外国の流行は、翌日には伝わる。伝われば全体一致的にそれは、まったき価値として定着する。こちらから発信したとしても、それは受信したものの変容体にすぎない。

なぜそうなるのか? それは、内発的に自らを知ろうとする根源的な気質がこの国では信用されず、忌み嫌われるからだと私は考えている。同種族の独創性を信じられないという、太古以来、脈々と貫流してきた大和民族の血の中に潜在する自己不信のゆえに。

はじめの論旨に還ると、この不思議な国では、発信能力のある個人の才質ではなく、受信に対して柔軟であるか否かの気質によって成功できるかできないかが決定されているということだ。外部導入の価値に照らして承認印が捺されれば、どれほど質が低くても成功し、捺されなければどれほど質が高くても排斥される。この承認は実質的に大衆を巻き込んでの合議という形でなされるので、国民全体が血液交換でもしないかぎり太刀打ちしようがない。

無力な提案を言わせてもらえば、こうした虚しい文化を打開する唯一の方策は、海の向こうの国でなく、日本人であれ外国人であれ、自己以外の人間を外国と見なす視点の獲得である。その視点もとでは、有名無名は内実の外皮であることが、たちまち知れるだろう。その瞬間から初めて大いなる知の逍遥が始まるのである。