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11月26日


 車社会、携帯電話社会と言う。嘘だろう。巷には自転車が溢れ、公衆電話にはなぜか列ができる。車に乗れ! 携帯を使え! 日本国中いたるところ、道という道をくまなくアスファルトで覆い、日常の会話という会話を携帯電話の網で絡め取ったからには、喜び勇んで精々利用しろ。中途半端はやめてスローガンどおりに生きてくれ。きみたちがそうしてさえくれれば、私は甘んじて時代遅れの人間になれる。私は時代遅れでいたいのだ。きみたちは文明のほうへ去ってくれ。私を取り残してくれ! 

いったん進歩を口に出したからには、徹底して生きてくれ。進歩とやらに憧れたからには、取り残された人間の領域に未練を残すな。私はきみたちの領域に関心も羨望もない。文明の空気は性に合わない。だからきみたちの生き様に干渉しないし、悪口も浴びせない。きみたちもこちらの領域を憐みながら忘れてほしい。たとえ後ろ髪惹かれても忘れることこそ、レトロ人間を馬鹿にした文明人の代償だったはずだ。


11月19日

例年のことだが、内容理解を目指した「熟読」という当然の読書姿勢が、ようやくこの時期になって一部の受験生の眼を開きはじめる。日を追って、開眼のうれしさを隠さず報告しに訪れる学生の数が増えてきた。彼らの模擬試験の伸びは素晴らしい。

「大切に文章を読むようになりました」

「理解しようとして読んでいるうちに、いつの間にか読み終わっています」

「意外なところに作者の主眼点が隠れているんですね。最初のころはこれでいいのかと不安だったけれど、段落ごとにキーワードやキーセンテンスを探そうとしていた勉強法が、ほんとにくだらないものだったことに気づきました」

私はホッと息をつく。一年の努力が報われる瞬間である。例年どおりだとすると、報告にくる生徒の大半は、来年の春、スムーズに受かってゆく。秋の終わりの時点で彼らの読書スピードは、本人たちが自覚しているとおり、平均値をはるかに凌いでいる。しかも「技術的な」速読をすることなく、内容の理解はおろそかになっていない。活字を読む頭脳の根底に理解への希求があり、上滑りの方法論に頼る空しい遊びが排除されている。皮肉なことに、流行に振り回され「スピード」を目指して理解をおろそかにした仲間たちを、いつの間にか楽々と凌いでしまったのだ。この緻密で時間のかかる学習態度は、将来、受験勉強を発展させた学問であれ、企業での分担仕事であれ、さらにそれぞれの分野の冒険に生かされるだろう。

二十年。講師生活の全期間を通じて、生徒・同僚を含めて、この王道ではない教授法にいろいろな方面から難癖をつけられてきた。世間のメジャーな方法論を無視しており、日々の苦しい努力を強いるからだ。支持してくれたのは、単調で苦しい勉強の積み重ねを嫌わず、ついに合格という結果に結びつけた生徒だけである。彼らは「風潮」ではなく、私が実際さまざまな試験で成功したという「事実」に目をつけたのだろうか。いや、彼らの目には、一度や二度の偶発に左右される事実を重視するような功利的な光はない。結局、苦しみこそ結果を生むという普遍的な「真理」に、日々の単調な勉強の中で気づいたのだ。

 ―学問に王道なし。

精確な鑑識眼だったと思う。


11月11日

どうも私は教育者ではないようだ。人間性の豊かな生徒に目がいってしまう。人間的にプラスの興味を抱いた生徒をなるべく合格させようとする。

入試の追い込みも佳境に入り、予備校内に静かな緊張が走りはじめたが、私は上の空である。興味ある生徒の勉強の進捗具合だけが気がかりである。そうして、基本的には、受かっても受からなくてもいいと思っている。だめなら再挑戦していずれ受かるだろう、という遠い楽観を持っているので、目先の結果などどうでもいいのである。

ゆとり教育元年組が一浪になると恐れられた今年は、どの講師も春から暗い顔をしていた。「ゆとり=バカ」の図式に恐怖していたのである。また今年もこの人たちは世間の風潮を杞憂して騒ぎ立てているぞ、と私は思った。どう騒いでも毎年結果は同じなのに。

蓋を開けてみると、案の定、講師たちは、多くの生徒の飲み込みの悪さや、欠席率の高さに驚愕し、職員室に愚痴と溜息の嵐が吹き荒れた。驚くなかれ、欠席率が50%になんなんとする教室もあったのである(私のクラスもいくつかその惨状を呈した)。慌てた講師たちは、生徒を目覚めさせることにヤッキになった、あるいは見放した。私は十年一日、目的を持った人間はバカではないし、流行で動くものでもないと確信しているので、今年もただ同じように授業をし、同じように雑談をした。出席しない生徒を見放すという気にもならなかった。彼らにとって自分の授業がつまらなかったのだろう、と感じたくらいである。

そして七ヶ月経ったいま、粘り強く出席を継続し、着実に成績を伸ばしてきた生徒たちが一握り残ったのを当然のこととして眺めている。彼らの理解力と気組みの質は、往年の頑張り屋の生徒たちと大差がない。勉強とはいかに忍耐を要するもので、いかに内容の難しいものかということを肌で感じ取っている。だからこれまでの教室の雰囲気に変更を加える苦労がないのである。

一握り―合格するのは、何年経っても、一握りの彼らだけである。風潮の寵児や甘えん坊は、何年経っても確実におおぜい存在するし、確実に落第する。何も騒ぎ立てることはないのだ。彼らもいずれその一握りに参入してくる時期があるかもしれない。

不合格の印を押されたら、落胆して、途方に暮れ、自らを見つめ直せばいい。挫折を引き受けてやるようなおためごかしは、怪しい他人のよくするところである。それからの人生をどうするかは本人が決めるしかない。手など貸してやってはいけない。もう一度浪人をするか、働くか、部屋に閉じこもって周囲を悩ますか、本人がちゃんと決めなければいけない。愛情に限りのある個人が面倒くさい他人事など考えている暇はないのである。

とにかく有志が勉強しに近づいてきたら、受け入れ、贔屓しながら思う存分鍛える。結果はどうあれ、その後は、私は彼らの友人になればいいだけである。かくなる私が教育者でないことを、彼らはとっくに見抜いている。だからこそ彼らは気楽に勉強できるのである。

ただ私は、サラリーマンである手前、経営陣の前で結果を気にしている振りは、やはり十年一日、飽かずつづけている。





006年11月
notion



あれあ寂たえ夜の神話

著者:川田拓矢
出版社:近代文芸社
本体価格:2,300円