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祝 週言一周年おめでとう。



6月30日

〈めったに思い出さない級友の思い出〉

・ 横井くん……名古屋市熱田区立千年小学校の五、六年。色白の眼鏡をかけた気難しい精薄児。まぎれもない絵の天才。台形の顔が珍しかった。天性の精薄のたたずまいに尊敬心を抱くようになったのは彼がきっかけである。ある夏、熱田神宮写生大会で一人静かに、誰も近づかない小沼の写生をしていた。後ろから覗き込み、そのリアルな暗い色調に驚嘆した。


・ 木田ッサ……同上。野球部のライト。九番バッター。運動音痴。唇の赤いひょうきんな憎めない男で、乞われてよくバッティングのコツを教えてやった。市内準決勝戦でバンザイエラーをしたせいで、ピッチャーの私に悪罵された。服部先生はそれを聞き逃さず、私を主将の地位から退けた。高校時代にバイク事故で死んだと聞いた。淋しかった。

・ 岩間たけし……名古屋市熱田区立宮中学校二年。寺田康男のもと子分。大人しい男で口を利いたこともない。中二の春、掃除中に机に指を挟んだ。夏、それが骨肉腫になり、片手の全指を切断した。それからも明るく学校に来ていた。秋、悪化して、片腕を切断した。それでも明るく学校に来ていた。冬、さらに悪化し、顔面に転移した。しばらく異様な獅子面で明るく登校していたが、やがて見かけなくなり、翌年の春、死んだと聞いた。指を挟んでから一年の命だった。劇的な彼の死に案外理不尽なものを感じることはなく、夏の蝉が死んだくらいに思って平静だった。私は子供だったのだ。

・ 四戸(しのへ)末子……青森県野辺地町立野辺地中学校三年。浜町の地べたに張り付いたような貧家に暮らしていた。陸奥湾からの浜風がその家を吹きさらしていた。滝澤節子に面持ちが似ていた。彼女にほのかな思いを寄せていることを山田三樹夫が知り、「フォードア」と私に耳打ちして、好意的にからかった。卒業すると彼女は集団就職で上京し、キューピー・マヨネーズという会社に勤めた。早稲田時代に里帰りしたとき、彼女が東京からUターンして近所のスーパーに勤めているとガマから聞き、こっそり見に行った。当時の面影を残したまませっせと立ち働いていた。美しく太っていた。胸がときめいた。その日ボッケから、四戸は二人の子持ちだと聞き、退いていく感情があった。いまではその感情が醜いものだとわかる。

・ 今(こん)くん……青森県立青森高校一年。一時期汽車通をしていたころの下校友達。夏のたった二月ほどだったが、青田に切り通されたカンカン照りの一本道を浪打駅までいっしょに歩いた。瞳の涼しい静かな男だった。交わした会話を一片も覚えていない。ほとんど口を利かなかったのかもしれない。先日あの古山に聞いてみたら、事情通の彼が、そんな男の存在すら知らないと言った。ある意味、その説明のほうに感嘆した。彼は私の思い出にしか留められていないのではないかと思うと、よけいなつかしくなった。

・ 杉浦……愛知県立名古屋西高校のマージャン仲間。岩塚町の床屋の息子。私に麻雀を教えた横地美樹の友人。私が渡米する前、彼はまだ見習いにもならない身であったが、進んで私の頭を刈ってくれた。耳掃除が得意だと言い、私の耳からギョッとするほど長大な耳糞をズルズル取り出し、記念にアメリカへ持っていけとふざけた。ふと本気になった。あれ以来、そんなに大きな耳糞が出たことがない。先年、センチメンタル・ジャーニーで訪れたとき、彼に頭を刈ってもらった理髪店はなかった。渡米する私に彼が持たせた大きな色紙(友情の永遠が長々と書いてあった)と、大きな耳糞を思い出した。


・  ドナルドさん……ユタ大のころの私の唯一の友人。小児麻痺だった。孤独な私を痛んで親切に近づき、スーパーでパンを買い与えたり、芝生に坐って英語を教えたり、ジープで動物園に連れて行ってくれたりした。ドナルドさん自身も私に負けないほど孤独だったために、その年頃に特有のブラインド・デートに誘ってくることはなかった。私が急遽日本に戻ることになったとき、彼は涙ぐみながら自分の住所を与え、かならず手紙をくれるように念を押した。一日も早くアメリカを忘れたかった私は、それを実行しなかった。アメリカといえば、私は彼を思い出す。そのせいでアメリカの印象はすこぶるよい。

・ 二俣……早稲田大学中国語23クラスの同級生。一度だけ高円寺の彼のアパートに遊びに行ったことがある。三畳一間に万年寝床とステレオだけが置いてあった。彼はキャロル・キングの『タペストリー』というLPを私に聴かせた。私は気に入り、ひどく渋る彼に頼み込んでそのレコードを借り出した。長年愛聴し、いまに至るまで返却していない。卒業後、福岡の西日本鉄道に勤めたことは知っていたが、先日の同窓会で松尾から彼が死んだと聞いた。同窓生中たった二名の死亡者の一人である。じつは、彼の顔も覚えていない。


・ 山内……東大時代の同級生。肥満長躯。青森高校出身の競馬キチガイ。青森高校ということだけでなつかしくなり、同郷の関心を抱いて近づいた。インテリでなかったのでたちまち親しくなった。一学期の終わり、劣等生だった二人で蓮見重彦教授のもとに、零点のフランス語をなんとか通してくれるようお願いに行った。二人で金を出し合い、教授の好物であるロングホープを1カートン持参したが、厳しい面持ちで拒絶された。その後、彼は中退して行方不明になった。東大という大学は、中退してしまうと、十中八九、箸にも棒にもかからない人生を保証される。才覚でどうにかなる身辺経済程度のことはいざ知らず、彼はいまも劣等生として主流から捨てられた苦しい人生を送っているだろう。自尊のみ高くして。
6月25日


 天才がお手軽な地位に引きずり落とされた。創造の才能とは別種の《異質》な非常軌性に、大仰な冠が賦されるようになった。冠を賦すジャンルにしても、芸能かスポーツか起業の世界にかぎられてしまったようだ。この世の大勢の人びとにとって、冗談ではなく、有為の人間世界がその三つにかぎられてしまったからだ。天才弁護士とか、天才作家とか、天才画家とか、天才戦略家とか、天才作曲家という別ジャンルの呼称はトンと聞かなくなった。

かつて、庶民も知識人も、どれほど他人を認めても、歴史の流れを変えるような、よほど目立った功績を上げないかぎり、その冠を与えなかった。無から有を創りあげるような神がかりの仕業に感嘆しないかぎり、口が腐っても「天才」と呼んでやらなかった。万一それらしき人物が現れても、リアルタイムの判断に窮し、せいぜい天才的、とか、才質が輝いていると言って、総合的な判断は後世に預けることでお茶を濁した。

ことほど左様に彼らは真の天才に関心があったので、うかつに誰彼をめくら指呼(しこ)しなかったのである。そこで才ある野心的な人物は、彼らから天才と呼んでもらう日を夢見て、人間らしいまっとうな生き方を犠牲にしてまで、全身全霊、血の滲む努力をしながら日常のほとんどを仕事に費やし、大概は事ならずむなしく死んだ。

 効率を無視する天才の存在はうるさいものとなった。臭いものにはフタ。昨今のごとく、ここまで天才の範疇を手軽な領域と概念にくるんでしまえば、さまざまな分野の真の天才の出現は鈍感に見過ごされ、むろんその価値も大幅に減じられる。能ある鷹にいつまでも爪を隠しておいてほしい人びとにとっては好都合である。人生に華やぎを与える天才の存在に関心が薄くなり、憎しみさえ覚えるようになった彼ら凡夫の狙いが、そこにある。大衆社会の偏差的な成熟(効率と世俗の勝利がすべてとみなす社会的成熟)の中で、天才の呼称を手軽にした人間どもの意図は見え見えであり、また哀しいことに、その意図は容易に実現されている。私は新たな絶望を重ねる。現代人の悪意とも思われる意固地が、真の天才の出現を望み、贋(にせ)の天才を封じ込めようとしたかつての心優しき人びとの気弱な拒絶とは提灯に釣鐘であると知れば、時代に期するところはまったくないと確信するのである。時空を越えてやってくるもう一人の彼にめぐり合えるのは、いつのことだろう。彼の始祖を愛しながら、このまま私は朽ち果てるのだろうか。



6月15日

初老を越えて、たち勝る罪の意識に蹂躙されながら、私は周囲の人間に感謝するあたりまえの振舞いに確信を覚えるようになった。なんと彼らは優しく、誠実で、なおかつ明るいのだろう。信じがたい善根を抱いて彼らは生きている。

……私がここまで人間を信頼しながら、同時に疑いを捨てきれずに生きてきた一切の原因は、まさに私の気質にある。十一、ニ歳くらいから、いや、ほとんどノーマルな意識の発生と同時に私は人間が嫌いになったような気がする。嫌いというよりも、むしろ人間が重苦しく感じられだしたのだ。時おり純粋な気持ちに襲われたときも、親しい人たちにさえ思っていることをすっかり話してしまえない自分が、われながら侘びしくてたまらなかった。話せないのではない。話そうと思えばできるのだけれど、気が向かず、なぜか控えてしまう。

気質の素には原初的な経験が横たわっていたかもしれない。幼な心に私は、骨折って人に近づいたはずだった。ところが骨折れば折るほど、人はみな私を避け、騙し、微笑を浮かべながらどこかへ去ってしまったという記憶が強い。だから、どんなに骨折ってみても、人との付き合いに啓発されたことがないという思いこみが、その後の私に口を開かせなくなったのかもしれない。爾来、少なくとも、私と同年輩の人や、学校仲間など、みなどれもこれも、例外なく私よりずっと低い情緒の水準にあると信じるようになった。つまり、私は本来、猜疑的で、気難しく、交際嫌いな性質だったようだ。さらにそのうえ、ほとんど物心ついたころから、人を責めすぎる性質があったことに気づいている。加えて、人を非難したすぐあとから、処理しがたい苦しい内省が湧き上がる性質も持ち合わせていた。

 ―いけないのは彼らではなくて、私自身ではないのか。

どれほど私はそんなふうに自分を責めたことだろう。自分への疑念に苦しめられないために、私は孤独を求めた。陰気臭い男になった。隅っこに引っ込んでばかりいるようになった。社会という代物から逸れてしまいたいとさえ思った。それが延々、二十歳くらいまでつづいた。

私にだって人のために善根を抱き、善行をなすことはできるだろう。しかし、たいていの場合、それをなすべき理由が見つからないのだ。元来人間というものは、善行を施してやるほど美しいものではないと感じてしまうのである。ここまで拒絶体勢ができ上がってしまうと、人は私に素直な態度で直接近づいてこなくなった。それは被害ではなく、当然の報いだった。

そうして、あるとき―銘記すべき大学時代―生来の気質への反動か、私のほうから人のそばにベタベタくっついていくようになった! 契機は、私が幼児期にやめてしまった求愛を、時間の風化に耐えて実行している三人の男が与えてくれた。私はきみたちに人情の恩義と、人間として根源的な感動を覚えたのだ。いったいに、私は恩義に感じる性格だ。そのことはすでにきみたち三人にまとわりついていた数年間に、数かぎりない愚行を捧げたことで証明した。きみたちは私の、人から胸襟を開いてこられるとすぐさま同じものをもって酬いたうえ、さっそくその人が好きになるような性格を思い出させ、啓発した。そしてきみたちは、かくも老境に至るまで私に同伴してくれた。きみたちが私に与えた人間的信頼が、私の他人に対する愛を復活させたのだ。そしてその数十年にわたる同伴の根気が、老境に至っての周囲の人に対する感謝の確信へと結びついた。言葉が勝ちすぎているだろうか? 私はそうは思わない。きみたちが存在したおかげで、私はきみたちの twin を年若い同胞や、晩年の友に見ることができ、彼らに感謝を捧げることができるのだから。

堤孝教、後藤守男、横山義範、きみたちの思い出を私は墓場まで持っていく。



6月3日

新学期が始まって二タ月が過ぎた。これといった問題は起きていない。生徒の素直さには年々波があり、今年は礼儀正しく、かつ溌剌とした生徒が多いので、教え甲斐を感じている。勉強への熱意だけから見れば、昨年以上かもしれない。ひとしおファイトが湧いてくる。

相も変わらず、今年こそ身を引こうと考えながら新学期を迎えるが、生徒に対する目新しさに負けて春先から全力を投入してしまう。喉が痛み、持病の腰が痛む。全力をこめているにもかかわらず、例年通り名前の覚えは悪く、懸命に顔だけを暗記している。他の講師連もやはり張り切っているようだ。少人数クラス制になってから五年以上が経ち、ようやく視界にすっぽり入る生徒の応対に慣れてきたせいだと思う。私の場合、視界はいつも狭いので、基本的に多人数でも少人数でも応対が変わらない。全員を『人間』に目覚めさせようとして頑張る。講義のときには自分の小さな頭蓋の中身しか見ていない。

私の矮小な魂に響いてくるのは生徒の『人間』だけだ。彼らの針路の洋々たる可能性ではなく、いまこのときの人格と情熱だけだ。その現瞬の天賦に付随して長大な未来が開けていけば、それに越したことはない。だから進路の可能性だけが目立つ未来志向の秀才タイプとは、例外なく馬が合わない。またそのタイプの生徒は、せっかくの講義の実を捨てて、遅かれ早かれ教室から去っていく。そのタイプのみを集めたクラスの対処法を、すでに私は知っている。十年以上前に河合塾の国公立ハイクラスでさんざん経験した。勉強だけやっていればいいのである。彼らは講師に『人間』を求めない。知識伝達のロボットを求める。講師の雑談には耳を塞ぎ、余分なものとして関心の外に追い出す。ところが実際、そういうクラスはいちばん疲れないのである。共鳴し合う琴線がないので、体力を消耗しない。したがって高らかな衒学が許容され、知識伝達もスムーズにいく。

早稲田予備校の教室では、疲労を余儀なくされる。ここには伝統的に生真面目で、自分に自信がなく、そのせいで輝く素質を秘めた『人間』が集まる。メジャーな親方日の丸を嫌って集う、純朴で、粗野で、知的エネルギーに溢れている人間たちの前では、講師は自分を衒学的な贋物にしている余裕がない。未熟な知識を修正してやりながら、それをあらためて全力で叩き込み、また知識以外のことも全力で語らなければ、彼らは満足してくれないからだ。

つまりこの予備校は、少人数でも多人数でも、万古延々、色彩が変わらないということに私は気づいている。毎年、『人間』的素質を開花させて出ていく生徒の口コミでやってくる同胞が多いせいだろう。自分の仕事場に対する大いなる身びいきの分を考慮したとしても、この色彩の不変が、この幻かもしれない思い込みが、私を去らせない理由でもある。私はここを魂の交響の場だと観じたことはあるが、予備校だと認識したことがない。恐らく他の講師も同様だろう。

五月の連休や、夏の終わりや、晩冬に、ここから巣立っていった彼らが三々五々戻ってくる。そのために私の家は永遠に開放してある。その開放された場で、彼らは、予備校を巣立って以来種々の経路を通って『人間』をまっとうしてきた先輩や仲間に出会い、自分の人間的天賦に新たな人間的感銘を加える。このように生きてきて、生きていてよかったと感じるのだ。だからこそ、彼らを受け入れる私は変質してはならない。変質を恐れなければならない。

これらの言葉を私は大上段でなく言える。二十年前、私を予備校講師として雇い入れ、教職者に変成させた浦和予備校の増田校長が、

「きみは天性の予備校講師だ」

 と言った。いまではその意味がわかる。私が永遠に未熟な学生と同律の琴線を抱いているということなのだ。



 



06年6月
ご注意