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祝 週言一周年おめでとう。

7月31日



 野球に熱中していたころから私は勉強というものを尊んでいた。自分でこそ何もわからないけれど、そんなことはちっとも怨みと思わなかった。自分ができなければ、ほかの人がちゃんとわかっているから。いや、めいめいそれぞれの得手があるので、そのほうがかえっていいかもしれないと思っていた。

だれでもかれでもみんな勉強が身のためになるというわけにはいかない。人はみな慎みということを知らないから、だれでも世間をあっと言わせたがる。
 私なぞ、もし自分に何か得手があったら、人一倍そいつがひどいかもしれない。ところが実際は何一つ取り柄のない人間なので、無知のくせに高ぶるわけにはいかない。

しかし、きみたちは若くて聡いようだから、せいぜい勉強するのがいい。それがきみたちのいくべき道だろう。何でもよく知り尽くして、信念のない者や、暴戻(ぼうれい)の者に出会ったら、それに対してきちんと意見をし、勉強人の責任を果たさなければならない。無法な言葉を投げかけられて、未熟な頭を濁らされ、泣き寝入りするようなことがあってはいけないから。


7月23日


《勉強に苦しむきみへ》

我慢強さは根本的な美徳のひとつだ。それは生まれつきのものではない。何かをちゃんとやってのけようとすれば、まず注意深くじっとしていることを学び、次いで、そのときがきたらすぐさま行動に移ることを学ばなければならない。この動きを完成させるためには、同じ動作を忍耐強く何百回、何千回と繰り返す必要がある。

我慢強さは、怠惰、無関心、無気力ではない。それらは生命力の欠如を特徴としている。これと反対に、我慢強さは大きな生命力をコントロールする能力だし、目的に向かって生命力を誘導する能力なのだ。人生の困難なときは、精神の全力を傾けて一つの目標を粘り強く追求できなければならないし、その精神力を保つことを知らなければならない。怒りを爆発させたり、壁をこぶしで殴ったりすることのほうがどんなに楽だろう。とりわけ困難なのは、一度目、二度目、三度目のつまづきに耐え、しかもそのつど勇気を持ってやり直し、新しい方法を見つけようとすることだ。勇気とは始める気力だし、忍耐はふたたび挑む能力だ。しぶとく食い下がるためには、何度でも再生しなくてはいけない。

きみたちは、たとえば家族の中にいるとき、保護されている幼児のように短気に振舞うこともできる。きみが不穏当な言動をしてもほとんどの成員がそれを正してくれない。短気、苛立ちという横暴の道具は、いつも周囲に当惑と混乱をもたらし、他の人びとの生活を毒し、ついにすべての保護者を敵に回してしまう。そのツケはきみが動きはじめる試練のときに、底なしの孤独として訪れる。あらゆる誤りは自分で償わなければならないということだ。

何であれ、成功しようとする者は、その種の気紛れを自分に許してはいけない。そうして、全力を傾け、あらゆる努力をしなければならない。そのためにこそ、我慢強さを鍛錬しなければならない。




7月9日

長いあいだ体制に拘束されてきた屈辱の習慣と、適応のための自衛の本能と、順応から逸れて棄てられるという絶え間ない恐怖と圧迫―現代の青年になだれかかるストレスは、より厳しい条件の下に暮らしたかつての青年にも見受けられたものだ。それなのに現代の青年はそのストレスに負け、わざと自信に満ちた断乎たる表情をとる。その断乎たる眼差しが、かつての青年を反撥させる。なぜなら、その断乎たる表情に、まごうかたなき素朴な反撥の感情が見られず、なぜかしらあまりに安価にまかなわれた悪ごすいもののように感じられるからだ。

きみたちを譴責しようとは思わない。しかし、きみたちに愚かしい賛辞を与えたり、擁護したりする者を責めようとは思う。きみ! 若人たちよ。板切れでこしらえた手すりもない細い橋を踏んで、深淵の上を越そうとしてみたまえ。そして、そんなところを歩いていくのが愉快でたまらないという顔をしてみたまえ。




●注意
06年7月




あれあ寂たえ夜の神話


著者:川田拓矢
出版社:近代文芸社
本体価格:2,300円